ゲームの行方

「丹羽家の人々」で、丹羽英世と本間智恵子との過去を探り当てて事件の解明に大きく貢献した女探偵・奈津子。
今や、松尾リサーチの代表を務める調査のプロだが、若き日の苦い思い出がある。かつての女子大生時代、バイト先のイケメン上司とただならぬ関係になって思わぬトラブルに巻き込まれてしまったのだ。
あきれ果てた父親にも突き放されて孤立無援の奈津子に手を差し伸べてくれたのは、不祥事で弁護士資格を失った父の親友・哲おじさんただ一人。
荒んだ毎日を送っていた弁護士崩れの久我原哲也。果たして、世間知らずの女子大生・奈津子の絶体絶命のピンチにどう立ち向かうのか?

#15~最終回

改めて呼び出しの声がかかるまでに、さほどの時間はかからなかった。申立人である大石香奈江と瀧川弁護士、相手方である大石翔太と元橋弁護士、そしてもう一人の相手方である松尾奈津子、都合5人が揃って調停室に入る。もちろん哲也は居残りだ。
テーブルの向かいには、担当裁判官を挟んで二人の調停委員が脇を固めるように座っている。裁判官がおもむろに口を開いた。
「調停委員からは、当事者の皆さんからお話を伺って合意を探ったものの、どうしても歩み寄りの余地が見出せない状況と伺っています。となりますと、委員会として調停の打ち切りを視野に入れざるを得ませんが、最終的にもう一度皆さんのご意思を確認させて頂きます。相手方の大石翔太さん。申立人の大石加奈江さんが主張されている不貞行為を全面的に否定され、慰謝料請求に対しては断固拒否というご意思は変わりませんね」
「もちろんです」
すかさず翔太が答えた。隣の元橋弁護士は押し黙っている。
「松尾奈津子さんとの肉体関係が強く推認される調査報告書があり、その松尾さん自身が全面的にそれを認める陳述をなさってますが、それらすべてが虚偽であるとご主張されるわけですね」
「その通りです」
裁判官の言葉にかぶせるように翔太が強い口調で言った。裁判官は、翔太のそんな様子を見つめながら続ける。
「では、不貞行為はさておくとして、加奈江さんが求められている離婚そのものに対しても拒否ということでよろしいですね」
「当然拒否です」
ここは俺の出番だとでもいうように元橋弁護士が割って入った。
「相手方の翔太氏は不貞行為を全面的に否定しているわけですから、離婚すべき理由がまったくありません。そもそもですな。疑わしいというだけで浮気が認定できるもんでしょうか。疑わしきは被告人の利益に、というのは冤罪を避けるためには必須の理念かと思いますよ」
長広舌をふるう弁護士の方を裁判官が冷ややかに見ている。
「調停では、どちらの言い分が正しいかという判断は一切行いません。シロクロをつけるとすれば、別途裁判で判断してもらうしかありません。余談ですが、元橋先生」
裁判官がちょっと口調を改めた。
「もちろんご承知の上で仰ってるんでしょうが、疑わしきは被告人の利益に、というのはあくまで刑事事件のお話しです。国家権力が無実の人間を処罰することが決してないよう、刑事裁判では厳密な立証が求められます。実は、私はもともと刑事が専門でしてね。これまで数多くの刑事事件に関わってきました。その経験からひとこと言わせて頂ければ、これだけの物的証拠、人的証拠が揃っていれば既に不貞行為は十分に立証されていると思いますよ」
元橋は裁判官の言葉に一瞬気おされたように見えたが、すぐに気を取り直して身を乗り出してきた。
「裁判官。失礼ながら、本件で訴訟が提起されたとしても、同じ裁判官が担当されるわけではないでしょう。だとすれば、不用意にそんな予断を言うべきじゃないんじゃないですか」
元橋弁護士の攻撃的な態度を見かねて、男性調停委員が割って入った。
「予断ではないと思いますが。調停では、双方の合意を促すために、裁判官は双方の主張を吟味した上で心証を示すのが通例です。ベテランの先生ならば、もちろん先刻ご承知ですよね」
元橋が調停委員をじろりと見て言った。
「私どもとしては、中立であるべき調停委員会が申立人の肩を持っているとしか思えません。本調停の進行に関して、改めて裁判所に厳に抗議します」
やれやれ、何と大袈裟な……。
隣に座った瀧川弁護士は冷ややかな目でこのやり取りを見ていた。やりこめられて、反論もできずすごすご引き下がったのでは沽券にかかわる。依頼人の利益のために俺はひるむことなく戦ってるんだぞ、ってパフォーマンスぐらいしておかなきゃ格好がつかないもんね。瀧川は、弁護士の自己保身本能をまざまざと見た思いでクスリと笑った。
「ご自由になさって下さい」
裁判官はまったく動じる風もなく平然と言った。
「いずれにしても、本調停に関しては双方の主張が全面的に対立していて、話し合いで解決することは不可能のようです。従って、残念ながら調停は不成立とします」
裁判官がぴしゃりと宣言した。これを受けて、同席していた書記官が今後の手続きを確認する。
「不成立の証明書の交付を希望されますか?」
「もちろんお願いします」
すかさず、申立人代理人の瀧川弁護士が言った。憮然とした表情の元橋弁護士が、いまいましげに瀧川の方を横目でにらむ。
不成立証明書は、この後、離婚訴訟を提起するために不可欠な文書だ。瀧川の態度は、この後の裁判に向けてやる気まんまんという意思を暗に含んでいる。
元橋の視線を歯牙にもかけず、瀧川は書記官に今後の手続きを確認しながら思っていた。
……勝負は、もう決まったも同然ね。いみじくも裁判官が言った通り、例の浮気調査報告書と肉体関係を認める松尾奈津子の陳述書の二点セットを前にしたら、もういくらあがいたって無駄。間違いなく裁判の途中でギブアップするしかないだろう。裁判官にこんこんと説諭された上で、妻の要求に近い条件で途中和解になることが目に見えている。

「何だか、裁判官と元橋弁護士がとげとげしい雰囲気でさあ。あたし、ちょっと怖かった」
軽い足取りで控室に戻ってきた奈津子が、開口一番哲也に言った。
「へーえ、そりゃあ見ものだったろう」
色男とその代理人は、不貞腐れた様子でさっさと出て行ったという。かつての恋人の方を一瞬も振り返ることなく、控室で待っている父親にも一言の挨拶もないまま。
裁判所の玄関ロビーで、大石香奈江と瀧川弁護士と行き会った。
いわば恋敵同士だった奈津子と香奈江がお互い目をそらしたのは自然の成り行きだろう。一方、哲也と瀧川、ウラ取り引きの首謀者同士はそっと会釈を交わす。握手こそしないものの、お互いの目には親しみの色が浮かんでいる。
「瀧川先生、いろいろお世話になりました」
「こちらこそ。私どもは直ちに訴訟手続きに入りますが、お約束は必ず守りますので」
「有難うございます。これで、奈津子はこの醜い争いから完全におさらばできます」
ひとしきり笑ってから瀧川が言った。
「久我原さん。余計なお世話ですが、そろそろ復帰をお考えになっても‥‥」
瀧川の口調にはそこはかとない思いやりが感じられた。
「そうですね。その節には、面影橋の方にお世話になろうかな」
「もちろん、大歓迎ですわ」
瀧川の表情が一瞬輝いたように見えた。満更、社交辞令だけでもないのかな。ふと哲也は思った。

「哲おじさん。ホントにお世話になりました」
裁判所の玄関を出て、奈津子がぴょこんと頭を下げた。
「そうそう、私、次のアルバイト決まったんだよ」
「へーえ、そうか。そりゃよかった」
でも、もう二度とあんなチャラい男に引っ掛かるんじゃないぞ、とよけいな言葉が喉まで出かかった時‥‥。
「ああっと、今から授業あるからもう行くね」
歩行者用信号が点滅し始めたのを見て、飛び跳ねるように奈津子が走り出した。
赤信号に変わった交差点のど真ん中で、もう一度こっちを振り向いて手を振る。一斉に、車のクラクションが鳴った。
あ、あぶな‥‥、思わず叫びかけた声が、そのままあきれ笑いに変わる。
哲おじさーん、ホンットありがとー。また家の方に遊びに来てねー。
スキップを踏んで走り去る奈津子の後ろ姿を見ながら、哲也は久しぶりに腹の底から笑っていた。

おわり(^^♪~~~2023.7.15

 

#14

奈津子と入れ替わりに、申立人の大石香奈江と瀧川弁護士が呼び入れられた。奈津子が提出した陳述書を一部ずつ受け取り、その場で取り急ぎ目を通していく。瀧川は冷静な表情を崩さないが、加奈江の方はそうはいかないようだった。何しろ、他ならぬ自分の夫がアルバイトの女子大生を口説いて性交渉に至る手口が、女子大生自身の目線で赤裸々に描写されているのだ。読みながら、香奈江は何度も眉を寄せ唇を嚙んでいた。
やっと読み終えた加奈江が、気を静めるように大きく息をついてから瀧川弁護士の方を見た。二人が顔を見合わせて頷く。まるで、書面の内容を予想していたかのようだった。
瀧川弁護士が口を開く。
「松尾奈津子さんは、大石翔太氏との肉体関係を正直に認めていらっしゃいます。それは、とりもなおさず翔太氏の不貞行為が人的証拠によって改めて立証されたということです。物的証拠としての調査報告書でも既に明らかになっていたことですが、もはや相手方の翔太氏の不貞行為の事実は動かしようがないのではないでしょうか」
調停委員たちが頷く。
「そこで、申立人は改めて離婚と慰謝料600万円の支払いを求めます。あり得ないことですが、事ここに至っても相手方が不貞行為を否定し慰謝料支払いを拒否するようであれば、離婚調停は今日不成立にして頂いて結構です」
瀧川が、よろしいですね、というように加奈江の方を見た。加奈江が大きく頷く。

