「これ以上、一体何があるっていうんだ?」
和樹さんは、とつとつと語り始めた。
「父さんには、学生時代から就職してからもずっと仕送りしてもらってたよね。それなりの給料を貰うようになって何年も経つのに、結婚式の費用ぐらいの貯金がどうして出来てなかったのか、変に思わなかった?」
そう言えば……。
幸次さんは、結婚式の費用の話を切り出された時、ふと不審を感じた事を思い出していた。
「父さん。ぼくが大学に入って寮生活になったのに合わせて、母さんが叔父さんちから出たのは知ってるよね」
「ははあ、なるほどな。卜部と一緒になったって訳か」
「さすがに母さんも口をにごしてたから、その辺の事情はよく分からなかったんだけど、どうやらそういう事だったらしいんだ。その頃、卜部先生の方も離婚話にほぼ片がついたみたいで」
「お2人さん、晴れて一緒に暮らせるようになった訳だ」
幸次さんは、元妻に未練があった訳ではない。とはいえ、婚姻中からずっと裏切られ続けていたのだ。そんな事の成り行きを聞かされて愉快な筈はない。
「で、それがどうしたってんだ。由紀が再婚しようがどうしようが、俺の知ったこっちゃない」
「父さん……。母さんが昔、マルチ商法の愛善会にはまり込んで大きな借金作ったの、覚えてるよね」
「当たり前だ。忘れられる訳ないだろ」
それがどうした、という表情の幸次さんに、意を決したように和樹さんが言った。
「母さんを愛善会に引っぱり込んだのは、実は卜部先生だったんだ」
幸次さんは言葉を失った。
「母さんを勧誘するぐらいだから当初は調子が良かったらしいんだけど、マルチ商法なんて、いずれは破綻するもんだよね。案の定、お金をつぎ込んでもつぎ込んでも底なし沼状態になったらしくて。結局、ぼくが卒業した直後ぐらいから、自宅にも職員室にもサラ金からの督促の電話が矢継ぎ早にかかって来るし、しまいには校門から壁から所かまわず『卜部、金返せ!』なんてビラが大量に貼られるような始末でさ」
幸次さんは、経営が傾き始めたコンビニを何とかして立て直そうと、必死で奔走していたあの頃を思い出していた。毎日毎日、わき目も振らずに働いても働いても、どうしても経営が上向く気配すらなかったあの頃。綱渡りのコンビニ経営が果たしていつまで続いたかは分からないけど、必死ですがりついていた蜘蛛の糸をものの見事にぶった切ったのが、マルチ商法に引っかかった妻の借金だった。一人息子の担任教師でありながら、母親である妻と不倫関係を持ったあの男は、最終的に木下家の命脈を絶った張本人でもあったとは……。
幸次さんにとって、今の今まで知らなかった事実だった。その胸には、激しい怒りが渦巻いていた。
でも、それはあくまで過ぎ去った遠い昔の出来事に過ぎない。追い打ちをかけるように和樹さんが語ったのは、更に聞くに堪えない事実だった。
「結局、とても学校にいられなくなって、辞表を書いたっていうんだ。なけなしの退職金で何とか借金を返して、その後、塾の講師に転職したんだけど収入はがた落ちでさ。それで、奥さんにも完全に見限られたんだろうね。母さんとの事で夫婦仲はとっくに破綻してたんだけど、宙ぶらりんだった離婚話が急展開したらしいんだ。で、奥さんと別れて母さんとの同居が始まったんだけど、子供たちの養育費の支払いに加えて、かなりの慰謝料を分割で支払う事になったらしくて」
何てこった……。
ここまで聞いて、幸次さんにも、ことの背景に想像が及んだ。
「ちょうど就職した頃だったもんだから、母さんに泣きつかれてさ。だから、父さんにはホントに申し訳なかったんだけど、貰った仕送りをぼくの生活費に充てて、ぼくの給料で母さんの生活費を賄うということにして、父さんに対する罪悪感を誤魔化すしかなかった」
よく言われる事だが、お金に色は付いてない。父親から貰ったお金と息子が稼いだお金、見分けなんかつく筈もない。結局のところ、幸次さんは、息子のために死にもの狂いで稼いだお金で、こともあろうに自分を裏切っていた元妻とその不貞相手を養ってたって事になる。これじゃあ、幸次さんならずとも、怒り心頭は当然だろう。
「そのからくりを知った時のはらわたが煮え繰り返る思い、忘れようったって忘れられるもんじゃありません」
幸次さんの心中を思うと言葉もなく、私は、ただ深く頷くしかなかった。
ふと気がつくと、幸次さんの手が何かの発作のように激しく震えていた。一方の手でもう一方の手を抑えようとするのだが、抑える側の手も震えているものだから何の効果もない。
あ、すいません、と言いながら必死で取り繕おうとするのを見て、私はちょっと居たたまれない思いだった。
「木下さん、ちょっと一息入れましょう。今、お茶でもお入れしますから」
私は、ソファから立ち上がった。しばらく一人にして、平静を取り戻してもらった方がよさそうだった。一時はウツで長く寝込んでいた人だ。何かの拍子に、感情が溢れ出して制御できなくなる事があってもおかしくない。ましてや、人を愚弄するのも甚だしいあんな仕打ちを思い起こせば。
私は、奥のミニ給湯スペースで、IHヒーターのティーポットが沸騰するのを見詰めていた。
幸次さんの怒りは当然過ぎるほど当然だ。その心情は十分に理解できるし、心からの同情を禁じ得ない。
しかし、だ。
同情はしても、幸次さんに肩入れする訳にはいかない。依頼人はあくまで和樹さんなのだ。つまり、私が何よりも優先しなければならないのは、和樹さんの利益を守る事。ぶっちゃけ、弁護士としての私の職務は、いかにして幸次さんの返済請求を撤回させるか、その一点に尽きる。
沸騰したティーポットにティーバックを二つ入れて、その上からレンジで温めたミルクをたっぷりと注ぐ。
でも……。
私は、自分に問いかけていた。そこらの並みの弁護士なら、それで十分よね。でも、今日子、あんたそれで満足なの?
