Author: monju (page 1 of 11)

「丹羽家」~冒頭から、その3~

act.18

「どうだった?」
玄関のドアを開けると、母親が待ち受けていた。ずっと気が気ではなかったのだろう、顔が土気色に見える。
「何だか、とんでもないことになったよ」
智恵子の顔からさらに血の気が引いた。
「どういうこと?」
「とりあえず、この書面を読んで」
祐樹が、今日の調停の席で受け取ったばかりの書面を取り出した。
「申立人が提出した主張書面。15年前、ぼくを認知したのは申立人の丹羽和馬氏ではない。和馬氏の兄さんだって言うんだ」
「兄さんって。あんた、何言ってるの?」
「とても口では説明できないよ。とにかく読んでみて」
母と息子は、ダイニングテーブルに向かい合って座った。智恵子は、微かに震える手で書面を持って食い入るように字面を目で追い始めたが、ほんの数行読んで言った。
「祐樹。気が散るからちょっと一人にしてちょうだい」
息子に見られているのがいかにも居心地が悪いようだった。いいよ、読み終えたら呼んでと言って、祐樹は自分の部屋に引き上げた。
書面を読み進むのに併せて、智恵子の脳裏にあの夜の記憶が蘇る。

あの夜‥‥。
忘れもしない、あれは、祐樹の5歳の誕生日だった。いつもよりちょっとだけ豪華な料理にワインを一本、そして手作りのケーキ。
いつに変わらぬ親子三人の食事だったが、あの人の様子だけがちょっと違っていた。トレードマークだった長髪を短く切りそろえてひげもそっていた。おまけに、スーツにネクタイ姿。一体どうした風の吹き回しなの、と言っても、祐樹の誕生日だからと言って笑うだけだった。
食事中も、いつもはお喋りなあの人がこの夜に限って物静かだった。思えば、表情も何だか重苦しげに見えたような気がする。
食事を終えて、あの人は祐樹を手招きした。傍に来た息子をぎゅっと抱きしめて耳もとで何かをささやいた。いつもとは明らかに違う様子に、何だか妙な胸騒ぎがしてならなかった。
祐樹を先に寝かしつけた後、あの人はいつになく真剣な面持ちで、話があると言った。
「智恵子。今日は、お前に大切なことを話しておかなきゃいけない」
「あまりいい話じゃないみたい」
そうでもないよ、とあの人は笑った。
「実は、今日、市役所で祐樹の認知の届け出をしてきた。いずれ、きちっとけじめをつける積りだった。5歳の誕生日はいい機会なんじゃないかと思ってね」
ちょっと自分の耳を疑ったっけ。
とうとう、祐樹に正式に父親ができる。父親の名前が空欄になっていた戸籍に、この人の名前が書き込まれる。これまで戸籍謄本を見るたびにたまらなく哀しい思いをしてきたが、敢えて口に出すことはなかった。でも、この人は分かってくれていた。
涙がぼろぼろと溢れてくるのにも構わず、私は立ち上がってあの人の胸にしがみついた。あなた、ありがとうありがとうと、うわ言のように繰り返していた。
「いずれ、新しい戸籍謄本を取り寄せて確認するといい。祐樹の両親は、丹羽和馬と本間智恵子となってるはずだ」
しばらくそのまま抱き合ったまま、私は幸せを噛みしめていた。そして、その興奮が収まるのを待っていたかのように、あの人は身体を離して両肩に手を置いた。
「智恵子。お前には、もう一つ言っておかなければならない」
あの人は私の目を見つめてそう言った。いいニュースの後には悪いニュースが控えているものだ。さっきとは裏腹に、じっと私の目を見つめる顔がひどく苦しげに見えた。
  ついに来たか。
私は直感的に思っていた。
  いつかはこの日が来るだろう。
あの人と付き合うようになってからずっと、決して心の片隅から消えることのなかった小さなしこりのようなもの。
あの人の思いやりを疑う気は毛頭ない。けれど、あの人にはかけがえのない家庭があり、名だたる旧家の当主で地元経済界の重鎮でもある。いずれ、私と祐樹の存在があの人の障害になる日が来るに違いない。
でも、虐待夫から逃れて気に染まない夜の仕事で鬱々と過ごしていたあの若き日、たまたま巡り合うことができてからこの方、私はずっとあの人にすがって生きてきた。祐樹という子宝にも恵まれて、日陰の身とはいえこの上もなく幸せだった。でも、こんな平穏な日々がいつまでも続くはずがない。いつか、きっとあの人は去って行く。それがさだめというものだ。
  もしも。もしも別れる日が来たら、あの人なしで祐樹と二人でやっていくことができるんだろうか? いつもそこから先は考えることを放棄してきた。
あの夜、あの人が私の視線をそらすことなく言った言葉。それは、いつも心の奥底で危惧していた言葉そのものだった。
「事情があって、明日からはもうお前たちに会えない」
事情? 反射的に訊いた。
「丹羽家と会社の事情だ」
あの人は、ためらいがちに答えた。
「具体的なことは言えないが、これ以上、二重生活を続けることがどうしてもできなくなった」
私は言葉を失っていた。言いたいことが胸を渦巻いていたが、言葉にならない。しばらく重苦しい沈黙が続いた。
「済まない。私だって、お前たちに会えなくなるのは身を切るように辛い」
うめくような声が、今にも嗚咽に変わってしまうような気配すらあった。ただ事ではない苦悩が痛いほどに伝わって来る。その言葉に嘘や企みがあるなどとはとても思えなかった。
でも、どうしようもないんだ。少し目をそらしながらあの人は言った。
電話やメールぐらいはできるんでしょ? 私はすがるような思いで問い掛けた。しかし、あの人は苦し気な表情のまま、首を小さく横に振った。
完全に関係を断つということ? そう考えるしかなかった。
でも、とあの人はもう一度口を開いた。
お前たちの今後の生活の心配は一切ない。このマンションは智恵子の名義にしてあるから何の問題もないし、月々の生活費だって祐樹の学費だって、私の資産を管理している信託銀行にすべて指示してある。今後もずっと、これまで通り支払われることになっている。
そんなことどうだって‥‥。反射的にそう思ってから、ふと考えた。もしも別れが避けられないのだとしたら、今後母子二人生きていく糧が必要になるのは事実だ。
と思うと同時に、我に返った。
お金の心配さえなければ、あの人がいなくても私は大丈夫なんだろうか? あの人は経済的な拠り所だったのは確かだけれど、それよりも何よりも精神的な拠り所でもあったはず。
でも‥‥。私はさらに考えた。
私には、もう一つの拠り所がある。あの人を偽ってまで授かったかけがえのない我が子が。ずうっと恐れていた通り、目の前が一瞬真っ暗になったけれど、その先にぼおっとした薄明かりが灯っているような気がした。幼い祐樹が灯してくれるささやかな薄明り‥‥。
あの人とめぐり逢って七年。もう、愛だの恋だのという関係はとうに卒業してもいい頃かも知れない。愛と言うのなら、拠り所と言うのなら、私には祐樹がいる。まだ幼いあの子のために、いざとなれば、あの人がいなくてもやっていかなくちゃいけない。いよいよ来るべき時が来たんだと、祐樹のためにただ打ちひしがれているわけにはいかないんだと、心の片隅に小さな高揚のようなものが生まれていた。
そんな思いを知ってか知らずか、あの人は続けた。
だからこそ、今日、祐樹の認知届を出しておかなければならなかった。これで、将来私にもしものことがあった時、祐樹は丹羽和馬の相続人になる。私には妻との間に一人息子がいるから法定相続分はその子の半分になるが、丹羽家の資産からすればそれでも相当なものだ。
しかし、とあの人は噛んで含めるような口調で続けた。
「どうか、これだけは肝に銘じておいて欲しい。私があの世に行くまでは、祐樹の認知のことは決して誰にも言わないと約束してくれ。時が来るまでは、いたずらに家族や丹羽家の親族を混乱させたくないというだけじゃない。知っての通り、丹羽家は由緒ある旧家だ。その当主に隠し子がいたとなると大変な事態だ。もしも、相続が発生する前にこのことが知れたら、誰が何を企むか知れないし、ひょっとしたらお前たちにも累が及ばないとも限らない。このまま放っておけば、祐樹が私の子であるという事実は決して揺るがない。だから、このことを声に出して波風を立てることだけは絶対に避けてほしい」
一言もゆるがせにしない。そんな口調であの人は続けた。
「もしも私が死んだら、その時点で丹羽家の弁護士が私の過去の全戸籍を確認することになるから、そこで初めて祐樹の存在が分かるはずだ。すぐに弁護士から連絡が来て、否応なく丹羽の家族とともに遺産分割の手続きに入ることになる。息子である祐樹なしで遺産分割を進めることは法的にできない。祐樹を無視した遺産分割はすべて無効になるんだ。気が重いだろうが、顔を合わすことなく弁護士と書面をやりとりするだけで手続きを進めることだってできる。すべては祐樹の将来のためだ」
私は、自分たちが大変な立場にいることを改めて認識した。大急ぎで頭を整理しなければ。ずっと頼り切っていたこの人と、もう会うことができなくなるという絶望感。でも、我が子が間違いなく大富豪の相続人だというおとぎ話のような事実。降って湧いたような二つの現実を前にして、感情を整理するのはたやすいことではなかった。
混乱の極みの中で、私は助けを求めるようにもう一度あの人の方を見た。その時初めて、和馬の表情に何かどす黒く澱んだおりのようなものが張り付いているような気がした。
「あなた、大丈夫? ひどく顔色が悪いわ」
「ああ。大丈夫だ。ちょっとこの件で心労が重なったかな」
あの人は小さく笑った。自分で決めておきながら、私たちにもう二度と会えないという現実に打ちのめされていたとでもというのだろうか。
その夜を最後に、丹羽和馬からの連絡はぷっつりと途絶えた。たった一度だけ電話をしてみたことがある。祐樹が5年生になった頃だった。地元の公立中学校がひどく荒れているという話を聞いて、祐樹に中学受験をさせた方がいいかどうか、判断がつかなくて悩み抜いた末のことだった。しかし、この番号は使われていないというアナウンスが受話器から流れてくるのみ。思い余って、メールも送ってみたが、こちらもアドレス不明の通知が返ってくるだけだった。
結局、祐樹が都内の中高一貫校に合格が決まったその日、携帯電話の連絡先リストから和馬の電話番号とメールアドレスを削除した。今思ってみれば、精神的にようやく和馬から独り立ちできたのはこの時だったかも知れない。
とはいえ、あの夜和馬が言った通り月々の生活費は振り込まれたし、学校から届いた納付通知を信託銀行の担当者に送れば学費は滞りなく支払われた。胸にぽっかりと穴が開いたような思いもあったが、その穴を埋めるように、私の関心は完全に一人息子に向くようになっていた。
あの日から15年あまりが過ぎた。祐樹は一貫校の中学部から高等部へ進み、2年前、念願の一橋大学に合格した。祐樹が幼い頃から、この子は将来一橋にとあの人はいつも言っていた。そのことをことあるごとに伝えてきたせいだろう、一橋大学を目標に祐樹は懸命に勉学に励んできた。父の言葉を胸に着実に成長する我が子の歩みを伝えたい思いは強かったし、祐樹自身が父への思いを抑え込んでいることも知っていた。それを不憫に思いつつも、あの夜交わした約束をたがえることはできなかった。
あの人は言っていた。連絡を取ることは、すなわち丹羽家を大混乱に陥れることになるのだと。その結果、智恵子や祐樹に災厄が降りかかることにもなりかねないのだと。何よりも大事なのは祐樹の将来だ、事情を汲み取ってくれぐれも自重するように。あの人はくどいほどに念を押していた。だから、ずっと母子二人でただただ自重して平穏な毎日を過ごしてきたのだ。

そして、前触れもなく丹羽和馬の名前で文書が届いたのが三カ月あまり前のこと。もしも丹羽家から何か連絡があるとしても、それは遠い先のこと、多分和馬の訃報なのだろうと思い込んでいた智恵子にとって、それは思いもよらない内容だった。15年前の祐樹の認知届は、まったく丹羽和馬のあずかり知らないところでなされたものであり無効である。ありていに言えば、祐樹と自分はあかの他人だという宣言だった。
智恵子は、なかなか事態が飲み込めなかった。そんな馬鹿な。最後の夜のあの人の言葉は一体何だったの? あれから、ずっと私たちはじっと身を潜めるようにして暮らしてきた。まだ幼稚園児だった祐樹が大学生になった今になって、こんな仕打ちが待ってるなんて。
茫然自失状態で何の行動も起こせないまま、時間だけが過ぎて行った。そして間もなく、今度は裁判所からの呼び出し状が届いた。宛て先は息子の祐樹、同封されていた調停の申立書の文面に智恵子の名は見当たらなかった。
さすがにもう、このまま手をこまねいているわけにはいかない。でも、一体何をどうしたらいいのか。智恵子にも祐樹にも皆目見当がつかなかった。祐樹は、大学で法律の基礎ぐらいは学んでいたが、机上の理論など全く役に立ちそうもなかった。大学の図書館やネットでひたすら民法や家族関係法について調べ上げ、身分関係の法的な手続きが理解できるようになったところだった。
こうして裁判所から指定された出頭日がやってきたが、結局出席は見合わせるしかなかった。親子関係を否定する父と話し合う準備も覚悟もまったく整わないまま出席すれば、どんな事態が待ち受けているか知れなかった。
そして数日後。再び裁判所から次回の調停期日の日時が記された文書が届いた。
いよいよ腹をくくるしかなかった。和馬の真意は理解できないが、裁判所が間に入ってくれるのであれば、事がここに立ち至った事情だけはちゃんと理解してもらわなければならない。こうして、智恵子はペンを取った。
自分にとって和馬は運命の人。そして、祐樹はその証しであることだけは、どうしても分かって貰わなければ。その点に関する限り、何らやましいところはない。智恵子は、20年あまり前に遡る和馬との関係を思い出し思い出し、思いのたけを克明に書き綴った。溢れる思いに言葉が追い付かず、何度も書き損じては一から書き直した。とにかく、裁判官や関係者に、和馬との特別の事情を分かって欲しいという一心だった。
やっとのことで、陳述書を書き終えたのはほんの数日前のこと。大急ぎでコピーを取って、裁判所と申立人の弁護士宛てに速達で送った時には、裁判所から指定された二回目の期日がもう目前に迫っていた。
智恵子は、今日の二回目調停に初めて出席した祐樹が受け取った文書に目を通して行く。だが、その内容になかなか理解がついていかない。
  あの人は、丹羽和馬ではなかった? しかも、とうの昔に亡くなっている? 
まさに天地がひっくり返るような内容だった。何日もかけて陳述書に切々と書き連ねたひたむきな思いがあざ笑われているかのように思えた。
二度繰り返し読んで深い深呼吸を繰り返した後、祐樹を呼んだ。母子がテーブルを挟んで向かい合う。
「私にはどうしても理解できないんだけど。いや、書いてある内容は分かるんだけど、こんなことが本当にあり得ることなのか、もう頭がついてかないの。祐樹は、どう思う?」
「分かるわけないじゃん。父さんと最後に会ったのは5歳の誕生日なんだよ。顔も覚えてないよ」
「そうだよね。これがほんとなら、とんでもないことになるわ。ねえ、祐樹、私たちどしたらいいんだろ」
母は必至で感情をコントロールしている。しかし、その強張った表情を見れば、パニック状態すれすれだということが息子にはよく分かる。智恵子の心情を思いやりながら、祐樹は極力冷静な口調で言った。
「母さん。今回、ぼくもそれなりに法律の勉強はしたんだけど、まず第一に、この書面に書かれていることが事実なのかどうかが問題になると思う。丹羽和馬の兄が嘘の届け出をしたカラクリとか、その兄らしき人物がこのマンションに出入りしてたとか、どこまでが本当でどこまでが想像の産物なのかまったく分からないじゃない」
「そうだよね。興信所の調査報告だって根拠はタクシー運転手のあやふやな記憶だけみたいだし、具体的な証拠なんて全然ないわよね」
「でしょ。まだ憶測の域を出てないよね。だからと言って、ぼくらの方だってそれを否定する方法はないんだけどさ」
「じゃあ、どうすりゃいいの」
「もしも、ぼくがこの申立てをどうしても認めなかったら、調停はそこで打ち切りになるらしいんだ。そしたら、後は裁判に訴えるしかない。裁判になったら認知無効を主張する側に立証する責任があるんだけど、あの主張書面と調査報告書で無効が証明できたことになるのかどうか。ぼくにもちょっと分らない」
「じゃあ、裁判所があの主張を認めたら認知は無効になるの?」
祐樹が目を伏せてうなずく。
「でも、こんなことを裁判で白黒つけるなんて何だか嫌だよね」
智恵子がつぶやくように言った。
「母さん、よく聞いてね。問題は、15年前の認知届が本物なのか偽物なのかだよね。でも、その根本にあるのは、ぼくの父親が丹羽和馬なのか否かってことでしょ?」
智恵子が、うんうんとうなずく。
「ぼくは父さんの顔をよく覚えてないけど、母さんは覚えてるよね」
「当り前じゃない」
「そしたら、丹羽和馬が母さんが知ってる父さんなのかどうか、本人の顔を直接見たら一目瞭然じゃない?」
智恵子が目を見開いた。
「ちょっと待って。そんな、冗談じゃないよ、今さらあの人に会うなんて。しかもこんなことで」
「母さん、その人が母さんの知ってる父さんなのかどうか分からないんだよ。父さんが今になってこんなこと言ってくるなんてとても信じられないのなら、直接会って確認するしかないじゃないか」
智恵子が目を伏せて考え込んだ。
  もしも、あの人が丹羽和馬じゃなかったら。いま読んだばかりの書面にあるように、実兄の英世という人物が和馬になりすましていたのだとしたら‥‥。
智恵子は全身から力が抜けていくのを感じていた。何だか息をするのもおっくうな気がした。新宿のクラブで出会って辛い思いを聞いてもらったのも、家庭持ちだとは知りつつ心から愛すことになったのも、親子三人で過ごしたあの平穏な日々も、すべてがあの人の嘘の上に築き上げられた出来事だったということなのか。
  でも‥‥。
智恵子は、顔を上げて目の前の息子を見た。
でも、もしそうだったとしても、私は騙されただけのこと。この子にとっては、そんな生易しいものではない。他ならぬ自分の父親が、これまでずっと信じて疑わなかった人とはまったく違う人物だったことになる。いや、姿かたちはその人なのだとしても、名前も素性も、その属性のすべてが別人。自分をこの世に在らしめたものが突然形を喪い、あやふやでつかみどころのないものになってしまう。この子の存在そのものが、根っこから揺らいでしまう。そんな事態を、この子は受け止めて自分なりに得心することができるのだろうか、それとも、まだそんなところにまでは考えが及んでいないのだろうか。
目の前の息子の表情は穏やかに見えた。むしろ、とんでもないショックを受けている母を思いやるように、気遣わしげな眼でこちらを見ている。
「もしも、あの人が丹羽和馬になりすましていたんだとしたら‥‥」
智恵子は、20年あまり前、新宿のクラブで初めてあの人に会った時のことを思った。客は最初は大抵名字を名乗るから、丹羽和馬というフルネームを知ったのはちょっと後のことだったはず。何度か指名してもらい、身の上話を聞いてもらうようになるうちに、あの人もフルネームや不動産会社経営など自分のことを少しずつ話すようになったのではなかったか。その辺りから、あの人はとんでもない嘘に手を染め始めたのだろうか。
「まさか。そんなこと、あり得ない」
ひとりごちる智恵子に、祐樹はただうなずくしかなかった。
「もしも、もしもだよ。申立人が言うことが事実だったとしても、まさか、父さんは最初からぼくを和馬さんの相続人にしようなんて企んでいたわけじゃないよね」
「そりゃそうよ。だって、あの人、私と知り合った当初から丹羽和馬って名乗ってたんだよ。もしそれが嘘だったとしても、私と付き合うことも、ましてやあなたが生まれることだって、その時点では想像もつかなかったはずじゃない」
確かに、と祐樹がつぶやいた。
「成り行きで弟の名前を名乗ったもんだから、その後もずっと事実を打ち明ける機会がなかったってこと?」
智恵子も首をひねっている。
「それで、その後どこかの時点で、その嘘を本当にする決心をしたってことなんだろうか。それが、ぼくが5歳になった時のあの認知届だったってこと?」
「ちょっと待ちなさいよ、祐樹。あの人が丹羽和馬の偽物だと決まったわけじゃないんだよ」
  でも‥‥。
智恵子は、もう一度申立人の主張書面をめくり直した。和馬の兄の英世は、平成17年の2月に肺がんで亡くなっているという。認知届はその前年、祐樹が5歳になった平成16年だ。そして、その認知と同時に、あの人は私に別れを切り出している。
  ちょっと待って。ひょっとしたら、あの人が言ってたのは‥‥?
瞬間、智恵子の身体に電気のようなものが走った。
  ひょっとしたら‥‥。
瞬間、智恵子の身体に電気のようなものが走った。
  あの夜、あの人は言った。どうしようもない事情があるんだ、と。
その事情とは‥‥? 丹羽家のしがらみや会社関係の事情ではなかった? もう余命いくばくもない自分自身の身体のことだった? 
   ひょっとすると、あの人は自分の身体が末期がんに侵されていることを知って、何も言わずに身を引くことにしたのか。智恵子と祐樹の将来に憂いがないようにすべての準備を整えて、あの人は何も告げずに逝ってしまったのか。
智恵子は何とか冷静を保とうとしていた。
確かに、あの人は経済的な心配のないようすべてを整えてくれた。とはいえ、結局のところ、あの人が私たち母子を無慈悲に捨ててしまったのは紛れもない事実じゃないか。智恵子の胸の奥には、ずっと和馬への不信が澱のようにこびり付いていた。
  でも、あの人は私たちを見捨てたわけじゃなかったのか。自分に残された限りある時間で、なし得る限りのことをしてくれたのか。自分の命と引き換えにするかのように。
智恵子は、どうしても拭い切れなかった不信感が、氷が溶けるように跡形もなく消え去っていくのを感じていた。
  私たちの将来のため‥‥? 
突然、新たな疑念がむくむくと頭をもたげてきた。確かにあの人は、将来に渡って私たちの生活費や学費に困ることのないよう万全の備えをしてくれた。でも、それに加えてあの人は、祐樹を大富豪の息子にするなどという常軌を逸したことまで考えたのだろうか。余命いくばくもないことを知った動揺のさ中、ずっと身を偽ってきた成り行きから、そんな途方もない発想に取りつかれてしまったのだろうか。
  でも待って。
あの人が弟を装って認知届を出したなんて、そんな馬鹿げたことが本当にあり得るものなのか? 根も葉もない、誰かの作りごとではないのか? 
あの人は、もし認知の事実が知れたら、丹羽家の連中が何を企みどんな行動に出るか知れないとしつこいほどに言っていた。だから、俺が死んで相続手続きが始まるまでは決して名乗り出てはいけないと。
一瞬、智恵子の脳裏に丹羽家という得体の知れない化け物が不気味にうごめく姿が見えたような気がした。
──ひょっとすると、なりすましというのは、認知を覆すために丹羽家の人々が仕掛けてきたとんでもない言いがかりに過ぎないんじゃないか。
疑念は果てしなくふくらむ。でも、自分がその気になりさえすれば、事実はいともたやすく明らかになるのだ。ここはもう、覚悟を決めるしかない。
「祐樹」
智恵子は息子の目を正面から見据えて言った。
「分かった。母さん、その丹羽和馬さんに会うよ。会って事実を確かめるよ」

            act.20

数日後、島津法律事務所に、本間祐樹が利害関係人として母親の智恵子を申請し受理されたとの連絡が入った。事態はいよいよクライマックスを迎えようとしている。絵莉の気持ちはいやが上にも高ぶっていた。
その夜。今夜は女子会なんですよ、などと言いながら秘書の麻乃が軽い足取りで出て行くのを見計らったかのように由紀夫が切り出した。
「絵莉、いよいよだな」
力強くうなずく絵莉を見ながら、由紀夫が深々と息をついた。
「実はな。お前に言うべきかどうかずっと迷ってたんだが、やっぱり和馬の代理人に隠しておくわけにはいかない」
どしたの、改まって、と娘が父の向かい側に腰を下ろした。
「お前はずっと、犯人、方法、動機の三要素の解明にこだわってたな」
絵莉がうなずく。
「確かに、犯人と方法についてはほぼ間違いないだろう。問題は残る動機だ」
「父さん、前にもそんなこと言ってたけど、動機なんて決まってるじゃない」
由紀夫は、無言で絵莉を見詰めている。
「‥‥まさか、父さん。和馬社長の遺産狙いじゃなかったとでも言うの?」
由紀夫が目に見えないほど小さくうなずいた。
「多摩丘陵の施設のラウンジで英世さんと語り合った話はしたな」
「英世さんから遺書を託された時のこと?」
そうだ、と言いながら由紀夫がとつとつと語り始めた。
和馬宛ての例の遺書を託された後、今日はお疲れになったでしょう、それでは私はこの辺で、と言いながら腰を浮かせかけた時のこと。英世が由紀夫に声を掛けてきたという。
「由紀夫先生。もうちょっといいかな」
「はい? ええ、まあ特に急ぎの用はないですが」
由紀夫は、改めて革製のソファに腰を下ろした。
「先生とは、もう長い付き合いになるなあ」
英世さん、妙に改まってどうしたんだ? 由紀夫はちょっと戸惑いながら応えた。
「かれこれ60年にはなりますか。幼い頃から、英世さんには和馬と一緒によく遊んでもらいました。私からすりゃ、今も変わらぬ英あんちゃんですよ」
「ああ、あの頃は楽しかった。終戦を挟んで、まだ世の中は騒然としてたはずだけど、ガキどもはそんなこと知ったこっちゃない。好き勝手にさんざん遊び回ったよな」
あの頃はよかった、と英世は繰り返した。
「でも、しばらくして英世さんは家を出て行かれた」
「うん。高校に入って間もなくの頃だった」
「私もそうでしたが、和馬の意気消沈っぷりは、見ていて可哀そうになるぐらいでした。英あんちゃんが好きな道に進まれるんだからって、ずいぶん慰めたもんですよ」
「好きな道か‥‥」
英世は、ちょっと言葉を切って考え込む風だった。
「もちろん、ジャズにのめり込んで、俺には音楽しかないって思い込んでたのは事実だ。でも、何も高校中退して家出するほどのことでもないだろ」
由紀夫はちょっと答えに窮した。あの頃、和馬と由紀夫は、まだ中学校に入ったばかり。和馬の思いは知らず、むしろ由紀夫は、自分の思いを貫く英世の決断に、さすが英あんちゃんと喝采する思いもなかったわけではない。
「いくら若気の至りとはいえ、その結果が巡り巡ってこのざまだ」
「まあ、若気の至りと肺がんに因果関係はないでしょうが」
英世は、首を振りながらどうかなとつぶやいて、ふと思いついたように言った。
「因果関係って言やあ‥‥」
英世は言葉を切って中空に目をやった。そのまま思いのほか長い沈黙が流れた後、英世は小さく笑って言葉を継いだ。
「由紀夫先生は、俺が家を出たから次男の和馬が丹羽家を継ぐことになったんだと思ってるだろ?」
「ええ。先代が隠居なさる際にもろもろお手伝いしましたが、ご自身も確かそのように仰ってました」
「親父ならそう言うだろうな。まあ、誰だってそう思う。でもな、先生……」
英世が由紀夫の方を見て、さらりとした口調で言った。
「実は、逆なんだ」

「逆? 逆って、どういうことなの」
由紀夫の述懐に、絵莉が割って入った。
「俺も、英世さんが何を言ってるのか、とっさに分からなかった。で、英世さんの言葉をもう一度繰り返してみた。長男の自分が家を出たから弟の和馬が丹羽家を継ぐことになった。その逆ってことは‥‥」
「弟の和馬氏が家を継ぐことになったから英世さんは家を出た‥‥、ってこと? そんな、まさかぁ‥‥?」
「でも、原因と結果をさかさまにしたらそういうことになる。英世さん、自分の命がもう長くないのを知って、妙な妄想にとらわれでもしてるんじゃないか。正直、俺はそんなことまで考えた」

「いや、先生。しようもない戯言だよ。どうか気にせんでくれ」
英世は取り繕うように言った。
「英世さんは、どうしても音楽をやりたいから家を出たわけじゃ、必ずしもなかったんですか?」
まあ大昔の話さ、と言って英世は笑った。
由紀夫は言葉が接げなかった。今の今まで、親友の和馬が丹羽家を継ぐことになったのは、兄の英世が若気の至りで音楽の道に走ったからだと思い込んでいた。しかし、その兄自身が語った言葉は、やはりこう解釈するしかない。
『弟の和馬が家を継ぐことになったから、兄の自分は家を出ざるを得なかった‥‥』
まさか。そんなことがあるはずがない、と思いながら由紀夫は考えを巡らせていた。
跡継ぎを決めるのは当主の登史郎だ。英世の言うことが事実なのだとすれば、先代は一体どうして長男ではなく次男に家を継がせることにしたのか。昔で言えば、勘当か廃嫡にも等しい極めて異例な行為だ。よほどの事情がない限り、そんなことはあり得ない。
「そういや、最近有識者会議だとか何だとか、やたら皇位継承の論議がやかましいな」
突然の話題転換に由紀夫はまた戸惑う。
この年。平成16年の春、時の小泉内閣は「皇室典範に関する有識者会議」なるものを設置し、皇室維持のための安定的な皇位継承制度についての検討を開始していた。
「ここ40年ほど男性皇族が生まれてないから、皇位を男系男子に限ったままでは天皇制存続が危ういって話だよな」
いぶかしげに思いながらも、由紀夫はただうなずくしかない。
「天皇家と比べるってのも何ともおこがましい限りだが、実はな。丹羽家も家系をさかのぼれる限り、もう十代以上に渡って男系男子の相続を続けてきてるんだぜ」
およそ脈絡が辿れない話の道筋が、ほんの少しだけ見えてきた気がした。
「でも、それを言うなら、英世さんだってれっきとした丹羽家直系の男系男子じゃないですか。しかも、押しも押されもせぬ先代の惣領息子だ。さっき、変なことおっしゃいましたけど、長男を差し置いて次男が継ぐっていうのは、かなり異例のことじゃないですか。どう考えても、英世さんが家を出たから、致し方なく次男の和馬が継ぐことになった。そう考えるしかないと思いますが」
「惣領息子か。何だか、カビでも生えてきそうな言葉だな」
穏やかな口調だったが、それに続く言葉に由紀夫は再び声を喪う。
「まあ、戸籍上はその通りだ」