続いて大石翔太と元橋弁護士が入室して、同様に奈津子の陳述書に目を通した。奈津子が肉体関係を認めたあたりだろうか、ざけんなよ、と翔太が口の中で毒づいたのが聞こえた。元橋弁護士の方も、顔をしかめながら書面を目で追っている。
読み終えた二人に、調停委員が語り掛ける。
「松尾さんは翔太さんとの肉体関係を認めておいでですが、翔太さんはどのようにお考えですか」
「冗談じゃない。奈津子が何と言おうと関係ないっすよ」
大石の口調がぞんざいになっている。都合の悪いことは断じて認めない。全否定すれば何とかなる。この男は、そんなことがまかり通る世界で生きてきたのだろう。委員たちも、これまでに何度かそんな当事者を見てきている。
「おそらく松尾さんは、何か誤解されているんじゃないかと‥‥」
元橋が懸命に取り繕う。ついさっきの聴取で全面否定をした手前、肉体関係をそう簡単に認めるわけにも行かないのだろう。だが、形成が圧倒的に不利になったことはさすがに分かっている。
「誤解? と言いますと?」
「だからぁ、彼女との間にそんな関係はないんだって」
こんな席で腹立ちまぎれの言葉を使えば、人としてそれなりの評価を受けることになる。
「それでは、松尾さんの陳述書は虚偽であると?」
調停委員が追い込みをかける。行きがかり上、大石は頷かざるを得ない。
「あくまで肉体関係を否定されるわけですね」
「ないものはないって言ってるじゃないですか」
大石はあからさまに不満げな顔をしている。世の中には、思い通りにならないことが山ほどあることにそろそろ気づいてもいい齢なのだが。
「分かりました。これだけの裏付け証拠があっても全面的に否定されるのであれば、慰謝料に関して話し合いで合意することは困難なようですね。それでは、離婚そのものについてはいかがですか?」
大石は、最初の聴取と同じ主張を繰り返す。
「冗談じゃない。あいつの思い通りになると思ったら大間違いなんだよ」
タガが外れたように声を荒げる大石の隣で元橋弁護士が軽くため息をついたように見えた。

大石側の頑なな姿勢を受けて、裁判官が加わって調停委員会の評議が始まった。相手方同士の大石と奈津子は、再び同じ控室で結果を待つことになる。
と、大石がつかつかと寄ってきた。顔が少し紅潮している。
「奈津子、ちょっと‥‥」
哲也が、すかさず立ち上がって割って入る。
「大石さんですね。奈津子の父です」
哲也のはったりに大石が思わずひるむ。
「この度、あなたのおかげで私どもは大変な迷惑をこうむっています。今回の不祥事に関して、何か弁明なり謝罪なり、ご挨拶があってしかるべきではないですか?」
「え? あ、いや」
もういいですと言いざま、大石はきびすを返した。哲也は、苦笑いで見送る。ふっと見下ろすと、奈津子が正面を見据えて唇を噛んでいた。
一度は本気で好きになった男だ。元カレのあんまりみっともない姿を見て、さすがに何か思うところがあったか……。

つづく(^^♪~~~

#13

結局、相手方二組は、指定時刻から小一時間ばかり待たされることになった。先に呼び入れられた申立人である大石の妻の話が随分長引いたようだ。初回だから、付き合い始めたきっかけから結婚生活の実態などねほりはほり聞かれているのだろう。結婚からたった数年でアルバイトの女子大生に手を出すような輩でも、家庭ではよき夫だという例は掃いて捨てるほどある。無論、婚姻生活が長くなれば浮気もしょうがないというわけではないにしても、そんな夫を果たして妻はどんな風に見ていたのやら。
間もなく大石翔太の名前が呼ばれて、元橋弁護士とともに調停室に入った。残った奈津子と哲也は、顔を寄せ合って小声で主張内容をおさらいしておいた。
およそ30分後、翔太たちが控室に戻ってくると同時に奈津子の名前が呼ばれて、一人で調停室に向かう。弁護士資格を喪失している哲也が入室することはできない。
向かい側に座った男女の調停委員から型通りの手続き説明を受けた後、具体的な聴取が始まった。既に、申立人である妻と相手方の夫からの証言を聞いている委員は、論点を絞っている。
「立ち入ったことをお聞きしますが、翔太さんと一緒に食事をした後のことを教えて頂けますか?」
「そのあたりの詳細は、書面で提出します」
奈津子は、哲也との打ち合わせ通り『陳述書』と書かれた書面を取り出した。もちろん哲也の手によるものだ。裁判所用と申立人の香奈江用、相手方の翔太用と、合わせて3部が用意してある。
早速、委員が目を通す。そこには、誘われて何度か食事とカラオケをともにしたこと、離婚して今は独身だという大石の言葉を信じ込んだこと、何回目かのデートで誘われるままにラブホテルに入って肉体関係を持ったこと、その日から男女の付き合いが始まったことなどがかなり克明に記されている。そして、結びで最もアピールしたい点を述べている。
すなわち、奈津子は独身だという翔太氏の虚言を疑うことなく男女の付き合いを続けたものであって、それが不貞行為に当たるとの認識は終始持ちようがなかった。今回の申し立てで、二人の交際が結果的に香奈江さんの妻としての権利を侵害したことを初めて知って、大変驚き深く後悔している。とはいえ、翔太氏にまるっきり騙されていた奈津子はその事実をまったく知らず、また知る事も不可能だった。従って、自分の行為は浅はかではあったものの、慰謝料の根拠となる「故意または過失」による不法行為の要件は満たさない。
21歳の女子大生とは思えない理路整然とした書面だった。ただ、弁護士が就いていなくても、それなりの法的知識のある人物がサポートしている例は少なくない。意外そうな面持ちで読み始めた委員たちだったが、ページをめくるうちに徐々に興味深げに変化していくのが分かった。
先に読み終えた男性調停委員が、奈津子を正面から見据えて言った。
「確認させて頂きますが、松尾さんは大石氏との肉体関係をお認めになるんですね」
奈津子がこくりと頷く。
「大石さんがバツイチで独身だという言葉に完全に騙されてました。お互い独身同士だと思い込んでましたから、二人の真剣な交際が不倫関係になるなんて思いもよりませんでした」
紛れもない事実だけに、奈津子はよどみなく答えた。
調停委員が顔を見合わせて頷いた。
「妻の香菜江さんは夫の不貞を強く主張しており、一方夫の翔太さんは完全否定の姿勢を崩しません。したがって、不貞相手とされている松尾さんの証言は、双方にとって非常に重要な意味を持ちます。お二方にもう一度入って頂いて、松尾さん提出のこの書面をお読みいただくことにしたいと思います」
「よろしくお願いします」
奈津子が頷いた。

