約4年ぶりになりますが、このコラムを再開したいと思います。
再開の第一弾は、あまりにも有名な「八甲田山(1977年:東宝)」に挑戦します。
先ずは、あらすじから・・・・。
1901年、弘前第八師団第四旅団長である友田少将(嶋田正吾)は、来る露西亜との戦争に備えて、寒地での訓練を充実させるため、厳冬期の八甲田山を行軍することを決定し、管下にある青森5連隊、弘前31連隊に実行を指示する。
青森連隊の連隊長は津村中佐(小林桂樹)、弘前の連隊長は児玉大佐(丹波哲郎)で、夫々管下の神田大尉・中隊長(北大路欣也)、徳島大尉・中隊長(高倉健)に実施担当者として(両中隊が八甲田ですれ違うことを条件に)計画の起案を指示する。
神田は、計画の起案にあたり弘前の徳島を訪ね、意気投合する。
徳島は、ハードな行軍であることを覚悟し、少数精鋭の27人の隊員での行軍を起案し、上層部の決裁を得る。
神田も徳島同様に、小規模な行軍を起案して、大隊長である山田少佐(三國連太郎)を経由して、津村連隊長の決裁を仰ごうとするが、山田は弘前連隊への対抗心から①行軍の規模を196人に拡大、②山田を含む大隊本部14人の随行と、神田に相談することなく起案書を書き換え、津村に上申。津村は、随行する大隊本部はあくまで随行であり、行軍の指揮権は神田にあることを条件に山田の起案を決裁する。 尚、大隊本部には倉田大尉(加山雄三)も含まれていた。
こうして、徳島は弘前から神田は青森から夫々出発する。神田の行軍の初日は20KMの計画であったが悪天候により行軍が計画通り進まず、また、山田が現地の道案内人を「あいつらは金をせびりに来ただけだ」として追い返したこともあって、道を失った。その後、山田と神田は、「天候が回復するまで待つVS このまま行軍を継続する」、「装備の一部を放棄するVS維持する」など、主張が対立するが、悉く上官である山田に押し切られてしまい、行軍の指揮権はいつのまにか山田に移ってしまい、隊員が困惑するが、神田としてはどうすることも出来なかった。
そうこうするうちに、寒さと恐怖で隊員が一人一人倒れて行き、神田が「天は我々を見放した」と叫び、責任を取るため自決する。また、山田も機能不全となったことより、今まで沈黙していた倉田が指揮を執ることとなり、山田の愚行を糾弾するため、(山田を)何としても生きて帰還させるとの方針のもと、僅か12人であるが帰還する。
一方、弘前の徳島は道案内である“さわ”(秋吉久美子)の案内もあって無事行軍を完了する。
山田は帰還後、遭難の責任をとって自決する。
と言うものです。
★映画の中心は、徳島と神田の友情、神田隊が遭遇する悲惨な状況、山田と神田の意見相違による混乱などですが、このコラムでは組織の統制について考えてみたいと思います。
今回の行軍に係る青森5連隊をサラリーマン社会の組織に例えれば、以下の様になるかと思われます;
◆連隊長(津村=小林) :部長
◆大隊長(山田=三國) :部長代理(組織によっては、「部長補佐」とか「上席○○」とか呼称は異なるが、課長を卒業して部長に至るまでの中間的な存在。課を「管轄・指導」する立場で一応、 昇進ラインに乗っている)
◆中隊長(神田=北大路):課長
◆倉田大尉(加山) :部長付(組織によっては「調査役」など呼称は異なる。課長を卒業したが、ラインから 外れ権限は無く、部長の特命事項を担当する。干された役職)
尤も、これは筆者がサラリーマン組織にいた20年も前の話で、今は部長代理や部長付などの中二階的な存在を排除して、部長-課長のすっきりした組織になっているかも知れませんが・・・。
いずれにしても、部隊(企業では部や課)を指示する権限と責任は、部長や課長が負うべきであり、業務分掌の観点から部長代理にはその権限はありません。
個々の案件に応じて部長代理と課長の意見対立は発生しますが、その場合でも双方が話し合いの上結論を出すこと、仮に上下関係から部長代理の主張に従わざるを得ない場合であっても課長は課の方針として、課員が理解・納得して行動できる様に指示を行わねばなりません。そうでなければ、課員はどちらの言うことを聞けばよいのか混乱し、課員の間にも課長派と部長代理派が出来たりして、統制が機能しなくなります。