「戸籍上は、って。それ、どういうことなの」
案の定、また絵莉が話に割り込んできた。
「『戸籍上』の反対は?」
唐突な父の問いに娘は戸惑いながら答える。
「‥‥血縁上?」
由紀夫がうなずく。
「じゃあ、戸籍上はそうなってるけど、血縁上はそうじゃない? 英世さんは、先代の実の息子じゃないってことなの?」
「まあ、文脈的にはそういうことになる。だから、俺はちょっと二の句を継げなかった。戸籍上、英世さんは先代登史郎氏の長男ということになっているが、実はそうじゃない。直接そう言ったわけじゃないが、英世さんの言葉をそのまま解釈するとそういうことになる」
「つまり、先代の本当の子じゃないって、英世さんは高校生になったばかりの頃、そのことを知って家を出たってことなの?」
由紀夫は、押し黙ったまま首を縦にも横にも振らない。
「でも、英世さんは、そんなことどうやって知ったの? たかだか十代の少年が、自分の出自を調べるなんてこと、あるのかしら」
「もちろん、誰かに聞かされたんだろう」
「誰に?」
「そんな機微な話を知ってる人物。さらにそれを英世さんに告げることができる人間。丹羽家を継いだ和馬ですら、おそらく今もってそんな話は知らんだろうし想像もしてないだろう」
「つまり?」
「ご両親のどちらか。いや、事の性格からして母親であるはずがない。間違いなく父親の登史郎氏だろう」
「仮にも父親が? たかだか15歳の少年に、お前は私の本当の息子ではないって。そんなとんでもない事実を伝えたって言うの?」
激高の色を見せる娘に父が噛んで含めるような口調で言う。
「絵莉、元服って知ってるか?」
「元服? 確か、昔の成人式みたいなもんでしょ」
「ああ、子どもが一人前の大人になったことを認める儀式だ。地方の旧家には、今でもその風習が残ってるらしい。その元服の年齢は、おおよそ15歳と言われてる」
絵莉が声にならない声を上げる。
お前ももう大人だ。だから、ものごとの道理も分かるはずだ。先代はそう言って、長男に因果を含めたとでも言うのか? 
「世の中には、俺たち庶民には想像もつかない世界があるんだよ。事の本質は、妻の不貞を疑って嫉妬したとか恨んだとか、そんな下世話な話じゃない。畏れ多くもだ。天皇家を例に出すぐらい血筋を重んじる名家だよ。その主だったら、血がつながっていないかも知れない人間に跡を継がせるわけにはいかないと思うのが、むしろ当然かも知れない」
絵莉は、もはや言葉を差し挟むことも忘れている。
「生まれてこの方、我が子としてずっと育ててきた息子だ。心の片隅に少しばかりの疑いがあったとしても、一方ならぬ情がなかったはずがない。でも、名だたる旧家の当主として、丹羽家の血筋を守るために、先代は泣いて長男を切った。俺はそう思ってる」
由紀夫は、ちょっと息をついてから話を続けた。
「とはいえ、長男を廃して次男に家を継がせるには、一族郎党はじめ関係者の誰もが納得する理由が要る。丹羽一族には、かつて本家と主だった分家の長老が集まる会合があったらしい。本家の当主といえども、重要事項を決定する際には、長老会議のお墨付きをもらわなきゃいけなかったんだとか。もちろん、本家の家督相続となれば最重要事項だ。とはいえ、いざ次男を跡継ぎにするにしても、他ならぬ丹羽家の嫡男が当主の実の子ではないなんて疑いを表沙汰にするわけにはいかない。しかし、長男が家を捨てて音楽の道に走ったとなれば、長老連中も次男の相続に敢えて異議を唱えるわけにもいかなかっただろう」
「それで先代は、15歳になったばかりの英世さんに、お前は実の子ではないから、跡継ぎは自分の血をひく弟とするって言い渡して、この家を出て行くように仕向けたって言うの?」
娘の眼差しに、やり場のない怒りが満ちていた。
「事の仔細までは分からない。でも、おそらく、それに近いことがあったんじゃないかと思う」
絵莉が、しばらく押し黙った後ちょっと緊張を解いたように言った。
「あくまで、父さんの想像だよね」
由紀夫は、絵里の顔を見つめてしばし考え込んでから、意を決したように言葉を継いだ。
「弁護士たるもの、想像だけでこんなことが言えると思うか?」
絵莉が、父親を見つめる。
「またまたあ。父さんったら。お得意のはったりでしょ」
絵莉の軽口にも、由紀夫の表情はまったく緩まない。絵莉が、父親のこんな真面目な表情を見るのは久しぶりのことだった。
絵莉がまだ新米の頃は、大先輩として弁護士心得をうるさいほどに厳しく伝授してくれたものだが、父の事務所を引き継いで以降、すっかり好々爺になって仕事に口を出すことは絶えてなかった。しかし、この日ばかりは、父はかつての百戦錬磨の法律家の顔を見せていた。
「英世さんが亡くなった後、先代の相続手続きの際に集めた戸籍関係書類をひっくり返してみた。もしも不審な記載でもあったら、相続の時点で気付いてたとは思うが、まあこれも顧問弁護士の職務の一環だと思ってな。そしたら‥‥」
絵莉が、ごくりと唾を飲み込んだ。
「丹羽登史郎氏の古い戸籍には、確かに昭和12年に長男英世、昭和15年に次男和馬が生まれたとの記録があった。ただ‥‥」
由紀夫が言葉を切って、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。こういうもったいをつけたしゃべり方は昔から鼻についたが、弁舌によって人を護ることを生業とする昔気質の弁護士の習い性なのだと、今は絵莉にも分かる。
「一つだけ疑問点があった。英世さんの出生日だ。昭和12年10月となってた。でも、先代の登史郎さんと奥様との婚姻は、同じ昭和12年の3月」
絵莉が指折り数えながら言う。
「足掛け8か月かあ。英世さんは、月足らずで生まれたってこと? でも、婚姻から200日が過ぎてれば嫡出子として認められるって規定は、旧民法でも同じだったはずだよね。8か月なら200日は確実に超えてる。ってことは、法的にも先代夫婦の実の子であることに疑問の余地はないんじゃない?」
「確かにその通りだ。結婚からたった8か月で生まれたんだとしても、月足らずの未熟児で生まれた可能性は十分にある。ただ、俺は物心ついた頃から兄弟を知ってるが、和馬はどっちかと言えば虚弱体質だったが、お兄さんの方は生まれつき大柄で頑健だった。あの時代の医療技術から考えて、英世さんが果たして月足らずの未熟児だったのかどうか。ちょっと微妙なところだな」
「つまり?」
「月足らずで生まれた可能性もないではないが、そうじゃない可能性だって十分にあるってことさ」
そうじゃない可能性‥‥、と口の中でつぶやきながら絵莉はまだ頭をひねっている。
「でもさ、戦前は婚姻届けなんて結構いい加減だったらしいよ。届けの前から同居して、実質婚姻状態だった可能性だってあるよね」
「ああ。もちろんそれも考えた。でもな‥‥」
由紀夫が、言葉を切ってもう一度冷めたコーヒーを一口すする。
また出た! お得意のもったいぶり弁論術。絵莉は内心つぶやいている。
「実は、丹羽地所では七・八年前に設立60年を記念した社史を編纂しててな。社史なんてもんは、自画自賛のオンパレードでおよそ読めたもんじゃないんだが、丹羽地所の創業の頃の様子が分かるかもと思ってぺらぺらとめくってみた。それによると、創業者である先代登史郎氏は、昭和10年ごろ、丹羽家を家督相続するに当たって勤務していた商工省を辞職して、間もなく不動産事業の調査研究にためにアメリカに渡ってるんだ。不動産ビジネスの先進地ニューヨークで半年ほど暮らして、その理論と実務を精力的に学んだらしい。そこで、日米開戦に向けて風雲急を告げていた時代を見据えて、丹羽家が所有する膨大な不動産を会社に移転するという画期的なプランを温めたって記述されてる。そして、昭和12年の3月に帰国。直後に、待ちわびてた許嫁の文子さんと華燭の宴を挙げている」
「ってことは‥‥」
絵莉がちょっと考え込む。
「ひょっとして、母親の文子さんが英世さんを妊娠した時点で、父親の登史郎氏はニューヨークで暮らしてた可能性が高いってこと?」
由紀夫がうなずいた。
「そして、8カ月後に英世さんが出生。月足らずとは言っても、たかだかふた月程度。まんざらあり得ないことでもない。登史郎氏は、少しばかり疑問は持ったかも知れないが、何しろ丹羽家としては待望の跡継ぎ男子の誕生だ。当時まだ健在だった先々代ともども、跡継ぎが無事生まれた喜びの方が大きかったろう」
絵莉が、ふうと息をついた。
「父さんは、英世さんが先代の本当の子じゃないと思ってるの?」
「いや、あくまで可能性だ。当時はDNA鑑定なんてないから、父子関係を確認する手段と言えばせいぜいが血液型ぐらいだ」
「ひょっとして‥‥。調べたの?」
「英世さんが肺がんの診断を受けた時だったかな。がんも遺伝的要素が強いっていうから、話の流れで丹羽家の人々の血液型が話題になったことがある」
絵莉が、もう一度ごくりと唾を飲み込んだ。
「それで‥‥?」
「お前の期待には沿えないが、和馬によれば、先代夫婦も兄弟も、全員が同じO型だったらしい。丹羽家はO型一族だなんて言ってたぐらいだ」
「なーんだ」
「血液型では、英世と和馬が父親違いなのかどうか判断のしようがないってことだな。結局のところ、父の登史郎、長男の英世ともにこの世にいない今となっては、もう父子関係否定説を科学的に確認する方法はない。仮にこれが犯罪捜査だったとしても、遺灰からのDNA鑑定は不可能なはずだ」
話は以上だ、とでも言うように、由紀夫がもう一度冷めたコーヒーをすすった。絵莉はこめかみに手を当てながらちょっと考え込む。
「でもさ‥‥」
絵莉がつぶやくように言った。
「問題の本質は、血縁関係の有無じゃないんだよね。実際の血縁関係がどうあれ、問題は先代の登史郎氏がどう思ってたかでしょ。登史郎氏は、長男が新妻の不義の子ではないかと疑っていた。ん? 婚姻前だから不義の子とは言えないか。まあそんなことはどうでもいいけど、当時、科学的に血縁関係を確定する方法なんてなかったから、疑いを完全に晴らすことはできない。事実はどうあれ、先代の疑心暗鬼が解消しない限り、英世さんは丹羽家から追放されるように運命づけられてたってことなの?」
「丹羽一族の長老連中の中には、ひょっとすると先代と同様に長男が月足らずで生まれたことに不審の念を抱いてた者もいたかも知れない。うるさ型が長男を切るよう先代に進言した可能性だってあるかも知れない。当主といえども、長老の意向となれば、そうそう無視するわけにもいかなかったろう。まあその辺の経緯までは分からんが、最終的に登史郎氏は苦渋の決断を下したってことだ」
「先代は疑わしきを罰するしかなかった‥‥。そういうこと?」
いかにも納得いかなげな娘の顔をじっと見て、おそらくそういうことだ、と由紀夫は小さく繰り返した。
「その結果、英世さんは家を出ていくしかなかった。いくら血筋を守るためだからって、たった15やそこらで‥‥。あんまりだわ」
「おいおい、絵莉。あんまり熱くなるな。言っておくが、この話はあくまで俺の想像、というよりむしろ憶測に過ぎない。それに、仮にその憶測が事実だったとしても‥‥。何度も言うが、これは妻に対する猜疑心とか嫉妬心に突き動かされたと言うような単純な話じゃない」
絵莉は、父の顔をまじまじと見る。

つづく (^.^)/~~~

to be continued to #47
   ~will be released on 2022.11.19~

丹羽家の人々 ~冒頭から,その2~

act9

本間祐樹に文書を送付してからおよそ一か月が経った。島津絵莉は、しばらくぶりに丹羽地所の社長室のドアを押した。今日も、丹羽社長の脇には秘書の百合香が控えている。
「内容証明を送ってから間もなくひと月になりますが、やはり本間親子からは何の連絡もありません。予定通り、家庭裁判所に認知無効の調停を申し立てようと思いますが」
「そうだな。粛々と手続きを進めるしかないな」
絵莉が、プリントアウトした調停申立書をテーブルに拡げる。
申立人は丹羽和馬、相手方は本間祐樹、そして申し立ての趣旨は『認知無効』。
申し立ての理由の欄には、申立人の父親による15年前の認知届は虚偽のものだという主張が書きこまれている。
「ちなみに、法的には一度届け出た認知を取り消すことはできませんが、その届け出そのものが虚偽であった場合は、ご本人が無効を主張することは可能とされています」
絵莉が改めて手続きを説明する。
認知や嫡出否認など家族の身分関係の争いは、調停で当事者が合意するだけでは成立しない。双方の合意を確認した後、DNA鑑定で血縁関係の有無を科学的に証明した上で最終的に確定することになっている。もしも調停の段階で合意できなかった場合は、改めて家裁の人事訴訟で白黒をつけるしかない。
「今週中にでも申し立て手続きに入りたいと思いますが、今日は、本間親子の身辺調査報告書もお持ちしましたのでご確認ください」
絵莉が、奈津子から受け取ったばかりのA4版の報告書の綴りを取り出す。和馬社長は、文面に目を通すのもそこそこに、添付された多数の写真を食い入るように見つめた。
「これが本間智恵子か。ふーん、けっこう美人じゃないか」
望遠レンズで撮ったかなりのアップの写真もある。
「智恵子さんは、週に3日、近くの歯科医院で受付け係をしています。マンションから出掛けるところ、勤務先の歯医者に出入りするところ、場面は色々ですが、勤務先と自宅との往復以外、立ち寄るのはせいぜいスーパーぐらい。これを見る限り、ごく普通の中年女性です」
なるほど、と言いながらページをめくった和馬の手が止まった。
「で‥‥、これが私の息子というわけだ」
和馬が見詰めているのは、リュックを背に自転車に乗ってマンションを出ていく若者の写真だった。
「親子は、やはりその川崎のマンションで同居していました」
「なかなか好青年じゃないか」
「祐樹氏は、一橋大学の3年で社会学を専攻しています」
「ほお‥‥」
和馬が驚いたように声を上げた。
「社長、何か?」
「いや、実は私も私の親父も一橋でね。へえ、そうか本間祐樹は一橋の学生なのか」
和馬の表情が急に和らいだように見えた。
「大学には、川崎の自宅から30分あまりかけて自転車で通っているそうです」
「ほーお。私も府中から国立まで自転車で通ったもんだ。もう50年も前になるかな」
和馬はふうっと小さく笑った。
「そうか、一橋とはなかなか優秀だ。私に似たのかな」
絵莉は、思わず百合香と顔を見合わせた。
「社長。申し訳ないですが笑えません。冗談はさておき、二人の顔に心当たりは。‥‥もちろんありませんよね」
和馬が、もう一度報告書の写真をしげしげと眺めてから首を横に振った。
「一週間に渡る張り込みの結果確認できた親子の日常や生活実態は、時系列リポートのページに詳細に記されています。ただ‥‥」
絵莉は、ちょっと言いよどむ。
「ただ、担当した調査員によれば、403号室に出入りする男性は確認できなかったとのことです」
絵莉は、芳しい成果を上げられなかった奈津子のちょっと悔しそうな表情を思い出していた。
「マンションの複数の住民にも確認は取りましたが、親子と同居している男性もいない。この間、智恵子が外で男性と会っている気配もない。15年前の認知は、社長になりすました誰かが届け出たと考えるしかありませんが、少なくとも現在は、本間親子の周辺に、疑わしい男性の影は一切見当たらないとのことです」
和馬の表情がまた険しくなっている。目を閉じて腕を組んだまま10秒間ほど黙り込んだ後、おもむろに口を開いた。
「となると。さしたる勝算もないまま戦いに赴くしかない、ということになるのかな」
依頼人の言葉が、絵莉の胸にちょっと刺さった。将軍から、お前は無能な参謀だと厳しく指摘されたようなものだ。
「はい。今のところは」
絵莉は、声を振り絞って答える。状況を取り繕ったり安易な楽観論を述べたりしても、この聡明な将軍に通じるわけがない。
「ただ、調停というのはあくまで話し合いであって戦いではありません。戦いと呼ぶべきなのは、調停の後に控えている裁判です。国同士で言えば、調停はいわば外交交渉、それが決裂して初めて訴訟の提起、つまり宣戦布告に至るということになります」
苦し紛れのレトリックだった。しかし、将軍は小さく頷いたもののその表情は硬いままである。
「だが、外交交渉には、カードって奴が付きものじゃないのかね」
痛いところを突かれた。駆け引きカードもなしに外交交渉など成立しない。この将軍の前では、付け焼刃のレトリックなどたちどころに破綻してしまう。
「おっしゃる通りです。今のところ、こちらは本間親子のことなどまったく知らないとひたすら主張するのが関の山で、切り札と言えるような交渉材料はありません。かと言って、このまま手をこまねいているわけには参りません。本間親子の人物像は、おおよそこの調査報告で把握できましたが、その人柄や性格などは、まだ見当もつかない状態です。実際の家事調停の場で、祐樹氏が果たしてどう出てくるのか。状況の推移をにらみながら、後に控える裁判を視野に戦略を練ることが肝要かと思います」
「しかし、戦略を練ろうにも、こちらには交渉材料すらないんだ。ましてや武器になるものなど一切ないんじゃないのかね」
返す言葉がなかった。本間祐樹に内容証明を送ってからひと月。懸案だった犯人・動機・方法の三点セットの解明は何一つ進んでいない。ありていに言えば、今のところ、こちらは和馬と祐樹の父子関係を覆すだけの材料を何ひとつ持ち合わせていないのだ。祐樹が、あの認知が無効だったと同意してくれる、そんなほぼあり得ない可能性にすがるしかないのが現実だった。
「おっしゃる通りです。その状況を踏まえて、私としては、二つの方向性を想定しています」
ほお、聞こうじゃないか、という風に和馬が軽く頷く。
「調停の初回期日は、通常申し立てから2か月程度先に設定されます。初回期日で結論が出ず調停が続行する場合、二回目の期日はそこからひと月以上先になります。合意不能で不成立になって裁判になるとしても、それはさらにその先。つまり、私たちにはかなりの時間的余裕があります。その間に、15年前に誰が何のためにどうやって虚偽の申し立てをしたのか、全力を尽くしてその裏付けを取ること。これが第一の選択肢です」
結局は確たる見通しもない精神論的なプランか。和馬の表情に落胆の色が浮かぶ。それには気づかぬ気に絵莉は続ける。
「もう一つは、本間祐樹の真意を確認した上で、本人に対するアプローチ方法を検討することです。5歳の時に認知された彼は、成人した今、その事実を果たしてどう認識しているのか。認知届が虚偽であったことを知りながら親子関係を否定しないいわば確信犯なのか、それとも自分が億万長者の隠し子であるというおとぎ話を疑いもせず生きてきた脳天気な大学生なのか。現段階では彼の意思はまったく見当もつきませんが、真摯に事情を説明すれば、話し合う余地が生まれるかも知れません」
「一橋に通ってるぐらいだ。まあ、それなりの知力や良識を備えていてもおかしくはないだろうが」
「問題は、どうやって祐樹さんとコンタクトを取るかです。送った内容証明にはなしのつぶてですから、今のところ、こちらと話し合う気はないと判断するしかありません」
「なら、どうやって彼の意思を確認するのかね」
「裁判所の調停では、当事者同士は顔を合わせず、片方ずつ交互に事情や主張を聴取するのが原則です。でも、場合によっては同席で話し合うこともあります。祐樹さんの同意が得られて、もしも調停の席でお二人が直接対面することにでもなったら‥‥」
和馬が、ちょっと虚を突かれたような表情を浮かべた。
「果たしてどうなるのか、正直、私には想像もつきません。でも、調停で面と向かってお話をして、祐樹さんの考えや人となりが見えてくれば、局面を打開できる可能性が生まれるかも知れません」
和馬が目を閉じて考え込んだ。父と子が向かい合うその瞬間を思い浮かべてでもいるのだろうか。
「私はこの青年をまったく知らないし、彼の方だってそれは同じだ。見知らぬ者同士が、親子として顔を合わせたらどうなるか。彼は一体どんな態度を取るのか。はっきり言って、私にしたって自分がどんな振る舞いに出るのか見当もつかんよ」 
「ごもっともです。ただ、対面の機会があるとしても、まだまだ先のことです。それまでに、私は、届け出が虚偽であったことの裏付け探しを鋭意進めます。並行して、祐樹青年に何とかコンタクトを取って、事前に話し合いができないかを探ります」
言葉の力強さとは裏腹に、絵莉にはまだ何の勝算もなかった。

社長室を出た時、見送りの百合香が声を掛けてきた。
「島津先生。実は、認知届が出された頃のことをいろいろ考えてたんですが。ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
絵莉は、内心ちょっと色めき立った。
「ええ。多分、思い過ごしだとは思うんですけど」
「いや、認知無効に関しては、今八方ふさがり状態ですから、どんな情報でも喉から手が出るほど欲しいところです。是非、教えて下さい」
「分かりました。実は、認知の届け出がされたあたりのことを思い出そうと思って、例のビジネス手帳をもう一度見直してたんですが、社長のマイカーの件で、ちょっと引っかかることがありまして」
「社長は、運転なさるんですか?」
「ええ、若い頃はかなりのカーマニアだったそうで、ずっとアストンマーチンに乗っておられます。イギリスの高級スポーツカーだそうです」
アストンマーチン。絵莉も、名前ぐらいは聞いたことがあった。
「私が丹羽地所にお世話になるようになった頃から、社用ではもちろんタクシーかハイヤーでしたけど、ご自宅と会社との往復はいつも車でした。今でも、近辺にちょっと出かける時なんか意気揚々とハンドルを握っていらっしゃいます。スポーツカーなのにいかにもイギリスらしい優雅で重厚な雰囲気があって、ダンディな社長にはぴったりの車です」
後に社長の息子の嫁になる秘書は、若い頃、ひょっとすると齢の離れた社長に秘かな憧れを抱いていたのかも知れない。百合香が秘書のアルバイトを始めた頃ならば、社長は働き盛りだったはず。絵莉自身、学生の頃、和馬がダンディを絵に描いたような紳士だったことを覚えている。今でこそ髪の毛はすっかり後退してしまったものの往年の面影は健在で、あまり風采の上がらない父の由紀夫とは好対照だった。
「あの頃からずっと、お仕事の間は基本的に私がキーをお預かりして、お車の管理は任されています」
絵莉には、イギリスの名車と今回の問題がどうしても結びつかない。
「でも、認知を届け出た日は、一日中都心にお出掛けだったんですよね」
「そうなんです。手帳にも、この日は車を動かした記録はありません」
「それじゃあ‥‥?」
絵莉は、百合香の意図を計りかねた。
「いや、私が気になったのは、その日の夕方、社長の外出中に車のキーを貸し出したメモがあったからなんです」
「社長以外の方に、ですか?」
「もちろん、滅多な方にお貸しするわけには行きません。キーを貸してくれとおっしゃったのは、当時の常務でした」
「常務?」
「はい。社長のお兄様の英世常務です」

数々の不祥事を繰り返してきた和馬社長の兄のことは、丹羽家の顧問弁護士である父から何度か聞いたことがある。
「確か、もう亡くなられているとか」
「はい。もう10年以上も前に肺がんを患われて。社長とは違って、お酒もたばこも何でもござれの派手な方でした。常務取締役に就任されたのは、私がこの会社にお世話になる少し前だったと聞いています。あまり大きな声では言えませんが、お父様から相続した莫大な遺産をギャンブルで使い果たしてしまって、やむなく社長が常務取締役の席を用意されたのだとか」
和馬おじさんらしいな、絵莉は思っている。
「何か、若い頃は音楽業界にいらしたとかで、最初にご挨拶した時、ひげ面の長髪に派手なTシャツ姿で、ちょっとびっくりしました。およそ不動産会社には似つかわしくないお姿でしたけど、よくよく見ると、やっぱりご兄弟だけあって目鼻立ちはよく似てらっしゃいます。やっぱり血は争えませんよね。あれ? 血は争えないって、兄弟の場合でも言うんだっけ?」
首をひねった百合香と顔を見合わせて、二人同時に吹き出していた。
「でもまあ、常務は殆ど出勤されることもありませんでしたから、社員たちもあまり関わらないようにしていました」
創業家一族の鼻つまみ、丹羽英世という存在がありありと思い浮かぶ。
「あの日、常務が訪ねて来られた時、社長は例の商工会議所のシンポジウムで都心にお出掛けでした。常務は、昨日、社長とラウンドした帰り、車にサングラスを置き忘れたとおっしゃって」
「へえ。ご兄弟でゴルフ。お二人だけで?」
「ええ、確かに手帳には、8月31日常務と多摩国際カントリークラブというメモがありました。そういえば、常務がゴルフをやってみたいって言うから付き合うことになったよって、社長、何だかうれしそうにおっしゃっていました」
──うれしそうに? 
親も家もないがしろにしてきた兄が、相続した巨額の財産を根こそぎ使い果たして弟の情けにすがって暮らしている。丹羽家の当主からすれば到底赦すことのできない所業だが、それでもこの世で二人っきりの兄弟だ。和馬社長にとって、兄はかけがえのない存在だったのだろう。
「初心者だから迷惑かけないように、ゴルフ場に頼んで平日二人だけで回れるように手配されたみたいです。でも、あの日、社長はお昼前には会社にお帰りになっています。とてもコースに出るようなレベルではなくて、ゴルフにならないからハーフだけで切り上げたんだそうです。結局キャディさんにはワンラウンド分以上走り回らせちゃったよって笑っておられました」
そうですかとうなずきながらも、百合香が何を言おうとしているのか、絵莉には話の行き先がまだ見えてこない。
「で、その翌日、お兄様が忘れたサングラスを取りに来られたんですね」 
「そうなんです。では、車までご一緒しますと申し上げたんですが、なあにほんの2・3分で済むことだからっておっしゃって。ですから、お車のキーをお渡ししたんです」
「それで? キーはすぐに戻されたんですか?」
「すぐにサングラス姿で戻って来られて、やっぱりサンバイザーに引っ掛けたままだったよって。本当にほんの数分ほどのことでした」
 絵莉の胸に膨らみかけていた興味が急速にしぼむ。
「その日、社長は帝国ホテルから直接帰宅されましたので、キーをお貸ししたことは翌日ご報告しておきました。ゴルフの帰り途、常務は棒ふりなんてもう二度とごめんだって言ってたけど、そりゃゴルフ場の側のセリフだよなって苦笑いされてました」
「英世さんが大変な不祥事を起こされた後も、ご兄弟の関係は決して悪くなかったんですね。確かにちょっと微笑ましいエピソードかとは思いますが。そのことが何か?」
問われた百合香が首をひねる。
「いえ、何かというわけではないんです。ただ、問題の日の前後で普段と変わったことがあったら一応ご報告しておこうと思いまして」
なるほどそうでしたか、とは言ったものの、絵莉にはその出来事と虚偽の認知届とがつながるとは思えなかった。