つづく(^^♪~~~

#12

「奈津子さん」
裁判所の控室に哲也と並んで座る奈津子に声をかける者がいた。大石翔太の代理人、本橋弁護士だった。
「調停の聴取は、先に申立人から行われます。おそらく30分ぐらいはかかるでしょうから、その間、われわれ相手方同士で打合せをしておきましょう」
奈津子が哲也の方を見る。哲也がうなずいて答える。
「口裏合わせ、ですか」
元橋が哲也の方をじろりと見る。
「事実の確認です。奈津子さんの伯父さまでね。何度か電話でお話しした弁護士の元橋です」
元橋が、内ポケットからブランド物の名刺入れを取り出したのを見て、哲也も例のフェイク名刺を手渡す。「久我原」の名前に反応しないかとふと不安がよぎったが、元橋センセイは瀧川弁護士ほどセンシティブな神経の持ち主ではないようだった。
「このフロアの奥にベンチコーナーがあります。そちらでいかがですか」
奈津子と哲也、翔太と元橋の4人が連れ立って控室を出て、二脚のベンチに向かい合って座った。
まず、口火を切ったのは元橋弁護士だった。
「電話でお話しした通り、相手方である大石翔太と奈津子さんは、あくまであの夜性交渉はなかったということで話を合わせていただきます」
いいですね奈津子さん、と言いながら、元橋が哲也の方を見る。有無を言わせぬ口調に少々むかっ腹が立ったが、特に口は挟まない。かと言って、哲也も奈津子も積極的にうなずきもしなかった。
「興信所の調査報告書が気がかりかもしれませんが、あんなものはあくまで傍証でしかありませんからね。今は写真だって簡単に加工できる時代だし、時間や場所のキャプションだって捏造かも知れない。そもそも、興信所の調査員なんてあまりまともな人間はいませんから」
哲也が、そっと奈津子の様子をうかがう。無表情を装ってはいるが、その目に怒りがこもっている。無理もあるまい。面と向かって父親の仕事をあざ笑われてうれしいわけがない。
「いざとなれば、私はあの調査報告そのものに異議を唱える積りです。ですから、あの夜、一緒に食事をしたこと以外は決して認めないように。ラブホテルに入ったことも全面的に否定すること。裁判の証人じゃないんだから、偽証罪に問われる心配はないからね」
なるほど、そう来たか。でも、調査報告書の真実性を争うなら、虚偽であることを立証しなければならない。しかし、そんな立証はしょせん不可能。何しろ、報告書にある写真もキャプションもまごうかたなき真実そのものなのだから。報告書を作った興信所の社員である俺が言うのだから間違いない。
この男、果たして勝算があるのか……。哲也は考えを巡らせる。
裁判と違って、調停段階では必ずしも虚偽を立証する必要はない。とにかく難癖をつけて調停を引き延ばして膠着状態に陥らせ、妻の側が音を上げて要求のハードルが下がるのを狙う戦略だろうか。いずれにしても、真っ赤なウソをついて事を有利に運ぶというのはあまり感心できるやり方だとは思えない。むろん、俺も聖人君子ではないが……。
哲也はつくづく思っている。
弁護士が、依頼人の利益のためならある程度の汚れ仕事も厭わないのは百も承知だ。でも、俺は弁護士でもないし、ましてや大石翔太は俺の依頼人でもない。奈津子にとって何の利益にもならないのに、こんな輩の片棒を担いでやるいわれはない……。
哲也が奈津子の方を見た。奈津子もこちらを見てうなずいた。
元橋も、分かっていただけましたね、という風に鷹揚に笑ってうなずいている。哲也たちの目くばせが、元橋に対する同意ではなく、二人の間の企みを確認したものであることなど想像もしていないだろう。数時間後に、元橋の満足顔がどう変わるのか見ものだ。
この間、もう一人の当事者である大石翔太は一言もしゃべらなかった。最初に哲也にぶっきらぼうな会釈を寄こしたきり、苦虫をかみつぶした顔でそっぽを向いている。さっき奈津子に冷たくあしらわれたせいで、いたくプライドを傷つけられたのかも知れない。まったく子供じゃあるまいし、ウブな娘を誘惑してこの災いをもたらした元凶はお前なんだぞとよほど言ってやりたかった。
それではそろそろ、という哲也の言葉にそそくさと相手方控室に戻った4人だったが、それからさらに待たされることになる。

つづく(^^♪~~~  

#11

「ところで久我原さん」
瀧川がちょっと改まった口調で言った。
「かなり法律にはお詳しいし、交渉ごとにも随分慣れてらっしゃいますね」
「まあ、法務部の方が長いですから」
柔らかな口調は変わらないが、瀧川は目をそらそうとしない。
「久我原という名字には、何となく聞き覚えがあるんですが」
ヤバい話になってきた。ちょっとリスク管理が甘かったか。
「まあ、よくある名字‥‥」
「でもないですよね」
瀧川がにっこりと笑いながら遮った。
「まだ、弁護士には復帰なさってないんでしょう?」
哲也が言葉に詰まる。
弁護士資格なしに法律業務に携わるのは、れっきとした違法行為だ。下手をすると刑事責任を問われかねない。報酬もなければ業務として継続するわけでもないと逃げ道を考えてはいるものの、寝言は署の方で聞こう、なんてことにでもなったら目も当てられない。
「実は……」
哲也は腹をくくった。
「松尾奈津子は私の唯一の親友の一人娘でしてね。赤ん坊の頃からずっと可愛がってきた子なんです。奈津子も、ずっとおじさんおじさんって、随分慕ってくれました。そんな子が、こともあろうに不貞行為で慰謝料を請求されるなんて、まったく」
瀧川は興味深げな表情でじっと聞いている。
「もちろん、父親のダメージたるや、私の比ではありませんでした。その打ちひしがれた様子を見るに見かねて、ここは一肌脱ぐしかないだろうと覚悟を決めました。もちろん、父親の友人としてアドバイスするだけで代理人になるわけではありません」
「そうでしたか」
「瀧川先生がお心当たりのある久我原さんのことは存じ上げませんが、少なくとも私がこの件に関わることになったのは、そういった事情です。言わずもがなのことですが、報酬をもらう積りも今後ほかの事件に関わる積りも一切ありません」
瀧川がちょっと間をおいてから言った。
「でも、いずれは復帰されるんでしょう?」
眉間にしわを寄せた哲也の顔を瀧川がじっと見ている。
どうやら、目の前の男が、数年前脱税で逮捕起訴されて有罪になった元弁護士だという確信があるようだ。狭い弁護士業界だ。たまたま俺のことを見聞きしていたとしても不思議はない。これ以上シラを切ってもしょうがない、いさぎよく自白するしかないか……。
一息ついてから哲也が言った。
「年季はもうとっくに明けたんですが、なかなか吹っ切れないものがありまして」
「いろいろ、ご事情がおありなんでしょうね」
惻隠を秘めた口調だった。反射的に、普段考えることを拒絶している亡き一人息子のこと、精神に変調をきたした妻のことが脳裏に浮かんだ。他人の前で弱みを見せる積りなど毛頭なかったが、哲也はしばし言葉を失っていた。

その週末、哲也は荻窪の松尾陽一の自宅を訪れている。大石とその妻との話し合いの結果と今後の方針について、父親には説明しておかなければならない。
先ずは、奈津子が心ならずも同じ穴のムジナの関係になった大石翔太側との話し合いの結果を伝える。とはいえ、事情が事情だ。父親の心情を思いやって、愛娘と深い仲になった男の人物像には敢えて触れない。娘の父は、一言も口を挟まずに聞いていた。
続いて、肝心の大石の妻との取引の話だ。妻の弁護士が道理の分かった人物であること、夫との肉体関係を認めることを条件に慰謝料請求を夫のみとすることでほぼ合意したことをかいつまんで説明する。一刻も早くこの泥仕合から抜け出すためには、それが理にかなった解決策であることを聞いて陽一も納得した。ただ、苦虫を噛みつぶした表情は変わらない。
その後、奈津子を呼んで同じ説明をする。父親は、さすがにいたたまれないのだろう、どこかに姿を消している。
へえ、そんな方法があるんだ。哲也の話を聞くなり奈津子は言った。説得に手間取るかも知れないという懸念がないではなかったが、調停の席で大石との肉体関係を認めることに大した抵抗は示さなかった。

その後、大石翔太の代理人である元橋弁護士から何度か電話が入った。先日の電話で、翔太が独身だとだまして奈津子と関係を持ったのではないかという疑念を匂わせたのがちょっと引っかかっているのかも知れない。それにしても、さすがのベテラン弁護士も、浮気相手と妻との間に密約があるなどとは夢にも思うまい。いつも、最後は翔太との肉体関係を決して認めるな、という判で押したような念押しで電話は終わった。相変わらず高圧的な物言いだったが、哲也は心の中で舌を出しながら軽く聞き流した。
哲也は、妻の代理人である瀧川弁護士とも何度か電話とメールでやり取りをしている。調停期日を迎えるまでに、妻と愛人が協力して不実な男を懲らしめるというとっておきの計画は怠りなく進められていた。

