「ふざけるなっ!」

目の前のおじさんが、突然叫んだ。私は、思わず身構える。
「あ、いや、すいません。何も先生に怒ってるわけじゃないんです」
私は、よほどおびえた顔をしていたようだ。おじさんの怒りに燃えた目が、徐々に冷静さを取り戻す。
「実は、昨夜も、ほとんど寝てないもんですから」

おじさんは、今朝の10時、私が事務所のシャッターを上げるのを待っていたように入ってきた。かなりの間、外で待っていたようだった。ゴメンネ、私、かなり朝寝坊なもんだから。
「弁護士の久我今日子です」
「木下幸次といいます」
「初めまして・・・・」
ん? キノシタ?
「昨日、先生からお電話を頂きました」
「あ・・・・。和樹さんのお父さん? あの、昨日は、どうも電話で失礼しました」

昨日、和樹さんの話を聞いた後、とりあえずお父さんに連絡を取ることにした。和樹さんから聞いた電話番号に何度もかけて、やっとつながったのが夕方の7時前。かいつまんで名前を名乗って用件を伝えたのだが、今から仕事なので話しをする時間はない、という。では、またあらためてかけ直します、何時頃ならいいでしょうか?と聞いたものの、夜遅くまで仕事で、明け方からは次の仕事が始まるので無理だ、とけんもほろろだった。話をするのを避けているとしか思えず、ちょっと作戦を練り直さなきゃ、と思っていた。その矢先の、向こうからの訪問だった。
ソファに座るなり、幸次さんはしゃべり始めた。
今日は、早朝の新聞配達の仕事を終えて、ちょっと仮眠を取ってからやってきたのだという。睡眠時間は、毎日4時間。いつもは、朝9時から近くのスーパーで店員のパートをしているのだが、今日は午前中休みを取ったとのことだった。
スーパーの仕事は、夕方6時まで。大急ぎでスーパーの売れ残り弁当を食べて、7時から居酒屋のアルバイトが始まる。夜11時の閉店後、帰宅して3時間ほど寝て2時半に起床。真夜中の3時には新聞販売店に出勤して、ちらしの折り込み作業が始まる。配達は5時から7時まで。終えると同時に帰宅して、1時間余り仮眠を取ってまたスーパーに向かう。もう10年以上にわたって、毎日毎日そんな生活を続けているのだという。寝ること命の私だったら、まず3日ともたない。
「木下さん。いくら何でもそんな生活続けてたら、体こわしますよ」
幸次さんが、私の方をじろりと見た。
「まともな生活じゃないことぐらい、もちろん、私にだって分かってます。でも、やるしかないんです」
「はい?」
「こうやって、必死で金を稼いで、息子に渡してやる。これだけが、私の生きがいだったんです」
生きがいだった・・・・、過去形だね。
この息子思いのよき父が、今、長い間ずっと渡してきたお金の全額返済を強硬に求めてきている。
一体どうして?
私は、その疑問をひとまず置いた。せっかくの話の流れをせき止めちゃいけない。じっくりと話を聞いて、父親の側から見たこれまでの父子関係を、しっかりと把握しておくべきだと思った。
幸次さんは、どう見ても、もう60を過ぎている。一方、和樹さんは、確か28歳。何年も前に就職して結婚もした一人前の男に、ありえないほどの長時間労働でお金を稼いで仕送り?
「あのお。和樹さん、公務員ですよね」
「そうです。あいつ、結構がんばり屋でね」
幸次さんの顔がちょっとゆるんだ。
「それじゃあ、生活の心配はないわけですよね。学生時代ならまだしも、就職後まで、お父さんがそんな無茶な生活をしてまで援助する必要はなかったんじゃありませんか。むしろ、息子さんからお小遣いをもらってもいいぐらいでしょう」
幸次さんが、私を見てちょっと笑った。分かってないなあ、というよう表情で。
「子どもがいくつになろうが、父親は子どもをバックアップしてやらなきゃいけないんです。ましてや・・・・」
幸次さんは、ちょっと言葉を切って目を伏せた。
「あの子には、親としての役割を果たしてやることができなかったんだから」
つぶやくような言葉だった。
さあ、そろそろ切り出すタイミングかな。
「幸次さん。肝心なことをうかがいます。そんな最愛の息子さんに、これまでお渡しになってきたお金を、今になってすべて返せと要求なさってるんですよね」
柔和だった幸次さんの顔が一変した。あまりの変貌ぶりに、私は息を飲んだ。この感情の起伏の激しさは普通じゃない。和樹さんの子ども時代、幸次さんが患っていたというそううつ症状は、まだ完治していないのかも。
「そうです。私はあいつの裏切りだけは、絶対に許せない」
「和樹さんが、お父さんを裏切ったんでしょうか?」
「裏切ったのは和樹ですが、もっと許せないのは、あいつを影で操っている由紀です」
「由紀さんって、あの、ひょっとして和樹さんのお母様?」
「そうです。私を破滅させた人非人です」
人非人!
夫婦関係が破たんした時、当事者の8割方は、かつてのパートナーに激しい憎悪を抱いている。「人非人」というののしり言葉を聞いたことも、一度や二度ではない。「犬畜生」とまで言った夫もいる。でも、実際にその相手に会ってみて、なるほどコイツは人非人だ、なんて思うことはめったにない。
つまりこういうことだ。一般社会人としてはまともな人だけれど、家庭という閉鎖空間では、人は別の顔を持つ。ましてや夫婦ともなれば、裏切りや暴力・暴言や経済問題が複雑にからみあって、かつて愛した相手が血の通った人間とは到底思えなくなるものなのだ。
「ご夫婦の間に、何があったんでしょうか? 和樹さんから、コンビニ事業のお話はうかがいました。一時は大成功なさったとか」
幸次さんは、微妙な表情を浮かべた。自分のかつての黄金時代を話題にすることは、喜びなのか苦痛なのか。自分でも、計りかねているという風だった。
「まあまあ順調だったコンビニの経営が傾き始めた頃・・・・」
黄金時代の思い出を振り切るように、幸次さんが語り始めた。

つづく (^.^)/~~~