act10

百合香とて、実のところは似たようなものだった。手帳のメモを見直しながら当時の記憶を一日一日じっくりと辿ってみた時、何かしら引っ掛かったのはこの出来事ぐらいしかなかった。それにしても、社長の兄が、ほんの数分間車のキーを手にしただけのことである。そもそも、社長の愛車を使って一体何ができるというのか。その疑念の正体を突き詰めようとすると、考える先から思念がモザイクの粒々となって手のひらからこぼれ落ちていく。そんな有様だった。
百合香は、サーバーから淹れたコーヒーを持って秘書席に戻った。ブラックコーヒーの香りが鼻腔に心地よい。
  15年前と言えば、ちょうど丹羽地所にアルバイトで勤め始めたばかりの頃だ。この本社ビルも、駿介が将来の社長含みで丹羽地所に迎えられることが決まって竣工したばかり。学生アルバイトとはいえ、真新しいオフィスに社長秘書として出勤するのはとても誇らしかったっけ。
当時のことを思い出しながら、百合香は考えを巡らせる。
  たかだか車のキーのことが、どうして気になるんだろう。ほんの数分貸しただけのことなのに。常務がスペアキーでも作ったとか? 無理無理。たった2・3分でできるはずがない。そもそも、何のために? 
──でも。もしかしたら‥‥。
百合香は、立ち上がって社長室のドアをノックした。
「百合香さん、どうした?」
「社長、つかぬことをおうかがいしますが、アストンマーチンのスペアキーというのは簡単にできるものなんでしょうか?」
「おいおい、藪から棒に何だ?」
「いえ、絵莉先生と話をしてて、ちょっと気になることがあったものですから」
「そうか。スペアキーなら私も作ったことがあるんだが、アストンマーチンは、名車だけあってやたらにセキュリティがしっかりしててね」
車の話になると、和馬は途端に饒舌になる。
「今のリモコンキーになる以前から、たかだかスペアキーのためにわざわざディーラーに車を持ち込まなきゃいけなかったんだよ。ペアリングって言って、工場で新しいキーを車両本体に認識させて同期させるシステムになってるんだ。まあ、面倒な分安心なんだがね」
百合香の表情が徐々に沈み込むのにも気付かず和馬は続けた。
「ペアリングを済ませていない合鍵を差し込もうもんなら、けたたましい警報音が鳴り響くから車泥棒も車上荒らしもまず不可能らしい」
普段、車になどまったく興味を示さない秘書に長広舌を振るっていた和馬が、ふと我に返る。
「どうしてまたそんなこと聞くのかね」
「いえ、私の思い過ごしだったようです。ちょっとでも気になることは、とりあえず確認して下さいって、絵莉先生から念を押されたもんですから」
和馬がいぶかし気に頷く。
「そういえば、社長。亡くなられた常務、お車はお好きでしたか?」
「いや、兄は音楽一辺倒だったから車なんてまったく興味なかったよ。確か運転免許も持ってなかったんじゃないかな」
免許もなかった‥‥。やっぱり思い過ごしだったのか。
「そうですか。社長、お時間取らせて申し訳ありませんでした」
「百合香さん」
出て行こうとする百合香を、和馬が呼び止めた。
「あなたには、変なトラブルに巻き込んでしまって申し訳なく思ってる。養子縁組の件も、ご両親とはじっくりとお話しして了解して下さってるんだが、あなた自身、何か納得できないようなことはないだろうか」
「いえ。駿介さんの遺志を継ぐんだと思えば、それだけで力が湧いてくる気がします。恭介が一人前になってくれるまで、何としてでも丹羽家と会社を盛り立てて行く。その覚悟はできています」
慎ましげな顔に決意の色が見えていた。
「恭介はまだ5歳だ。先は長いぞ」
「社長にご指導頂けるなら、精一杯、努力は惜しまない積りです」
和馬が微笑みながら頷いた。

act11

「お帰りなさい」
事務所のドアを押した絵莉に秘書の麻乃が声を掛ける。
「和馬の件、何か進展はあったか?」
ソファでのんびりとコーヒーを飲んでいた由紀夫が尋ねた。向かい側に腰を下ろしながら絵莉が答える。
「内容証明にはまだ反応なし。松尾リサーチの調査報告で本間親子の実像はおおよそ見えてきたとはいえ、認知無効のエビデンス探しは手詰まり状態。今日も丹羽地所まで行って、認知届当時に何か思い当たることがないかって確認したんだけど‥‥」
絵莉が大袈裟に肩をすくめる。
「前途多難だな」
何とも緊張感を欠く父の顔を見ながら、ふと思いついて絵莉が尋ねる。
「父さん、アストンマーチンって知ってる」
「和馬の愛車だろ。大学時代、映画の007のボンド・カーに一目ぼれしたんだ。以来、あいつアストンマーチン以外眼中にない」
「へーえ、そうなんだ。 007、ジェームス・ボンドか。ねえねえ、そう言えば和馬おじさんって、ちょっとショーン・コネリーに感じが似てない?」
ああ、確かに言われてみれば、と口をはさんだのは秘書席の麻乃である。
「丹羽地所の社長さん、誰かにイメージが似てると思ったのよ。そうそう、ショーン・コネリーだわ」
「でしょ。和馬おじさん、顔立ちは純和風なんだけど、どことなく雰囲気が似てるんだよね」
「そう、あの頭の禿げ具合なんかそっくりよねえ」
「ひどぉい。でも、あんなかっこいいスキンヘッドはそういないよ」
「ちょっとお前たち、一体何の話してるんだ」
とめどがない会話を、由紀夫がやっとのことでせき止める。それをしおに、実はね、と言いながら、絵莉が百合香から聞いた車のキーのエピソードをかいつまんで話し始めた。
「じゃあ、百合香さんは社長の亡くなったお兄さんのことを何か疑ってるんですか?」
また麻乃が奥の席から割り込んできた。
「麻乃さんは、何食わぬ顔で全部話を聞いてるんだよなあ」
「はい。業務は完璧にこなしつつ、事件に関するお話はすべて聞かせて頂いてます」
やれやれ、と由紀夫がつぶやく。
このベテラン秘書は、既にこの事件の概要を把握しているようだ。マルチタスクは女の特技というのが口癖だけに、事務処理作業中でもその目と耳からは種々雑多な情報が次々とインプットされているらしい。
「車のキーと今回の件がどう関わるのかよく分かんないんだけど、何だか引っかかるらしいの」
「女の第六感ってやつか」
由紀夫の陳腐な感想にあきれたように首を横に振り振り、麻乃がソファの傍にパイプ椅子を置いて座り込んだ。
「顧問は、確か社長のお兄さんとも幼なじみなんですよね」
代表の座を絵莉に譲ってから、秘書は、由紀夫を顧問、絵莉を先生と呼んでいる。
「ああ、俺たちの3学年上だったかな。終戦で新制の小学校に入学した頃からかな、丹羽家に行く度に英あんちゃんって呼んで和馬と一緒によく遊んでもらった。絵莉も、子どもの頃に行ったことあるから覚えてるだろうが、丹羽家のお屋敷は古くてやたらにでかいだろ。俺たちはまだわけも分からないガキだったし、戦中戦後の頃だから片付けも手入れも行き届いてなかったからとにかく不気味でさ。何しろ薄暗いし、廊下と階段が入り組んでて行っても行っても果てしない迷路みたいだし」
「確かに、あのおうち、何だかちょっと得体が知れないみたいな感じはあったかな」
「あの頃は、母屋の裏に渡り廊下でつながった離れがいくつかあって、空襲で焼け出された親戚筋の人たちが何家族も暮らしてたみたいでな。離れの縁側に着物姿のおばあ様がひっそり座って笑いかけてきた時には、悲鳴を上げて逃げたもんだ。幽霊か妖怪にでも見えたんだろうが、我ながらまったく失礼な話だよ。探検気分で奥の間をのぞいてみたら、閻魔様の掛け軸が掛かってたり、般若だとか能面だとかが壁一面に飾ってあったりで、まあ怖かったのなんのって」
「へーえ。ワンダーランドみたいじゃないですか」
「なんだか楽しそうよね」
女たちが勝手な感想を漏らす。
「冗談じゃない。悪ガキが大勢集まった時には、数を頼りに恐る恐る肝試しみたいなことやったこともあるけど、普段はとてもとても。そうそう、離れの逆側にはちょっと離れて土蔵が並んでたんだけど、これがまた薄暗くて化け物屋敷みたいでな。英あんちゃんも和馬も、悪さする度にお仕置きで閉じ込められるって言うんだよ。それ聞いた時には、このうちに生まれなくてよかったって心底思ったよ。今なら、完全に児童虐待だな」
どうやら思い出話は尽きそうもない。
「父さん。お子様時代の話はまた今度聞かせてもらうから、英世さんのこと教えてよ」
「中学に入った頃からかなあ。英世さんはジャズだのカントリーだの進駐軍系の音楽に夢中になって、親父さんにねだって買い込んだレコードを一日中電蓄で聞いてたよ。もちろん、俺たちみたいなガキなんかもう全然相手にしてくれない。それからしばらくして、ロカビリーって和製ロックが大ブームになって、いよいよ手が付けられなくなっちまってな。突然高校を中退して、家出同然で音楽業界に飛び込んだのさ。親父さん怒り狂っちゃって、兄さんに憧れてた和馬はもうすっかりしょげ返ってたなあ」
その後、大学を卒業した和馬が丹羽地所に入社して先代登史郎の後継としての地歩を着実に固める中、由紀夫も若くして丹羽家と丹羽地所双方の顧問弁護士として招かれた。この間、和馬と英世の兄弟はほとんど音信不通だったと聞いている。
ただ、兄が事あるごとに、母の文子に金の無心に来ていたことに和馬は薄々気付いていた。半分ため息をつきながらも、母が漏らす言葉の端々からは、少しでも出来の悪い息子の力になってやれることを喜んでいるフシもうかがえた。母親というものは有難いものだと、そして、ああ見えて父親だって黙認していたはずだと和馬が苦笑いしていたのを由紀夫はよく覚えている。
英世と和馬が久しぶりに正面切って顔を合わせたのは、父登史郎の通夜の席だった。昭和から平成へと年号が変わったこの年、兄弟はともに五十の坂を越えていた。派手な業界で自由気ままに生きてきた兄と、丹羽家の後継者として累代の資産を運用する会社経営に精力を傾ける実直な弟。片や長髪のひげ面で、柄物シャツに形ばかりの黒ネクタイを締めた業界人、片や地元指折りの名士を弔う式典を粛々と取り仕切る喪主。数十年という月日を経て、兄弟は好対照というしかない姿で遺族席に並んでいた。
その後、登史郎の遺志によって遺言執行者に指名された由紀夫は、四十九日の法要と納骨を終えた時点で、相続人である英世と和馬の兄弟と向かい合うことになる。
「先代は、遺留分を考慮して英世さんに四分の一、四分の三を和馬が相続するよう遺言を残していた。それに従って、兄の英世さんが主に現金や金融資産を、和馬が不動産と丹羽地所の株式を受け取る形で双方が了解して円満に終了した」
「確かに、表向きは一応円満ってことにはなりましたけど。長男の取得分が四分の一でしょ。あの時、英世さんは本当に納得されたんですかねえ?」
数多の争いを間近に見てきたベテラン秘書は、人の内面に潜む感情が気にかかっている様子である。
「実は、その10年以上も前に、俺は先代から遺言作成の相談を受けててね。先代は昔の家督相続への拘りがあって、跡継ぎの和馬にすべての財産を相続させたいというんだ。そこで俺は、長男の英世さんには法的に遺留分という権利があることを説明した上で、将来の丹羽家に禍根を残すことのない方法を取ることを勧めた。具体的には、遺留分に相当する遺産の四分の一を英世さんに相続させるべきだって進言したんだ」
遺留分。
ごくかいつまんで言えば、遺言の効力が一部及ばなくなる規定である。たとえ相続人の誰かには一切相続させないという遺言があったとしても、妻や子であれば、遺産の一定の割合をもらう権利を主張できる。
既に妻の文子を亡くしていた登史郎の場合、相続人は英世と和馬の二人の息子だけ。仮に登史郎が全財産を和馬に相続させると遺言したとしても、英世は遺留分として遺産の四分の一を受け取る権利を持っている。
四分の一とはいえ、一般庶民から見れば目の飛び出るような財産だ。その巨額の財産を、当時、まだ音楽業界と反社会勢力との境界線の辺りでうろついていたぐうたらな男に遺したことが正しい判断だったのかどうか。由紀夫は後に、愚兄の人となりを考慮せずに先代に助言したことを賢弟から責められることになる。丹羽家の将来を見据えれば、遺留分を巡って裁判で争うよりはよほど賢明な選択だったという由紀夫の申し開きも、その後の顛末を前にすれば虚しく響いた。
「親からすれば、勝手に家を出て行って親孝行のかけらすら見せなかった放蕩息子だからなあ。昔ならさしずめ勘当モンだ。四分の一とはいえ、遺産を受け取れただけでも上等。英世さんも、まあ納得してたんじゃないか」
「それにしても、あの丹羽家だもん。四分の一ったってけた外れだったんでしょ」
「ああ。評価額20億は下らなかった」
ヒュー、絵莉と麻乃が同時に口笛を吹いた。
「もっとも、相続税の方も目が飛び出るぐらいだったがな」
にやりと笑って、喋り詰めの由紀夫がひと息ついてから続けた。
「ただ、その後、英世さんはとんでもないことをしでかす」
「ああ、父さん、いつだったか言ってたよね。例の丹羽家史上最悪のスキャンダルでしょ」
「あの時は、本当に大変でした。顧問は、朝から晩までかかりきりでしたもんねえ」
麻乃が当時を思い出すように言った。
「英世さんは、ミュージシャンの夢はもうとっくにあきらめてたけど、もともとヤマっ気のある性格だったんだろう。莫大な遺産を相続した上に、何だかんだ言っても重しになってた親父さんがいなくなって、ちょっと有頂天になってたのかな。業界の悪い取り巻き連中に誘われてギャンブルにはまっちまったんだ」
「あーあ、もう予想通りの展開。飲む打つ買う、なんて言うけど、財産食いつぶすんなら何たってバクチが一番、よね」
「ギャンブル狂いたって、絵莉。英世さんのは生半可なもんじゃないぞ」
英世はマカオでホテル暮らしをしながらバカラ賭博に明け暮れて、父から相続した財産は結局2・3年で跡形もなく消えてしまった。巨額の遺産があったのは確かだが、もちろん無尽蔵というわけではない。
マカオのカジノでは、長期滞在のVIPはほとんど現金のやり取りはしない。金持ち連中は、いくら負けようが、財力に応じてホテルからいくらでもお金を融通してもらえるのだ。今や大富豪となった英世もその例外ではなかった。
すっかり気が大きくなってるから、負けるたびに倍々ゲームで借り続けて、気が付いたらとんでもないことになっていたというのが実態だった。ギャンブル依存症というのはたちの悪い病気だから、ギャンブル漬けの噂を聞きつけた和馬がいくら諭そうが諫めようがまったく効果はなかった。
「そういえば、カジノで地獄を見たとか名言を吐いたどっかの名門企業の御曹司がいましたよね」
「ああ。あれとまったく同じさ。オーナー会社のカネ好き放題引っ張って背任で実刑食らったあの社長に比べたら、英世さんの場合は巨額ったって所詮は個人資産だ。たかだか20億ぐらい、まあ可愛いもんだ」
絵莉が、また大きくため息をつく。
「英世さんに、ご家族は?」
「若い頃、一度結婚したことがあるんだけど、嫁さんはすぐに出てった。独身時代と変わらず女性関係はルーズだし、業界の派手な付き合いにかまけてほとんど新居にも帰ってこない。多分行き当たりばったりで衝動的に籍入れたんだろうけど、まともな女性ならとてもついてけないよな。この時も、おふくろさんに頼まれて、先代には内緒で俺が離婚の交渉をしたんだ。子どもはいなかったし、あの時点では嫁に分与するだけの財産もほとんどなかった。けど、実家が裕福だからって慰謝料はそれなりに取られたもんだから、結婚なんてもうこりごりだなんて言ってたなあ。まっ、それにしたってせいぜいが500万程度だ。ギャンブルで20億スった人間の言い草とは思えんが」
「じゃあ、お子様もいらっしゃらない?」
由紀夫が頷く。
「まあ、家族でもいたら、さすがにあそこまでの無茶はしなかっただろうな」
話が横にそれちまったが、と由紀夫が話題を本筋に戻した。
「それで結局英世さん、マカオでの借金が雪だるま式に膨れ上がっていよいよにっちもさっちも行かなくなった。和馬に頼まれて、結局俺が後始末に走り回るはめになったってわけさ」
「何しろ海外の、しかもそのスジが相手でしょ。金額と言い精神的ストレスと言い島津法律事務所史上最大の困難案件だったかも。ほんと、思い出してもぞっとしますよ」
麻乃が大袈裟に肩をすくめた。
「借金はどれぐらいあったの?」
「ざっと50億。英世さんの遺産の倍は超えてたな」
もはや絵莉は驚かない。およそ現実感を欠いた数字の連続に、金銭感覚が完全に麻痺していた。
「そりゃ、もう破産手続きしかないね」
「和馬は、丹羽家から破産者を出すことにえらく抵抗したけど、海外のカジノホテルの借金がほとんどだから、義理ある相手に迷惑を掛けることは一切ないと説得した。ギャンブルによる破産は認められないこともあるが、名目上はホテルに対する負債になってたから何とかクリアできた。それにしても、相手は名だたるマカオのカジノだ。日本のウラ社会とも通じている。下手すると、和馬や丹羽地所にまで累が及ぶ可能性もあったから、俺も必死だったよ」
由紀夫は、先ず裁判所で今回のケースのような海外の債務もすべて破産の対象になることを念入りに確認した。その上で、法務省や外務省に何度も問い合わせを繰り返しながら専門書と首っ引きで手続きを進めていった。それにしても、一個人が海外に何十億単位の借金を負うなどという事例はめったにあるものではない。次から次、頭を抱えるような事態に直面する。その度に、由紀夫は心の中で英世の愚かさ加減を罵りながら、それでも全精力を傾けて試行錯誤を重ねていった。結局、定例の業務以外はほぼこの事件にかかりきりで、ようやく目途がついた時には半年以上を費やしていた。
破産と言っても、何も借金すべてを踏み倒すというわけではない。自分の持てる財産をことごとく吐き出した上で、どうしても足りない分だけは返済を免除してもらうというのが基本だ。具体的には、本人の財産をすべて寄せ集めて、借金額に応じた割合で債権者一人ひとりに分配することになる。
由紀夫は、改めて英世の財産の洗い出しに手を付けた。先代から英世が相続した遺産は、預貯金のほか、株式、国債、投資信託などの有価証券類がほとんどだった。派手な生活を続けていたとはいえ、何しろそもそもの基礎財産がべらぼうなものだ。それが生み出す利息や配当金は馬鹿にならないし、おまけにあの頃はリーマンショック前で株価も上昇基調だったから含み益は相当な額に達していた。ギャンブル以外の散財分には十分おつりが来ることが分かり、結局、予想していた通り英世の実質的な債権者はマカオのカジノとホテルのみと言ってもいいことを再確認した。
事前準備をやっとこさ整えた由紀夫は全債権者に通知書を送付。それを受けて、債権者集会にはマカオから黒いスーツにカラーシャツの債権者代理人が何人も来日し、百戦錬磨のこわもて達とのタフな交渉が連日続いた。その結果、借金総額には及ばないものの、マカオ勢は英世の巨額の財産の大半をせしめることになる。カジノやホテルは、そもそもが濡れ手で粟といってもいい債権者だ。最終的に20億円という巨額の資金を回収できれば、上々の首尾と言ってもいいだろう。合意の書面にサインをした後、黒スーツの猛者たちは満面の笑みで由紀夫に握手を求めてきたものだ。
ようやく日本での免責手続きがすべて終了した後、由紀夫は、和馬にまで決して累が及ばないようにしておくことにも心を砕いた。改めてマカオの裁判所に日本での破産手続きの承認を申し立て、元債権者であったカジノやホテルの丹羽家に対する接触禁止命令まで周到に整えて、島津法律事務所最大級のミッションはようやく完了したのだった。
「これがまあ、英世さんが先代から相続した巨額の遺産が跡形もなく消えちまった一部始終ってわけだ」
聞き終えた絵莉が大きなため息をついている。
「父さん、大変だったんだ。あたしはその方面には疎いから、とても無理だわ」
「俺だって、あんな大変な仕事は二度と御免だ」
「その後、お兄様は丹羽地所に常務として迎えられたんですよねえ」
「ああ。たった一人の兄が無一文になっちまったんだからな。その辺り、和馬の心情も分かるだけに敢えて反対はしなかった」
「ちょっと泣かせるじゃん。和馬おじさんって、やっぱり男気があるよね」
「あの兄弟、性格は正反対だけど、お互い妙に情に厚いところがあるんだよな。とにかく、英世さんにそれなりの生活ができるだけの収入を確保してやるのが目的だったから、和馬も仕事の方に関してはまったく期待してなかった。それと、これはここだけの話なんだが」
由紀夫が、ちょっと意味ありげに目くばせをした。
「先代の遺産分割で英世さんが四分の一を相続したって言ったろ。その中に少しだけ不動産が含まれてたんだが、そいつの名義を書き換えないで先代のままにしておいたんだ。まあ、当時で一億にも満たない程度だったから、全体からすれば微々たるもんなんだが」
「一億円なんて微々たるもんか。何ともはや‥‥。あれ? でも父さん、それって遺言執行者としてはちょっとまずいんじゃないの?」
「まあ、そう言われりゃその通りなんだが、所有権の移転登記が遅れても法的にはまったく問題はないからな。でも、たとえ自分の不動産であろうと登記が自分の名義になっていないと売却はできない。つまり現金化できない、いわば宝の持ち腐れってなとこだな。まあ、英世さんのあの危ない性格に保険をかけておいたわけだ」
「ということは? ひょっとして‥‥」
由紀夫と麻乃が顔を見合わせて意味ありげに笑った。
「その不動産、破産手続きの対象にならなかったの?」
「登記上、その土地は亡くなった父親名義のまんまだったから、本当は既に所有権が英世さんに移ってるなんて誰に分かる? まあ遺産分割協議書か相続税申告書でも確認すれば別だが、何しろその時点で既に相続から7年近く経ってるんだ。部外者には、そんなこと想像もできんだろう。丹羽家関連の不動産の固定資産税は和馬がすべてまとめて支払ってたから、本当の所有者が英世さんに移ってるなんて誰にも分るはずがない。ましてや、相手ははるばるマカオからやって来た代理人だよ。7年以上も前の遺産分割のことまで調べられる道理がない」
「確かに、当事者からの主張がない限り裁判所も口出ししないからなあ」
絵莉が、ちょっと呆れ顔でつぶやいた。
「かくして、英世さんの隠し財産には手を付けずに済んだ。いざって時のための保険が意外な場面で効果を発揮したわけだ。ま、7年前の先代の遺言執行者であり、この時の破産管財人でもある俺にしかできない超頭脳プレーってとこだな」 
「あきれた。父さん、それって、頭脳プレーどころか破産管財人としてはれっきとした背任行為じゃない」
しーっと口元に人差し指を立てた由紀夫が、敏腕秘書の方を見てにやりと笑う。
「あれ。ひょっとして、麻乃さんも知ってたの?」
「あら、まさか。秘書ごときがそんな裏のカラクリまで存じ上げてるもんですか」
横を向いて知らん顔を決め込んだ麻乃を見て、絵莉にも事の次第がはっきりと飲み込めた。
「父さん。口止め料はちょっと高いわよ」
分かった分かったと苦笑いした由紀夫に向かって、絵莉が真顔になる。
「英世さんの不祥事のことはよおく分かりました。でも、話を戻すと、百合香さんが気にかけてるのはその超問題児の生前の不審な行動なんだよね」
「車のキーの件か。俺にはさほど不審行動とも思えんがな。15年前に、英世さんが仮に和馬の愛車のキーをたった数分借りたとしてだよ。それが、和馬の認知の問題とどう結びつく?」
「うーん。ほら、百合香さん、長年の秘書稼業が身に付いてるからさ。敬愛する社長に害を及ぼしかねない相手には本能的に警戒警報が鳴るのかなあ」
その辺りになると、絵莉も首をひねるしかない。
「麻乃さんは、どう思う?」
絵莉の問いかけに、麻乃がちょっと考え込んでから言った。
「私には、車のキーの件だけに限らず、その前後の英世さんの行動がちょっと引っ掛かりますね」
「というと?」
「いや、普段ご兄弟が一緒に行動なさることはあまりなかったんですよね。それが、突然ゴルフに誘ってきたり、めったに出社しない会社に顔を出したり。そこには、何か理由があるような気がして」
敏腕秘書の思わせぶりな口調に絵莉がちょっと色めき立つ。
「どんな理由が考えられる?」
腕を組んでしばし考え込んだ後、麻乃はおもむろに口を開いた。
「うーん、残念ながら皆目見当もつきませんわ」
あっけらかんとした答えに由紀夫と絵莉ががっくりと肩を落とした。

act12

その頃、当の百合香も首をひねっていた。
何で常務のことがこんなに引っかかるんだろう。社長の車のキーをほんの数分借り出したからって、別に怪しむようなことじゃない。そもそも常務は運転免許も持っていないわけだし、名車だけあってスペアキーもそう簡単に作れそうもないらしい。となると、サングラスを置き忘れたという話にどうやら嘘はなさそうだ。いずれにしたって、アストンマーチンのキーと認知届に関連があるとはとても思えない。私、やっぱり常務に対してナーバスになり過ぎかな。
百合香は、15年前のビジネス手帳をもう一度めくってみる。
『9月1日火曜日、終日日商シンポ、於東京フォーラム』
問題の認知届が出されたこの日、社長は朝から有楽町の東京国際フォーラムでシンポジウムを観覧し、夜の帝国ホテルでの懇親会を終えて、そのままハイヤーで帰宅している。
その前日、社長は英世常務と二人でゴルフに出かけている。
我ながら往生際が悪いなと思いながら、百合香は前の日のページを開いてみる。
『8月31日月曜日、常務とラウンド、於多摩川国際CC』
克明に綴られた百合香の手帳だが、普段業務に関わることのない常務の名前は、この二日以外ほとんど登場しない。もちろん、たまたま兄弟が親交を温めたことに伴う偶然なのだが、普段、会社とも社長ともほとんど没交渉の常務が問題の日の前後に限って登場することに、百合香はどうしても違和感が拭えないのだった。
もう一度だけ、記憶をたぐってみよう。
9月1日。メモによれば、社長不在の社長室に常務がやってきたのは午後5時。百合香は、社長秘書の仕事についてからまだ半年も経っていない。初対面の時自己紹介をした時を含めて、常務と直接話をしたのはまだ数えるほどだった。
──確かあの時。秘書室のガラス扉にノックがあった。
あれっ? 
ドアを押して入ってくる常務を見て、ちょっと驚いたっけ。一瞬、社長が帰ってきたのかと思ったんだ。そうそう。社長と見間違えたのはあの時のことだ。
百合香は、濃い霧の中を手探りで進むように懸命に記憶を辿っていく。
──あの日、常務は長髪を刈り揃えてひげも剃っていた。しかも、いつものラフな服装とは打って変わってスーツにネクタイ姿。
一体、どうした風の吹き回しだろう。百合香の脳裏に、あの時交わした会話が少しずつ蘇る。
実は知り合いの結婚式があってね。義理のある人だから、ちょっとまともな格好をしてみたんだが、意外と似合うだろ? 
あっけに取られている百合香に、常務は確かそんなことを言った。
百合香は、慌てて愛想笑いで取り繕った。
驚きました、常務。スーツ、本当にお似合いです。さすがご兄弟だけあって、こうして見ると社長に本当にそっくりでいらっしゃいます。
社交辞令だけではない。あの頃は、社長の髪もまだそこそこ豊かで、白髪の目立ってきた短めの髪をオールバックになでつけていた。常務が長髪にひげ面の時には思いもよらなかったが、目鼻立ちといい背格好といい、「血は争えない」なんて慣用句がふと脳裏に浮かんだのも無理はない。
馬子にも衣裳って、顔に書いてあるよ。常務の軽口が続いた。でも、こうしてみると、俺も満更捨てたもんじゃないだろ。いっちょ、本気でビジネスマンとしてやり直すかな。
それだけはご勘弁! 
常務の数々の不始末を聞いている百合香は反射的に思った。でも、こうやって身だしなみを整えればそれなりの風格はある。見た目だけなら、ひとかどの紳士に見えないこともないかも。
でも、そんなことを思ったのはほんの一瞬のこと。サングラスを車に忘れたという常務にキーをお渡しして、すぐに返却してもらった。ただ、それだけのことだった。  
──でも‥‥。
百合香の内心にさざ波が起こっている。社長と常務の顔立ちはかなり似ている。血は争えない、と思ってしまったぐらい。
──ならば‥‥。
百合香には、自分が危うい仮説に向かって歩を進めている自覚があった。
──ひょっとして‥‥。
あれだけ似てれば、ひょっとしてなりすますことだって。
つまり‥‥。社長を装って認知届を出すことだってできたかも知れない。
──でも、姿かたちが似てるというだけで、役所相手に本人になりすますことなんてできるんだろうか。まさか、そんなことあり得ない。当然、本人であることを確認できる公的な身分証明書が要るはずだ。‥‥公的な証明書? 
免許証!
日本で最もポピュラーな身分証明書は、運転免許証だ。目の前の人物と免許証の写真を見比べて、同一人物であることを確認するのが通常の手続きだ。
百合香は、はやる気持ちを必死で抑えながら考えを進めている。もし万一、社長にそっくりの人物が社長の免許証を提示すれば、その人物が本人であることを一体誰が疑うだろう。
百合香は椅子を蹴って立ち上がった。社長室のドアの前で深呼吸をしてからノックした。
「百合香さん。どうしたんだ」
百合香のただならぬ様子に、和馬が怪訝な表情を見せる。
「社長、つかぬことをおうかがいしますが‥‥」
またかね、と言いながら苦笑いする和馬にかぶせるように百合香が言う。
「社長は、ご自分の運転免許証をどこに保管していらっしゃいますか」
一瞬、ポカンとした表情を浮かべた和馬が、やれやれと言った表情で応える。
「ずっとアストンマーチンのグローブボックスに入れてるよ。私は、あの車以外は運転しないからね」
百合香の動悸はもうピークにまで達していた。
「もうずっと以前からそうなさってましたか?」
「ああ。グローブボックスの中に免許証保管用のホルダーがあるから、昔からずっと重宝してきた」
百合香が声にならない声を漏らして、へなへなとソファに座り込んだ。

