こうして、再び生きるよすがを見出した幸次さんの、新たな日々が始まった。
「大学に入って寮住まいになった和樹とは、月に一回会うことにしました。アルバイトするなとは言わないが、学生の本分だけは忘れるな。学費と生活費は父さんが面倒みるから。これが、和樹との約束事です。月一回会う度に、仕送りとして12万を手渡しました。とにかく遮二無二働くことだけが命でしたから、それでもまだ多少の余裕がありました。だから、自分のアパートの家賃とか光熱費なんかを除いた残りは、せっせと貯金しました。いずれ、和樹がまとまったお金を必要とする時が来ると思ってましたから」
「すごい。お父さん、完全復活ですね」
幸次さん、ちょっとだけ誇らしげに見えた。
「でも、あの、お母さんはどうなさってたんでしょう」
由紀ですか?
幸次さんが呟くように言った。マルチ商法に騙されて、傾きかけた家業に最後のとどめを刺した妻。そして、最愛の息子の中学時代の担任と不倫関係にあった妻。幸次さんは、しかし、その事は多分知らないだろう。
「由紀が、弟の家で居候を続けるのか自立するのか。はっきり言って、その頃にはもう彼女の身の上には、まったく興味はありませんでした」
「あの、離婚なさったのは、その頃だったんでしょうか?」
「そうですね。和樹が大学に入って、叔父の家を出て間もなくの頃だった筈です。破産宣告を受けてから、半年ぐらい経ってましたか。弁護士さんから連絡があって、仕事の合間を縫ってお会いしたんですが、いい話と悪い話がありますって、何だかアメリカ映画のセリフみたいなこと仰るんです。聞けば、いい話というのは、ようやく破産の手続きがほぼ片付いたという報告でした。へえ、まだ終わってなかったのか、というのが正直な思いでした。何だか他人事みたいで、債権者の方々には本当に申し訳ないんですが、私はもう既に生まれ変わって馬車馬生活に入ってましたから」
確かに、破産宣告を受けてから諸手続きがすべて完了するまで、長ければ1年以上かかることもある。
「で、悪い話というのは?」
「由紀が離婚を望んでいるという話でした。その時は、何だ、別に悪い話ってほどの事でもないじゃないか、というのが正直なところでした。店が傾きはじめてからの彼女の様子を見てれば、うすうす、そんなこともあるだろうとは思ってましたし、遅かれ早かれそうなる運命だったんだろうと思います。まあ、落ちぶれ果てたとはいえ、妻の方から三下り半を叩きつけられるというのはちょっと抵抗がありましたけどね」
幸次さんのとつとつとした口調は変わらない。
「そもそも事業に失敗してこういう事態を招いたのは、私です。それはよく分かってます。多少、自暴自棄にもなってたんでしょうし、離婚するしないで争うだけの気力もありませんでした。向こうも、破産した夫に、慰謝料だとか財産分与だとか無駄な要求はしてきませんでしたしね。ただ、唯一意見が対立したのが和樹のことでした」
「親権ですね」
「ええ。でも、弁護士さんが、和樹君ももう18歳ですから、親権ったって残りたった2年足らずのことですから拘ることないですよ、って言うもんだから。月に一回、私たちが直接会うことに反対しないという約束で親権は譲って、離婚届に判を押しました」
確かに、18歳になった子の親権なんて、ほとんど形ばかりのことに過ぎない。増してや、和樹さんは由紀さんの元を離れて一人暮らしを始めるんだから、親権を争う意味などさらさらない。今回の場合、親権を駆け引き材料にして有利な交換条件を引き出す必要もない。しかし、幸次さんが親権を譲ることに同意した何より大きな理由は、和樹さんが幸次さんの戸籍に残った事だった。離婚と同時に由紀さんは旧姓に戻って新しい戸籍を作り、木下という苗字を変えたくなかった和樹さんは父親の戸籍に残ったわけだ。子と親権者の戸籍が同じである必要はまったくない。
さあ、そろそろ核心に入らなきゃ。どん底から這い上がって最愛の息子とようやく作り上げた信頼関係は、一体どうして崩れてしまったんだろう?
「じゃあ、まあ円満な形で離婚されたという訳ですね。でも、和樹さんから、幸次さんは由紀さんに強い怒りをお持ちだと伺っていたんですが」
幸次さんは、一瞬私の方を見て大きく息をついた。表情は変わらないが、その瞳の奥に、何かほの暗いものが浮かんでいた。
「和樹とは、大学の4年間、毎月最終日曜日の夕方、池袋で会いました。あいつだって、友達とつるみたい事もあったろうに、この約束だけは絶対欠かしませんでした。私も、毎日毎日わき目も振らずに遮二無二仕事に取り組んで来られたのは、月に一回会って和樹の顔を見てお金を渡すという生き甲斐があったからです」
「仕送りは、確か和樹さんが就職されてからも続けられたんですよね」
「親バカだとお思いでしょうね。でも、大学まで出してやるのは、まあ親として最低限の義務を果たしたに過ぎません。中高の頃、父親として何もしてやれなかった分、まだまだ償い足りないと思ったんです。だから、和樹が就職した後も仕送りを続けました。和樹のためとは言いつつ、父親としての自分自身を納得させるためだったのかも知れません」
そして、自分自身の生き甲斐のためでもあったのだろう。いくら何でもあの無茶な働き方はどうかとは思うけれど、この人は、息子のためという拠り所を失ったら、たちどころにまた以前の腑抜けのような無気力状態に逆戻りしたに違いない。
「和樹はもうお金は要らないと言いましたけど、余裕があるんなら、仕送り分は貯金しとけって言って無理矢理持たせました。あいつも、お金を渡すのが父親の生き甲斐なんだって分かってたんでしょうね。いつの頃からか、素直に受け取ってくれるようになりました」
「和樹さんは公務員だから、まあそれなりのお給料を貰っている筈ですよね。お父さんから受け取ったお金を貯金してたら、かなりの額になったんじゃありませんか?」
「その筈ですよね。でも、後で分かったんですが、和樹には貯金は殆どなかった」
え、どうして? と言う言葉を、私は思わず飲み込んだ。幸次さんの固く握りしめた両手が小刻みに震えてるのに気付いたからだ。私は、幸次さんの顔に視線を移した。眉間に深いしわを寄せ、食いしばった歯の隙間から荒い息が漏れていた。
まさか、あの和樹さんが浪費してしまった?
「私が、寝る間も惜しんで稼いだ血のにじむようなお金。一体どこに消えたんだと思います?」
「え? いや、昔から放蕩って言えば、飲む打つ買うっていうぐらいで、大抵は酒かバクチか女、っていうのが定番ですけど」
ちょっと場の空気をほぐそうと冗談めかしてみたのだが、空気はぴくりとも動かない。
「あ、いや、まさかあの和樹さんに限って、それはあり得ませんよね」
幸次さんは、私の浅はかな配慮を見透かしたように小さく笑った。
「大当りだ、先生。オンナですよ」
・・・・!

つづく (^.^)/~~~