つづく(^^♪~~~  

#10

「 大石氏との肉体関係を認める代わりに、奈津子に対する慰謝料の請求を取り下げて頂けないでしょうか」
瀧川は、一瞬で哲也の意図を読み取ったのだろう。その口元が少しゆるんだ。
「奈津子は、バツイチで今は独身だと言う大石さんの言葉を信じ込んで付き合うようになりました。独身同士の男女がお付き合いするのなら、そもそも不貞なんて成立しようがありません。つまり、大石氏に騙されていた奈津子は、この関係が不貞行為になるなどとは思ってもみなかったわけです」
瀧川が軽く頷く。
「慰謝料は『故意』か『過失』がなければ発生しない、はずですよね。大石氏が独身だと思い込んでいた奈津子は、自分が妻帯者の浮気相手になっているなどとは夢にも思っていませんでした。従って、故意の不貞行為はあり得ません」
哲也は、瀧川の表情を注視ながら続ける。
「では、過失はどうか? 奈津子が、女たらしの巧みな言葉で騙されてしまったことに、果たして過失があったのか? しかし、通常の詐欺事件でも、騙された被害者の側に過失があったから騙した側は無実だなんて主張はあり得ない。民事事件でも、被害者側の過失を立証するのは並大抵の事ではない。‥‥と聞いております」
にこやかな表情を崩さない瀧川弁護士。もうこちらの意図を読み取っているのだろうか。哲也は、慎重に言葉を選んでいる。
「瀧川先生としても、法廷で奈津子は大石氏に妻がいる事を知っていたはずだと『故意』を主張するか、あるいは騙されたのは奈津子の『過失』だと反論するか。どちらにしても、立証はなかなか難しいんじゃないでしょうか」
「故意の主張も過失の主張も、労多くして実り少なし。と、こうおっしゃりたいわけですね」
 哲也が頷いたのを見て、瀧川が話を引き取るように言った。
「何も立証困難な主張で苦労して愛人に慰謝料を分担してもらわなくても、全額自分を裏切った夫の方に支払わせればいいじゃないか。ということでしょうか」
さすがに回転が早い。
「その通りです。不貞行為のいわば共犯者である愛人の方が肉体関係を認めてしまえば、夫がいくら否定しようが、もはや負け犬の遠吠えです」
「愛人が肉体関係を認めたらそれだけで不貞は明々白々になる。ならば、愛人の側の故意だの過失だのの立証に無駄な労力を費やすよりは、夫の方にターゲットを絞った方がよっぽど話が早い」
いつの間にか、二人とも奈津子の事を『愛人』と呼んでいた。もちろん、まだ交渉の途中だから、こっちとしては現段階ではまだ肉体関係を認めたわけではない。ちょっと引っ掛かからないでもなかったが、まあこれも言葉のアヤってヤツだろう。
「確かに、共犯者が罪を認めれば主犯の罪が確定する。だから、自白を条件に共犯者の罪は問わないでほしいと。これは刑事事件ではないし私どもは検察ではありませんが、確かに司法取引っぽいご提案ですね」 
瀧川弁護士は敵側であり、その人となりも皆目分からない。それだけに、こういう提案を示すのはちょっとした賭けだった。弁護士の中には、こんなウラ取引めいた交渉は公序良俗に反する、などという根っから潔癖なセンセイが時たまいる。でも、依頼人の真の利益を考えるならば、こうした取引が弁護士倫理に抵触するとは思わない。
しかもだ。そもそも、俺は弁護士じゃないし……。哲也はそんなことを内心でつぶやいていた。
「いかがでしょう。大石氏との肉体関係を認めることを条件に、奈津子に対する慰謝料請求を取り下げて頂けないでしょうか?」
瀧川がちょっと目を伏せてから言った。
「夫と愛人の同盟軍は完全に分裂、ですね」
「同盟軍、か。でも、信頼関係のない囚人同士の間にジレンマなんて起きようがないですから」
哲也の言葉の意味を知ってか知らずか、瀧川が軽く頷いた。
「確かに。夫にとって、妻以外の女性との性交渉はイコール不貞行為です。それを立証するのに、あの調査報告書に加えて、愛人の自白証言があれば完璧ですね」
「さらに、おそらく奥様としては慰謝料を払うのが誰であろうが知ったこっちゃない」
砕けた口調に瀧川の表情がゆるんだ。
「むしろ、自分を裏切った夫を徹底的に懲らしめてやりたいかも知れませんね」
サイの目が吉と出そうな雲行きと見てもいいのか……。
「そこまでお考えでしたら、持ち帰って奥様とお話しした上でということにはなりますが、奈津子さんが肉体関係をお認めになった時点で、奈津子さんに対する慰謝料請求の取り下げを検討させて頂きます」
哲也の表情がゆるむ。
「取引成立、と考えてよろしいでしょうか?」
「ひとまずは」
瀧川が、まっすぐ哲也の方を見ながらちょっと改まった口調で言った。
「ところで、久我原さん」
ちょっと嫌な予感がした。

つづく(^^♪~~~

#9

指定された調停期日に、哲也は奈津子に付き添って家庭裁判所に出頭した。当事者の控室は、申立人と相手方に分けられている。従って、同じ相手方という立場の大石翔太と松尾奈津子は同じ大部屋で待つことになる。
揃って控室に入ると同時に、奈津子が哲也に一番奥に座ったスーツ姿の二人を目で示した。直接顔を合わせるのは初めてだが、若い方は調査報告書の証拠写真で、中年の方はアルファ法律事務所のホームページの紹介写真で、既に見知っている顔だった。
大石らしき男が奈津子に気付いて、よおっ、という風に手を挙げたが奈津子は見事に無視した。その隣の元橋弁護士は、電話でのやり取りで想像していた通り大物然とした様子でふんぞり返っている。哲也と奈津子は、大石達から離れた最前列の席に腰を下ろした。
指定時刻になって、先ずは申立人である妻から、続いてメインの相手方である大石翔太が調停室に呼び入れられた。それぞれおよそ30分、結局小一時間ほど待たされてから奈津子の名前が呼ばれて一人で調停室に入る。弁護士資格を持たない哲也が入室することはできない。もどかしい思いで待ちながら、哲也は瀧川弁護士と会った日のことを思い出していた。
待ち合わせたのは四谷のスターバックス、事務所に電話を入れた数日後のことだった。向かい合わせに座った瀧川は、ショートヘアーに黒縁メガネ、おっとりした雰囲気で、そろそろベテランの域に入った自信と落ち着きが見て取れる。
初めましての挨拶と名刺交換を済ませる。さすがに浮気調査を依頼された『松尾リサーチ』の名前を出すわけには行かないから、架空の会社の法務部長の肩書の名刺を用意しておいた。ただし、携帯電話の番号とメールアドレスだけはホンモノだ。
世間話もそこそこに、哲也は検討してきたプランを注意深く切り出した。
「ええ? 司法取引、ですか?」
瀧川弁護士は、ちょっと驚いた様子で哲也をまじまじと見た。
「正確に言えば、司法取引のようなもの、ですが」

司法取引というのは、英米やドイツなどの刑事裁判ではごく一般的に行われている手続きだ。アメリカの法廷ドラマには、しょっちゅう登場する。基本構造は、刑事被告人が犯罪の事実や共犯者を自白する代わりに、罪を免れたり軽くしてもらえるという交換条件がベースになっている。この制度のキモは、被告人側だけではなく検察側にも大きなメリットがある点だ。捜査の時間や経費が大幅に節約できるし、たとえ十分な証拠が確保できていなくても有罪が勝ち取れるというわけだ。さらに、その証言によって、より悪質な主犯や重要な関連犯罪の追及の可能性も生まれる。
日本でも、経済事件や組織犯罪事件で限定的な司法取引制度がスタートしている。この制度が世間の注目を集めたのが、日産自動車のカルロス・ゴーン会長逮捕事件だった。世界的な大企業トップらの不正摘発は、事件に関わった秘書室長らが司法取引に応じたことがきっかけとなった。ごく簡単に言ってしまえば、日産自動車という企業の犯した罪を問わないでくれれば、会長個人の罪を洗いざらいぶちまけるという交換条件が成立したということになる。
ただ、その後サスペンス映画を地で行くようなゴーン被告の海外逃亡劇で事件は大きく様相を変え、結果的に司法取引はほとんど機能しなかった。これに懲りた訳でもあるまいが、結局制度導入から5年間で適用されたのは東京地検特捜部がらみの経済事件がわずか3件、直近3年間はゼロと、司法取引が日本に根付いているとは到底言えない。
とはいえ、共犯者の一部と取引して主犯の罪を立証するという考え方そのものは大きな可能性を秘めている。もちろん、今回の大石夫婦の離婚問題は刑事事件ではないが、司法取引的な交渉ができないか、というのが哲也の発想だった。
「あの調査報告書を突きつけられても、翔太さんの側は、今後も頑として不貞行為を認めるお積りはないようです。ただ、私どもとしては、最後までそれで押し通すのはなかなか厳しいんじゃないかと踏んでおりまして」
瀧川が、なるほどという風に頷いている。穏やかな物腰は人柄なのか、それとも相手の油断を誘うための手管なのかは分からない。
「ただ、調停段階では、夫側が不貞の事実を認めない限り合意は困難ですから、膠着状態のまま不成立になる可能性が高まります。確認ですが、調停がもし不成立で終わった場合、瀧川先生としては離婚訴訟を提起されるお積りでしょうか?」
「奥様は、その覚悟を決めていらっしゃいます」
「そうなると、夫側が訴訟を受けて立つのはご自由ですが、松尾側としては、経済的・時間的コストと心身の負担を考え合せると、何とか裁判は避けたいというのが正直なところです。そこで‥‥」
哲也がちょっと言葉を切る。
「ここからが、取引のご相談になります。松尾側としては、今度の調停の席で、大石氏との肉体関係を認めることを検討しています」
瀧川が、えっ、と小さく声を上げた。
「代わりに、松尾奈津子に対する慰謝料の請求を取り下げて頂けないでしょうか」

つづく(^^♪~~~

#8

「瀧川先生。もしよろしければ一度直接お会いできませんか」
「はい? ええ、まあこちらは構いませんが。あの、元橋先生の方は?」
「いえ。瀧川先生と私だけで。ちょっと折り入ってご相談したいことがあるんですが」
瀧川弁護士は、一瞬の間をおいてから、いいですよ、と気さくな声で言った。
夫の浮気相手と妻が、夫抜きで話し合う。しかも、どうやら電話で話すのがいささかはばかられるような内容‥‥。
瀧川が、哲也の意図をどこまで察したかは分からない。しかし、もしも敵側の同盟関係にくさびを打ち込めるかも知れないとなれば、話を聞いてみても損はないだろう。賢明な弁護士ならそう判断してもおかしくない。
「あの、久我原さんは弁護士さんではないんですよね」
「ええ。ただ、会社の法務部に所属しているもんですから、ほんの少し法律をかじったことがありまして」
決して嘘ではない。