「社長、申し訳ありません。もう大丈夫です」
ソファから立ち上がろうとする百合香を和馬が制した。
「体調が悪いのか?」
「いえ。そうじゃないんです。社長、私、どうやら大変なことに気が付いたみたいで」
「どういうことかな」
百合香は、手帳のメモを頼りに懸命に思い出した事実を語った。15年前の認知が届け出られた当日、今は亡き常務がアストンマーチンのキーを借りに来たこと、その時、髪を切りひげを剃ってスーツ姿だったこと‥‥。
へえ、そんなことがあったのか。それで、と和馬が促す。
「実は、その時の常務のお姿が、社長とそっくりだったんです。私、一瞬見間違えてしまったぐらいです」
「確かに、子どもの頃は、目鼻立ちがよく似てるって言われたもんだが‥‥」
それがどうしたんだとでも言いたげな和馬に、百合香が覚悟を決める。
「ここからは、あくまで私の想像です。お兄様の名誉にも関わることですので、ご不快な内容になるかも知れませんが」
百合香の思いつめた表情に和馬が頷く。
「あの日、市役所の窓口で、顔立ちのそっくりな常務が社長の免許証を見せれば、ご本人を装うことができたんじゃないでしょうか」
百合香の言葉に和馬が目を大きく見開いた。
「それじゃあ、何か。その日、兄がアストンマーチンのキーを借り出して、グローブボックスから私の免許証を持ち出したというのかね」
百合香がうなずく。
「しかし、キーはすぐに返したんだろ。仮に免許証を持ち出したとしても、市役所に行って手続きするなんて時間はとてもないんじゃないか」
一瞬戸惑った百合香だったが、突然何ごとかに気付いたように手にした手帳を開いた。ページをめくって目を走らせた後、百合香は何度もうなずきながら和馬に向き直った。
「確かに社長のおっしゃる通りです。しかも、常務にキーをお貸ししたのはあの日の夕方5時過ぎとなっています。その時点で、もう役所の窓口は閉まっています」
「ということは?」
けげんそうな和馬を見つめたまま、百合香は一度大きく深呼吸をしてから言った。
「私のメモによれば、その前日、社長は常務とゴルフに出かけていらっしゃいます。ひょっとすると、常務が車から免許証を持ち出されたのは前日だったのではないでしょうか」
和馬が目を閉じてしばらく考え込んだ。
「確かに、よくは覚えていないが、受付けだの会計だのしてる間、常務には助手席で待ってもらってたかな」
「もし私の想像通りだったとしたら、市役所で届け出を済ませた後、免許証を無断で持ち出したことがバレないうちに急いで元に戻しておかなければいけません」
和馬にも、事の次第が徐々に像を結び始めている。
「それで、サングラスを忘れたという名目でキーを借りて、こっそり免許証を元の位置に戻しておいた。戻すだけならほんの数秒もあれば十分です」
「確かに、普段車に保管してる免許証を確認することなんて滅多にない。一日ぐらい持ち出したってバレる気遣いはない。それは確かだが‥‥」
「常務は、社長が車に免許証を保管してらっしゃることをご存知だったでしょうか」
何か心当たりでもあったのか、和馬が小さく頷いた。
「で、それを利用することを思い付かれた。そして、その企みを実行するために、まずはやりたくもないゴルフに社長をお誘いになった。多分、翌日、社長が終日都心にお出掛けだということもご存知だったと思います」
和馬が視線を落として考え込んだ。自身のおぼろげな記憶を辿りながら、百合香の仮説の可能性に思いを巡らせているのだろうか。そして、もしそれが事実なのだとすればと、兄の信じ難い行動の意味に思いを馳せているのだろうか。
そんな和馬の様子を見つつ、百合香も少しずつ落ち着きを取り戻してきている。
「社長。これはあくまで、手帳のメモと私のかすかな記憶を重ね合わせた仮説です。信頼性のやや怪しい私のメモ以外、証拠になるようなものは一切ありません」
聞こえているのかいないのか、和馬は黙ったままだ。
「何だか、ついつい興奮してしまいましたが、冷静になってみると、我ながら何だか妄想じみた考えのような気がしてきました。聞き流して頂いた方がよさそうです。社長、失礼の段、どうかお許し下さい」
失礼しますと言ってきびすを返した百合香を、和馬は無言のまま見送った。

act13

  15年前か。
丹羽和馬は身じろぎもせずに物思いにふけっている。
あの頃は、まだ妻の淑子も長男の駿介も健在だった。一方、兄の英世は、若くして家を出て、父の登史郎からは勘当同然の身の上。一度は結婚したものの、すぐに別れている。父から相続した莫大な財産もギャンブルで使い果たしてしまい、破産後私が手を差し伸べてもさほど生活態度が変わったようには見えなかった。
これらすべては自業自得。憐れむべき理由は、何一つない。だが、和馬は、この世でたった一人の兄をどうしても憎む気にはなれなかった。確かに、己れを律することができず、目先の欲望に流され、群がる軽薄な輩に利用されて、不始末を繰り返した兄だった。しかし今も、心底悪意のある人間ではなかったと思えてならない。
──その兄が‥‥。
百合香の仮説は妄想などではない。言われてみれば、和馬にはいくつも思い当たる節があった。和馬は、英世のスーツ姿を見てはいないが、百合香の言葉に嘘はあるまい。兄と自分の目鼻立ちが似ていることは自覚していた。瓜二つとまでは言わないが、身だしなみを整えれば、おそらくなりすますことも不可能ではないという気がしていた。確かに物的な証拠はないが、あれだけの傍証があるのだ。百合香の仮説は、おそらく事実だろうという確信があった。
  ならば、兄をそんな行動に駆り立てたものは、一体? 
その肝心の点については、百合香はもちろん、自分自身何一つ裏付ける情報を持っていない。裏付け情報もなく物的な根拠もない仮説は憶測でしかない。これ以上は、もはや素人の手に余るというしかなかった。

その夜、和馬はしばらくぶりに新宿の高層ホテルにある会員制クラブに出掛けた。向かいの席には、島津由紀夫と絵莉、弁護士親子が顔を揃えている。
「百合香さん、すごぉい」
和馬の話を聞いて、絵莉は驚きを隠さなかった。
「よくぞ、そこまで思い出してくれたわね。まさか、百合香さんが突破口を開いてくれるとは思わなかったわ」
「多分、彼女の推理は、大筋で間違ってはいないと思う。前日のゴルフ、当日の車のキーの借り出し、突然の変身ぶり、この仮説ですべて説明がつく。やはり、すべて兄の仕組んだこと、そう考えるしかない」
絵莉がうなずいて、同意を求めるように隣の由紀夫の方を見た。一緒になって喜んでくれるはずの父は、しかしなぜか眉間にしわを寄せて妙に難し気な顔をしている。父さんどうしたの、と問いかけようとした時、その父が口を開いた。
「確かにそうだな。だが、問題が二つある」
「問題って?」
「一つは、具体的な物証が一切ないってことだな。犯人、いや、仮に英世さんがなりすまして届け出を実行したんだとしても、もう亡くなっている以上、確認のしようがない。百合香メモは、仮説を導くための傍証でしかない。そもそも、キーの借り出しだってその日の英世さんの姿や身なりだって、直接話をした百合香さん以外に覚えている人物がいるとは思えない」
「でもさ、父さん。これは刑事事件じゃないんだから、厳密な立証の必要はないんじゃない。これだけの傍証があれば、それなりに説得力のある主張ができると思う。家事事件では、寝ごと言ってんじゃねえよってぐらいの無理筋の書面だってしょっちゅう見るよ」
「確かに、最近の弁護士なら、さもありなんだが」
「で? 父さん、もう一つの問題は?」
「動機だろ」
向かいの席の和馬がぽつりと言った。
その通りだと、絵莉も思っていた。認知無効を立証するためには、嘘の認知届を出した犯人・方法・動機の解明こそが絶対条件。ずっと呪文のように唱えてきた立証三点セットだ。仮説とはいえ、『犯人』と『方法』の目星がついた今、残るは『動機』ということになる。
和馬が言葉を続ける。
「百合香からこの話を聞いてから、そのことばっかり考えてた。あの兄貴が、なんで妙な小細工を弄して嘘の認知届を出すなんて突拍子もない行動に出たのか」  
わざわざ弟になりすまして認知を届け出たのだとすれば、その目的は一体?
考えられる答えは、一つしかない。その子、本間祐樹という青年を大富豪である弟の相続人にするため。そう考えるのが妥当なところだろう。
ならば、本間祐樹とは一体何者なのか?
「当事者のお前はどう思うんだ?」
和馬は大きく息をついた。
「いろいろ、可能性を考えてみた。誰かに騙されたり脅されたりしてあんなとんでもない企みの片棒を担ぐなんてことは、いくら何でもあり得ない。どう考えても、自らの意思で取った行動に違いない。となると、本間祐樹は兄貴にとって特別の存在ということになる。例えば‥‥」
和馬が言いよどむのを見て、由紀夫が言葉を引き継いだ。
「例えば、隠し子か」
和馬が無言でうなずいた。絵莉もまた、同じことを考えていた。
「本間祐樹は、丹羽和馬ではなく丹羽英世の隠し子だった‥‥」
由紀夫がつぶやくように言った後、三人はしばらく押し黙った。
「ちょっと失礼する」
沈黙に耐えかねたように和馬が手洗いに立った。その後ろ姿を見送ってから由紀夫が絵莉に向き直った。
「確かに、本間祐樹が英世さんの隠し子だという可能性は否定できない。だが、もしも本当に英世さんがあんな常軌を逸した行動に出たのだとしてだ。それは、自分の息子を巨額の遺産の相続人にするのが目的だったんだと思うか?」
「え? だって‥‥。それ以外に何があるの? 破産した兄が、自分の子を大富豪の弟の息子に装ったんだとしたら、目的は遺産狙いしかあり得ないでしょう」
由紀夫がふうっと小さく息をついた。いつになく沈鬱げな父の表情に気づいて、絵莉は一瞬戸惑った。
「いや。まあいい。ただ、お前には言っておく。事はそんなに単純じゃない」
どういうこと、と反射的に問いかけようとした時、和馬が戻ってきた。絵莉は気を取り直して、努めて事務的な口調で切り出した。
「社長、それでは今後の方針ですが、百合香さんの仮説を裏付けることが今や喫緊の課題です。お兄様の生前、本間親子との間に何らかの接点はなかったのか。その点にターゲットを絞って、改めて興信所に依頼して調査を進めます。15年前の裏付け調査となるとちょっと難しいかも知れませんが、何らかの痕跡が残っている可能性はあります」
「もしも、生前の英世さんと本間親子の間に何らかの接点があったとしたら、百合香さんの仮説は妄想なんかじゃなく事実だったということになる。そうなったら、百合香さん、大殊勲だな」
由紀夫は、さっき絵莉に垣間見せた表情が嘘のように陽気な声で言った。
遥か昔のおぼろげな記憶を必死に手繰り寄せて構築した仮説。確かに、百合香以外の一体誰がここまで辿り着けただろうか。もっとも、今のところ、まだ想像の域を出てはいないのだが。
「そろそろ、家裁に調停を申し立てる時期なんだけど、認知無効の主張根拠を何て書けばいいのか、けっこう悩ましくて。でも、百合香さんのおかげで、何とか目途がつきそうだわ」
絵莉が、和馬に向き直った。
「社長。私は、明日にでも認知無効調停の申し立て手続きに入ります。申し立てから初回期日まで、早くとも二か月はかかります。その間に、何としてでもお兄様と相手方の本間親子との間に何らかの関係があったことを確認したいところです。それが確認でき次第、速やかに百合香さんの仮説をベースにした主張書面を作成して追加提出する積りです」
「どうか、よろしく頼む。ちなみに、その調停には私も出席するんだろうね」
「弁護士にすべてお任せで、当事者が出席しない場合もあります。ただ、今回の場合は、親子という身分に関わることですから、いずれかの段階でご本人にも出席して頂くことになります」
「その席で、この本間祐樹と言う青年と顔を合わせることもあり得るんだったな?」
「原則、調停は別席で行います。ただ、話し合いの流れ次第では同席で顔を合わせる可能性もないではありません」
「そうか。いや、一度、我が息子と直接会ってみたいものだと思ってね」  
冗談とも本気ともつかない和馬の言葉に、由紀夫と絵莉が顔を見合わせた。

act.14

絵莉から百合香の推理を聞かされて、女探偵の好奇心は再びフル稼働の様相を呈した。夫婦や親子兄弟間の調査を数限りなくこなしてきた松尾奈津子にとっても、多摩の大富豪の家で起こった今回の出来事はこれまで経験したことのないものだった。
絵莉との最初の打ち合わせで確認したミッション。それは、嘘の認知を届け出た犯人・方法・動機の三点セットを解明することだった。そのうち、犯人と方法については、社長秘書の百合香がついに一つの仮説を探り当てた。その仮説の裏付けになる事実を探し出すことこそが女探偵に課せられた使命だ。その裏付けさえ見つかれば、残る『動機』だって自ずから明らかになるに違いない。
前回の調査で特筆すべき成果を上げられなかっただけに、今度こそはの念も一入であった。ただ、今度のミッションも決して簡単なものではない。何しろ、もう十何年も前に亡くなった人物の生前の行為を探らなければならないのだ。興信所の仕事は、現在進行形の調査がほとんどだ。過去の事実を探り当てるというのは、本来得意とするところではない。でも、盟友の絵莉の方は、既に家裁に認知無効の調停を申し立てている。初回期日までに、何としてでもあの仮説を裏づける事実を探り当てるのが奈津子の任務だ。責任は重い。
前回、本間親子の周囲に男性の気配はまったく見当たらなかった。だが、今度は、闇雲に対象の身辺や行動を追いかけるのではなく、ある目的に沿って事実関係を探り出すという作業だ。いわば、前回がゼロからストーリーを作り出すための調査だったとすれば、今回は明確なストーリーに添って裏付けを探す調査ということになる。実際の聞き込みに当たっても、今度は対象人物の写真が大きな威力を発揮することになる。丹羽英世という特定の人物の顔だちや体格、身なりなど、聞き込みのためのツールを存分に使えるのだ。
ただし、その前に大きな問題が横たわっている。その人物は、既に十数年前に亡くなっているのだ。その人物の生前の足取りを辿るのは生半可な作業ではない。その困難さを十分に心得つつ、奈津子は行動を開始した。
本間智恵子は近所付き合いがあまりない。都内の中高一貫校に通い、そのまま大学へ進んだ祐樹の友人も近くにはいないようだ。だが、そのことは、聞き込み調査の障害にはならない。むしろ、親しい知り合いに遭遇すれば警戒されかねないし、そこから本人に調査員の存在が漏れる可能性だってないではない。
奈津子は、佐野という初老のベテラン調査員とコンビを組んで入念に周辺の聞き込み調査を開始した。佐野は、奈津子が松尾リサーチに入った当初、探偵業の何たるかを叩きこんでくれた師匠でもある。
手始めに、手分けして近隣のコンビニやスーパーを訪ね、親子と接触のありそうなマンションの住人に目星をつけて注意深くコンタクトを取った。だが、英世の写真に対して心当たりがあるという情報はまったく得られなかった。いくら写真があろうが、やはり十数年も前の片隅の記憶など、とっくに風化しているのが当たり前なのか。
奈津子は、佐野と相談して聞き込みの対象を切り替えることにした。思わしい成果が得られなければ、臨機応変に方針を変更する。期限に迫られるのが宿命の探偵業の鉄則だ。
もしも、英世氏が本間親子の暮らすマンションに通っていたのだとすれば、どんなルートを使っていたのか。その頃の英世氏の自宅は都心に近い四谷のマンションだったことが確認できている。英世氏は自分で運転をしないし、おそらく電車を使うタイプではなさそうだ。四谷から川崎に通っていたとすれば、タクシーの可能性が高い。都心で流している無数のタクシーを洗い出すのはおよそ現実的ではないが、郊外の住宅地なら話は別だ。川崎から四谷に帰る際には、電話で近辺のタクシーを呼んでいたのではないか。百戦錬磨の佐野も同じ意見だった。
確かに、日々不特定多数の客を乗せるタクシー運転手が10年以上も前の客のことを憶えているかどうかは疑問だ。しかし、電話で配車を頼んでいたとすれば、いつも決まったタクシー会社に依頼していたに違いない。奈津子の経験では、タクシー運転手は常連とまではいかなくても何度か乗せた客の顔は本能的に記憶しているものだ。しかも、あの辺りの住宅街では、英世氏の風貌はけっこう目立っていた可能性もある。
奈津子と佐野は、マンションの近隣のタクシー会社に狙いを定めた。ただし、猫も杓子も個人情報という時代だ。クレームを恐れる会社からきついお達しが出ているらしく、近頃はタクシードライバーの口もやたらに固くなっている。
しかし、そこは蛇の道は蛇。多少の鼻ぐすりを使ってでも有益な情報を取ることは、今も昔も探偵の常套手段だ。もちろん違法行為というわけではないが、あまり大っぴらにするのもはばかられるので、鼻ぐすりを必要経費として請求することはない。つまり、他の経費の中に潜り込ませることになる。
直接タクシー会社の営業所に行って、運転手のたまり場で訊けば話が早そうだが、会社側に知れると事が面倒になる。まずは、最寄り駅の構内に並んでいる地元のタクシーに乗って、片っ端からドライバーに当たってみようということになった。一応は客だから、そうそう粗末にあしらわれることもないだろう。多少経費はかさむものの、有難いことに、今回の依頼人はカネに糸目はつけない。
奈津子は、佐野と二人、手分けしてタクシーの聞き込みを開始した。だが、もちろんそう簡単にヒットするはずもない。初日、二日目と、二人合わせて喫した空振りの数は百の大台に近づいていた。
「探偵稼業ってつくづく因果な商売ですね」
二日目の深夜近く、ガラガラの上り電車で都心方面へ帰る道すがら、奈津子が思わず愚痴をこぼした。
「所長。探偵事務所のトップたる者、そいつは禁句ですよ」
いつも穏やかな佐野が、かつての師匠の顔をちらりと見せた。ベテラン調査員にとっては、こんなことは日常茶飯事なのである。
三日目も、朝からほぼ丸一日を費やしたものの成果はゼロ。さすがの奈津子も意気消沈気味で、これはちょっと方針を変えるべきかと思い始めた夕方近くのことだった。
これまでと同様、信号待ちを見計らって丹羽英世の写真を見せた時、反応を見せた運転手がいたのだ。昔何度か乗せたことがある男かも知れないと言う。勢い込んで、とりあえず目についたコンビニの駐車場に車を入れてもらった。
「よく見てもらえます。どう? 間違いないですか?」
「まあうろ覚えだけど。長髪にひげでしょ。この辺りじゃ、あんな風体の男はそうそうおらんから」
人の好さそうな初老の運転手が笑いながら言った。
「どこで乗せたんですか?」
途端に運転手の表情が硬くなった。
「いや、申し訳ないね。個人情報を話すわけにはいかないんですよ。会社からきつく言われてますから」
「そりゃそうですよね、でもね、林さん」
奈津子は、料金メーターの上に掲示されている写真入りの乗務員証の名前を呼び掛けた。
「これにはちょっと事情があるんです。実は、私は東京の興信所の調査員なんですけどね」
奈津子は、名刺を運転手に手渡しながら続けた。
昔、この男に騙されてひどい目に遭わされた若い女性からの依頼で、何とかして探し出さなきゃいけないんです。この男、当時この辺に住んでたらしくて‥‥。口から出まかせだったが、今は何としてでも林運転手の証言を得なければいけない。
ひどい目って? 
実は。と、これまで経験した事件を適当に組み合わせて、この男がいかにあくどい人間なのか、この誠実そうな運転手の正義感に訴えそうなストーリーを語った。全財産を貢がされただの、会社の金にまで手を付けただの、挙句の果て心身ともにぼろぼろになっただの‥‥。中年男に騙された若い女性とくれば、若干リアリティに難があっても聞き手の方で自由に想像を膨らませてくれる。この辺り、長年の経験でもう手慣れたものだが、平気な顔でこういうでっち上げができることに、奈津子はプロとしての自負心と人としての自己嫌悪をほんの少し感じている。
ひでえ奴だね‥‥。
ぼそりと呟いた初老の男の表情に、ちょっと迷いが生まれている。
よし。ここは、押しの一手だ。彼女、それからすっかり精神を病んじゃって、ずうっと引きこもり状態だったんですよ。でも、最近になってようやく気力を取り戻してね。社会復帰して再出発するためには、どうしてもあの男を探し出して忌まわしい過去にけりをつけるしかないって、もう必死なんですよ。もちろん、10年以上も前の話だから法的にどうこうできるわけではないんですけどね、と言いながら手の中で折りたたんだ5千円札を運転手に押し付ける。
運転手は、札を手にしたままちょっと考え込んだ。職業倫理的な抵抗感が、正義感の前に徐々に崩れていくのが分かった。
「俺が言ったなんて、絶対に言わないでくれよ」
もちろんです、と言いながら、奈津子はICレコーダーのRec表示が赤く光っているのを横目で確認している。無断録音は令状がないと原則違法とされるが、それはあくまで警察の犯罪捜査におけるルールだ。民事事件の場合、無断録音でも大抵は証拠採用されるし、その効果には絶大なものがある。ましてや、今回の目的は裁判のための証拠集めではなく、百合香仮説の裏付け調査なのだ。
林運転手は、この道30年以上という超ベテランだ。JR南武線沿いの川崎市内、東急・小田急・京王といった各私鉄との乗換駅を中心に流しているという。その途中、近くから無線で配車の依頼があった場合は喜んで受けることになる。そんな形でたまたま何回か乗せたことがある男が、この写真の男に非常によく似ているとのことだった。
「この男性の迎えの場所はどこだったか、覚えてらっしゃいますか?」
「うーん、もうずいぶん前のことだからなあ‥‥」
林運転手が目をつぶって考え込む。
「確か、何回か迎えに行ったはずなんだけど」
もしも林運転手の記憶にあるのが英世その人なのだとすれば、間違いなく十数年も前のことになる。写真の男の顔立ちに覚えがあっても、どこで乗せたのかまでは思い出せないようだった。
「ひょっとして‥‥」
奈津子が声を掛ける。誘導は避けた方がいいのだが、このままでは、まったく埒が明きそうもなかった。
「ひょっとして、レジデンス多摩川?」
「レジデンス多摩川? 稲田の‥‥?」
林運転手が考え込む。奈津子は、固唾を飲んでそんな林を見つめる。
と、林が何かに思い当たったように何度か頷いた。
「そう言えば、確かに、あそこだったかも。あのマンション、珍しく車寄せがあってね。道路側の壁に屋根がせり出してちょっと暗がりになってるから、天気がいいと目が慣れなくってさ。初回の時、そこにあのひげ面がぬうっと顔出したもんだから、ちょっと肝つぶしたんだ」
林運転手が、何だ、姉さん、知ってたんじゃないかとつぶやくのを聞きながら、奈津子は秘かに拳でガッツポーズを取っていた。
英世は、生前智恵子が住むマンションに出入りしていた。英世と智恵子、問題の二人の接点がついに見つかったのだ。これで、和馬になりすまして智恵子の息子を認知したのが兄の英世であるという妄想じみた仮説に、初めて信憑性が生まれた。奈津子は、もう一度英世の写真を見せて、レジデンス多摩川で何度か乗せたのがこの男に間違いないことを再確認する。
「あの風貌だからね。どうしたってこの辺りじゃ目立つよ。そうそう、おまけに確かこの人、長距離客だったからねえ。まあ、この辺りの客は、大抵駅とか病院とか役所とか近距離がほとんどなもんだから、余計に印象に残ってるんだ」
「へえ、長距離。ちなみに、行先はどちらでしたか?」
奈津子が、内心の興奮を懸命に抑えながらおずおずと訊く。
「確か、毎回都心まで乗ってくれたっけなあ。俺たちにとっちゃあ、ほんとに有難いお客さんだったよ」
「都心と言いますと?」
「いや、そこまではちょっと」
「四谷とか?」
「うーん、そうだったかも‥‥」
少なくともこの人物が都心まで乗っていたのは間違いないようだ。英世氏が住んでいた四谷の可能性だって十分にある。
かつて、丹羽英世と思われる人物が何度も本間智恵子のマンションを訪れていた。二人の直接の接触を確認することはできないが、もう十分だろう。これまでに分かった事実を組み合わせれば、真相は自ずから明らかだ。
「林さん、本当に助かりました。さっそく被害者に報告させて頂きます。きっと大喜びされると思います」
「まあ、その子のために、少しでもお役に立てたんならうれしいよ」
林運転手が満足げに笑った。実のところ、被害者は若い女性ではないのだが。心からのお礼と嘘のストーリーをでっち上げた謝罪を込めて、奈津子はそっと頭を下げた。
さあて、苦労に苦労を重ねてついにこの手でつかみ取った成果だ。一刻も早く絵莉に知らせなきゃ。
奈津子は、このことは会社には絶対内密にしますと約束した上で、林運転手の名刺をもらってそのままいつもの駅に直行してもらった。
取り急ぎ連絡を入れた佐野と改札口で落ち合う。満面の笑みで迎えてくれた佐野の顔を見て、思わず涙ぐみそうになるのをどうにか抑えて奈津子が言った。
「師匠。因果な商売も、まんざら悪くはないですね」
大先輩が白い歯をのぞかせながらうんうんとうなずいた。

間を置かず、第一報が絵莉にもたらされた。
絵莉は、沸き立つような思いを抑えて直ちに丹羽地所の社長室に電話を入れる。受話器を取ったのは、もちろん秘書の百合香だった。我知らず、動悸が上がり呼吸も荒くなっている。
「百合香さん。どうか落ち着いて聞いて下さい」
落ち着くのは絵莉さんの方でしょ、とでも言いたげに百合香がくすりと笑った。
「百合香さんの推理、どうやら的中したかも知れません」
「推理って。あの車のキーの件ですか? じゃあ、やっぱり常務が‥‥」
「はい。調査の結果、とうとう英世常務と本間智恵子の接点が見つかりました。詳しくは後ほどお伝えしますが、先ずは社長につないで頂けますか」
高揚した絵莉の報告を聞いて、そうかと思わず声を上げた丹羽和馬だったがその口調は徐々に沈んで行った。考えてみれば、たった一人の兄がとんでもない所業に及んだという仮説がいよいよ現実味を帯びてきたのだ。真相解明に向けて事態が大きく進展したとはいえ、決して手放しで喜べることではない。
「調査報告書が上がり次第、運転手さんの証言録音と一緒にお持ちします。英世常務と本間親子とのつながりが確認できた以上、私の方では百合香さんの推理を踏まえた主張書面の作成に入ります」

             act.15

調停の初回期日までに、本間祐樹からの反応は一切なかった。ただ、裁判所からの通知を受け取っているのは間違いないとのことだった。
その日、午前9時40分、丹羽和馬と代理人の島津絵莉は横浜家裁川崎支部に到着した。調停は、相手方、つまり本間祐樹の住所地を管轄する裁判所に申し立てることになっている。申立人控室と相手方控室は離れた位置にあり、お互いが顔を合わすことのないよう配慮されていた。二人は、申立人控室の長椅子に並んで腰を下ろす。
「いよいよですね。今日、祐樹氏が出頭するかどうか分かりませんが、少なくとも調停委員にこちらの主張だけはしっかりと聞いてもらいましょう」
「もしも、相手方が来なかったら、調停はどうなるのかね」
「とりあえず、次回の期日を決めて出席を促します。それでも、ずっと欠席した場合は、裁判所から何らかの働きかけをすることになると思います」
「それでも来なければ?」
「首に縄をつけてでも、という訳にはいきませんから、おそらく調停は不成立となって打ち切り。その場合は次の段階、認知無効の訴訟を提起することになります」
「裁判にも来なければ?」
「基本的には、原告である社長の主張を被告の祐樹氏が全面的に認めたとみなされます。いわゆる欠席裁判ということになって圧倒的に有利にはなりますが、家事事件の場合、必ずしも主張がすべて認められるわけではありません。何しろ身分関係を変更する訳ですから、それなりの裏付け証拠は不可欠です」
「例の兄のなりすまし疑惑。あれは、どの程度の裏付けになるのかな?」
「裁判官の判断次第ですが、お兄様と本間母子との関係を示す調査報告がありますから、十分に考慮されると思います」
指定時刻になって、申立人側の和馬と絵莉が調停室に呼び入れられた。男女の調停委員から簡単な手続き説明を受けた後、本題に入る。
「相手方の本間祐樹さんはお見えになっていますか?」
絵莉が、一番気になっていたことを訊く。
「先ほど相手方控室を確認したんですが、お姿が見えません。裁判所からの通知は受け取ってらっしゃるようなんですが、答弁書も出てませんし、一切反応がありません」
やっぱり。調停は双方の話し合いが基本だが、一方が出席しないのでは文字通り話にならない。
絵莉は、今後の進行がどうなるのかを尋ねた。とりあえず、次回期日を設定して郵送で通知し、それでもやはり何のアクションもないようであれば、意向調査、出頭勧告などの手続きを取ることになるとのことだった。
「もし、それでも駄目なら‥‥。調停不成立の判断をせざるを得ません」
想定していた通りの展開だった。
そこから、事情聴取が始まった。概要は、申立書面に書いた通りですがと前置きして、先ずは和馬が、15年前の認知届けにまったく身に覚えがないこと、認知した相手にも何の心当たりもないことをかいつまんで語った。
そこからは絵莉が引き取った。従って、この認知は無効だというのが私どもの主張ですが、もちろん、何の根拠もなくそんなことを申し上げているわけではありません。本日、もう一通の主張書面を提出しますと言って文書を取り出した。
「これは、この虚偽の認知が、誰によってどういうカラクリで届け出られたのか。その経緯を調査した結果を克明に記載したものです」
二人の調停委員が、思わず顔を見合わせた。
「主張内容は後ほどご確認頂くとして、かいつまんで概略を説明させて頂きます。申立人の秘書の記録によれば、認知届がされた当日、申立人の実兄が申立人の車のキーを借り出したことが分かっています」
絵莉は、これまでに明らかになった事実と、そこから導かれる仮説を述べていく。申立人は運転免許証を車に保管しており、それを知っていた実兄が、前日にそれを持ち出し当日に車に戻した疑いが強く推認される。普段長髪にひげ面でラフな服装だった実兄が、この日に限って容貌を整え、スーツ姿だったことも確認されている。普段は似ても似つかない兄弟だが、実は顔立ちはそっくりで、髪や服装を整えると秘書も一瞬見間違えたぐらいだった。
こうした事実を総合すると、弟になりすました兄が、市役所で弟の免許証を示して認知を届け出た可能性が非常に高い。ただ、その事実を確認しようにも、この実兄は認知届の翌年に他界している。付け加えるならば、実兄は当時肺がんに侵されており、虚偽の届け出をした時点で既に余命いくばくもない状態だった。
「ちなみに、申立人は都下有数の資産家ですが、実兄は以前一度破産しており、さほどの財産はありませんでした」
絵莉がここでいったん息を整えた。この間ずっと、二人の調停委員は息を詰めるように聞いていた。
「もちろん、これだけであれば突飛な妄想のように思われるかも知れません。私どもは、申立人の兄が、一体どうしてこのようなとんでもない行動を取るに至ったのか、その動機についても調べました」
絵莉は、バッグから文書の綴りを取り出した。
「これは、相手方本間祐樹さんと、その母親である智恵子さんの身辺調査報告書です。これも、後ほど精査して頂きたいんですが、本間さん親子がお住まいになっているマンションに、かつてこの実兄が出入りしていたという調査結果が記されています」
二人の調停委員が、ほおっと声にならない声を上げた。
「十数年も前のことですから、申立人の実兄と智恵子さんの具体的な関係までは確認のしようがありませんが、ここまでの事実から導き出される結論は一つです」
絵莉は、ここで一呼吸を置いた。調停委員は身じろぎもしない。
「申立人の兄は、自分と関係の深い人物を大富豪である申立人の相続人とするために、弟を装って虚偽の認知届を出した。もうこの世にいらっしゃらないお兄様を貶めるのは決して本意ではありませんが、事実は事実として主張するしかありません。私どもは、申立人が認知したことになっている本間祐樹氏は、おそらく申立人の兄の実子なのではないかと推察しています」
しばし、沈黙が調停室を包んだ。家族関係のトラブルには慣れっこの調停委員たちも、さすがにここまでの事態は想定外だったようである。困惑しながら、この驚愕のストーリーを反芻していた。
「今申し上げたことはあくまで仮説ではありますが、提出した書面を読んで頂ければその蓋然性が極めて高いことがご納得頂けるはずです」
従って、15年前に出された認知届は違法な手続きによるものであり無効であることに疑問の余地はない、という言葉で絵莉は陳述を締めくくった。その熱弁を気おされた面持ちで聞いていた調停委員が、やっと我に返ったように言った。
「ご主張は概ね分かりましたが、どうもこれは軽々に扱える問題ではありませんね。今日ご提出頂いた主張書面と調査報告書は、裁判官も含め、後ほど精読させて頂きます。ぜひ相手方からも反論をお聞きしたいところですが、今日のところはどうしようもありません。次回には何とかご出席頂けるよう、裁判所からも働きかけたいと思います」
こうして、ひとまず次回期日の日取りを調整した上で、初回の調停は終了した。

