2月20日、光市母子殺人事件上告審判決が出ました。

大方の予想通り、死刑。
広島高裁の無期懲役を破棄して差し戻したんですから、当然と言えば当然の結果かも知れません。

母親を殺した上に死体を汚し邪魔な乳児を絞殺するという残虐非道、殺された母子の夫であり父親である男性の悲痛と憤怒、復活の儀式だとかドラえもんだとかおぞましいストーリーを展開した弁護団の信じがたい神経。人々の感情は激しく揺さぶられ、メディアは群がりました。

この日、死刑判決の言い渡しがあったのは午後3時。その直後から、NHKを含む全テレビ局が顔写真入りで、翌日の新聞各紙も一斉に実名報道を開始しました。でも、そんな中でも、在京紙では毎日と東京両紙のみが匿名報道を続けています。
毎日新聞はこの事件を実名で描いたノンフィクション(「福田君を殺して何になる」2009刊)を批判して著者から提訴されたという点を割引くにしても、日頃からメディアのあり方を真摯に模索し続けているこの2紙のみが足並みを揃えなかったのは実に興味深いところです。
マスメディアからネットまで、世の中に元少年の名前も顔写真も溢れている中、敢えて匿名報道を続けることに実質的な意味は何ひとつありません。しかしながら、ドン・キホーテと笑われようとも、自社のジャーナリズムとしての立ち位置と志を頑として曲げない一徹さは特筆に値します。

各大手メディアは、「更生の機会が消え、社会復帰への配慮が必要なくなった」と申し合わせたように理由づけています。
でも、この理由づけって、ホントに根拠はあるのでしょうか?

ちょっと少年法をひも解いてみましょう。
その最終章は、次のような条文となっています。

第61条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。

そこには、「更生の可能性」も「社会復帰への配慮」も一切書かれてはいません。一体、各メディアの編集責任者は、一度でもこの条文に目を通したことがあるのでしょうか?
あるはずがありません。メディアの人間は、法律など坊さんのお経ぐらいにしか思っていません。
おそらく、各メディアの社会部デスククラスが非公式に連絡を取り合って、法律にのっとった判断であるかのような言い訳で歩調を揃えたのでしょう。もし問いただしたとしても、きっと歩調を揃えて一斉に否定するでしょうが。
ジャーナリズムとしてのプライドをかけて、実名報道をすべきと考えるなら最初から実名で、さもなくば最後まで匿名で筋を通すべきなのではないでしょうか。その点、毎日と東京の姿勢は際立っています。

でも、メディアの自主規制や横並び報道とは全く別の次元で、私は匿名報道に強い違和感を感じています。
【◆file.2◆ 少年犯罪死刑囚の顔写真】でも書いたように、死刑囚のプライバシーや人権にこだわることに対する違和感です。理由はともあれ、国家による殺人という最大の人権侵害を受けた存在に、今さらプライバシーを声高に叫んで何ほどの意味があるのか。
むしろ、取り返しのつかない罪を犯し、極刑を受けざるを得なかった人間がその罪を犯すに至った背景を受け止め、その顔と名前をしっかりと目に焼き付けておくべきなのではないか。それこそが、死刑制度を続けている国の主権者である私たちの義務なのではないでしょうか。

光市事件で、死刑廃止論のリーダーと言われる安田弁護士が主任弁護人となった大量21人という大弁護団は、「復活の儀式・ドラえもん戦略」で世論を完璧に敵に回し、結果的に一審で無期懲役だった元少年を死刑にしてしまいました。何たる皮肉でしょう。
熱烈な死刑廃止論者でも、ここまで人の心に鈍感な弁護士を支持する人はいないでしょう。今や政界の風雲児となった関西の弁護士市長が、かつてTVでこの弁護士たちの懲戒請求をあおったことも、軽率とはいえ分からないではありません。

今回の最高裁判決では、一人の裁判官が反対意見を述べています。これは、戦後間もない時期を除いて例のない極めて異例の事態とのこと。死刑判決は全員一致によるというのは、最高裁の「鉄の規律」とまで言われていた筈です。
国家が人の命を奪う究極の刑の判断が、全員一致によるものではなかった。この事実は、決して見過ごすわけにはいきません。極刑を選択するには、ほかの刑では決して償えないと誰もが納得するだけの厳密性が要求されるべきであるはずです。

でも、死刑は確定しました。
ならばせめて、私たちは、彼があれほどおぞましい罪を犯した背景を知るべきだと思います。
3年も前に、彼の実名と写真を掲載した「福田君を殺して何になる」。
わざわざ実名をタイトルにするなど、この本の売名的な姿勢は決して好ましいものではありませんが、少なくとも筆者は徒手空拳、必死で取材を敢行して、大手メディアがまったく報道することのなかった彼の生い立ちと人となりに肉薄しています。
また、この本には、「復活の儀式・ドラえもん戦略」に異を唱えて解任された心ある弁護士の手記も掲載されています。

もしも死刑が正義だというのであれば、この確定判決に万歳を叫んだ私たちは、せめてこうした本から、国家によって殺される人間の人物像をしっかりと受け止めるべきなのではないでしょうか。
私たち一人ひとりが「罪と罰」に思いを馳せる機会をもたらしたこと。それは、償いようのない犯罪を犯した人間が、この世に残すことができるたった一つの遺産なのかも知れません。