日時と場所を約束して電話を切った後、哲也はふっと思いついたことがあった。夫の大石翔太と愛人の松尾奈津子は不貞行為の共犯関係にある。しかし、奈津子の後ろ盾である哲也が翔太側に対してかなり不信感を持っている現状を考えた時、共犯者同士の信頼関係について学術理論的に考察した研究があることに思い当たったのだ。
哲也はデスクの引出しから一冊の本を取り出した。
『行動経済学とゲーム理論』
かつて、大企業の顧問弁護士を務めていた頃、名だたる企業の役員や気鋭の中堅幹部たちがこぞって読んでいたベストセラーだ。経済現象を心理学から読み解くという理論が注目され、その分野の研究者たちが続々ノーベル賞を受賞したことで当時ちょっとしたブームになっていた。哲也は薦められて斜め読みした程度だが、ゲーム理論の代表例とされる『囚人のジレンマ』という逸話が印象に残っていた。
囚人のジレンマ……。それは、こんな例え話だ。
二人の共犯者が量刑10年の強盗傷害の容疑で逮捕勾留されている。しかし、決定的な証拠がなく、このままでは量刑1年の窃盗罪で起訴するしかない。そこで検察は、二人の囚人それぞれに強盗傷害を自白すればお前だけは釈放してやるという取引を持ちかける。
この時、二人の間には三つの選択肢がある。
①.二人とも黙秘した場合、ともに窃盗で懲役1年の有罪。二人合わせた懲役は2年で、双方にとってはこれが最良の選択となる。
②.一方が自白し他方が黙秘した場合、先に自白した方は釈放されるものの最後まで黙秘していた方は強盗傷害で10年の有罪となる。二人合わせた懲役は10年。
③.双方とも罪を逃れようと自白した場合、二人とも強盗傷害で懲役10年の有罪となる。もちろん、お互いの自白でともに強盗傷害の決定的証拠をつかまれた二人が釈放されることはない。二人合わせた懲役は20年。

この場合、共犯者の二人はどの選択肢を選ぶだろうか。
理論的には二人がともに黙秘を貫いて強盗傷害罪を回避するのが最良の選択なのは言うまでもない。ところが、囚人は仲間が罪を免れるために自分を裏切るのではないかと疑心暗鬼に陥ってしまう。それならば自分が裏切るしかない、とわれ先に自白してしまうのである。つまり、共犯者たちはともに最悪の選択肢を選んでしまうのが人の心理なのだ。
仲間をあくまで信頼するべきなのか、それとも裏切るしかないのか? この究極のジレンマの末、結局のところ人は仲間を裏切る方を選ぶことになるのである。
もっとも、ここに言うジレンマとは二人の囚人が固い信頼関係で結ばれているか、もしくは利害関係が共通する場合に限った話だ。さもなければ、そもそも囚人が仲間を裏切ることにジレンマを感じる理由などこれっぽっちもない。自分が釈放してもらえるのなら、何の迷いもなく喜んで自白してしまうだろう。
それでは、大石翔太と松尾奈津子の間には果たして固い信頼があるだろうか? 利害関係に至っては、むしろ対立しているというべきかも知れない……。
そんなことを思いながら、哲也は何年か振りにその本をぱらぱらとめくってみた。

つづく(^^♪~~~

#7

ここは、クギの一本ぐらい刺しておくか……。
哲也が何気ない口調で続けた。
「ところで、元橋先生」
「まだ何か?」
「大石さんが、奈津子に、自分は離婚して独身だと言ってたのはご存知ですか?」
「なるほど。まあ、よくある話ですね。それが何か?」
「ウソをついて肉体関係を結んだというのは、ちょっと問題じゃないですか?」
元橋は笑い声を上げた。
「他ならぬ姪御さんとなれば、お気持ち、分からないではありませんがね。でも、力づくでも何でもない、お互い合意の上のお付き合いに目くじらを立てる理由はないでしょう」
「男が女をダマして貞操を奪ったんですよ」
電話の向こうの男はもう一度大声で笑った。
「貞操とは何とも大時代な。一応お伝えしておきますが、もし仮に大石氏が嘘をついていたとしても、お金やモノをせしめた訳じゃないから法的に詐欺行為には当たりません。性交渉というのは財産的利益じゃないですから」
イヤな言い草だ。ただ、確かにそれはその通りではある。
「でも、それは刑事事件の話ですよね。民事的には、騙されて身体を奪われて精神的に傷ついた奈津子が、大石氏に慰謝料請求をする余地はあるんじゃないですか」
やり手の先生が、ぐっと詰まったのが分かった。素人とタカをくくっていたら、見事に虚を突かれてしまったようだ。
「確かに伯父様としてのお気持ちはよく分かります。ただ、今は仲間割れしている場合ではありません。ここはどうか私どもの方針にご協力頂きたい」
さすがに気を取り直したらしく、少しばかり下手に出てきた。
「仲間だと思ってよろしいんでしょうね」
もちろんです、という言葉を聞き流して、それでは、と哲也は静かに受話器を置いた。

戦略を練り直すべく、哲也は改めて申立書を開いた。どうやらこの友軍、とても当てになるとは思えない。ならば、こちらは単独で戦うまでだ。となると、先ずはそもそもの敵方の戦力分析が第一歩。
申立人である大石の妻香奈江の代理人弁護士は、面影橋法律事務所・瀧川真理となっている。『面影橋』と言えば、民事ではかなり名の知れた老舗の法律事務所だ。
例によって、ネットでプロフィールを検索する。
瀧川真理、弁護士歴17年の43歳。専門は、離婚・親権・遺産分割となっている。家事事件が専門なら、さすがに元橋のような無理筋を押し通すことはないだろう。
どんな業界でも同じだろうが、法律の世界にも専門分野ごとに不文律とでもいうべき決まり事やあうんの呼吸というものがある。いくら能力が高くても経験が豊富でも、畑違いの分野では通用しないことが往々にしてある。特に家事関係は民事の中でも特殊だから、実務を知らなければ話はなかなか進まない。幸い哲也は、事務所の顧問企業の役員の離婚や相続がらみで駆り出されたことが何度もあるから、家事事件の実務はそれなりに把握している。
電話に出た瀧川弁護士は、穏やかな声の持ち主だった。さっきと同様、松尾奈津子の伯父を名乗って、後見役として連絡したことを伝える。
「ああ、大石ご夫妻の事件ですね。以前内容証明をお送りしたんですが、ご返事を頂けなかったので、この度調停を申し立てさせて頂きました」
「はい。私も、同封されていた調査報告書には目を通させて頂きましたので、事情はおおむね理解している積りです」
「もちろん、翔太さんとは連絡を取ってらっしゃるんですよね」  
瀧川がそれとなく探りを入れてきた。申立人から見れば、相手方二人はいわば敵方の同盟軍。当然、その態勢を探っておきたいところだろう。
「代理人の元橋先生とは多少お話をしましたが、あくまで不貞行為を全面否定するお積りのようです。ただ、率直に申し上げて、松尾の方は、あれだけの裏付け資料を前にしましていささか戸惑っているというのが正直なところです」
「そうですか。元橋先生には、調停を申し立てる前にも何度かお話をさせて頂いたんですが、どうもなかなか分かって頂けないみたいで。はっきり申し上げて、当方としては、ここまで明白な事実関係で争うのは時間の無駄だと思っています」
「はあ、素人には専門的なことは分かりませんが」
 ところで瀧川先生、と哲也は慎重に切り出した。
「もしよろしければ、どこかでお時間を取って頂けないでしょうか。一度直接お会いして、お話をさせて頂きたいのですが」