            act.16

それは、初回から一カ月余りが過ぎた第二回目期日の前日のことだった。相手方の本間祐樹から代理人弁護士の島津絵莉に書面が届いた。万年筆の丁寧な文字でしたためられたその書面は、コピーが裁判所にも送られているとのことだった。
絵莉は、少なからず驚いた。明日の期日にも、おそらく祐樹は来ないだろう。その場合は、裁判所から出頭勧告をしてもらい、それでも埒が明かなければ速やかに訴訟を提起する。その既定路線で準備を進めていた。そこに唐突に届いた相手方からの初めての書面だった。
絵莉は、デスクに腰を下ろしておもむろに目を通した。
冒頭に『陳述書』と記された書面は、「私は、本件の相手方、本間祐樹の母、智恵子です」との文言で始まっていた。
「私は、昭和49年に新潟県長岡市で生まれ、平成7年に23歳で結婚、横浜で新生活を始めました。ところが‥‥」
ところが、職場で知り合った結婚相手は、外づらはいいくせに妻に対しては、一方的に力でねじ伏せるような男だった。結婚生活が始まると同時に、何か気に障ると突然キレて殴る蹴るの暴力にさらされる日々が始まった。そのくせ、一時の激高がおさまると、智恵子を抱きしめて、悪かった、もう二度としないと、一転別人のような優しさを見せる。智恵子も、その度にやり直そうと気を取り直す。そんな事が、幾度も幾度も繰り返された。
一体何が原因なのか、自分の何が悪いのか、智恵子には皆目見当がつかなかった。果てしない地雷原をびくびくしながら這って歩くような毎日が続き、一度ならず警察沙汰になったこと、骨折して入院したことさえある。退院後、夫はさらに智恵子に異常な執着を見せるようになる。その結果、半ば監禁状態に置かれ、精神に不調をきたすまでに追い詰められていったのだという。
八方ふさがりの中、智恵子は思い切ってDV被害者の支援機関に連絡を取り、決死の覚悟でシェルターに逃げ込んだ。そこで公的な支援を得て、調停・裁判と泥仕合を重ねた末に、平成8年、やっとのことで離婚が成立。智恵子にとってそれは、時に悪夢にうなされ、時にフラッシュバックに苦しんだ末にかろうじてつかみ取った一筋の光明だった。
しかし、自分に強い執着を示していた元夫に所在を知られることは、恐怖以外の何ものでもなかった。そのため実家に帰ることもできず、智恵子は秘かに新宿で一人暮らしのスタートを切る。離婚したばかりで何のキャリアも資格もない若い女が一人で生きていくためには水商売を選ぶしかなかった。幸い、新宿でも指折りとされるナイトクラブにホステスとして採用され、何とか一人で生きていく目途をつけることができるようになる。とはいえ、元夫による精神的な呪縛からまだ逃れられずにいた智恵子にとって、虚飾に彩られた昼夜逆転の毎日は精神的な安らぎからは程遠いものだった。
そんなある日、音楽関係の仲間の送別会の流れだというグループの席に着くことになる。その中にいた、長髪にひげ面の中年の男が、人懐こい笑顔で智恵子にしきりに話しかけてきた。警戒心の強い智恵子だったが、この男には意外なほど不快感を持たなかった。今思えば、店にやってくる年かさの男にありがちな下心をまったく感じなかったからかも知れない。
男はその後、どこか影のあるうら若いホステスに興味を覚えたらしく、足しげく店に通うようになった。来店のたび智恵子を指名して、どこか陰のあるホステス相手に音楽業界や芸能界の裏話など話術巧みに語るのが常だった。ただ、一方的に好き放題喋りまくるわけではなく、智恵子が興味深げに耳を傾けたり、時にくすりと笑うのがうれしくてたまらないようだった。
男は丹羽和馬と名乗った。そして、若い頃からの趣味が嵩じて音楽の世界にも首を突っ込んでいるが、家業を引き継いだ不動産経営が本業なのだと語った。音楽業界と不動産業界、ちょっと意表を突いた取り合わせでもあり、男の風貌にしてもおよそ会社の経営者とは見えなかった。でも、そういう経済的裏付けがあるからこそ、思う存分自由に趣味にのめり込めるのだと言って男は笑った。ウソや軽口や作り話がまかり通る夜の世界。その時点では、敢えて疑問を差しはさむほどこの男に興味があるわけでもなかった。
だが、そのうちに、男の人となりについての智恵子の印象は少しずつ変わっていった。この人は、いつも暗い表情の私を楽しませようとしてくれる。他愛のない話でも、その声を聞いている間だけは、かつての傷心の日々を忘れられるような気がするのだった。智恵子は徐々に、年の離れた和馬に対して父親のような優しさと包容力を感じるようになっていた。
笑いと嬌声に溢れた華やかな店の中で、和馬と智恵子がいる一角だけは別の時間が流れているようだった。いつの頃からか智恵子は、婚姻中の地獄のような日々のこと、今もPTSDに悩まされ時にビルから飛び降りる衝動に襲われること、ママにもホステス仲間にも固く口を閉ざしてきた秘密を少しずつ打ち明けるようになる。この頃には、和馬の饒舌は鳴りを潜め、すっかり聞き役に回っていた。それにしても、一体どこの誰が、わざわざ高いお金を払ってお酒を飲みに来て、そんなうっとうしい話を聞いてくれるだろう。でも、和馬は違っていた。いつも親身になって耳を傾けてくれ、時にその目に涙さえ浮かんでいたことも智恵子は知っている。
ある夜のこと、話すうち感極まった智恵子は和馬の胸で思いっきり声をあげてむせび泣いた。しゃくりあげる彼女の肩を、和馬は幼な児をあやすようにただ撫で続けていた。ホステスとしてあるまじき行為とママから厳しく叱責されたその夜、智恵子は自ら店を辞めている。
その後、和馬は川崎市多摩区に智恵子の名義でマンションを購入、水商売から足を洗っても不自由しないだけの月々の手当てを渡すようになる。粗暴な男との地獄のような生活で引き裂かれた智恵子の精神は、和馬との限られた時間を過ごすうちに、徐々に、しかし確実に癒されていった。
「ありふれた言い方ですが、恋人でもあり父でもありという何ものにも代えがたい存在でした。社長が家庭をお持ちだということは聞いていました。でも、社長は、鬱々として何一つ先の見えない生活から私を救い出してくれた大切な方です。だから、その方の家庭の平穏を乱す事だけは決してすまいと心に決めていました」
智恵子が暮らすマンションに週に何度か和馬が訪れる。そのささやかだが満ち足りた毎日は、何事にも代え難いものだった。和馬を新潟の両親に紹介することはできなかったが、落ち着いたところで久しぶりに帰郷して、微妙なところはぼかしつつ現状を報告。その表情から娘の心情を十分に察してくれたのだろう。目を細めて娘の話に聞き入る両親の姿に、智恵子はやっと手に入れた幸せをしみじみと思っていた。
ところが、間もなくそんな二人の間に深刻な事態が発生する。細心の注意を払っていたはずの智恵子が妊娠してしまったのだ。
「正直にお話しします。私は、社長との将来を望む積りなど決してありませんでした。でも、だからこそ私は、ほんの一つだけでいいから生きていく拠り所が欲しかったのです。まことにはしたないことを申し上げます。あの妊娠は、今日は安全日だから絶対に大丈夫と社長を偽った結果でした。社長との長いお付き合いの中で、私がついたたった一つの嘘でした」
妊娠を知った和馬は、案に相違して、手放しで喜んでくれた。それまで、川崎のマンションに来るのは週に一・二回だったのに、妊娠が分かってからはほとんど入りびたりになって何くれとなく世話を焼いてくれた。
間もなく、智恵子は男児を出産。もとより智恵子は、その子を和馬の子として届け出ることができないことは分かっていた。こうして、本間智恵子の戸籍に、父親空欄のまま祐樹という名の男の子が加わったのである。
和馬は慣れない手つきでミルクをやったり、おむつの交換も厭わずにやってくれたという。そして、私生児として育った祐樹が間もなく学齢期を迎える頃。
「根っから思いやりのある方です。ご自身の年齢を考え、そろそろけじめをつけなきゃならんなとおっしゃって。ご自分で認知を届け出て下さったのです」
そして、陳述書の最後は次のような言葉で締めくくられていた。
「まことに恥多き顛末をお話ししてしまいました。皆さま方には、こうした経緯をお汲み取り頂いた上で、どうか情理を尽くした寛大な判断を下して頂ければ幸いです」

絵莉は、何か胸に迫りくるものを感じないではいられなかった。陳述書の筆遣いから見て、本間智恵子は自分が付き合ってきた相手、そして我が子の父親が丹羽和馬だと思い込んでいると判断せざるを得ない。その男が、実は和馬の兄だったなどとは想像もしていないのだろう。
ただ、ここに描かれている男の人となりは、これまで聞かされてきた英世像とはほど遠いものだった。ギャンブルで身を持ち崩した自制心のかけらもない無軌道な人物と、慈愛をたたえた人情味あふれる人物との間には大きな乖離があった。丹羽英世という人物にそんな側面があったのか、それとも、ただ愛人の前でそういう人物を演じ続けていただけなのか‥‥。
ともかく、一刻も早く、和馬にこの陳述書を読んで貰わなければならない。絵莉は秘書の麻乃に大急ぎで陳述書をスキャンして数部プリントアウトしてもらい、画像データを和馬社長にメールしておくよう頼むと同時に事務所を飛び出した。
一時間あまり後、丹羽地所の社長室には和馬と秘書の百合香、この事件の代理人の絵莉、そして急遽呼び出しを食った顧問弁護士の由紀夫の4人が顔を揃えていた。由紀夫が智恵子の陳述書のコピーに大急ぎで目を走らせている。事前にメールで書面を受け取った和馬と百合香は既に熟読していた。
由紀夫が読み終わるのをのんきに待ってもいられない。絵莉が口火を切る。
「智恵子さんの陳述書、私もそれなりに感ずるところがありました。おそらく、智恵子さんの言葉に嘘はないでしょう。でも、陳述書に登場する和馬社長がご本人でないということは明白です。では、社長を名乗って智恵子さんと付き合っていた人物は、一体誰なのか」
「私になりすませるぐらい丹羽家や会社のことを詳しく知っていて、長髪にひげで音楽関係の仕事をしている人物」
百合香が後を引き取った。
「そして、興信所の調査で、かつて本間智恵子さんの住むマンションに出入りをしていたことが裏付けられた人物、ということになりますね」
「私になりすまそうなんて、そんな突飛なこと発想する人間はどう考えたって一人しかいない」
と言った和馬の口調は、しかし思いのほか穏やかだった。亡き兄と見知らぬ女性との秘められた過去に深く思いを馳せていた様子がうかがわれた。
「私は英世さんと会ったことがないので何とも言えませんが、これまでに聞かされていたイメージとは随分違っているような気がしましたが」
「いや、英世さんは、小さい頃から思いやりのある人だったよ」
やっと陳述書を読み終えた由紀夫が口を挟んだ。
「幼い頃よく一緒に遊んだから、よく覚えている。確か俺たちは英世さんの3学年下だったんだが、子どもの頃の3歳の差は大きい。メンコにしたってベーゴマにしたって、俺たちがいくら必死になったって敵うわけがないだろ。和馬なんか、負けるたびに大泣きするもんだから、英世さん、バレないように上手に手加減してくれるんだ。英あんちゃん、優しいとこあるなあっていつも思ってた」
「おいおい、冗談だろ」
「いや、本当だ。ガキの頃から和馬は単純だったから気が付いてなかったと思うけど、俺にはよく分かる。あの人は、高校中退して家を出たっきりで不行跡を重ねたし、莫大な遺産をギャンブルで食いつぶすなんて取り返しのつかないことしでかしたからイメージは最悪だけど、根は情のある人だった」
「そう言えば‥‥」
和馬が、思いを巡らせるように視線を上げた。
「俺の幼い頃、丹羽の家では子どもが悪さしたらお仕置きに土蔵に閉じ込められたもんなんだが」
「ああ、覚えてるよ。あの魑魅魍魎の館に閉じ込められるって聞いて、子ども心に心底ぞっとしたよ」
「もう勘弁ならんとなって親父に俺が蔵まで引きずって行かれる時、兄貴、自分のことみたいにわんわん泣き叫ぶんだ。親父の足にしがみ付いて、父さん止めて和馬を許してやってって」
「うーん。英あんちゃんなら分かる気がする」
「その反面、流されやすくて頼まれたら嫌とは言えない。悪く言えばちょっと人に迎合するところがあったかな。周りに乗せられて結局破産することになったのも、そんな性格が災いしたんだと俺は思ってる。でもまあ、智恵子さんとのことは、天国の兄貴に問いただすわけにもいかんしなあ」
「それにしても‥‥」
百合香がぽつりと言った。
「そもそも智恵子さんは、一体どういう積りでこんな陳述書を書かれたんでしょう? 一度は我が子を認知してくれた和馬社長に、どうか思い直してくれと懇願されてるんでしょうか」
「おいおい、ちょっと待ってくれ。忘れないで欲しいが、私は認知してないんだからな」
「あっ、それはもちろんそうなんですけど」
慌てる百合香に一時場が和んだものの、それぞれがまだちょっと混乱していた。
「待てよ」
しばらく黙り込んでいた由紀夫が、ちょっと我に返ったように言った。
「この文面からすると、智恵子さんは、本当の父親である英世さんが亡くなっていること自体を知らないということになるよな?」
そりゃそうでしょ、と言いかけた絵莉の口が固まった。考えてみれば、智恵子は祐樹の父親は丹羽和馬という人物だと思い込んでいる。だとすれば‥‥。
「私たちは、奈津子の調査報告で智恵子さんと英世さんとの関係を確認できたけど、本間親子にとっては、そもそも丹羽英世なんて人は存在しないのよね。二人が頼りとしてきた夫であり父親である人物は、あくまで丹羽和馬と名乗る別人なんだもん。とすれば、本間親子は、その人物がとっくに亡くなっていることを今も知らないままってこと?」
「そういうことになる。それともう一点。本来であれば、英世さんが亡くなった時点で突然彼からの連絡が途絶えたはずだよな。でも、智恵子さんの陳述書からは、そんな様子がまったくうかがえない」
確かに、といった表情で三人がうなずく。
「ということは、英世さんは、亡くなった時点で、既に本間親子と完全に縁を切っていたことになるんじゃないか」
四人は、しばらく押し黙った。ここしばらくの間に立て続けに起こった現実、そして智恵子の書面で今日初めて知った事情。それらを重ね合わせて、それぞれが懸命に事態を整理しようとしていた。
そのくぐもった空気を破って、由紀夫が四人を現実に引き戻した。
「原点に戻ってみよう。もしも、英世さんが和馬になりすまして例の認知届を出したんだとすれば、その目的は?」
「自分の実の息子に社長の財産を相続させるため、としか考えられないよね」
「まあ、普通に考えればそういうことになる。認知を届け出た15年前といえば、まだ和馬の奥さんの淑子さんも健在だった。確か、跡継ぎの駿介君を丹羽地所に迎え入れることが決まった頃だな。普通、妻よりも夫の方が早くなくなるもんだから、英世さんとしては、将来弟の和馬が亡くなった時点で、遺産の半分は淑子さん、残りを駿介君と自分の息子が半々で相続するぐらいのことを考えてたんだろう」
「父さん」
絵莉が割って入る。
「ちょっとしっかりしてよ。婚外子と嫡出子の相続分を平等にするって最高裁判決が出たのは平成25年よ」
「おっと、そうだったか。ってことは、認知を届け出た平成16年の時点では、婚外子に当たる祐樹氏の法定相続分は駿介君の半分だったわけだ。正確に計算すると‥‥。淑子さんが二分の一、駿介君が六分の二、祐樹氏が六分の一、ってことになるか。絵莉、これでいいんだよな」
「はいはいお見事、正解よ」
ところが、案に相違して妻の淑子が早くに亡くなり、その後長男の駿介も不慮の事故で世を去る。その結果、遺産のすべては、駿介に代わってその忘れ形見である次男の恭介が相続することになった筈だった。ところが、そこに突如、祐樹が駿介の腹違いの弟として登場。その結果、現状では、和馬の孫である恭介と認知された祐樹が二分の一ずつの相続分を持つことになってしまった。
「もし和馬社長が百合香さんを養女にしたとすると、法定相続分は恭介君、祐樹氏、百合香さんが三分の一ずつということになる」
「でもさ、平成16年の時点で、英世さんがそんな先のことを予想できたはずがないわよね。どう考えたって」
和馬がうなずきながら大きく息をついて、それにしても、と言った。
「本間親子は、その辺りの経緯や英世さんの思惑をどこまで知っていたのやら。本間智恵子という人物は、長年付き合ってきた男の正体に何の疑問も持たなかったんだろうか」
「地獄から救い出してくれた男性に頼り切って、ただ一途にすがりつくしかなかったんでしょうか‥‥」
百合香がぽつりと言った。きっとそうだったんだろうな、と思わずうなずいた絵莉がはっと我に返る。弁護士としては、必要以上に対立相手を思いやるわけにはいかない。
「でもさ。そもそも、初対面の時に英世さんはどうして和馬社長の名前を名乗ったんだろ」
百合香が応じる。
「まさか、その時点で、遺産をかすめ取ろうなんて企んでたとは思えませんよね。そのホステスと特別の関係になるかどうかも分からないし、ましてや将来子どもが生れるなんて想定できるはずもありません」
由紀夫が、陳述書のコピーをめくりながら言った。
「二人が知り合ったのは平成8年から9年頃だ。英世さんが例のギャンブルで巨額の借金を抱えて自己破産したのが平成7年」
皆の視線が由紀夫に集まる。
「あの頃俺は、破産手続きで英世さんと毎日のように会っていたけど、そりゃもう完全に腑抜け状態だった。浮かれて先代から相続した遺産を食いつぶしちまって、どこにも持って行きようのない自己嫌悪に陥ってた。打ちひしがれた英世さんが智恵子さんを見初めることになったのは、地獄を見てきた者同士の同病相憐れむような思いでもあったのかも知れんな。最初に和馬社長の名前を名乗ったことに、さほど深い思惑があったとは思えない。高級クラブでの見栄とかホステスにアピールしようっていう下心でもあったか、まあ酒の席での軽口かジョークぐらいのことだったんだろう。いずれにしたって、当初から和馬の遺産を狙う魂胆があったなんてことはどう考えたってあり得ない」
「それは間違いないよね。その後、智恵子さんと深い関係になってからも、結局言いそびれたままちょっといびつな関係が続いたってことかな」
「英世さん、ずっと独身だったんですよね。いっそ智恵子さんと結婚しちゃえばよかったのに」
確かに、と言ってから由紀夫が続けた。
「しかし、結婚して籍なんか入れたら、たちどころに自分の正体がばれてしまう。二人が出会った頃、英世さんはもう還暦を過ぎてた。六十年間気まま放題に生きてきて、初めて心底大切な人に巡り逢ったんだとすれば、だ。その人にだけは、金持ちの弟を装って騙してたなんて無様な事実だけは知られたくなかったか」
しばらく誰も口を開かなかった。老いらくの恋と、言葉にするのは簡単だ。しかし、そんな慣用句では決して言い表せない、二人がともに歩んだ日々をその場の皆が知っている。
「そして、結局智恵子と祐樹の前でずっと別人を装い続けてきたことで、英世さんはある日、悪魔のささやきを聞くことになる」
「悪魔は何てささやいたの? ずうっと丹羽和馬を装ってきたんだから、いっそ戸籍上でも既成事実を作ってしまえって? そうすれば、愛する我が子は大富豪の相続人になれるんだぞって?」
「そんな身も蓋もない言い方をするな。けどまあ、当たらずといえども遠からずだろうな。でも、悪魔のささやきが聞こえたのは、あるきっかけがあったからだ。そして、悪魔に導かれてとんでもない企てを実行に移したのには、已むに已まれぬ理由があった」  
分るよな、と由紀夫が三人を順番に見回した。
けげんな表情の絵莉、眉根を寄せて考え込む百合香、そして最後に和馬と目が合った。 その瞬間、和馬がはっと何かに思い当たったように顔を上げた。
「末期がんの宣告か‥‥」
絵莉と百合香が同時にああっと声にならない声を上げた。
「おそらく。余命いくばくもないことを知った英世さんは、自分の命よりも何よりも、心ならずも日陰者にしてしまった我が子、未だ5歳にもならない祐樹を遺していくことに胸が張り裂ける思いだったろう」
和馬が、百合香が、そして絵莉が息を殺して由紀夫を見つめている。
「もう、間もなく自分の命は燃え尽きる。この身を投げ打ってでも、残された時間で幼い我が子のために何かできることはないのか。きっと、英世さんは自問自答を繰り返したんだろう」
「その時、悪魔のささやきが聞こえた‥‥」
「ああ。時間に追い詰められて、英世さんは必死でもがき抜いたに違いない。多分、もう冷静な判断ができる状態じゃなかったかも知れない。そして‥‥、悪魔の声に導かれるまましゃにむに突っ走った」
由紀夫が言葉を切って、再び沈黙が場を支配した。それぞれが、英世の心情に思いを馳せているようだった。
しばらく経って、気を取り直したように和馬が口を開いた。
「でも、この本間祐樹という青年。幼い頃からずっと、自分は丹羽和馬の子だと信じてたんだろう。だとすれば、当の和馬からすべてが虚構だったという主張を突き付けられて、今、どんな思いでいるんだろうな」
その場の皆がちょっと虚を突かれた。嘘の認知届のからくりを暴くことばかりにかまけていて、英世の忘れ形見と思われる青年の心情に思いを馳せたりする余裕などこれまで誰にもなかった。
「その辺りのことを判断する材料は、まだ一切ありません。申立人側としては、英世さんと本間親子との関係を前提に、認知届が虚偽であったことを主張していくしかありません」
情よりも理を旨とするのが職務である絵莉が事務的な口調で言った。
「相手方は今になってこんな陳述書を提出してきました。おそらく、明日の調停には出席する積りだと思われます。そうなれば、局面が大きく動きます」
「私とこの祐樹という青年との直接対面が、いよいよ現実味を帯びてきたな」
和馬が、ぽつりと言った。
「成り行き次第ですが、果たして祐樹氏が対面に応じるかどうか‥‥」
「でも、もしも直接対面が実現したら。何だか、想像するだけで空恐ろしいような‥‥」
再び、沈黙が流れた。
以前にも、和馬と祐樹の直接対面の話が出たことはあった。しかし、その時点では、認知無効に白黒をつける手っ取り早い方法という意味合いしかなかった。この不可解な出来事の裏に丹羽英世という存在がいたことも、智恵子や祐樹との秘められた関係も、誰一人知らなかったのだ。
沈黙の中、今この場にいる四人が四人、それぞれが同じことを自問自答していた。
  智恵子と祐樹は、本当の夫であり父親である英世の死を知らず、今もなおその人物が丹羽和馬だと思い込んでいるのだろうか。とすれば、もしも母子と本当の和馬との対面が実現して事実が顕わになった時、そこに立ち現れるのは一体どんな光景なのか。母子にとって、それは人生の土台が崩れ去るような瞬間になるのではないだろうか‥‥。

