優奈さんの妊娠という事実は、幸次さんに強い衝撃を与えたはず。でも、幸次さんはしばらく沈黙した後、おもむろに口を開いた。
「いや、私は、もう息子とは縁を切ったんですよ。たとえ初孫が生まれようが、どうせ会えやしない。会えない孫なら、いないも一緒です。私が望むのは、ただ一つ。騙し取った金を返せって事だけです」
それが本心でない事は、その苦渋を噛み殺した表情が物語っていた。
「本当に? 本当にそれでいいんですか?」
「もちろんです。和樹に伝えて下さい。俺の存在がお前や家族にとっていかに迷惑か、よおく分かってる。二度と顔を見せないから、奪った金だけは返せって」
その口調は、強がっているとしか聞こえなかった。孫が生まれると聞いて頭の整理がつかなくて、もうどうとでもなるようになれ!ってとこなんだろうか。何しろ、振り上げたこぶしの下ろしどころはないし、今さら和解を探るわけにもいかないもの。
人ってさ。ひとたび意固地になったら、ちょっとやそっとでは考えを変えるもんじゃないよね。道理を説こうが情に訴えようが、凝り固まった心を融かす事なんてまず無理。
ここは、ちょっと目先を変えてみるしかないかな。私の中に、一つのアイデアが生まれていた。
「でも、お孫さんが生まれるというのは、幸次さんにとって嬉しい事ですよね」
「さあね。私には関わりのない事ですから」
「またまた、そんな心にもないこと仰って。どうでしょう、幸次さん。今さら要求を引っ込めるわけに行かない事は、私だって承知しています。ただ、このままでは、これまで長く培って来られた父子の関係が完全に崩壊してしまいます。あ、いや、もちろんそんなことは覚悟の上ですよね。それは分かってて申し上げるんですが、縁があって間に入ることになった私から、一つ提案をさせて頂きたいんです」
「結構です。妥協する気はありませんから」
「いや、妥協しろって言うんじゃありません。返済金額を値切るとかそんな事ではないんです。はっきり言いますが、法的には、和樹さんは一度もらったお金を返す義務はありません。でも、心情的に言えば、和樹さんはお父様に対して、心から申し訳なく思ってらっしゃるのは確かです。ですから、お父様が用立ててくれたお金は、全額お返ししようと考えています」
幸次さんの表情に戸惑いの色が浮かんでいる。
「ただし……」
「ただし、なんて聞きたくもない」
「いや、どうかお聞き下さい。現実的な返済方法として、分割払いにして頂けないでしょうか」
「分割払い?」
幸次さんは、意外そうな顔をした。
私だって、和樹さんから分割払いでの返済オーケーの了解を得ている訳ではない。下手すると代理人としての権限を越えかねないが、このまま決裂する事だけは避けなければならない。捨てばちになっている幸次さんを引き止めるには、思い切った手を使うしかないのだ。とりあえず引き止める事ができたら、もしかすると道理を説き情に訴える余地が生まれるかも知れない。分割返済という提案は、切れる寸前の糸をつなぎ止めるためのあくまで方便なのだ。後でこの経緯を丁寧に説明すれば、依頼人もきっと分かってくれる。いや、分かってもらえるように話を進めるのだ。私は、腹を据えていた。
「就職してまだ5・6年だし、結婚したばかりで間もなく子どもができる和樹さんが、多額のお金を一括返済するなんて到底無理です。その辺りはご理解頂けますよね」
幸次さんは、苦虫を噛みつぶした顔で頷いた。
「そこで、何とか分割返済をお願いしたいんです。例えば、月5万円ずつとか。確か、返済額は1200万円余りでしたよね」
私は、スマホを取り出して電卓アプリに数字を打ちこんだ。
「月5万円ずつの返済だと、全額を返済するのに240か月。つまり、20年になりますね。とりあえず、利息は計算に入れてませんが」
「はぁ? 20年? 冗談じゃない、私は80になっちまう」
「年金とでも思えばいいじゃないですか。お年を召されて体力が落ちてきたら、今みたいな無茶な生活はできませんし、失礼ですが、幸次さんは個人事業主だったから大した年金は望めませんよね。老後、年金以外に月々5万円ずつ確実に収入が見込めるというのは、馬鹿になりませんよ」
「……そりゃまあ、そうかも知れないけど」
この人は、自分の老後の生活など考えた事もないんだ。働き盛りの頃はコンビニ経営に走り回り、破産後しばらくは精神的不調で生けるしかばね状態、そして今はまた寝る間も惜しんでパートの掛け持ち。極端から極端へと振れる人生に、将来を考える隙などまったく入る余地もなかったんだろうな。
「どうか、検討頂けませんか? ただ、長期にわたる借金返済となると、息子さんとの関係を完全に断つことはできなくなりますが」