つづく(^^♪~~~

#6

オフィスに戻った哲也は、預かった調停申立書を改めて開いた。
申立人の大石香奈江は29歳の専業主婦。添付された戸籍謄本のコピーによれば、5歳年上の大石翔太と結婚してまだ1年余り。子どもはいない。
申し立ての趣旨は、離婚と財産分与、および慰謝料。財産分与と言っても、結婚1年の若い夫婦の共有財産など微々たるものだろう。従って、離婚そのものの以外では慰謝料がほぼ唯一の争点ということになる。
先ずは、夫の翔太が離婚に応ずるのかどうかが問題だ。あくまで拒否するならば調停は不成立となり、妻の側はおそらく裁判に訴えてくるだろう。そうなれば、奈津子もとことん巻き込まれることになる。こんな犬も食わない不毛な争いからとっととおさらばさせてやるのが、頼りになるおじさんの腕の見せどころだ。もちろん、こんなことに一銭のカネだって支払うわけにはいかない。いずれにしても、先ずは夫の大石翔太がどういうスタンスを取るのかを確認することから始めよう。
奈津子がメモしていた大石の弁護士の名前をPCで検索してみる。元橋裕紀、アルファ法律事務所のパートナー弁護士、つまり共同経営者の一人ということになる。
アルファは、大量のテレビCMで名を売って業界大手にのし上がった新興の法律事務所だ。高い営業力には定評があるが、なりふり構わぬ顧客獲得と強引な交渉でトラブルも続出、評判は決してかんばしいとは言えない。
事務所のホームページにアクセスして元橋弁護士のプロフィールを確認する。弁護士歴24年の49歳。専門分野は、過払い金返還、借金・債務整理、ネットトラブルほか。
とりあえず、一度コンタクトを取ってみるか……。哲也は携帯のダイヤルボタンを押した。
電話に出た元橋弁護士に、奈津子の伯父を名乗って、後見の立場でとりあえず連絡したことを伝える。
「申立人が提出した浮気の調査報告書、見せて頂きました。奈津子からは、先生はそれでもあくまで不貞行為を否定される方針だとお聞きしたんですが」
単刀直入に聞いてみる。
「もちろんです。ご本人が、確かに一緒にホテルに入ったのは事実だけど、セックスはしていないっておっしゃってますので」
言葉遣いは慇懃だが、何とはなく尊大さを感じさせる口調だった。大手事務所のパートナー弁護士ともなれば、それなりの態度が身に付いているものだ。
「でも、素人考えで恐縮ですが、もし裁判にでもなったら、あの報告書がモノを言って、不貞が認定される可能性が高いんじゃないでしょうか」
元橋が、電話の向こうで含み笑いをしたのが分かった。こちらを素人と侮っているのが分かる。
「だから口裏を合わせるんですよ。ホテルに一緒に入ったとしても、当事者双方が口を揃えて性行為はなかったって言えば、裁判官だって、そう簡単に浮気を認定する訳にはいかんでしょう」
おいおい、元橋先生。そんなこと断言しちゃっていいのかい? でも、ここはまだ素人を装っておくに越したことはない。
「そんなものなんですか?」
「そんなものなんですよ。まあ、二人がヤッてるそのものズバリの写真でも撮られっちまったんなら別ですがね、はは」
おっと……。それが、仮にも伯父を名乗る相手に向って言うセリフか? カチンときたが、ここは気を取り直す。
「じゃあ、大石さんと口裏を合わせておけば、奈津子の方も安心していいんですね」
「その通り。すべては専門家にお任せ下さることです」
「でも、元橋先生。先生は、奈津子に就いてくれてるわけではありませんよね」
「私は大石氏の代理人ですが、大石氏の不貞の疑いが晴れれば同時に奈津子さんの疑いも晴れることになるじゃないですか。つまり、二人の利害は完全に一致してるってことです。お分かりですかな」
違うだろう、と思わず声を上げそうになるのをかろうじて抑えた。二人の利害が一致するのは不貞関係があったかなかったかという点のみ。もし、不貞が認められてしまったならば、その瞬間に二人の利害は完全に対立することになる。つまり、どちらがどれだけの慰謝料を払うかの争いが生まれるのだ。
物事の一面のみを取り上げて、あたかもそれが全体像を示すかのようにまことしやかに解説する。それも、有無を言わせぬたたみかけるような口調で。これなら素人は手もなく言いくるめられてしまうだろう。元橋という男は、一般人は黙って法律のプロに任せておけ、という昔ながらのタイプらしい。とはいえ、ここはまだ相手のペースに合わせておいた方がいいだろう。
「そうなんですね、それなら安心です」
電話の向こうの男が満足そうにうなずくのが目に見えるようだった。
相手の心づもりはおおよそ見えた。となれば、後はこの争いの構図を再確認しておかなければならない。大石に夫婦関係の修復の意思があるのかどうか。それ次第で事態は大きく変わり得る。
「元橋先生。一つだけ確認させて頂きたいんですが」
「何なりと」
「大石氏は離婚に応ずるお積りなんでしょうか? 先ほど我われの利害が一致するとおっしゃいましたが、もしも大石氏が奥様に謝罪して夫婦関係の修復を求められた場合、ご夫婦対奈津子という対立構図になりかねませんよね」
元橋弁護士は、ひと呼吸をおいてから答えた。
「申し上げたように大石氏が浮気を認める積りは一切ありませんし、妻から離婚調停を申し立てられたとなると夫婦間の信頼関係は完全に崩壊しているというしかありません。ご本人は、既に離婚の覚悟を決めておられます」
となると、夫の離婚拒否で調停不成立、訴訟に進行という懸念はひとまず遠のく。つまり、調停で慰謝料の件さえ片付けば、離婚裁判というドロ沼的展開への事態が避けられることになる。
「分かりました。となると、ご夫婦が完全に敵同士となって、申立人対大石・奈津子の相手方連合軍という構図は確定と思っていいですね」
「ま、そういうことですな。調停では私どもと奈津子さんは別席になりますが、二人の関係は私がすべて説明しますので、奈津子さんは余計なことを言わず、ただひたすら肉体関係がなかった事だけ主張してもらいます」
奈津子の代理人でもないくせに。その横柄な命令口調にはむかっ腹が立った。ここは一つだけクギを刺しておくか。
「ところで、元橋先生」

つづく(^^♪~~~

#5

「あの弁護士さん、何だか命令口調でヤな感じだったけど」
哲也も何となく嫌な感じがしていた。自白は証拠の王様だからって、ならば自白さえしなければ無罪になるとでも考えているのか。
しかし、浮気の認定なんて、刑務所にぶち込むかどうかを判断する刑事事件ほど厳密なものではない。手を組んでラブホに入れば、それだけで肉体関係があったとみなされるのが普通だ。疑惑の当事者がしらばっくれたぐらいで、それを覆すことなどできるはずがない。
まともな弁護士なら、これだけの証拠を突きつけられたら、いくら否定したって通用しない事ぐらい分かるはずなのだが。しかし、昨今まともじゃない弁護士も山ほどいる。あ、いや、まあとてもそんなこと言える立場ではないのだが。
「奈っちゃん。その弁護士の言うこと、本当に信じていいと思ってるのかい?」
「だって、大石さんの弁護士さんなんだから」
「奈っちゃん、よおく聞きな」
いくら世間知らずの娘でも、これだけは言っておかなきゃいけない。
「大石氏の弁護士は、大石氏の利益を守る事がすべてなんだ。早く言えば、奈津子の利益を守る義理なんかこれっぽっちもないわけだ。極端に言っちまえば、奈津子に損をさせてでも大石氏の利益を守るのが役目なんだよ」
「でも、弁護士さん、絶対大丈夫だからって自信たっぷりだったよ」
「奈津子」
哲也はちょっと口調を改めた。
「残念だけど、あれだけの証拠があるんだから、もし裁判になったらまず勝ち目はない。となると、全額かどうかは別として、奈津子にも支払い義務が生まれる可能性が高い。それに、妻ってのは、たいてい浮気した夫より夫を誘惑した女の方を恨むもんだし」
「誘惑って‥‥。私、誘惑なんかしてないよお。大石さんの方から強引に‥‥」
分かった分かった、と哲也が手で制する。
「浮気の慰謝料ってのは、基本、夫と愛人の二人で支払う責任がある。で、仮に一方が全額支払ったら、もう一方は支払いを免れることになってる。だから、奈津子に全部押し付けちゃえば、大石はウハウハってことにだってなりかねない」
「ええー? まっさかあ」
からからと笑った奈津子が、すぐに真顔になった。
「ウソでしょ?」
「いや、法的に言えば、大石氏と奈っちゃんはそういう関係にあるんだ。で、その金を返す返さないで、今度は夫と愛人の醜い争いが始まるってわけだな。そんな例、俺はイヤっていうほど見てきてる」
奈津子は、ふうっと息をついた。斜め上方向を見上げてちょっと考え込む。
「でもさ、おじさん。浮気なんて言われたって、大石さん、俺はバツイチで今は独身なんだってずっと言ってたんだよ」
まあ、よくある話だ。
「そんな下心見え見えの与太話をほんとに信じたのか?」
「だって、疑う理由ないもん」
確かに。せっかくいいムードになってきた時に、野暮なことを根掘り葉掘り聞くわけにも行かないか。
「私、大石さんに独身だってダマされてたんだよ。奥さんがいるなんて思いもしなかったのに、なんで浮気の慰謝料を払わなきゃいけないのぉ?」
口をとがらせた奈津子を見て、哲也がふと我に返る。
言われてみれば、確かに独身同士の大人が付き合うのならば誰はばかる事はない。ついつい説教オヤジを演じてしまったが、奈津子の言い分にももっともなところがないでもない、か。そもそも奈津子が騙されていたんだとしたら‥‥
不貞行為の判断基準は、故意または過失の有無だ。法律には、『故意』と『過失』という用語がイヤというほど登場する。平たく言えば、故意は『わざと』、過失は『うっかり』ということだ。
不貞行為とは、夫婦のどちらかが他人と肉体関係を結ぶこと。奈津子は果たして、『わざと』意図的に妻帯者と寝たのか、または『うっかり』意図しないで妻帯者と寝てしまったのか?
ところが、そもそも奈津子は、大石に妻がいるという事実そのものを知らなかった。わざとも何も、奈津子には大石が浮気をしているという認識そのものがなかったのだ。だとすれば、 『わざと』 妻帯者と寝たことにはならない。つまり、『故意』の不貞行為など成立しようがない。
ならば、『過失』ならあり得るか? 奈津子は、『うっかり』して浮気の片棒を担いでしまったのか? つまり、大石に奥さんがいる事にうっかり気がつかなかったのか? 確かに、そんな事ぐらい気づいて当然だったのなら『うっかり』と言えるかも知れないが‥‥。
大石は、言葉巧みに独身だとダマして奈津子と男女の関係になっている。奈津子はいわばダマされた被害者なのに、大石に妻がいることを当然知っているべきだった? そいつあ、いくらなんでも酷ってモンだろう。奈津子は、肉体関係を結んだ時、大石が結婚していないことを確認している。ならば、奈津子は 『うっかり』 妻帯者と寝たことにはなるまい。つまり、『過失』もなかったことになるはず。
ということは‥‥。
結局、故意もなければ過失もなかった。ならば、奈津子が不貞の慰謝料を支払ういわれはない。哲也は、頭の中で、とりあえずそんなロジックを組み立てていた。
「確かに、奈津子の言うことももっともかも知れんな。ちょっと俺なりに対策を考えてみよう」
「おじさん、ありがとう」
奈津子の表情がぱっと輝く。幼い頃のあどけなさが一瞬のぞいた。
「ただ、今、俺は弁護士資格がないから、代理人として表立って動くわけにはいかない。あくまで個人的な知り合いとしてアドバイスするのが関の山だからな」
「うん、分かってる。でも、哲おじさんが後ろに付いてくれてれば鬼に金棒だもん」
「どうかな。弁護士辞めてもう5年だ。金棒は錆びついてるかも知れんぞ」
奈津子がまたからからと笑う。不名誉な事件を起こした哲おじさんとはいえ、信頼がまったく失われたわけではなさそうだった。