本映画では、あくまで行軍隊の指揮権は神田にあることを条件とした津村の決裁を無視して、隊の指揮をとった山田(更にその指揮=状況判断が、神田が事前に行った調査などを無視して、自身の「感と経験」基づくものであったこと)の傲慢・無能ぶりばかりが事件の原因として強調される形になっていますが、「上官の命令は絶対」の軍であったとしても、神田は津村から現場の責任者に任命されていた訳ですからもう少し山田と話し合いをすることが出来たのではないか、その責任があったのではないか・・・と残念に思います。
更に倉田は、殆ど黙っているだけで(山田、神田が機能しなくなるまで)殆ど存在感がありません。最後の段階で、指導力を発揮する形になりますが、時すでに遅しとの感を免れません。
尤も、若大将シリーズでも、澄子(星百合子)や節子(酒井和歌子)に対して加山雄三は優柔不断な対応に終始ししており、彼女たちがピンチに陥って漸く毅然とした態度を取り始めると言った行動パターンは変わっていないのかも知れません、
部長代理さんは「自分の頃はこうだった」的な勘や経験の元に意見をごり押しせず、現場の直近の情報をつかんでいる課長の意見を尊重して良いアドバイスをしてあげて欲しいし、部長付さんも「権限外だから」と尻込みせず、第3者的な立場から積極的に意見を述べて貰えたら・・・と思います。また、部長さんにおいては、組織に中二階的な役職を設けず、部長-課長のすっきりした指示命令系統になる様組織のスリム化を検討願えればと思います。更に、この様な中二階的役職を設ける場合(そうでない場合も・・ですが)、業務分掌と決裁権限を明確に文書化しておき指揮命令系統が混乱しない様にしておく必要があります。
★ここまで書いていて、この映画は私の様なコンサルタントにとっても重要な警告を残していると気づきました。事業規模十数人の小規模企業に対して海外展開についてのアドバイスをすることが多いのですが、現役時代の現場から離れてから時間を経ていることより、アドバイスの内容がカビの生えかかった経験に基づいたものになる傾向があります(例えば「イタリアではアバウトな人が多く契約よりも感情を重視する」と言う風な的外れな主張をする人のことを揶揄して「出羽守(ではのかみ)」と言います)。
小規模企業においては、海外でのビジネス経験が殆どない場合が殆どなので、この様な妙なアバイスであっても「貴重な情報」として丸飲みされてしまう危険性があります。
実際にコンサルする際には、「あくまで昔の情報・経験に基づく参考意見であり、改めて(企業の責任者と)一緒に最新情報を収集して考えて行きましょう」的な態度で臨みたいものです。
★さて、このコラムは出来るだけGSネタで締めたいのですが、スイングウエストの湯原昌幸が兵隊さんの役になって「牡丹餅食いてえ!」と叫んで倒れる様なシーンは残念ながらありませんので、やはり加山雄三にスポットを当てることとします。
加山は1970年に経営していた茅ケ崎のホテルが倒産し、71年に若大将シリーズの主演が終わるなど、不遇の時代を迎えます。借金を返済するべくナイトクラブへの出演をこなしていた様で、当時のレパートリーはゴッドファーザーやマイウェイだったかと思われます(いずれにしても尾崎紀世彦や布施明の後塵を拝していたことになります)。1976年になって天地真理の「愛の渚」の作曲、また、「僕の妹に」の大ヒットによって復活を遂げます。
八甲田山が封切られた1977年には復活第二弾として「夕映えの恋人」をリリースして、これもヒットしました。「僕の妹に」が「君といつまでも」調であるのに対して、「夕映えの恋人」は「夜空の星」的なイントロからエレキがバリバリ出てくる好感度の高い作品です。但し、エレキの音がすっかり70年代しており、寺内タケシが初期ブルージーンズ時代の音でバックをやってくれていれば、もっと良かったのに と少し残念です。
(2020年4月6日)
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