その夜。
由紀夫と絵莉が事務所のソファで向かい合っていた。脇のパイプ椅子には、さも当然のように秘書の麻乃が控えている。テーブルにはハイボールと2本の缶ビール、麻乃が小ぎれいに盛り付けたナッツだのサラミだのの小皿が並んでいる。
「本間智恵子さんの陳述、ほんと身につまされたわ。英世さんの人物像が180度変わっちゃった」
「私も、読んでてもう涙がぽろぽろ」
「あれ? 麻乃さんも、あの陳述書読んだんだ?」
訊くまでもない。裁判所から送られてきた陳述書をスキャンしプリントアウトしたのはこのミス・マルチタスクなのである。
女たちの感傷的な会話にちょっと引き気味になりながらも、由紀夫も内心は同じ思いだった。
「父さんは英世さんとも幼なじみなんだよね」
「つくづく思ったよ。家を出て無軌道な人生を歩んできても、英世さんの根っこは変わってなかったんだなって。前にも言ったろ。ほんとは心根の優しい人だったって」
「でも、大人になってからの破滅的な振舞いしか知らない私たちからしたら、ちょっと想像できなかった」
「だろうな。実は、智恵子さんの陳述書を読んで、俺にはちょっと思い当たることがあってな」
絵莉と麻乃が同時に由紀夫を見た。
「例のギャンブルで破産した後、英世さん、さすがに心底悔いたみたいだった。弟の申し出に応じて丹羽地所に形ばかり籍を置くようになってからは、それなりに身を慎むような気配もうかがわれた。ところが、だ」
英世に肺がんのステージ4という診断が出たのは、不品行が鳴りを潜め平穏な日々が続いてしばらく経った頃だった。精密検査でほぼ手の施しようがない状態まで進んでいることを告知された英世は、しかし、ほとんど取り乱すこともなく、多摩丘陵にある緩和ケア専門の終末医療施設に入所した。もちろん、担当医からの丁寧な病状説明を受けた弟和馬の手配によるものだった。
「英世さんから紅葉を観に来ないかと連絡が来たのは、その年の秋だった。余命いくばくもない幼なじみからのお誘いだ。断る理由はなかった」
平成16年11月末。英世は、3階あたりまで吹き抜けになった広々としたラウンジでくつろいでいた。アール・デコ調の豪華なテーブルとソファが並び、ステージ状になった一角にはグランドピアノまで置かれている。一見して、よほど裕福な階層でなければ入所できそうもないしつらえであった。
水族館を思わせる巨大な窓から見事なもみじの庭園を望みながら向かい合った。英世は、若い頃の放蕩三昧が嘘のような吹っ切れた表情を見せていた。
好き放題やってきたから今さら何も思い残すことはないんだが、と英世は言った。ただ、親ってのは面倒を掛けられるのが生き甲斐みたいなもんだからまあいいとして、弟の和馬にまで迷惑を掛け通しだったことが心残りでな。あいつには色々言い遺しておきたいことがあるんだが、まだもうしばらくは生きてる積りだから、と言って英世は薄く笑いを浮かべた。
そこで、由紀夫先生に一つお願いがあるんだが、と彼は続けた。
やっぱり。一緒に紅葉を愛でようというだけで声を掛けてくれたというわけではなさそうだった。
「あのみっともない事件からもう十年近くになるかな。その節は、先生には本当にお世話になったなあ」
英世は、妙に殊勝な顔で話し始めた。
「自己破産でほぼスッカラカンにはなったけど、おかげで借金の方はきれいさっぱり無くなった。でも、和馬の奴は、俺を丹羽地所に迎える時かなりの額の支度金まで用意してくれた。ほんと、あいつにだけは頭が上がらないよ。あれ以来、ギャンブルからはすっかり足を洗ったんだが、まあ色々付き合いもあって、残念ながらその金ももうほとんど残ってない」
さもありなん‥‥。由紀夫は、心の中でつぶやく。音楽はこの人の人生そのものだ。派手な業界にいれば、ちょっとやそっとの金、あっという間に羽を生やして飛んでいっただろう。
「俺の肺がんがもう末期だってことは先生も知ってるよな」
英世は続けた。
立つ鳥、後を濁さずって言うだろ。知っての通り俺には嫁さんも子どももいないから、もしもの際、俺の相続人は弟の和馬だけってことになるんだが、残念ながらわずかばかりの預金以外遺産と呼べるものは一切残ってない。
そこでだ、と言いながら、英世が胸ポケットから封筒を取り出した。封はしていない。表に『遺書』と書かれているのを見て、由紀夫はちょっと胸を突かれた。
促されて、封筒から一枚の便箋を取り出す。そこには、ほんの三行ばかりの手書きの文字が記されていた。
『私こと丹羽英世は、唯一の相続人である弟の丹羽和馬が、私の死後すみやかに相続放棄の手続きを取るよう望む』
その後に、今日の日付と署名と捺印がある。
「特に問題はないだろ」
「少なくとも、遺言状としての形式は整っています。内容についても、英世さんの明確なご意思が読み取れますので問題はありません。相続放棄をさせる強制力があるわけではありませんが、和馬社長は当然お兄様のご遺志を尊重するでしょう」
「そりゃよかった」
英世が笑った。
さすがに、ちっぽけな遺産の整理だの隠れた借金がないかだの、あの世に行ってまで和馬の手を煩わすのは忍びなくてな。だから、これは先生に預けておくから、その時が来たらよしなにお願いしたい。英世は封筒に丁寧に封をして、改めて由紀夫に手渡しながら言った。
「この期に及んで、まだ由紀夫先生に面倒をかけるのはまことに心苦しいが、どうかよろしく頼む」
「確かに承りました。ついては、念のためにお聞きしておきますが。その後はもう借金はありませんよね」
英世が破顔する。
そりゃもっともな質問だ。でも、それは言わぬが花、ということにしとこう。ひょっとすると、俺が死んだ後、相続人の和馬宛てに巨額の請求書か届くかも知れんぞ。だから、借金も含めて相続放棄しとけば間違いない。言わずもがなのこんな遺言を書いたのはそういうわけだ。そう言って、英世はもう一度小さく笑った。
それからほんの数ヶ月で、英世は危篤状態に陥る。連絡を受けて由紀夫が駆けつけた時には、既に和馬をはじめ丹羽家の主な顔ぶれが揃っていた。庭園のあの見事なもみじは、すっかり葉を落としていた。
いよいよいまわの際になって、縁の深い親族が英世のベッドサイドに集まった。由紀夫も、枕元の和馬の後ろから見守っていた。意識があるのかないのか、朦朧とした様子の兄が弟にしきりに何事かを語りかけようとしているように見えた。和馬が、兄の口元に耳を寄せる。英世が何かをつぶやき、和馬が一言二言応えた。厄介をかけ通しだった弟に、気ままで放埓な人生を一言謝罪したのだろうか。兄弟とも幼い頃からの遊び友達だった由紀夫にはそんな風に見えた。
こうして、英世はあっけなく逝ってしまった。父の代から丹羽家に迷惑をかけ続けた人生は決して褒められたものではなかったが、和馬にとってはかけがえのない二人きりの兄弟だったのも事実。その喪失感は決して小さくはないようだった。
地元の名だたる旧家として恥ずかしくないだけの葬式を済ませ、一息ついた頃、由紀夫は故人の遺言を預かっていることを和馬に伝えた。手続き上、自筆の遺言には裁判所のお墨付きが必要とされているが、由紀夫が知っている内容からすればそんな手間をかけるまでもない。
由紀夫は、封をしたままの遺言状を唯一の相続人である和馬に手渡して、英世と語り合ったあの秋の日のことを話した。もちろん、和馬に迷惑の掛けっぱなしのまま逝くことになった慚愧の念を伝えることも忘れなかった。
「その数日後、和馬から相続放棄手続きの依頼があった」
ああそう言えば、と麻乃が大きくうなずいた。
「そんな案件がありましたっけねえ。大富豪の丹羽社長が敢えてお兄さんの遺産の相続放棄なんて、何だか違和感があったのを覚えてます。そうですか、あれは英世さんのご遺志だったんですか」
さすがミス・マルチタスク、記憶力の方もあなどれない。
「お二人さんのご期待には沿えないが、その後、和馬宛てに巨額の請求書が届くことはなかったな」
女二人が顔を見合わせてくすりと笑った。

          act.17

翌朝。
JR川崎駅東口を出て川崎港方向に向かって徒歩15分余り。戦前に建てられたとおぼしき横浜家裁川崎支部の建物はすっかり老朽化している。調停がスタートする朝10時前になると、一基しかないエレベーターの前には当事者や弁護士たちが長い列をなす。館内冷房も本来機能をほぼ喪って久しく、夏場ともなれば人々は汗にまみれてただ呆然と立ち尽くすばかりである。おまけに、年季の入ったエレベーターが息も絶え絶えに昇るスピードたるや、おそらく階段で上がった方がよほど早いに違いない。
かくして、調停室のある4階フロアにたどり着いた時点で当事者たちは既に心身ともに疲労困憊、満を持してと高ぶっていたモチベーションは半減することになっている。そんな試練を乗り越えて、丹羽和馬と島津絵莉はやっとのことで前回と同じ申立人控室に着席した。
調停委員が顔をのぞかせたのは、指定時刻の10時ちょうどだった。委員は、先ほど本間祐樹さんがお見えになりましたので今日は相手方から先にお話をうかがいます、とにこやかに告げた。
「ついに主役登場か」
「いよいよですね。私も、さすがにちょっと緊張してきました」
だが、和馬たちはそれから長く待たされることになる。かなり込み入った事情だけに、祐樹の聴取には時間がかかっているようだった。

「本間祐樹さんからこれまでの経緯を事細かに伺いました」
ようやく調停室に呼び込まれた和馬たちに、調停委員が切り出した。
「事実関係は、基本的にお母様が書かれた陳述書の通りで間違いないようです。幼い頃の記憶など一通りお聞きした後、申立人が相手方を認知した事実はなく申立人の兄が届け出た可能性が高いというご主張の概略をお伝えした上で、先日ご提出頂いた主張書面と調査報告書をご本人にお渡ししました。今、控室の方で改めて読んで頂いています」
「こちらの主張を聞いて、祐樹さんは、どんなご様子でしたか」
「あくまで私どもの印象ですが、その、あっけに取られたような感じで。まったく理解が及ばないのか、とりあえず反論なさる様子は見受けられませんでした」
主張書面には、15年前の認知届が虚偽のものであること、届け出たのが丹羽和馬の兄の英世であること、さらに、兄が弟になりすましたカラクリまでが克明に書かれている。
自分の父が丹羽和馬であると彼が信じ込んでいたのだとすれば、祐樹の衝撃は計り知れない。生まれてこの方父親だと思っていた男が、実はまったく違う人物だった。そんな途方もない現実を、そう簡単に受け止めきれるとは思えない。青年は今、どんな思いであの書面の文字を追っているのだろう。
「祐樹さんの記憶では、幼かった頃にはお父様はいつもご自宅のマンションに来ておられたとのことです。ところが、いつの頃からか顔を見せなくなった。後で母親に聞いたところでは、祐樹さんの5歳の誕生日が最後だったそうです」
やはり、ずっと前に、父親は母子と関係を絶っていた。だから、母子は父親が和馬を装った別人であったことも、はるか昔に亡くなっていることも知らないままだったのだ。
「物心がつくかつかないかの齢ですから、お父様のことはほとんど覚えていらっしゃいません。ただ、最後の夜のことだけはおぼろげな記憶があると仰っていました」
   最後の夜!
絵莉は、ちょっと待って下さいと言いながら、あわてて資料のファイルをひっくり返した。認知の記録が記載された本間親子の戸籍を開く。
「やっぱりそうだった。うろ覚えでしたけど、認知の届け出は平成16年の9月1日。祐樹氏の5歳の誕生日当日です」
絵莉の言葉に、和馬がちょっと考え込む。
「兄が他界したのは平成17年の年明けでした。亡くなる少し前でしたか、当初余命半年って診断だったけど、桜が咲けば丸1年生き延びたことになるって言ってたのを覚えてます。ということは、末期の肺がんの診断が出たのは平成16年の春‥‥」
「そして、英世さんが社長を装って認知届を出したのがその年の秋口。肺がんの診断からおよそ半年後ということになります」
和馬と絵莉、そして二人の調停委員もしばし押し黙った。それぞれが、ここまでに分かった事実とそこから想定される可能性に思いを馳せていた。
一体どうして、兄は弟になりすまして認知届を出すなどという行為に及んだのか。和馬は、昨日由紀夫が語った言葉を反芻していた。
15年前、余命が短いことを知った英世は、精神的にも経済的にも何の拠り所もない愛人と幼い息子を残して逝くことの不安にさいなまれていた。そんな時、英世の耳元で悪魔がささやく。お前の死後、世を忍ぶ愛する者たちがつつがなく暮らしていける手立てはないのか。それを見つけて実行することだけが、野放図な人生を歩み続けたお前の唯一の生きた証しではないのか、と。そして、英世は我が子を大富豪の実子と偽るという行為に手を染めた。和馬は、今はもうこの世にいない兄のやるせない思いを痛いほどに感じていた。
沈黙を破ったのは絵莉だった。
「祐樹さんは、今、我々が提出した書面を読んでおられるはずです。祐樹さんにとっては大変衝撃的な内容だとは思いますが、今回の認知無効の申立ての理由は十分に理解されるはずです。事ここに至れば、もう論点は一つに絞られるんじゃないでしょうか」
二人の調停委員は無言で聞いている。
「祐樹さんが父親だと思っている人物は、本当に申立人である丹羽和馬なのかどうか。この点が最大の問題です。祐樹さんは、幼い頃、父親と頻繁に会っておられました。だとすれば、顔ぐらいはおぼろげにでも覚えていらっしゃるんじゃないかと思うんですが」
絵莉がちょっと言葉を切って和馬の方を見た。和馬がうなずく。
「いかがでしょう。いっそのこと、当事者双方が直接顔を合わせることはできないでしょうか。申立人とお兄様の目鼻立ちが似ているというのは事実ですが、決して瓜二つというわけではありませんし、15年経ったからと言って顔立ちそのものが変わるわけもありません。実際に面と向かえば、すべてが明らかになると思うんですが」
調停委員が顔を見合わせた。親子関係を自明のものと思っている息子とそれを真っ向否定する父。二人の当事者が面と向かって直接対峙する。5歳の時から会っていないとはいえ、確かに目の前の男が自分の記憶の中にある父なのかどうか判断できる可能性がないとは言えない。
調停委員も、こうした成り行きを考えないではなかった。しかし、ここまで入り組んだ事情と当事者たちの感情の機微を思うと、そこで起こる事態は想定しがたい。おいそれと進めるわけにはいくまい。まずは相手方の祐樹が同席に同意するかどうかを確認した上で、最終判断は裁判官に委ねることとなった。
和馬は、絵莉とともにいったん控室に戻った。10分、20分、じりじりしながら、ただ待つしかなかった。間もなく30分が経とうとする頃、大変お待たせしましたと声が掛かった。

和馬と絵莉が調停室に入ると、二人の調停委員に挟まれて、中央に五十前後と思われる女性裁判官が着席していた。裁判官は瀧川と名乗った後、先ずここまでの事情を確認した。申立人丹羽和馬は、相手方本間祐樹との親子関係がないこと、15年前の認知届が虚偽のものであると主張している。一方本間祐樹は、和馬が間違いなく自分の父親であるとの主張は変わらず、現段階では双方の主張はまったく相いれない。
「申立人は、相手方と直接顔を合わせて真偽を確かめたいとのご意向だとうかがいました。相手方は、幼い頃は父親とほぼ通常の家族関係にあったものの、小学校入学前を最後に一切連絡が途絶えたとのことです。つまり、もう15年以上会っていない状態が続いていて、しかもご自宅には、父親が映っている写真やビデオなどは一切ないんだそうです。ですから、祐樹さんの記憶の中の父親の姿は非常におぼろげで、直接お会いしても果たして見分けがつくかどうかまったく自信がないとおっしゃってます」
和馬と絵莉は、息を詰めるようにして裁判官の話を聞いていた。
「そこで、裁判所として一つ提案を差し上げました」
裁判所の提案? 絵莉にも、それがどんなものなのか見当がつかない。
「今回の申立ては、あくまで父と子の関係を確認することで、当事者は丹羽和馬さんと本間祐樹さんです。しかし、祐樹さんの父親がどうなるのかという点は、母親である智恵子さんにとっても大変な問題です。そこで、次回期日、母親の智恵子さんに利害関係人としてご参加頂いたらどうかと考え、祐樹さんに打診しました」
絵莉が、大きく息をつきながらなるほどとうなずいた。
「智恵子さんにご参加頂いて、和馬さんと直接顔を合わせて頂ければ、祐樹さんの父親が丹羽和馬さんなのか否かは一目瞭然です。もちろん、智恵子さんご自身のご意向を確認しなければいけませんが、祐樹さんはこの提案を了解されました」
絵莉が、和馬の方に目をやった。
「私の方も、それは願ってもないことです」
和馬は、極力冷静を保とうとしているようだった。そんな和馬を瀧川裁判官がじっと見ていた。裁判官は事実と証拠を元に判断を下すのが原則だが、当事者の様子や態度振舞いも大きな要素となる。絵莉は、この裁判官が和馬の主張に嘘偽りがないことを見て取ってくれていることを祈った。

つづく (^.^)/~~~

to be continued to #41
     ~will be released on 2022.10.7~

仁義なき戦い(完結編)に見る日本経済再生への道

お待たせしましたっ! ついに「仁義なき戦い」の登場です。但し、ちょっとおまけの様な「完結編」です。全5作の中で私が好きなのは「広島死闘編」と「頂上作戦」なのですが、これを書いてしまうと28ページを遥かに超過する大作になりそうで「娘の夫の長い文書」の様に「あれを読んでどれくらいの人が理解できるか」とやんごとない方から不評をかってしまいそうなので、今回は「完結編」を手短に纏めたいと思います。

さて、例によってあらすじから・・・
第4作「頂上作戦」での山守組と打本会・広能組連合との抗争は、双方の幹部の一斉検挙により表向きは終息した。打本会は解散し広能組組長の広能昌三(菅原文太)は網走刑務所に収監される。

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同時に逮捕された山森組幹部武田明(小林旭)は広能よりも先に出所し、暴力団に対する市民社会からの批判をかわすために政治結社「天政会」を結成し、広島の暴力団の取り纏めを図った。とは言え、従来の暴力団組織では最早やっていけないとする知性派の武田と、旧来からの武闘派である副会長の大友勝利(宍戸錠)や早川秀男(織本純吉)とはそりが合わず、会は決して一枚岩ではなかった。同じく武闘派の江田省三(山城新伍)は、武田には頭が上がらないと思ったのか、武田側に留まった。この様な状況の中、天政会に反旗を翻す広能の兄弟分の市岡輝吉(松方弘樹)が、天政会幹部の杉田佐吉(鈴木康弘)を殺害する。この事件への対応について、武田と大友は真っ向から対立する。

そんな中、武田が県警に逮捕されたため、松村保(北大路欣也)が会長となるが、これを良しとしない大友は松村の殺害を企てるが失敗に終わる。これを機に松村と大友の中は決定的になり、大友はなんと仇敵であったはずの市岡と義兄弟の盃を交わす。これに怒った松村は市岡を殺害、大友は県警に逮捕されてしまう。また、早川は引退に追いこまれる。更に、広能が服役で留守の間に広能組の組員が槇原組長の槇原政吉(田中邦衛)を射殺する。と言うことで、一旦平穏に戻ったかに見えた広島はまたもや抗争の場になってしまう。

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そうこうする内に武田が出所し、松村は会長の座を武田に譲るが、出所してくる広能への対応を巡って、武田と松村の意見が対立。武田は広能とは以前より抗争の相手であったが、個人的には広能を評価しており何とか穏便にしたいと考えており、広能の出所に際して出迎えに行く。武田は広能に引退を迫るが、広能はこれを拒絶する。松村以下多数は広能に対して強硬な措置を主張しており、結果として武田は天政会の中で孤立し引退を余儀なくされて、松村が再び会長となる。松村は、反松村派が広能を担いで勢力を拡大することを懸念し、広能組の組員を天政会で面倒を見ることを条件に広能に引退を迫った。

松村は会長就任のあいさつ回りのために大阪に出向いた際に、早川組組員から襲撃される。側近の江田は死亡し、松村は瀕死の重傷を負う。松村はそんな状態にもかかわらず会長襲名披露を無事に成し遂げる。広能は表舞台から去ることを決め、組員を天政会に預けることに同意し引退する。
そこに広能組の天政会参加を知った槇原組組員が広能組の若手を襲撃して死亡させ、新たな抗争が始まる。広能は自身が若かった頃の暴走行為を今は若い者がやっており、それを抑制できなくなったことに時代を感じるのであった。

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とまぁ、相変わらず抗争と暴力全開の映画です。仁義なき戦い全編に言えることですが、出演しているキャストの顔ぶれの豪華なこと!第4作の頂上作戦以前までは、このメンバーに加えて、梅宮辰夫(明石組 岩井信一他)、成田樹夫(松永弘)、千葉真一(若い時の大友勝利)、小池朝雄(義西会 岡島友次等)等、一流スターたちが目白押しです。
一方、高倉健、鶴田浩二、池辺良、安部徹など仁義・任侠系のベテランスター達は出演しておらず、仁義なき戦いシリーズによって東映のやくざ路線が大きく変貌を遂げたといえるでしょう。
尚、ついでですが、天政会の本部は京都の五条大橋の西側のバイク専門店「ドリームロード」、天政会が行進するのは堀川通です。また、太秦の河端病院は何度も登場していますが、残念ながら3年ほど前に移転し、現在は駐車場になっています。
その中で、この完結編は広能、武田、大友などそれまでの主人公たちが現役を引退、江田、槇原が殺害され、松村の様な若手にとって代わられる展開となっており、過去の4作に比べると時代の変遷と言うかどこか物寂しさが漂っています。
とは言え、見どころは満載です。市岡の狂気に満ちた目付き※、梅毒に侵されて正常な判断が出来なくなった大友のハチャメチャな行動(尤も、広島死闘編での千葉真一が演ずる大友※※も相当常軌を逸していましたが)、武田から一緒に飲もうと誘われて「そっちとは飲まん。死んだもんにすまんけぇのぉ」と言う広能のカッコよさ等、書き出せばきりがないのですが、それにしても重症の中会長襲名披露を勤め上げる松村にはド迫力があり、若干疲れの見えた武田や広能との世代交代を強く印象付けています。

そんな中で、ここでは大友勝利の名言(珍言)にスポットを当てたいと思います。大友が泥酔して市岡に対して発する「牛のクソにも段々があるんで」というものです。目まぐるしく展開するストーリーについて行けない観客もこのセリフには圧倒されて忘れることが出来ずに映画館を後にしたのではないかと思います。
この意味するところですが「物事には配列や順序がある」と言う、大友にしては意外にまともな発言でした。ビジネスの現場においては、重要な交渉の席に部長を同伴して出向いたところ、相手企業の出席者が係長レベルだった時や、相手側が打合せの冒頭からいきなり無理な要求を切り出した時などに使って頂きたい言葉です。※※※
尚、筆者が小学生だった昭和40年頃は、まだ牛を飼っている農家があり、通学路に牛の糞が落ちており、確かに段々がありました。誤って牛の糞を踏んづけると笑い者にされると言われて気を付けて歩いたものです。

さて、ここで牛のクソに言及するのは大きな理由があります。それは、バブル崩壊後の日本経済の低迷の大きな要因となっているからです。今更ですが、日本経済の低迷はイノベーションの欠落と生産性の低さに起因します。ちなみに日本の生産性はG7の中の最下位で、米国の60%程度だそうです。

米国の経済学者であるDavid Graeberは無意味で不必要で有害であるにも関わらず給与が支払われている業務を”Bullshit Jobs”(牛のクソ業務)としています。彼によると、Bullshit業務は以下に分類されます;

① 誰かに偉そうな気分を味合わせるためだけの取り巻き
例:受付係
② 雇用主のために他人を脅迫したり欺いたりする脅し屋
 例:ロビイスト、顧問弁護士
③ 誰かの欠陥を取り繕う尻ぬぐい
 例:バグだらけのコードを修正するプログラマー
④ 誰も読まない書類を延々と作成する書類穴埋め人
 例:コンサルタント
⑤ 人に仕事を割り振るだけの中間管理職

如何でしょうか? 日本企業の典型的な問題点を指摘されているような気がしてなりません。

③はあまりピンと来ないですが、②は何となく判る様な気がします。①、④、⑤は、ホントにそのものずばりですね。
①については、確かにアポイント先でステキなお嬢さんに「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」と言われると気分が悪い筈はないですが・・。
もっと大きな問題は会議だと思います。偉い人は自身が招集する会議に多数を出席させ、自身の考えを延々と披露するのを好みます。これで自身の力を誇示しているんでしょうね。勿論、急用(や休養)で欠席すると怒りまくるので、無駄と思いつつも出席せざるを得ません。でも、自分の考えなんかは前の晩にメールで配信すれば事足りるので、会議では本当に話し合うべきことだけを要領よく議論し、決めればそれで済みます。こうやって、本来付加価値を生み出すべき社員の時間が無駄にされてしまいます。 
④については稟議に諮る資料です。役員クラスは目が悪くなって、また、終日多数の決裁事項に疲れているので、「・・・で、どういうことなんだ?」だけで判断して、多数の部下が徹夜状態で作成した細かい資料まで見てないのではないかと思われます。
尚、この④については我々コンサルタントも反省すべき点は大いにあります。コンサルタントは月額で報酬を貰うわけですから、見合うだけの仕事がなければ契約解除か報酬減額になります。そこで、そうならない様に、本来1ページで事足りる内容なのに資料を10ページにも膨らませて、仕事をやっている感を出す傾向にあります。企業の皆さん、コンサルタントには十分気を付けてくださいね。あっ、私は決してそんなことはしませんから安心してご依頼ください。
⑤については、日本ではおなじみの中間管理職の皆さんです。部長代理さん、次長さんは自分の仕事が何かの役に立っているか、真剣に考えてみたほうが良いのでは???
これについては、「八甲田山と組織の統制について」(2020年7月)で詳しく述べていますので、ぜひご一読を。

映画「八甲田山」と組織統制

と、またまた長くなってしまいましたが、日本経済は牛のクソ仕事に時間や賃金を費やしているような余裕はもはやありません。特に問題は、この様な仕事の従事者の多くがホワイトカラーで比較的高い賃金を享受していることです。これを実際の生産活動に従事し付加価値の創造に貢献している従業員に配分することで、公正な分配と格差の是正になるのではと愚考する次第です。

と言うところで、最後はクソを題材にした歌謡曲を探してみました。有名な曲しか思い浮かばなかったのですが、先ずは吉永小百合さんの「奈良の春日野」の「ふんふんふん、黒豆や♪」です。これは、昭和40年に発売された「天満橋から」のB面で、昭和62年に明石家さんまがオレたちひょうきん族で紹介したことより大きな話題となりました。「天満橋から」は同年の紅白で可憐な振り袖姿で歌っていましたが、こちらも歌詞は何を言いたいのか判らず意味不明です。作詞した佐伯孝夫さんは「いつでも夢を」や「有楽町で逢いましょう」などの大作詞家ですが、ときおりおちゃめな曲を手掛けられていたようです※※※※。

もう一つは、これも有名なダウンタウンブギウギバンドの「スモーキン・ブギ」(昭和50年)ですが、当時の大アイドルであった山口百恵さんがテレビで「クソして一服」と歌っていたのが印象的でした。

※ 松方弘樹は、仁義なき戦いシリーズに三回、それぞれ異なる役で出演しており、全てにおいて殺害されています。第1作の子供のためにと立ち寄る玩具屋で射殺される坂井鉄也が最も高い評価を受けているようですが、本作の市岡の狂気の目つきにも強く引き付けられます。

※※ 千葉真一演じる「広島死闘編」での大友勝利は兎に角ハチャメチャなのですが、彼の発言の中には映画を見たもの全員の脳裏から離れない言葉があります。・・が、それをここに書いてしまうと倫理上の問題からこのコラムが公開禁止になりそうなので、残念ながらご紹介できません。ご興味のある方は、ぜひ、ビデオで確認してみてください。

※※※ これと並ぶ印象深い言葉に、「頂上作戦」でげんこつラッパ先生(義西会会長岡島友次の小学校時代の恩師)が、昔の生徒たちに持ち上げられた際に照れて発する「顔に電気がつくわい」があります。これは、部下や取引先から「さすが、課長。お目が高いですね!」とか褒められた時に使用したいものです。

※※※※ 佐伯孝夫センセイがGSに提供した曲にはザ・ジャイアンツの「スケート野郎」ザ・ジャイアンツ – スケート野郎 – ニコニコ動画 (nicovideo.jp) があります。ザ・ジャイアンツは「ケメコの唄」を発表しましたが、ザ・ダーツの同じ曲が大ヒットしたのに対して全く話題にならなかった泡沫GSです。

                                  

                                   (2022年1月)

「緋牡丹博徒」お竜はジェンダーギャップを乗り越えたのか?