つづく(^^♪~~~

#4

「実はね。一昨日、私宛てににこんなものが届いたの」
奈津子が取り出したのはA4サイズの茶封筒だった。差出人は、東京家庭裁判所となっている。
読ませてもらうよ、と言いながら書面を開く。
定型印刷の説明書類をめくると、『調停申立書』という綴りが見えた。書類は何枚もあったが、申立書のどのあたりがキモなのかぐらいの見当はつく。まずは、『申し立ての趣旨』と書かれたページを眺めてみる。
『申立人大石香奈江は、相手方大石翔太と離婚する。相手方大石翔太および相手方松尾奈津子は、不貞により婚姻生活を破綻させた不法行為に対する慰謝料として、連帯して金600万円を支払う』
妻から夫への離婚の申し立てが本筋なのだが、同時に離婚の原因である不倫の慰謝料を、夫とその浮気相手の二人に請求しているというわけだ。
ご丁寧なことに、例の分厚い調査報告書のコピーまで同封されていた。表紙部分には、調査した松尾リサーチの名前も明記されている。今回の相手方当事者の名字が同じ「松尾」であることに気付く関係者はいるだろうか。気付いたとしても、まあそう珍しい名前でもない。世間によくあるただの偶然だ。
「で? 心当たりはあるんだよな」
聞かずもがなのことを聞いてみる
「報告書、もうとっくに読んでるんでしょ」
「ああ。準備段階のものを見せてもらった。でも、何かの誤解ということだってある」
男と手を組んでラブホテルに入る写真に誤解の余地などあるはずもないが。奈津子は、お気遣いは沢山、という風に首を振って大きくため息をついた。
「あーあ、参ったなあ。パパなんて言いたいこといっぱいあるくせに、苦虫噛みつぶしたみたいな顔して目も合わせてくれないし。哲おじさんだって。ほんとはがっかりしてるんでしょ」
「そうだな。奈津子も大人の恋をするお年頃になったんだなあと思うと、ちょっと感慨深いな」
「大人の恋かあ。この大石さんってさ、バイト先のコールセンターのチーフなの」
「なかなかハンサムボーイだ」
「30過ぎてるからもうボーイじゃないけど、イケメンでお洒落だし優しいし、バイトの女の子の間じゃ噂の的だったの。実は‥‥、結構憧れてたんだ」
奈津子の表情がふっと曇った。強がってはいても、それなりに傷ついていないわけがない。運命の人とまで思い詰めてたかどうかは分からないが、ときめいた瞬間があったことぐらいは想像できる。
「だからさ。美味しいお店知ってるからって誘われて、結構舞い上がっちゃったんだよね」
女はこういう男に弱いと分かってはいても、ほかならぬ奈津子となると簡単には割り切れない。
「何回か食事して、カラオケにも連れて行ってもらったりして」
「二人っきりで?」
奈津子は視線を落として頷く。
「深い付き合いになってどれぐらい?」
奈津子はちょっと考え込む。
「半年ぐらいかな」
「大石氏が結婚してるのは知ってた?」
「まさかあ。知ってたら付き合わないし」
本当か? 反射的に疑問がもたげる。
「裁判所の通知が来てから、大石氏と連絡は取った?」
「うん。昨日、大石チーフの弁護士さんから電話があった」
「ほお。大石氏には弁護士が就いてるんだ?」
奈津子は、こくんと頷いた。調停は当事者同士の話し合いが基本だから弁護士を就ける必要はないが、その先の裁判も見越して代理人を依頼する例が多い。
「その弁護士、奈っちゃんには就いてくれないのかい?」
奈津子は、もう一度こくんと頷いた。
「代理人になるには、30万円かかるって言われたの」
同じ事件の相手方同士なのに、別途着手金30万円か。なかなか、経営センスの優れた弁護士だ。
「大石チーフってのは、会社でそれなりの立場にあるんだろ。おまけに主犯は彼じゃないか。着手金ぐらい出してくれないのか?」
『主犯』というのはまあ言葉のアヤだったが、奈津子の方は特に気にする様子もない。
「チーフに聞いてみたら、自分の弁護士に相談して、私の事もうまく対処してもらうから大丈夫だって」
哲也は深く息をつく。世間知らずの小娘のことなんて知ったこっちゃないというのが見え見えだ。
「で? その弁護士、何て言ってたんだ?」
「とりあえず、知らぬ存ぜぬで押し通せって」
「有無を言わさぬ報告書があるのに?」
「弁護士さん、二人が口裏を合わせて断固否定すれば大丈夫。絶対に肉体関係を認めるな、ホテルでは酔いを醒ますためにソファでお話ししただけですって言い張れって。何だか命令口調でヤな感じだったけど」
嫌な感じは、哲也も同感だった。

つづく(^^♪~~~

#3

弁護士にとって、逮捕・起訴され、さらに有罪判決を下されるということは再起不能に等しい致命的な痛手だ。我が身を襲ったわざわいがいかに悲痛なものであったとしても、この事態はつまるところ自暴自棄になった自分がまいた種。誰にも恨みごとは言えない。とはいえ、今も入院中の妻のことを考えれば、口に糊してでも生きていくしかなかった。落ちるところまで落ちた男は、ひとまず親友の情けにすがることを決心せざるを得なかったのである。
哀れな弁護士くずれに松尾陽一が用意したのは、法務部長という肩書きだった。もっとも、急ごしらえの部署のメンバーは哲也一人しかいない。売れっ子弁護士時代に比べれば報酬はタカが知れていたものの、所長の隣に、窓を背にしたデスクが用意されていた。プライドなどとうに捨て去った積りでいた哲也も、余計なことをと思いつつ、親友の心遣いを痛いほど感じていた。
その恩義ある男の愛娘が、トラブルに巻き込まれている。
「お前はまだ弁護士資格を回復してないよな。離婚がらみのトラブルに関わるのはまずいか?」
「いや、仕事で法律業務をするわけにはいかんが、単発、無報酬で知り合いの娘さんのサポートをするぐらいなら何の問題もない」
「そうか。すまん。何とも無様な話だが、相談に乗ってやってくれんか」
「もちろんだ。他ならぬ奈っちゃんの窮地だ。及ばずながら力は惜しまんよ」
幼い頃から可愛がってきた娘だ。研作とは二つ違い。お嫁さんになってやってくれないか、なんて軽口を何度叩いたことだろう。
一瞬、もうこの世にはいない一人息子の面影が脳裏をかすめる。同時に、哲也は我知らず力がみなぎってくるのを感じていた。研作を喪って以来、久々に湧き上がる高揚感だった。