盲目的に子を愛する父の情につけ込んで、脅したりなだめすかして手練手管で説得する自分の姿を想像すると、何だかとても醜く思えてならない。何とかして、恩讐を超えてこの親子を和解させてあげられないんだろうか。
今日子。あんたは、それを果たしてこそ、初めて自分の職務をまっとうしたと胸を張って言えるんじゃないの?
依頼者が突然激昂するのは、よくある事だ。ハニーロイヤルミルクティーは、そんな時の私のとっておきの秘密兵器。温かくて柔らかな口当たりと甘みが、怒りに凝り固まった依頼者の胸にじんわりと沁み込むこと請け合いだ。おっとっと、幸次さんは依頼者じゃないけどね。
私は、ティーカップとハニーポットをテーブルに置いた。
「甘いものがお嫌いでなければ、ハチミツを入れてどうぞ」
幸い、幸次さんは甘いものが嫌いではなかったようだ。ハニーロイヤルミルクティーを一口すすった途端に、その表情がふうっと和らいだ。……ような気がした。
「済みませんでした。お見苦しいところをお見せしまして」
私の秘密兵器が、屈辱と怒りでがんじがらめになった幸次さんの身体と心を少しだけ溶かしてくれたようだ。
「いや、お気になさらないで下さい。思いもよらないお話で、私もちょっと面喰らってしまいました。そんな仕打ちを受けたら、お腹立ちもごもっともだと思います。事情をお聞きして、これまで和樹さんに仕送りされてきたお金の返済を求められた理由も、よく理解できました」
「そうですか。私も、先生にお話を聞いて頂いて、ちょっとだけ気が晴れた気がします。何しろ、こんなみっともない話、誰にも出来ないですから」
深く頷いてから、私は切り出した。聞くべきことは聞いた。今度は、こちらから、言うべきことは言っておかなければならない。双方がすべてをさらけ出して初めて、恩讐を超えた和解への第一歩を踏み出すことができる。
「実は、和樹さんから、お嫁さんがお父様に対して、ちょっと不信感を持っておられる話を聞いたんですが」
「え? 優奈さんがですか?」
「幸次さん、お2人の新居に何度も電話をお掛けになったとか?」
「あ、ええ。和樹が携帯に出なくなったもんだから」
「その時、優奈さんを厳しく問い詰められたとお聞きしたんですが」
「まさか。彼女を問い詰めてもしょうがないじゃないですか。和樹の人倫にもとる仕打ちについて話しただけです」
「お父さんの口調があんまりきつくて、その後、優奈さん、ちょっと体調を崩されて、しばらく実家にお帰りになってたらしいんです」
「私は、優奈さんに対して咎めだてした覚えなんかありませんよ。この件に関して、彼女はまったく無関係なんだから」
おそらく、幸次さんは嘘をついてる訳じゃない。ただ、きつい物言いをしたという認識がないのだ。幸次さんは、こうして話をしている間でも、何度も声を荒げる場面があった。優奈さんに対して悪意がなくても、息子や元妻への怒りの矛先がずれて、激しい非難口調になったりした事は容易に想像できる。
「お父様にそんな積りはなかったのかも知れませんが、優奈さんは精神的にひどくショックを受けられたんだそうです」
幸次さんは、ちょっと黙り込んで冷めかけたティーを一口すすった。
「そうですか。でもまあ、もうそんなことはどうでもいい。元妻には手ひどく裏切られて、息子にも嫁にも見限られて、私にはもう立つ瀬も何もない。返すべきものを返してもらって、とっとと縁を切るしかありません」
「ほんとにそれでいいんですか?」
「他にどんな方法があるって言うんですか?」
和樹さんと縁を切る……?
それは、唯一の生き甲斐を永遠に失う事だ。私には、その後の幸次さんの人生が目に見えるようだった。おそらく、万年布団から起き上がる事も出来ない、あのふぬけのような生活に逆戻り。蓄えを失った時には、生活保護か、悪くすればホームレスとなって落ち葉の舞い散る公園の片隅で野垂れ死に。息子を心から愛しひたすら働いてきたこの人が、そんな理不尽な最期を遂げていいのだろうか。まあ、野垂れ死にと決まった訳じゃないんだけど。
そろそろ、かな……。
温存して来た隠し玉を使う時が来た。凶と出るか吉と出るかは分からないけど、ひょっとすると幸次さんの気持ちを和らげるかも知れない、唯一最後の隠し玉……。
「幸次さん。実は、先日、和樹さんからお聞きしたんですが……」
私は、ちょっと居住まいを正した。
「優奈さん、妊娠されているそうです」
目の前の男が、大きく目を見開いて声にならない声を上げた。
つづく (^.^)/~~~
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