今回は、「緋牡丹博徒お竜参上」(1970年公開)をお届けします。緋牡丹博徒シリーズ全8作のうち6作目で、監督は加藤泰。シリーズ最高傑作として名高い作品です。

では、例によってあらすじから。
緋牡丹のお竜さんこと矢野竜子(藤純子)は、故あって知り合った盲目の少女おきみの目の治療費を用立てる。治療後、おきみとの再会を約するが、渡世上のやむを得ない業務により、再会できないまま離れ離れになる。
その数年後、お竜さんは、浅草の鉄砲久親分(嵐寛十郎)一家の客人として世話になっている。鉄砲久は東京座と言う演芸場の運営に携わっている。東京座の来客がスリの被害を受け、鉄砲久一家が捕らえた犯人は、おきみであった。おきみとの再会を喜ぶお竜さん。そこに、おきみを慕って後をつけてきた銀次(長谷川明男)も同席した。銀次は、鉄砲久のライバルである鮫洲政五郎(安部徹)一家のやくざ者であった。銀次は、鉄砲久におきみと結婚したい旨を伝え、鮫洲との間で友好関係を望む鉄砲久は、おきみを養女とし両家を親戚関係にしようとした。


鉄砲久の養女となり住み込んだおきみは、鮫洲政五郎の命を受けた銀次の指示に従い、東京座の実印と権利書を持ち出した。これを取り戻すために鮫洲一家に乗り込んだお竜さんは、サイコロ勝負を挑み、相手のいかさまを見破って、実印と権利証を取り戻す。
流れ者の青山常次郎(菅原文太)は、お竜さんと賭場での知り合いであった。青山は女郎屋に売られた妹を取り戻そうとするが、妹は既に死んでいた。その過程で西尾と言う男を斬ってしまうが、西尾が鮫洲の兄弟分であったことより、鮫洲に命を狙われる。青山は、東京座の芝居監督である佐藤と親しいことより、一時的に鉄砲久に身を寄せるが、妹の納骨のために故郷の岩手県に帰省する。
帰省の前に、雪の降る中で、青山とお竜さんは互いの別れを惜しみ、お竜さんが青山に汽車の中で食べる様にと弁当を渡す際に落とした蜜柑をお竜さんが雪で拭って青山に渡す場面は緋牡丹博徒シリーズきっての名場面と言われている。
芝居監督である佐藤は女優のお留の才能を見限り、おきみを主演女優に抜擢する。面白くないお留は、屋台で酔ったところを鮫洲一家の鯖江(名和宏)にそそのかされ、佐藤との打合せと偽って鉄砲久を一人で連れ出す。そこを鮫洲一家が襲って鉄砲久を殺害する。喜三郎ほか残った鉄砲久の一党は報復を主張するが、鉄砲久親分の遺言に従って思いとどまる。
その後、両家の手打ちの場所が設けられるが、立会人の金井(天津敏)が手打ちの条件として、東京座の運営権を鮫洲一家に移管することを提案する。これに怒った鉄砲久一家との間で揉み合いになるが、突如出現したお竜さんを慕う熊坂寅吉(若山富三郎)の手助けにより、運営権は鉄砲久の元に留まり、鮫洲は指を詰める。
次に、鮫洲はおきみと佐藤を攫って拷問にかける。おきみを慕う銀次はこれに耐えかねて親分の鮫洲に襲い掛かるが、逆に殺されてしまう。おきみを人質にして、東京座の実印と権利証を差し出す様に要求する。主のいない鉄砲久一家は、已む無しとしてこれに応じようとするが、そこにお竜さんが乗り込み実印と権利証を奪い返す。
そこで、鮫洲はお竜さんに一対一の果し合いを申込み、お竜さんはこれを承諾する。
決闘の直前になぜか岩手県から戻ってきた青山が現れ、立会人として同行する。
果し合いに向かう二人をバックにおなじみの緋牡丹博徒の唄(娘盛りを渡世にかけて~♬)が流れる。
一対一の果し合いのはずが、鮫洲には鯖江他多数の子分を同行させてこれを一人一人となぎ倒していくお竜さんと青山。お竜さんは脇差とピストルさらには髪にかざした簪を投げて戦う。そこで、ひらりとほどけるお竜さんの長い髪がとても美しい。
最後に予定通り、お竜さんが鮫洲を仕留めて戦いは終わる。青山は、お竜さんにおきみの傍についてやる様に伝えて警察に自首する。

本作品の見どころは、憎々しい鮫洲をお竜さんがやっつける痛快さは勿論ですが、随所に見られる名セリフも印象深いものがあります。
例えば、
1)お竜さんと鮫洲政五郎が花札勝負をする場面でのやり取り:
  「ところで、お竜さん。お前さんは何を賭けるんだい」
  「命ばい」
2)お竜さんが銀次に堅気になるよう勧める場面でのお竜さん:
  「やくざ者は女をしあわせにできんとよ」
3)おきみとの結婚を迷う銀次に対してのお竜さん:
  「女の幸せは好きな人と沿い遂ぐこつ、それしかなかよ。きみちゃんはあんたとの幸せに命ば賭けとる」
4)お竜さんが鮫洲からの果し合いの申し出に応える場面;
  「そんでよう侠客の看板がかけてられますねぇ。どぎゃんしてもやると言うなら一対一できんさい。」

とまぁ、書き出せばきりがありませんが、そろそろ本題に。
ジェンダーレスについては、1986年男女雇用機会均等法成立を機に謳われてきましたが、特にここ数年非常に注目を浴びる様になりました。単なる人権の観点だけでなく、少子高齢化・人口減少の中、男性中心社会の行き詰り、女性中心の消費動向への変化、出産・育児などによって埋もれてしまっている女性の能力の活用など経済活性化の観点からも、当然の動きと言えましょう。
その様な動きの中、嘗ての男性中心の会社から実際に消費の主導を握っている女性の登用は必然的な流れであり、新卒や管理職における女性比率の向上を進める大手企業が増加しています。
その一方で、大手企業においては女性役員の数はまだ少ないのが現状であり、社内で自身のキャリア形成を如何に行うか、戸惑っている若手女性社員も少なくないと思われます。
そこで、各企業はロールモデルの活用により女性社員のキャリア形成の支援を図っています。
ロールモデルとは、社会学者のR.K.マートンが提唱したもので、その行動、模範、または成功が他の人、特に若い人たちによって模倣されている、または模倣される可能性がある人のことです。若手女子社員は、対象となるロールモデルの人物を参考に自身のキャリア形成を描くこととなります。
お竜さんは、典型的な男性中心のやくざ社会において、男性の親分衆に対して一歩も引けを取らず渡り合う稀有な存在です。大手企業に置き換えると、男勝りの活躍と功績によって役員にまで上り詰めた存在と言えましょう。では、お竜さんはロールモデルになり得るのでしょうか?
企業が女性の登用を意識した初期段階においては、この様な女性を意図的に登用して、ロールモデルとして登用しようとしていましたが、多数の若手女子社員にとって模倣の対象にならなかった様です。
この理由は、企業側としては男性中心の仕組みを変えるのではなく、特定の女性を男性社会に組み込もうとしたこと、当の女性にとっては業務と個人生活の両立を推進するものではなかったからだと思われます。
これに対して、現在求められているのは、男性中心の仕組みを改め、両立を可能にする体制の構築です。即ち、ジェンダーに関係なく業務と個人生活を両立しながら活躍している人間こそがロールモデルになり得る訳で、その意味では残念ながらお竜さんをロールモデルと考える女性社員は少ないと思われます。
一方で、両立を見事に果たしている事例は、子連れ狼の拝一刀(映画では、若山富三郎、萬屋錦之介などが主演)でしょう。拝は柳生一族に妻を殺害されたため、当時三歳の大五郎の育児をしながら殺人請負い業務を遂行しており、正に両立を果たしています。
今の時代でもさすがに男やもめになりたいと希望する者はいないにしても、奥さんが単身で海外駐在すると言ったケースが出てくることはあり得るので、今後、拝をロールモデルとしたい若手社員出てくる可能性は十分にあるかと思います。
この様に50年も前の1970年代初頭に、女性・男性それぞれに新しい生き方の原型が現れたことは単なる偶然とは思えず興味深いものがあります。異国フランスにおいても「ベルサイユのばら」のオスカル(Oscar François de Jarjayes)のジェンダーレスの生き方が話題になりました。
いずれにしても多様化の時代、色んな生き方を尊重する社会になりつつあることは喜ばしいと思います。

さて、藤純子の楽曲についてですが、私の知る限り全て映画のテーマ曲で、緋牡丹博徒をはじめとして「女渡世人(同名映画)」「おんなの命(映画は、日本女侠伝)」の3作となります。勿論、GS色はありません。
「子連れ狼」については橋幸夫で大ヒットしたのは記憶に新しいところです。橋はデビュー以来初期の楽曲の殆どは吉田正の作品ですが、1966年の「雨の中の二人」「霧氷」(作曲はいずれも利根一郎)を皮切りに吉田正以外の作品を積極的に手掛ける様になりました。1967年にはGSブームに乗って鈴木邦彦の「そばにいておくれ」「若者の子守歌」、1968年にはすぎやまこういちの「思い出のカテリーナ」「雨のロマン」、1969年には歌謡ポップス時代となり筒美京平の「京都神戸銀座」、「東京-パリ」等のヒットを飛ばしています。その後、数年の鳴かず飛ばず時代を経て、1972年の「子連れ狼は」吉田正作品の久しぶりの大ヒットとなりました。
その後の橋は、「帰ってきた潮来笠」、「股旅グラフィティさらば渡り鳥」、「股旅78」と、どこまで真面目なのか判らない曲を連発していますが、勿論、ヒットはしていません。尚、「股旅78」は作曲がブルーコメッツの井上忠夫と言うこともあり、軽快なポップ調の楽曲ですが、歌詞とのミスマッチに結構笑えます。

丹羽家の人々 ~冒頭から~

           登場人物

*丹羽登史郎:丹羽家先代当主 明治38年生 
 丹羽家相続と同時に商工省を退官、
 昭和11年丹羽地所創業 昭和50年隠居 平成元年亡
*丹羽英世:登史郎の長男 昭和12年生 
 ジャズミュージシャンを目指して若くして家を出る
*丹羽和馬:同次男 昭和15年生 
 昭和50年、父登史郎を継いで丹羽地所社長
*丹羽淑子:和馬の妻 平成25年亡
*丹羽駿介:和馬の長男 昭和51年生 
 平成18年、後継含みで丹羽地所に入社するも平成27年亡
*丹羽百合香:駿介の妻 丹羽本家の遠縁で、
 和馬の秘書を経て平成20年駿介と結婚
*丹羽泰介:駿介の長男 平成22生 平成27年亡
*丹羽恭介:同次男で駿介の忘れ形見 平成28生
*丹羽伊佐緒:和馬の従兄弟で丹羽地所の番頭格の専務
*本間智恵子:和馬の愛人? 昭和49年新潟生
*本間祐樹:智恵子の長男 平成11年生 
 認知により、戸籍上和馬の婚外子となっている
*島津由紀夫:和馬の幼なじみで、丹羽家の顧問弁護士
*島津絵莉:由紀夫の次女 弁護士
*竹原麻乃:島津法律事務所の古参秘書兼事務員
*松尾奈津子:絵莉の親友 松尾リサーチの代表兼調査員

act.1

老人は、その文字を食い入るように見つめていた。その耳にはもう、混みあったフロアのざわめきは届いていない。
『認知』
手にした文書にくっきりと印字されたその二文字。
老人は混乱している。認知という用語の意味と、それが他ならぬ自分の戸籍に記載されていることがどうしても結びつかない。
老人は、ちょっと息を整えながら、記載内容をもう一度確かめる。
『平成16年9月1日新宿区東新宿2丁目本間智恵子同籍祐樹を認知届出』
丹羽和馬と記載された自身の身分事項の欄には、間違いなくそう書かれている。平成16年。令和と年号が変わった今から、もう15年以上も前のことだ。
その頃、俺は‥‥。
和馬は、素早く頭の中を整理してみる。
俺は、まだ六十を過ぎたばかりか。淑子も元気だったし、駿介はまだ松井生命に勤めていた頃だ。春奈との関係は続いていたか、もう既に別れていたか‥‥。いずれにしろ、本間智恵子だの祐樹だのという名前にも東新宿という住所にも、何一つ心当たりはない。
認知‥‥。
結婚していない男女の間に生まれた子を父親が自分の子であると認めること。それによって、法的な父子関係が形成されることぐらいの知識はある。ということは、どこかの見知らぬ人物が、法的に自分の子になっているということ。それは、つまり‥‥。
和馬は、軽いめまいを覚えた。
つまりその子は、間もなく齢八十を迎える俺のれっきとした相続人ということになる。先祖代々脈々と受け継いできた東京郊外の広大な土地と、それを基盤に築き上げた不動産事業を、見も知らぬ人物が相続する? 
まさか。そんなふざけたことがあってたまるものか。
妻を亡くし、続いて一人息子を喪った俺の跡継ぎは、亡き長男が残した忘れ形見たった一人。それが自明の理だとずっと思い込んでいた。まだ幼いその孫が将来確実に丹羽家を引き継げるようレールを引くことが、老いた自分の最後の務めだ。自分なりに練った計画に着手するために足を運んだ役所の戸籍係で、こんな思いもよらない事態が待っていたとは。
長く不動産業をしていれば、顧客の遺産をめぐる紛争に関わらざるを得ないことがままある。身につまされます、などと言いながらも結局他人事に過ぎなかった相続争いが、ひょっとすると我が身に降りかかってきた? これはそんな事態なのか。
‥‥待てよ。今の戸籍はどうなっている? 
和馬は、受け取ったばかりの封筒から、慌ててもう一枚の書面を出して拡げてみる。今見ていたのは縦書き形式の旧い戸籍だ。現在のものは、一体どうなっているのか? 
平成18年改製と書かれた新しい戸籍の方には、『認知』の記述はどこにもない。和馬は思わず息をつく。現在の戸籍に書かれていないということは‥‥。認知したという記録が間違いだと分かって、削除されたのか? 
まさか‥‥。
和馬は、すぐにその考えを打ち消す。本人に何の断わりもなしに血縁者を足したり引いたり、いくら何でもそんな馬鹿げたことなどあるはずがない。
和馬は、窓口にとって返し、戸籍係の女性に声を掛けた。
「あの‥‥」
はい、何でしょうか、と若い担当者がにこやかに頷く。
「旧い戸籍に載っていた記録が、新しいものには記載されていないんですが」
担当者がもう一度にっこりと微笑む。
「ええ。戸籍を新しく作り直した場合、項目によっては旧い記録を書き移さないものがあるんです。例えば、お子さんが結婚して新しい戸籍に移られた後で戸籍を作り直したら、新しい戸籍にはお子さんの記録は載らないんですよ」
噛んで含めるようなその口調に、和馬はちょっと苛立ちを覚える。
「なら、その、例えば認知の記録は?」
「認知の記録も書き移されません。でも、もちろん、新しい方の戸籍に載っていないだけで、認知によって親子関係ができたという事実が消えたわけではないんですよ」
そりゃそうだろう。和馬は息をつく。ならば、この本間祐樹という見知らぬ人物は、やはり俺の子ということになるのか。
「君。あの、ちょっと‥‥」
はあ? 窓口の女性が小首を傾げる。
言葉が続かなかった。15年以上も前に受け付けられた届け出に、一体どんなクレームがつけられる? 目の前の女性係員は、その頃はまだせいぜい小学生だろう。だからと言って、上司を呼べと息巻いたとしても、責任者だって既に何代も入れ替わっているはず。むきになっただけ、ちょっと頭のおかしい老人だと思われるのがオチだ。
和馬は徐々に平静を取り戻しはじめていた。
老いたりと言えども、この地域の政財界で丹羽和馬の名前を知らぬ者はいまい。たかだか戸籍係風情、というといささか語弊があるが、今どきの若い職員が私の顔に思い当たらなかったのはむしろ幸いだったかも知れない。いずれにしても、こんな公けの場でみっともない姿をさらすわけにはいかない。ひとまず出直そう。いったん冷静に事態を受け止めて対処方法を考えよう。
あ、いや何でもない、と口の中で呟きながら、書類をバッグに押し込んで半ば逃げるように和馬はその場を離れた。エレベーターに乗って行先ボタンを押そうとして、和馬は右手が小刻みに震えているのに気付いた。われ知らず、力の限り拳を握りしめていたようだ。
そのまま地下の駐車場に降りて、愛車アストンマーチン・ヴァンテージに乗り込んでドアを閉める。馴染んだシートに身を沈めると、徐々に落ち着きが戻ってきた。和馬は、バッグから戸籍謄本を取り出してもう一度眺めてみる。
何かとんでもない間違いが起きている。普段の生活で、戸籍謄本を取り寄せることなんてまずない。もうずっと長い間見る機会もなかったから、こんな思いもよらないことが起こっているなんて考えもしなかった。それにしても、もう15年以上にも渡ってこんな状態が続いていたとは。
俺も、間もなく八十だ。孫の恭介が将来つつがなく丹羽家を継げるように万全の計画を立てて、いざそれを行動に移そうと戸籍を確認した結果がこれだ。そんなことでもなければ、一生気が付かないことだってあり得たのだ。15年以上特に問題がなかったのなら、今さら一刻を争うような話ではないかも知れない。でも、こんなとんでもない間違いは早急に正さなければならない。ひとまず出直して、由紀夫と相談するしかない。
和馬は、丹羽地所の顧問弁護士でもある親友の顔を思い浮かべていた。由紀夫のヤツ、こんな話を聞いたら何て言うだろう。身に覚えがあるんだろ、などと軽口を叩きながら腹を抱えて笑うに違いない。そして、このあり得ない間違いにいつものようにうまく対処してくれるだろう。
間違い‥‥? 
和馬はふと思った。単なる間違いや手違いでこんなことが起こるものなのだろうか。
まさか。ちょっと冷静になって考えれば、そんなことがあり得ないことは自明の理だ。
陰謀‥‥。罠‥‥。詐欺‥‥。
穏やかでない言葉が、次々と和馬の脳裏をよぎる。この降って湧いたような事態は、ひょっとすると誰かが意図的に仕組んだものなのか。
まさか‥‥。
和馬は己れの疑心暗鬼を嗤いながらも、背後で何者かの手が怪し気にうごめくイメージを拭い去ることができなかった。

丹羽地所は、丹羽和馬が100%の株を握る純然たるオーナー会社である。本社は、京王線府中駅にほど近い6階建ての自社ビルだ。丹羽一族はかつて、この辺りから北西、JR中央線にかけての広大な土地を所有する大地主だった。

昭和9年、丹羽本家の惣領息子だった和馬の父登史郎は、父親の隠居に伴う家督相続でその莫大な資産を引き継いだ。一橋大学の前身東京商大で経済学を修め商工省に奉職していた登史郎は、当時まだ三十を過ぎたばかり。大学予科に入学当初から進取の気性と決断力には定評があり将来を嘱望されていたというが、丹羽家の家督を引き継ぐとともに惜しまれつつ退官した。
それからほどなくして、登史郎は単身アメリカに渡る。満州国建国から国際連盟脱退と日本をめぐる国際情勢は緊迫の度を加えていたものの、日米関係はまだ何とか危ういバランスを保っていた。登史郎が家督相続から間を置かず敢えて渡米に踏み切ったのは、不動産ビジネスの先進地ニューヨークで、その理論と実践的手法を学ぶためであった。

およそ半年後に帰国すると同時に、登史郎は許嫁だった文子と結婚して身を固める。さらに息を継ぐ間もなく、父祖伝来の広大な土地の管理を主な目的とする不動産会社を設立し、丹羽地所と命名した。そして、長男の英世に続いて次男和馬が生まれた頃、隠居していた父を始めとする親族の激しい反対を押し切って、丹羽家伝来の広大な土地の大半の所有権を丹羽地所に移転したのである。
30年余り後、次男和馬を正式に跡継ぎとして指名した時、登史郎は問わず語りに述懐している。日々軍部の力が台頭する時代、登史郎は、国体護持という大義を前にしては民草に過ぎぬ個人の権利など取るに足らないものだという風潮をひしひしと感じていた。それはつまり、一朝ことあらば、一個人の財産など風の前の塵に過ぎないということ。だとすれば、高級官僚に連なっていた時代に築いた有形無形のコネクションを活用しつつ、企業活動を通して政府に接近し貢献する姿勢を示しておくことが、いざという時の丹羽家伝来の資産の防衛策になり得るのではないか。一時は国家権力の中枢近くでその動向を見てきた者として、ニューヨークで身に付けた不動産ビジネスのノウハウを駆使しつつ考え抜いた末の決断だった。
折から、過密が深刻になっていた大都市の人口の分散化を目指して、都市計画法の適用範囲を近郊の中小都市にも拡張する法改正が行われていた。知識判断力ともに優れた登史郎が、この機会を見逃すはずがなかった。地元自治体の協力を得て、鉄道沿線エリアを皮切りに丹羽地所に移転した広大な不動産の農地転用に取り組み、大部分が田畑だった土地の市街地化を推し進めたのである。

間もなく日米は太平洋戦争に突入。ほんの4年足らずで、日本はあえなく敗戦を迎える。軍事施設や飛行場、軍需工場のあった八王子や立川に比べると、府中近辺の空襲被害はさほどでもなかった。
敗戦後、およそ7年間に渡って日本は連合国軍による統治時代が続く。この時代、登史郎がかつて目論んだ資産防衛のための構想が、今度はGHQのドラスティックな占領政策に対して予期せざる形で実を結ぶことになった。
かつて数多の小作人を抱えていた広大な田畑の大半を丹羽地所に譲り渡し、さらに農地転用をせっせと進めた結果、もはや丹羽家は形の上では以前のような大地主ではなくなっていた。そのおかげで、地主制度を解体して小作農民を貧困から解放しようという占領政策の下、日本政府が強引に推し進めていた農地改革の激流を免れることになったのである。
当時、GHQの施政方針は民主化政策と反共政策のはざまで左右に揺れ動いていた。加えて、敗戦で一時壊滅状態となった日本の行政機能は、中央地方ともまだ復旧途上にあった。そのため、政府の政策推進も付け焼刃・泥縄式とならざるを得ず、具体的な政策実施段階に当たっては、不備や抜け穴のオンパレードというのが実態であった。結果、丹羽地所を介して広大な土地を間接的に支配する丹羽家は、大地主としての顔を見事隠しおおせることになる。おかげで、日本全国の地主階級が、田畑の大半を二束三文で召し上げられて急激に没落していくのを尻目に、丹羽家の財力が揺らぐことはほとんどなかったのである。
無論、一民間人に過ぎなかった登史郎は公職追放などとは無縁であり、財閥解体などの苛烈な経済政策の影響が東京の片田舎の一同族会社に及ぶこともなかった。

時を置かず日本全土に復興の槌音が響き渡り、続いて日本は高度成長期を迎える。
同時に、旺盛な不動産需要が大きなうねりとなって都心から郊外へと波及することとなった。丹羽地所は増収増益を重ね、単なる不動産管理会社に止まらず、多摩地区指折りの有力企業として地元経済界で大きな地位を占めることになる。
アメリカに次ぐGNP世界2位ともてはやされた後、日本が徐々に安定成長に向かう頃、丹羽家の後継者として事業を一手に引継いだのが、登史郎の次男和馬だった。長男の英世ではなく次男和馬を後継に指名したのは、英世がジャズにのめり込み家を出てミュージシャンの道に進んだからだというのは表向きの理由。登史郎の目には、次男が自分譲りの才気と決断力を併せ持っていると映っていたようである。
その父の思惑通り、和馬は、首都圏の不動産価値が右肩上がりを続ける中、従来のオフィスビルや賃貸マンションのみならず、その後の少子高齢化を見据えて有料老人ホームや介護施設にまで手を拡げ、事業の多角化に邁進する。今や先代をしのぐ経済人としての地位を築き上げた次男の経営手腕を前に、登史郎の目に狂いはなかったというのが古くからの地元雀のもっぱらの噂であった。

丹羽第一ビルは1階が地元信用金庫の駅前支店、2階から5階には大企業の支店や地場産業のオフィスが入っている。そして、最上階の6階には、丹羽地所の宅地建物取引部門が店舗カウンターを構え、その奥が本社の事務管理オフィス、さらにその奥に社長室がある。
社長室を訪れた者は、正面の巨大な一枚ガラス窓から望むパノラマに一瞬息を飲む。そして、目の前に広がる風景のかなりの部分が丹羽一族の父祖伝来の土地なのだと聞いてさらに驚くことになる。この社長室には、先代登史郎を継いで丹羽地所、ひいては丹羽家そのものを盛り立ててきた和馬の強烈な自負が込められている。

「お帰りなさいませ」
社長室の手前、オフィスとは透明な間仕切り壁で隔てられた秘書室の百合香がいつものように声を掛ける。百合香は和馬の長男駿介の嫁だ。結婚後しばらくは休職したものの、まだ学生アルバイトだった頃から数えればかれこれ10年近く、和馬の専属秘書を勤めてくれている。
早くも傾き始めた秋の日差しが、巨大な窓の向こうに広がる風景を赤く染め上げている。いつもならば、窓際にたたずんでそのパノラマをしばし眺めるのが和馬の習い性なのだが、今日ばかりはそうも行かない。総けやきの無垢材を使った重厚なデスクに問題の書面を取り出して広げた。
住民課ロビーの申請者用デスクで食い入るように見つめた一枚を左側に置く。現行の表示方法に変更される前の縦書きの戸籍謄本で、冒頭部分に『改製原戸籍』と記されている。筆頭者の欄に和馬の名前、続いて妻の淑子、さらに長男駿介の名前がある。
もう一枚、右側に並べたのが和馬の現在の戸籍だ。コンピューター化された横書き形式で、平成18年改製と書かれている。つまり、和馬の戸籍は、平成18年に縦書きの旧戸籍から横書きの新戸籍に作り変えられたということになる。新しい方の謄本は、妻淑子の欄に『除籍』の判が押され、平成25年に死去したことが記されている。長男駿介の欄も同様に除籍となっているが、こちらは平成20年に結婚して妻との新しい戸籍を作ったためと書かれている。後日、駿介も不慮の事故で亡くなっているのだが、既に和馬の戸籍を離れた者のその後のことは記載されていない。
そこまではいい。そこまでは、門外漢の和馬でも理解が及ぶ範囲だ。問題は、旧い方の戸籍にある平成16年に和馬が届けたという認知の記録が、平成18年に作り替えられた新しい戸籍には記載されていない点にある。駿介が結婚した時や淑子が亡くなった時に戸籍謄本を取り寄せた記憶はあるが、時期的に見て、それは新しい方の戸籍だったはずだ。そのために、旧い方の戸籍にしか書かれていない認知の記録が和馬の目に触れることは、これまでまったくなかったということになる。
和馬はもう一度旧い方の縦書きの戸籍を凝視する。
右から戸籍の筆頭者である丹羽和馬、続いて妻の淑子、そして長男・駿介の名前が続柄や身分事項とともに並んでいる。駿介が結婚して和馬の戸籍を離れたのは平成20年。平成18年に新戸籍に作り変えられた後のことだ。従って、旧戸籍の方には、駿介が結婚した事実は書かれていない。
しかし、和馬の関心はそんなところにはない。その目が見詰めるのは、旧戸籍の自身の身分事項欄に記載されているくだんの一行だ。
『平成16年9月1日新宿区東新宿2丁目本間智恵子同籍祐樹を認知届出』
由々しき事態であることだけは間違いない。頭の中はまだ混乱しているが、ともあれ我と我が身に起こっている現実を正確に理解し、それがもたらす影響を考えなければならない。何の変哲もないこの一行の文字列の中に、この事態の背景を探る何らかのヒントが隠されてはいないのか‥‥。
まずは、『平成16年9月1日』という日付けだ。妻の淑子に子宮頸がんの診断が下されるよりも随分前のことだ。
確かに、自身に女性関係がまったくなかったわけではない。しかし、松井生命に勤務していた長男駿介を、将来の社長含みで丹羽地所に迎えることが決まったのが丁度この頃だ。間違っても恥さらしな姿を見せるわけには行かないと決心して、あとくされない形で身辺整理は終えていたはずだ。
続いて『新宿区東新宿2丁目』という住所。新宿駅の東口方面だろうか。あの界隈を知らないわけではないが、個人的にはまったく縁もゆかりもない土地だ。
そして『本間智恵子同籍祐樹』。女の名前にも本人の名前にも、まったく心当たりがない。この記載では、本間智恵子なる人物の戸籍にいる祐樹なる人物、という以外何一つ分からない。そもそもこの二人が親子なのかも、祐樹本人の年恰好すらもまったく見当がつかないのだ。
結局、手も足も出ない。やっぱり由紀夫に頼むしかないか。あいつのにやにや笑いを見るのは実に腹立たしいが。
和馬は、胸ポケットからスマホを取り出して島津法律事務所の番号を打ち込んだ。

act.2

中央道から高井戸で首都高速4号線に入り、新宿ランプで降りてすぐの超高層ホテル。その最上階に、和馬の行きつけの会員制クラブがある。和馬は父の登史郎譲りの下戸でアルコールは殆ど受け付けないのだが、ここは落ち着いた雰囲気でそこそこ手の込んだ料理が味わえる得難い空間である。もちろん、内密の打ち合わせや商談、商工会議所の会合などの流れで立ち寄るにも、場所といい格といい申し分のない店であった。
午後7時過ぎ、約束の時間からちょっと遅れて島津由紀夫が店に入ってきた。先に席に着いていた和馬を見つけて、いつものようによおよおと手を挙げながら近づく。

和馬と由紀夫とは幼なじみだ。小学校入学は終戦直後の混乱のさなか、中学校まで地元の学校に通った後、旧制中学の流れを汲む地域の名門高校に揃って進学した。入学当初はつるんでかなり悪さをしたものだったが、2年生になってともに軌道修正。敬愛する父登史郎の母校一橋に憧れる和馬に引きずられるように、由紀夫も大いに勉学に励むことになった。
おかげで和馬は念願の一橋の商科へ、由紀夫は「人生劇場」を読み漁って心酔していた早稲田の法科に進むことになる。和馬の父に対するこだわりの根っこには、登史郎とそりが合わなかった兄の英世が早くに家を出たため、いずれ丹羽家を継ぐのは自分なのだという思いがあったのだろうと由紀夫はにらんでいる。
一方その由紀夫の方は、たまたま法学部に入ったことから、周りの空気に刺激されて一念発起、高校時代をはるかにしのぐ猛勉強の末、晴れて司法試験に合格することとなる。

由紀夫は、軽くオードブルをつまみながらハイボールのグラスを傾けて、いつになく深刻な表情で話す和馬を興味深そうに見ていた。
「もちろん身に覚えがあるんだろ?」
予想にたがわぬ反応に、和馬の口から思わず笑いが漏れた。
「それならば、不徳の致すところで、まだ納得のしようもあるんだがな」
由紀夫は、和馬のこれまでの女性関係を知らないではない。愁嘆場と言ってもいい場面に巻き込まれかけたこともあったが、とっくの昔にすべてを清算していたはず。ましてや、隠し子などという事態は想像もしていなかった。
「一応確認しときたいんだが」
由紀夫の声が、ちょっと改まる。
「どうして急に戸籍なんて取ろうと思ったんだ? 例の百合香さんの件か」
「まあ、そんなとこだ」
由紀夫がハイボールに軽く口をつける。
「駿介君が亡くなって何年になる?」
「来年が七回忌だ」
もうそんなになるのか、と言ったきりちょっと言葉が途切れた。
悪夢としか言いようのないあの出来事を思い出すと、由紀夫も胸がふさがれる思いがする。そうか。目の前の親友が最愛の一人息子と孫を同時に亡くしたあの大事故から、もう5年も経ったのか‥‥。

金曜日の夜の中央高速道路。ゲリラ豪雨と呼ばれる凄まじい土砂降りの中、駿介はまだ幼い息子を連れて八ヶ岳山麓の別荘に向かっていた。目撃証言と警察の実況検分によれば、追い越し車線を高速で走行中に隣の車線から大型のワゴン車が突然割り込んできて、思わず急ブレーキを踏んだ可能性が高い。豪雨で水溜まり状になった高速道路でブレーキを踏むのはまさに自殺行為だ。一度スリップしたが最後、タイヤが地面から浮き上がってハンドルもブレーキも一切効かなくなる。しかし、それをいくら肝に銘じていても、とっさの場合、人は反射的にブレーキを踏んでしまうものなのだ。
駿介の車は猛スピードのまま中央分離帯に激突し、そのままの勢いで対向車線に飛び込んだ。その瞬間、逆方向から高速で走る大型トラックが真正面に迫っていた。双方のスピードから考えて、相対速度は優に200キロを超えていたと推定される。想像を絶する破壊力で、駿介の車はひしゃげた鉄くずの固まりとなって大型トラックの正面にへばりついていたという。