例の浮気調査を依頼してきた妻から奈津子に直接のコンタクトがあったのは、ひと月ほど経った頃だった。
代理人を通じて杉並の自宅に内容証明が送られてきたという。妻の側も、夫の浮気相手が、よりにもよって調査を依頼した興信所のトップの娘だなどとは夢にも思っていないだろう。
陽一から見せられた書面の趣旨は、不貞行為によって夫婦生活を破綻させられたことに対する慰謝料として、不貞相手の奈津子に金600万円也の慰謝料を求める、というものだった。末尾には、期限までに支払いなき場合はしかるべき法的措置を取る、という型通りの文言が書かれていた。
結構吹っ掛けてきたな、というのが第一印象だった。浮気に対する慰謝料にも相場というものがある。大富豪や芸能人は別として、訴訟になった場合、請求金額が多かろうが少なかろうが、認められるのはおおよそ200万からせいぜい300万。それも、浮気した夫と浮気相手の二人分を合計した金額だ。奈津子一人で全額を負担するいわれはない。
とりあえず放っておけばいい。法的措置ったって、やれることはタカが知れている。法務部長の言葉に、陽一はやれやれという表情で頷いた。
奈津子とは、一週間ほど経った日の午後、吉祥寺で待ち合わせた。
微妙に茶色の入ったロングヘアーに目元を強調したメーク、タイトなジーンズ姿の今どきの女子大生だ。
よおっ、久しぶりだなあと声を掛けて、二言三言当たり障りのない話をしてみる。笑うとまだ幼さが顔を出すものの、しばらく見ないうちにすっかり大人びて見えた。あんな報告書を読んだ先入観のせいかも知れない
奈津子にとって哲也は、幼い頃から家族ぐるみで付き合っていた仲良しの哲おじさんだ。何気なさそうに振舞ってはいても、傷心と羞恥がないまぜになって内心消え入りたい思いだろう。おじさんの方だって気まずいったらないが、スキャンダルならこっちの方が大先輩。自慢じゃないが、何しろ前科一犯なのだ。お互いスネに傷を持つ身なればこそ、腹を割った話もできるというものだ。それにしたって、深い関係になった彼氏に妻がいて、何の因果か父親の会社に浮気調査を依頼してくるなんて。まあ、ここまで運の悪いことはそうそうあるもんじゃない。
「奈っちゃんも知っての通り、おじさんは5年前に逮捕、起訴されて有罪判決まで受けてる。それに比べりゃ‥‥」
「私なんて、ちょっと蚊に刺されたようなもん?」
哲也が破顔する。どうやらこの娘は、さほどか細い神経の持ち主ではないようだ。自分なりに傷を癒したか、それとも大した傷でもなかったか。腫れ物に触るような気遣いは無用かも知れない。
「哲おじさん。実はね。一昨日、私宛てににこんなものが届いたの」

つづく(^^♪~~~

#2

久我原哲也が脱税で逮捕されて弁護士資格を剥奪されてから間もなく5年になる。
このみっともない不祥事には前段があった。五十路を前に、中堅事務所の幹部として企業法務を中心に精力的に活動していた頃、哲也は大きな災厄に見舞われる。かけがえのない一人息子・研作が自ら命を絶ったのだ。研作は中学校の頃から不登校気味で、対人恐怖、強迫神経症と診断され、高校に入ってからは完全な引きこもり状態だった。

それは、研作が二十歳の誕生日を迎えたまさにその朝の出来事だった。
その前夜。研作は、大学の通信教育の講義がつまらないなどと笑いながら、珍しく父親に話しかけてきた。それからしばらく、明日で二十歳になるという話題には触れることなく、一人息子は父にことさら何気ない話をしている。そして、間もなく日付が変わろうとする頃、研作は2階の自室に戻った。
翌朝、哲也はいつになく早く目が覚めて、ふと何ともいえない胸騒ぎを感じてベッドを出た。何かに急かされるように階段を上がって息子の部屋のドアをノックした。返事はない。恐る恐るドアノブを握って回すと同時に、ずっしりと重い何かが手前に倒れこんできた。
その瞬間、哲也は全てを悟っていた。我が子は、内側のノブに結んだ電源コードを首に巻きつけ、その細くて強靭な紐に自らの全体重を委ねてドアにもたれかかるように座り込んでいたのだ。研作の心臓は、とっくに鼓動を止めていた。
今で言うイクメンのはしり、学生時代からの付き合いだった妻と二人で小さい頃から慈しみ育ててきた息子だった。夫婦にとっての衝撃は計り知れず、もともとウツの傾向があった妻は精神に変調をきたして入院する事態となる。
その結果、哲也は独りの生活を余儀なくされることになった。最愛の息子を喪い、三人家族がそれなりに仲睦まじく暮らしていた家にぽつんとたった一人。哲也は、酒におぼれ荒んだ生活に明け暮れるようになった。
仕事に関しても、徐々にタガが外れて来る。間もなく、成り行きに流されるまま、事務所が顧問契約を結んでいたアニメ関連会社の若手女社長とねんごろになった。
もともと商才に長け野心溢れる女社長は、哲也というその道のプロの後ろ盾を得て以前にも増してアグレッシブに事業拡大を進めた。仕事に対する意欲も法律家としてのモラルも失いかけていた哲也だったが、企業法務に長年携わってきた経験や知識まで失われたわけではない。彼女に拝み倒されて、売上の過少申告や架空の経費計上に手を付け、さらに脱税の指南やマネー管理をすることになっていく。危うい行為が習い性になれば、正常な判断力も徐々に摩耗する。哲也は、いつしか限度を超える行為にも手を染めるようになっていった。
そして、ついに5億円におよぶ所得隠しが発覚。8千万円近くの脱税の容疑で国税庁から告発され、東京地検特捜部に逮捕・起訴されてしまったのである。
半年後、女社長とともに懲役10カ月執行猶予3年の判決が言い渡された。執行猶予付きであろうと、懲役刑に処せられると弁護士資格は停止される。当然、事務所も追われることとなった。
そんな哲也を拾ってくれたのが松尾陽一だった。都内でもそこそこの規模の興信所を経営する男だ。
専門の調査員を抱えたアメリカの弁護士事務所と違って、調査能力のない日本の弁護士にとって、信頼できる興信所は欠かせないパートナーだ。特に民事訴訟では、対立相手のみならず、時には当の依頼人に関しても、その過去や素行を調査して事実の裏付けを取ることが必要な場合がある。
哲也がまだ弁護士になって間もない頃、勤務し始めたばかりの大手法律事務所と専属契約を結んでいたのが、陽一の父親が創業した松尾リサーチだった。哲也と陽一、新米弁護士と探偵業見習いは、同年代でお互い釣りが趣味ということもあって妙にウマが合った。二人は、何度かコンビを組むうちに仕事を超えて親しくなっていく。それから20年余り、公私にわたる付き合いが続いていた。
一人息子を喪って自暴自棄になり、資格もキャリアも信用もすべて失った哲也に手を差し伸べてくれたのは、数年前に興信所代表の地位を継いだ松尾陽一ただ一人だった。

つづく(^^♪~~~

「何だって……」
哲也は思わず声を上げた。続く、まさか、の言葉をかろうじて飲み込む。
「いや……。まあ、ちょっとこれに目を通してみてくれ」
陽一が一冊のファイルを放り投げてよこした。表紙には『調査報告書』とある。
「うちの佐野が丸三日尾行した報告書だ。所長にはご報告しておいた方がいいと思って、なんて言いながら持ってきやがった」
哲也は、無言でぱらぱらとファイルをめくった。
報告書はまだ準備段階のものらしく、キメの粗い写真が何枚も仮印刷されていた。スリムなスーツ姿が決まったイケメン風が若い女と居酒屋で食事をしている姿、二人仲良くくっついて夜の街を歩いている姿、手をつないで派手なネオンのホテルの玄関に入って行く姿‥‥。そのそれぞれに、日付と時間と状況を克明に記したキャプションが付いている。
写真はあまり鮮明とはいえなかったが、若い女は確かに奈津子だった。赤ん坊の頃から、幾度となく抱っこしたりあやしたり、時にはままごと遊びに付き合わされたことだってある。目の前で仏頂面をさげた男、松尾陽一の一人娘、奈津子だ。名門女子大に合格したと聞いてブランドバッグをプレゼントしたのは、二年ほど前だったか。
「これとそっくりな女の子を知ってる」
ファイルから顔を上げて哲也が言った。
「ああ、俺もだ」
陽一が投げやりに答える。
「冒頭の事件概要の所に彼女のプロフィールが書いてある。21歳、杉並区荻窪在住の女子大生だそうだ」
なるほど、と言いながら哲也が腕組みをして大きく息をつく。
「そうか。うーん、参ったな」
「ああ、参った。浮気調査を依頼されて、不倫男のお相手を調べてみれば我が子なりって。ったく洒落にもならん」
「で、どうするんだ。この若造の浮気相手が奈っちゃんとなると俺にもいささかショックだが、他人が口出しする問題じゃなさそうだしな」
「ああ、親子の問題は、俺が片付ける。ただな」
陽一が、ちょっと言いよどんだ。
「どうした?」
「いや、浮気調査を依頼してきたのはこのくそ野郎の妻なんだが、佐野の話では、もう夫婦関係は完全に破綻しててこんな報告書見たら離婚に突っ走ること請け合いです、なんて言うんだ。俺もこの業界は長いから、調査の結果離婚したなんて話は山ほど見てきてるんだが、まさか自分の家族が当事者になったことはない。こんな場合……」
陽一がちょっと言いよどむ。
「その、何だ。浮気相手の方も責任を問われたりするもんなのか?」
興信所の業務というのは、報告書を提出した時点で終了。その結果派生した具体的な争いにまで関知することはない。久我原哲也がこの会社にいるのは、こんな時のためだ。興信所は、場合によっては法律すれすれの行動を取らざるを得ないこともあるし、調査相手から怒鳴り込まれることだってある。そんな時にこそ、法律のプロの適切な判断と助言が必要になる。
といっても、哲也は弁護士ではない。いや、今は違うと言った方が正確か。脱税で逮捕されて弁護士資格を剥奪されてから、間もなく5年になる。

このみっともない不祥事には前段があった。五十路を前に、中堅事務所の幹部として企業法務を中心に精力的に活動していた頃のことだ。

つづく(^^♪~~~