結果的に、分割返済が続く限り父子関係が完全に断絶しない。実は、これが私の狙いだった。返済に応ずるのだから父は振り上げたこぶしを下ろさないで済むし、息子は父に、罪滅ぼしと秘かな恩返しをする事ができる。そして、その長い月日は、怒りに凝り固まった父の心を、少しずつ少しずつ融かしていってくれるに違いない。時間ってやつは、どんな言葉をもってしても歯が立たない難題を解決してくれる無限の力を持ってるから。
とはいえ、おそらくこの父は、いずれ息子への返済請求を放棄するだろう。私には、秘かに確信していた。或いは、受け取ったお金を一切使うことなく積み立てて、息子に遺すに違いない。
「一括返済の能力がないんじゃ、まあ、しょうがないか」
不承不承という顔をしてはいたが、その裏に内心の思いが透けていた。不機嫌な表情は、幸次さん特有のてれ隠しに違いない。孫が生まれるという事実を前にして、燃え盛っていた怒りが急速に和らいでいくのが目に見えるようだった。
「幸次さん。私は、今日のお話の内容を和樹さんにご報告の上、ご意思を確認しておきます。幸次さんも、長期の分割返済についてじっくりとご検討頂けるでしょうか」
幸次さんが頷く。その表情には、もう不満も迷いも窺われなかった。この条件なら、メンツを保ったまま最愛の息子との縁を完全に切らずに済む。すさみきった心が、ほんの少しだけ癒されたのかも知れない。
「できましたら、次回お会いする時までに、分割返済の計画を明記した契約書を作成しておきます」
「その時、和樹も来るんでしょうか?」
「あっ。確かに、できれば同席された方がいいですよね。ご本人に確認しておきます。」
二人がどんな顔をして会うのか、怖いような楽しみなような、でも、このまま会わないよりは会った方がいい。週末ならば、多分和樹さんも時間が取れるだろう。とりあえず次の日曜日の、今日と同じ時間に予定を入れた。あーあ、また休みがつぶれちゃうなあ。
それでは、と言いながら幸次さんが立ち上がった。
「長い時間を取ってもらって、申し訳ありませんでした」
「いいえ。これが仕事ですから」
丁寧にお辞儀をして立ち去りかけた幸次さんが、入口のドアの前で立止った。そのまま、しばらく動こうとしない。
「あの。幸次さん?」
幸次さんは、向こうを向いたままで言った。
「久我先生……」
「はい?」
幸次さんが振り返った。その目が、ちょっとうるんでいるように見えた。
「今さら、こんなこと言えた義理じゃないんですが……」
どしたの? 一体、何?
「孫を……」
絞り出すような声だった。
「孫が生まれたら……、できることならこの手で抱いてやりたい」
幸次さんの目にたまった涙が、見る見るあふれて頬を伝った。それを見た途端、私もやにわに涙がこみ上げてきた。まずい!とは思ったけど、どうしても抑える事ができなかった。
「幸次さん、分かりました。私が、きっと、きっと何とか説得してみます。和樹さんはまだしも、お嫁さんが納得してくれるかどうか自信はありませんけど、精一杯やってみます」
何とかそれだけ言った。恥ずかしいぐらいの鼻詰まり声で。
「先生。どうか、どうかよろしくお願いします」
そう言い残して、幸次さんは走り去るように出て行った。
取り残された私は、ソファに座り込んでしばらく茫然としていた。私ともあろう者が、こんなに我を忘れちゃって。ったく、プロ、失格だなあ。
とはいえ、きっとこの父子はいずれは和解できる。そんな気がした。子を思う父と、父を思う子、そしてその2人をつないでくれる孫という存在。不実な母親の存在は大きな懸念材料だし、幸次さんに強い不信を抱いているお嫁さんの気持ちをほぐすのは並大抵の事ではないかも知れない。
でも。焦らず、時間をかけてじっくり話をすれば、きっと何とかなる。
だって……。
もう一度だけ言わせてもらおっかな。
時間ってやつは、どんな難題だって解決してくれる無限の力を持ってるから。

さあ、まずは、今日の話合いの報告と長期分割返済という私の独断提案を説明して、和樹さんに納得してもらわなきゃ。幸次さんが、本気で返済を求めているわけではないこと。でも、彼が父親をなおざりにし、その信頼を裏切ったのはまぎれもない事実なんだから、それなりのけじめをつけるべきだということ。和樹さんなら、きっと分かってくれるはずだ。
あっと、それから大急ぎで契約書と返済プランを書面にしなきゃいけない。
そして、もう一つ、一番大事なこと。和樹さんには、いつの日にか幸次さんが初孫をその手で抱けるように精一杯頑張ってもらわなきゃ。お嫁さんやそのご実家の方々に、父がかけがえのない存在であることを認めてもらうのは、他ならぬ和樹さんの義務なんだから。
私は、和樹さんにそっと言う積りだ。
契約書には明記しないけれど、目に見えないこんな条項が隠されている事を決して忘れないで下さい、と。
「木下和樹は、父幸次がいつか孫に会えるよう最大限の努力をするものとする」

それにしても……。
怒鳴り合いというのは何度か経験があるけど、涙の修羅場というのは初めてだなあ。
まだまだ修行が足りないぞ、今日子!

終わり(^.^)/~~~