「恭介君の方はいくつになった?」
「恭介が生まれたのは、駿介が死んだ次の年の年明けだ」
「そうだったな。ってことは、‥‥もう5歳になるのか」
和馬の一人息子駿介の忘れ形見、恭介。和馬にとっては、今やかけがえのないたった一人の孫だ。あの事故で駿介とまだ幼かった初孫の泰介が非業の死を遂げた時、弟の恭介はまだ母百合香のお腹の中にいた。
「法的に言えば、お前の膨大な財産はたった5歳のおちびさんがすべて相続することになる。そのはずだったよな」
目の前の大富豪が頷く。
「しかし、もしもお前が認知した子が他にいるとなれば、話は根本からひっくり返る。法定相続人は、おちびさんと、この本間祐樹っていう得体の知れない男の二人ってことになる」
「しかし、俺はこの本間という親子にまったく心当たりがない」
「だが、その女性の子を認知している」
「してない」
和馬が即座に否定した。由紀夫が、和馬の顔をしげしげと眺める。
「ほんとに、まったく心当たりがないんだな?」
「狐につままれたような気分だ。‥‥おっと待て待て。俺にはまだ認知症はないぞ」
由紀夫の疑いの表情を見て、和馬が慌てて言い添えた。
「認知もしてなければ認知症もない、か」
いつもの軽口だったが、今の親友の心境を考えるとちょっと不謹慎だったかなと、由紀夫は少しだけ反省する。
「それにしたってだ。認知の届け出からもう15年以上経ってるんだぞ。その間、まったく気付かなかったのか?」
見てくれよ、と言いながら、和馬がもう一枚の戸籍謄本を並べる。
「今の戸籍謄本には、認知の記録がないんだ」
「ああ。そうか、なるほどな。確かに、戸籍が改製されると、認知とか離婚とかの記録は書き移されないことになってるからな」
二枚の戸籍謄本を見比べながら由紀夫が言った。
「戸籍が新形式に変わったのは、認知届けから2年後だ。それ以降に、誰がわざわざ旧い戸籍謄本なんて取り寄せる? 認知の記録なんて気付きようがないじゃないか」
そりゃ確かに無理もないと、由紀夫が頷く。
「いずれにしても、ゆゆしき事態だ。あの世に行く前に気付いたのが、せめてもの救いだな」
何を縁起でもないことをと、和馬が眉をしかめる。
「で? どうする」
「お前に頼むしかないだろう」
だよな、と頷きながら、由紀夫は認知の記録のある旧い方の謄本を手に取った。
「ひとまずは本間智恵子と祐樹親子の素性を調べて、事のいきさつを探っていくしかないな。とりあえず、うちの絵莉に動いてもらうか。絵莉は家事事件が専門だから、親族関係の調査ならまあお手のもんだ」
由紀夫は、数年前に島津法律事務所の代表の座を譲った娘の名前を言った。
「ああ、絵莉ちゃんか。うん、あの頑張り屋さんが手伝ってくれるなら心強い」
絵莉のことは赤ん坊の頃から知っている。和馬にとっても我が娘のような存在だ。
「まあ15年以上も前の話だ。今さら一刻を争うこともないんだろうが、俺ももう八十だしな。万が一の事を考えたら、あんまりのんびりもしてられない」
「まあ、そりゃお互い様だが、お前みたいにとんでもない資産がないだけこっちは気楽なもんだ」
「由紀夫‥‥」
和馬の声が、ちょっと改まった。
「今回、わざわざ新旧の戸籍を取り寄せることになった件なんだが‥‥」
「百合香さんか‥‥」
和馬が無言で頷く。

今は亡き長男駿介の嫁、百合香。先代当主登史郎のさらに先代の時代、大正末期に丹羽本家からわかれた分家筋の娘だという。当初は学生アルバイト、女子大を卒業した後はそのまま正式に和馬の秘書として丹羽地所に採用されていた。切れ長の目とつややかな黒髪が印象的なお嬢さん然とした雰囲気だが、その仕事ぶりはてきぱきとして気が利いているし、ここぞという時の判断も的確だった。しかも、折に触れて微妙な心配りを欠かさない。和馬の目には、その若く有能な秘書が、年齢的にも丹羽一族の縁戚という点でも本家長男の嫁としてうってつけの存在に映った。
百合香の入社に遅れること2年、駿介は勤めていた保険会社を退職し、父和馬の後継含みで丹羽地所に迎えられた。和馬は、妻の淑子と示し合わせて、それとなく百合香に探りを入れてみたり二人が顔を合わせる場を設定したりなどと小細工を弄したりもした。しかし、案ずるより産むが易し、和馬のその目論見はあっけなく実を結ぶ。父親よりも当の息子の方が、みめ麗しいこの遠縁の娘に強く惹かれていたのだ。
それからは一瀉千里、縁談はとんとん拍子に進んだ。そして、華燭の宴からほどなくして若夫婦は男の子を授かり、さらに数年後、百合香は二人目を宿した。何もかも順風満帆だった。そう、あの夜までは。
悲惨な事故で最愛の夫とまだ幼い長男を同時に亡くした妻と、一人息子と初孫を同時に亡くした父。どちらの傷がより深かったのだろう。
‥‥何を埒もないことを。
由紀夫は、時折浮かんでくるそんな考えをいつもそそくさと打ち消す。だが、いずれにしても、和馬と嫁の百合香の間に、同じ修羅をくぐってきた戦友とでも言うべき運命的な絆が生まれたのは確かだった。

由紀夫は、和馬の長男と孫が事故死したあの夜のことをよく覚えている。
八月初旬の金曜日、もう日付が変わろうかという時刻。ベッドに入ったばかりの由紀夫の携帯に、丹羽家に祖母の代から住み込んでいる老家政婦から連絡が入った。駿介様とお坊ちゃまが高速道路で大事故に遭って、八王子の救急病院に運ばれました。旦那様は、取るものもとりあえず現地に向かっておられます。
予断を許さない状況だという切羽詰まった声を聞いて跳ね起きた由紀夫は、急ぎ八王子に向かった。中央道は府中インターから先が通行止めになっていて、甲州街道を使うしかなかった。
何だかすごい事故があったらしいですよ。のんびりした口調で話すタクシーの運転手の声をぼおっとした頭で聞いていた。
由紀夫にとって、駿介は幼い頃から家族ぐるみで付き合っていた仲良しの駿くんだ。長女の茉莉とは同い年、次女の絵莉は六つほど下ということになる。茉莉がまだ幼い頃、駿くんのお嫁さんになるかとからかう度にひどく怒って口を尖らせていたっけ。
でも、子どもは親の思惑通りには育たない。茉莉は大学時代にイギリスに留学、当時急激に脚光を浴びるようになったNPOだか何だかにのめり込んで、そのまま現地に居ついて今も多忙な日々を送っている。
もっとも、次女の絵莉の方は、由紀夫が尻を叩いたわけでもないのにロースクールから弁護士の道に進んだ。大手法律事務所でアソシエイトと呼ばれる補佐弁護士を10年ほど続けてキャリアを積んだ後、同僚と結婚してあっさり退職。その後長女を出産したが、育児が一段落したのを機に弁護士に復帰し、父親の個人事務所に所属することになった。今では、代表の座も譲り、丹羽地所を始めとする昔からのクライアントの仕事を除いてほとんどの業務はこの次女に任せている。復帰後は旧姓で仕事をする積りでいた絵莉にとっても、島津法律事務所の代表という立場はまさにうってつけだった。
結局、茉莉の方は駿くんのお嫁さんになるどころか、40を過ぎたというのに遠い異国で今も一人暮らし。でも、元気でやってるだけまだ幸せか‥‥。
タクシーのシートに身を沈めてそんなことを漠然と思いつつ、駿くんはもう駄目なんだろうという予感があった。

病院の地下の安置所で、和馬が立ち尽くしていた。真っ白なシーツに覆われた大きなかたまりと小さなかたまり、二つのベッドが並んでいた。そっと肩に手を置いた由紀夫の方をゆっくりと振り返って、和馬は夜中にすまんなと言いながらなぜか小さく微笑んだ。あまりのできごとに、事態が理解できていないのか? 戸惑いながらそんなことを思った。
部屋の隅の椅子に若い女性が座り込んでいた。顔を両手で覆って、無言のまま小刻みにしゃくりあげていた。夫と我が子を同時に喪った女性に掛ける言葉などあろうはずもなかった。
白い布をまくり上げようとしたが、お顔の方はちょっと‥‥、という看護師の言葉に頷くしかなかった。よほど損傷が激しいのだろうか。隣に並んだ小さな遺体に目をやる。こちらの傷の程度は分からないが、まだ幼い子の死に顔など、痛まし過ぎてとても見ようという気にはならなかった。他人の俺ですらそうなのだ。和馬は、孫の死に顔を見たのだろうか‥‥。

二人とも即死だったと、後で聞いた。駿介は、八ヶ岳の山小屋で家族と過ごすのが何よりの楽しみで、ほぼ毎週、金曜の夜には中央道を飛ばすのが常だった。
長男の泰介は、当時5歳。カブトムシを幼虫から育てるのに夢中になっていたという。駿介が山小屋の裏庭の一角に端材を使って簡単な小屋を作ってやり、泰介が朽木とオガクズを丹念に敷き詰めて数十匹の幼虫を育てていた。幼虫たちは無事に冬を越して順調に育ち、ついひと月ほど前から次々にサナギになっていた。時期的には、そろそろ羽化が始まる頃だ。お手製のあの寝床から、成虫になったカブトムシがぞろぞろと這い出してくる。ここのところ、泰介の頭の中はもうカブトムシのことで一杯だったのだという。
その週末は天気予報が思わしくない上に、百合香にはしばらく前からつわり症状が出ていた。だが、カブトムシ熱に浮かされた泰介が山小屋行きを諦めるという選択肢などあろうはずもなかった。結局、虫遊びのお付き合いはパパにお任せということで、百合香は大事を取って留守番をすることになった。
土砂降りの雨の中、やれやれとハンドルを握った夫と助手席に陣取ってはしゃぎまくるハイテンションの息子‥‥。それが、百合香が見たかけがえのない二人の最後の姿だった。悲報がもたらされたのは、それからほんの1時間足らずのことだったという。
その日から、和馬は会社に顔を出していない。茫然自失のまま自宅に引きこもり、外出することすらままならぬ日々が延々と続いた。
丹羽地所は、不動産の管理や仲介という事業の性格がら、普段営判断が問われるような場面はほとんどない。しかも、その頃はもう、社長の和馬は対外的な交渉や地元財界活動に専念しており、実質的に丹羽地所の業務を切り盛りしていたのは和馬の従兄弟で専務の丹羽伊佐緒だった。伊佐緒は、勝手の分かった番頭格の重鎮として経営全般に目を光らせていた。おかげで、社長がしばらく不在でも丹羽地所の業務に大きな支障はなかったようだ。
和馬の妻淑子は、既に2年前に世を去っていた。食事や身の回りの世話は、住み込みの家政婦夫婦のおかげで心配なかったが、かけがえのない存在を理不尽に奪われた親友の悲嘆たるやいかばかりか。由紀夫は、自分の存在など何の役にも立たないことは百も承知で、折を見ては引きこもり状態の和馬を訪ねている。

丹羽本家は周囲を圧する威容を誇っている。広大な敷地は高い土塀に囲まれ、南側正面の長屋門を抜けると明治期の姿をそのまま留める数寄屋普請の風格ある母屋が目の前に姿を現わす。一尺角の大黒柱と檜の巨木を使った豪快な太梁の下には、黒漆塗りの床の間、欄間の透かし彫りや襖絵など、築当時は辺鄙な片田舎に過ぎなかった土地柄には不似合いなほど贅を凝らした造りとなっている。ただ、玄関から続く漆黒のたたきと、そこにしつらえられた朴訥な土間囲炉裏は風雅な趣きからは一線を画し、土地柄に相応しいかつての豪農の面影をしのばせる。
その母屋を中心に、東側には二棟の離れ座敷が屋根付きの渡り廊下でつながり、北西側には数棟の土蔵が放射状に取り囲んでいる。
戦後しばらくは、下働きの男女が何人も住み込みで仕えていたが、和馬の代になって徐々に人数を減らしてきた。平成に入って先代の登史郎が亡くなり、長男の駿介が結婚して家を出て以降は、住み込みの老夫婦のほか数人の通いの使用人が残っているに過ぎない。

幼い頃、悪ガキどもが毎日のように集まって遊んだこの豪邸を、何十年も経ってからこんな思いで訪れることになろうとは‥‥。
豪壮な母屋を見上げながら、由紀夫はしばしそんなことを思っていた。
丹羽家の応接間は、障子を開け放つと縁側越しに手入れの行き届いた広い和風庭園が広がっている。正面奥に見事な枝ぶりの木々と苔むした庭石が配された築山が悠然とたたずみ、そこから湧き出した水が手前の池に滝となって注いぐ。京都の古刹にでもいるのかと錯覚してしまいそうな風情である。
二人は、この庭を眺めながら縁側に並べられた藤のリクライニングチェアに座るのが常であった。サイドテーブルには、いつも抹茶とともに地元の銘菓が用意されている。
調子はどうだ。
ああ、まあまあだ。
交わす言葉は、いつもそんなものだった。かつては政治や世相から下世話な事件やゴシップに至るまで話が尽きない二人だったが、会話はすぐに途切れてしまう。間が持たないというのではない。ただ、静謐な時間が流れるのみだった。
和馬にとって、このお節介な男の来訪は迷惑なものではない。淀んで静まり返った池に時おり小石が投げ込まれるような、ささやかな刺激になっていた。由紀夫にもそれが分かっている。庭を眺めながら静かに抹茶を頂く。腑抜けのような有様の親友にとって、それがわずかばかりでも癒しの時間になってくれればいい‥‥。
由紀夫は、一度だけ和馬が独りごちるようにつぶやいた言葉を憶えている。
  天網恢恢なんて言うけど、天の采配もこの世の隅々までは行き届かないもんなんだな。不条理ってのは、そういうことだ。それでも、嫁とお腹の子だけでも遺してくれたのは、まだしもの天の思し召しだったんだろうか‥‥。

夫と息子を奪われた嫁の方も不条理に打ちのめされていた。もし、私がついていれば。あの時、無理をしてでも一緒に出掛けていたら、あんな事故に遭わずにすんだのではないか。丹羽百合香は、事故の後、実家に引きこもってずっとそのことばかりを考えていた。
とはいえ、そんな母親の思いなどとんと知らぬ気に、駿介の忘れ形見はお腹の中ですくすくと育っていた。外出といえば、定期的に産科に通って検診を受けるだけ。そんな日々が続いた。実家の両親は、残されたお腹の子だけを唯一の心の支えに耐え忍ぶ娘の姿をじっと見守るしかなかった。
そして。
悪夢のような年が去り、喪に服したままのしめやかな新年が過ぎて間もなく。百合香は、駿介の忘れ形見となる男児を無事に出産する。
駿介と泰介を喪って半年余り。薄氷を踏むような日々だった。百合香も和馬も、ただただこの日が来ることだけを励みに何とか命をつないできたと言っても過言ではない。どんな不条理も起こり得るのだということを身を以って知った二人からすれば、妊娠すれば出産するのが当然などという心境になることはついぞなかった。だからこそ、こうして無事に出産したことの喜びはただごとではなかった。二人だけではない。丹羽一族の人々や丹羽地所の関係者の誰もが、この子の誕生を遠くから息詰まる思いで見守っていたのだった。
かけがえのない二つの存在が世を去り、入れ替わるようにかけがえのない存在が新たに一つ、この世に生を受けた。過酷な運命に激しく翻弄された和馬と百合香を絶望の淵から救い出してくれたその仔は、生前もしも男の子ならと駿介がこだわっていた通り、恭介と名付けられることになる。

由紀夫は、出産の報を聞くと同時に、駿くんの忘れ形見を見せろという名目で病院に駆け付けた。その実、主目的は、和馬の様子を見ることだった。何しろ、この男が丹羽地所の経営を放り出して間もなく半年になる。ひょっとすると、孫の誕生がこの腑抜け男に活を入れてくれるきっかけにならないものか‥‥。
由紀夫の淡い期待は裏切られなかった。まだやつれきってはいたものの、和馬の表情には確実に精気が蘇っていた。
「そろそろ復帰しなきゃな」
病院の中庭を肩を並べて散歩しながら、和馬がぽつりと言った。丹羽家の当主として、そして数十人の社員を預かる会社のオーナー経営者として、いつまでも我がままを押し通すわけにはいかない。それが、真っ暗闇をさまよった末、ようやく一筋の光明を見出した和馬の境地だったのだろう。
「ああ、そろそろな。何とか丹羽直系の血筋がつながったとはいえ、まだ生まれたばかりだもんなあ。駿くんを飛ばして孫の世代に引き継ぐわけだから。老骨に鞭打って会社を盛り上げて行しかないだろ」
和馬は、復帰に合わせて百合香に声を掛けている。一度は生きる拠り所を失った自分が、果たして重い責任を背負ってやって行けるかどうか。お互い、決して癒えることのない傷を持った者同士、何とかサポートしてもらえないだろうか‥‥。
百合香は、駿介と結婚するまで長く社長秘書を勤めていた。和馬が息子の嫁として白羽の矢を立てたのは、丹羽家の遠い縁戚であることもさることながら、ビジネス面での判断力や手際の良さに一目置いていたからだった。確かに実家はそこそこ裕福だし、駿介が遺した遺産があるから経済的には何の不自由もあるまい。しかし、今や唯一無二の跡継ぎである大事な孫の生育や情操を考えても、百合香を半引きこもり状態のままにしておくわけには行かない。引きこもりのストレスがどれほど精神を蝕むものなのか、同病を患った和馬だからこその思いやりだった。
こうして、駿介の忘れ形見が一歳を迎えたのをきっかけに、先ずは時短で慣らし運転をしながらという条件で百合香は社長秘書に復帰することになった。

丹羽地所の業務が平常に戻ってしばらく経った頃。折り入って、という前置きとともに和馬はよき法律アドバイザーである旧友に、ある相談を持ち掛けている。それは、長男亡きあとの丹羽家の行く末についてのプランだった。
「実は、百合香を養女にしようと思ってる」
由紀夫は、思わず、ええっと問い返しうーんと腕を組んだ。和馬がそんな構想を抱いていることなど、それまで想像すらしていなかった。
「俺もそろそろ八十の坂が見えてきた。なのに、孫はまだやっとヨチヨチ歩きだ。跡継ぎの駿介を亡くして直系の相続人は乳飲み子一人。今後丹羽家をどう継承していくのか、当主として本気で考えなきゃならん時期だ。考えてもみろ。今、もしも俺に万一のことがあったら、丹羽家はどうなる?」
確かに、丹羽一族は莫大な資産を持つとはいえ、これまでお家騒動とは無縁だった。それは、登史郎、和馬と二代に渡ってカリスマ的な権威を持つ指導者が続いたからに他ならない。しかし、次の代となると‥‥。唯一の跡継ぎは、まだ学齢期にすら達していない。
「遠からず、俺は死ぬか使い物にならなくなる。その時点から、幼い恭介がひとかどの存在になるまでには相当な年月がかかるだろう。その間、丹羽家を率いるワンポイントリリーフとして、百合香を考えているんだ」
和馬にとっては、直系の孫である恭介が将来つつがなく丹羽家を継ぐ道筋を固めることが最大の課題だった。少なくとも、幼い孫が一人前になるまでの間、丹羽家と会社を一任できるいわば摂政役となる人物が不可欠だ。そんな視点で周りを見回した時、百合香という存在が浮かび上がってきたのは必然だったとも言える。
女とは言え、亡き一人息子の嫁であり、かつ将来丹羽家を背負って立つ孫の実の母。しかも、傍系とはいえ、れっきとした丹羽家の血縁でもある。百合香こそ、まさにうってつけの存在だった。秘書としての誠実で手堅い仕事ぶりと、ここぞという時の判断の的確さを和馬は幾度となく見てきている。丹羽地所の古参の社員達の信頼も厚い。百合香ならば、十分に丹羽家と会社を引継ぎ守ってくれるのではないだろうか。
「なるほど。確かにそれはありかも知れんな。とはいえ、大雑把に見て20年か。ワンポイントリリーフと言うにはえらく長いな」
「だからこそ養女にするんだ」
無論、敢えて養子縁組などしなくても、百合香を丹羽地所の後継者として指名し、それなりの株式を遺しておけばことは足りるはずだ。和馬と百合香を襲った悲劇を知る社内外の者たちが、その判断に表立って異議を唱えることもないだろう。だが、それはあくまで建前上のお話。
「俺がいなくなった後、幼い恭介を抱えた百合香が、丹羽家を切り盛りしながら女経営者としてどれだけの求心力を保てるか。信頼感とか忠誠心ってやつは、株式の過半を握っているだけで育まれるもんじゃない。経営能力云々の問題でもない。そもそも、切った張ったがまかり通るような業界だ。取引先には、しょせん女だと軽く見る輩もいるだろう。バックアップできるとすれば専務の伊佐緒しかいないが、いかんせんもう70近い」
いつも冷静な和馬にしては珍しく口角泡の勢いだった。
「つまり、一寸先は闇。女の身で、丹羽本家と丹羽地所を両肩に背負っていく重圧は想像を絶するものがある」
その重荷をずっと背負ってきた者の言葉には強い説得力があった。
「だからこそ、この先20年を見据えて万全の態勢を取っておかねばならんのだ。後顧の憂いを断つにはどうすべきか」
和馬が由紀夫を見据える。だが、由紀夫には和馬の言わんとするところがまだ見えていない。
「百合香に、権威の衣をまとわせるんだ」
権威の衣‥‥。由紀夫はその言葉を反芻する。
「養子縁組とは、とりもなおさず実子と同等の身分を獲得することだ。つまり、駿介亡き後、俺にとっては百合香がたった一人の子ということになる。それは、俺の後継者、すなわち丹羽家当主の座を継ぐ正統な存在になるということに他ならない」
養女にすることすなわち、丹羽家の次の代の当主であることを高らかに宣言すること。和馬の意図はそこにあったのか‥‥。
由紀夫が頷くのを見て、和馬の言葉がさらに熱を帯びる。
「しかも百合香は、丹羽本家直系の孫の母親でもある。次の次の代の当主として、れっきとした丹羽家の男系男子が控えているんだ。そんな百合香に、親戚筋であろうが会社関係者であろうが、一体誰が楯突くことができる? 丹羽地所のオーナー経営者であることよりも何よりも、丹羽家の正統な後継者であることが権威の源泉になる」
これが、長く丹羽家を統率してきた男ならではの結論か‥‥。由紀夫は、もう一度深々と頷くしかなかった。
「法的に言えば、相続権は長男の子である恭介と養女の百合香が二分の一ずつ持つことになる。だが、金銭的物質的な問題じゃないってことなんだな。事の本質は、丹羽家の当主という誰もがひれ伏す威光にありってことか」
「お前の皮肉は沢山だが、まあ当たらずと言えども、ってとこかな。そして、百合香が俺から引き継いだ当主の地位と財産は、いずれ発生する次の相続でさらに恭介へと受け継がれる」
そうだろ? 和馬が法律家の親友に問い掛ける。
ああ、確かにその通りだ、と応えながら法律家は思う。
戦前までの旧民法は、一人の跡継ぎが家のあらゆる財産とともに有形無形の権威を受け継ぐ『家督相続』を規定していた。この男は、二代に渡る長期的視野のもと、令和の時代にそれを蘇らせようと目論んだか。
そしてさらに、そこに至った親友の心境に思いを馳せる。
この男は、あのだだっ広い豪邸に引きこもって絶望の淵をさまよいながら、嫡男を喪った丹羽家の行く末に懸命に思いを巡らせていたのだろうか。己れの惰弱を叱咤して、父祖伝来の土地財産と敬愛する父がはぐくみ育てた会社を将来に渡って守り抜くことこそが使命なのだと、繰り返し自らに言い聞かせながら。
息子の嫁であり遠い親戚筋でもある百合香を養女にするという判断は、考えに考えた末の苦肉の策だったことは想像に難くなかった。人に欲がある限り、世の中からお家騒動や権力闘争が無くなることはない。自分という絶大な権威が去った後のエアポケットをいかにして埋めてリスクの種を取り除くのか。名だたる旧家の重みと莫大な財産を受け継ぎ差配してきた当主には、やはり俺のような庶民には思いもつかない深謀遠慮が備わっているんだろう。由紀夫には、この男の判断に異議を唱えるいわれはなかった。

そして今、新宿の高層ホテルの会員制クラブで、急遽呼び出された由紀夫が和馬と向かい合っている。 
「俺にはもう残された時間は少ない。百合香との養子縁組プランを実行に移すために、先ずは自分と百合香の戸籍謄本を確認しとこうと市役所に出掛けたってわけだ。事が事だけに、こればかりは秘書に頼むわけにもいかないからな」
「なるほど。でも、自分で行ったおかげで、認知なんて記載が誰の目にも触れずに済んだわけだ」
和馬は、この日の午後、市役所の戸籍係に足を運んだ時のことを思い出している。父親であれば息子の戸籍を申請できることを確認の上、まず亡くなった長男駿介の謄本を受け取った。
通常、戸籍の筆頭者である夫が亡くなっても妻や子はその戸籍に残る。従って、百合香も息子の恭介も駿介の戸籍のままである。和馬は、亡くなった駿介の戸籍の記載内容を順に目で追っていった。
駿介は、平成20年に百合香と結婚して新戸籍を作っている。そして、間もなくそこに長男の泰介が加わる。しかし、駿介の欄にも泰介の欄にも、同日同時間に死亡したとの記録とともに『除籍』の印が押されていた。さらに、それから半年余り後、長男泰介の下に次男の恭介の名前が加わっている。その記載を時系列で追うだけで、駿介一家を襲った苛烈な運命がありありと読み取れる。思わずこみ上げてくるものを感じて、和馬は急いで謄本をバッグにしまった。
次に自分自身の戸籍謄本を申請する段になって、駿介が結婚する少し前に戸籍がコンピューター化されて新しくなったという話を聞かされた。ならば念のためにと、新旧両方の謄本を発行してもらうことにしたのだった。そのおかげで、和馬はわが目を疑う事態に遭遇することになったのである。
「まったく寝耳に水だったよ。あの時は、旧戸籍を何度見返しても事態がまったく呑み込めなかった。俺がどこかの女をはらませて、生まれた子を認知したとしか解釈できない。でも、他ならぬこの俺にそんな覚えはまったくないんだから」
由紀夫が和馬の方を窺うように見る。
「何て言ったっけ、ほら、荻窪の‥‥」
「大石春奈」
「そうそう、あの細身のピアノの先生」
「駿介が丹羽地所に入社することが決まった段階できれいさっぱり手を切ってる。確か、平成14年の秋だったかな。この認知の届け出の2年も前のことだ」
「でも、届け出は出産直後とは限らんぞ。お前と別れてから秘かに出産して、何らかの方法で認知届を出したとか‥‥」
「なら、春奈自身の子にしなきゃ意味がないだろ。本間智恵子なんて得体の知れない人間の名前を使う理由がない。そんな与太話はもう沢山だ」
珍しく苛立った口調だった。もとより、由紀夫も本気でそんな突飛なことを考えているわけではない。からかうのもほどほどにしておくか。
「誰かの陰謀だとでも?」
「さあな。見当もつかんよ」
「しかし、認知した時点でその子はお前の相続人になる。お前の膨大な財産を考えれば、よからぬことを企む奴かいたとしてもおかしくはない。何か心当たりはないのか」
さじを投げたように首を横に振ってから、和馬がふと中空に目を転じた。
「相続か‥‥」
その口から、ぽつりと言葉が漏れた。
「一人息子を亡くしたってのに、俺は性懲りもなく丹羽家ためと称して血道を上げている。ここんとこ、よく考えるんだ。何の因果でこんな家に生まれてきたのかって」
「何を言い出すのかと思えば‥‥」
「実はな、由紀夫」
和馬が大きく息をついた。
「丹羽家の行く末を考えると、嫌でも兄貴のことが思い浮かぶんだ。何たって、兄貴は先代の長男だ。本来であれば、丹羽家は兄貴が継いでしかるべきだったんだからなあ」
和馬とは三つ違い、十代半ばにしてミュージシャンを目指して丹羽家を飛び出た兄、英世。
由紀夫は、親友の兄とはそれなりの縁がある。幼い頃、丹羽兄弟と遊び仲間だったことはまあご愛敬だが、丹羽家と丹羽地所の顧問弁護士を兼ねるようになってからは、離婚や相続など、英世の人生の転機にも何度か関わってきた。いや、関わってきたとは当たり障りのない言い方、実のところ尻ぬぐいといった方がよほど実情に近い。音楽業界での立ち位置までは与り知らないが、漏れ聞こえてくる英世の評判は決して芳しいものではなかった。
中でも英世が引き起こした最大の不祥事が、父親から相続した莫大な遺産をカジノ賭博で使い果たして、最終的に自己破産の道を選ばざるを得なくなった事件だった。由紀夫は、和馬からのたっての依頼を受けてその後始末に駆けずり回ることになる。
通常の破産手続きの範囲、すべての財産を洗い出してその処分に奔走したり、債権者集会で怒号が浴びるぐらいは慣れたものだったが、問題は借金の大半を占めるマカオのカジノとホテルへの対処だった。さすがのベテラン弁護士にとっても、海外の百戦錬磨の債権者との交渉ばかりは何から何まで初めての経験だった。結局、1年近くにわたって、わき目も振らずこの事件にかかりきりという憂き目に遭ったのである。
ほぼ一文無しになった英世は、その後、丹羽地所に常務取締役の席を用意してもらう事になる。英世自身はあまり乗り気ではなかったが、他ならぬ実兄がこれ以上の醜態をさらすことは断固阻止するという和馬の強い決意にはさすがに抗えなかった。もっとも、オフィスで常務の姿を見ることはほとんどなかったらしいが。
その数年後、英世は末期がんの宣告を受け、あれよあれよという間に世を去ることになる。傍若無人でやりたい放題の人生だったと誰もが陰口を叩いたが、由紀夫にはとてもそんな風には思えなかった。葬儀の席で、由紀夫と和馬は故人の思い出を語らっている。
「英世さんには随分振り回されたけど、あの人のことを憎もうって気にはどうしてもなれないんだよな。ガキの頃からの付き合いだが、根っから人が良くて思いやりのある人だった」
「ああ。放蕩が過ぎたから偏見を持たれてもしょうがないが、心根の優しいところがあったな。それにしたって、いくら音楽の道を反対されたからって、何も家をおん出なくてもなあ。兄貴、親父のこと大好きだったくせに」」
和馬が、幼い頃に思いを馳せるように言った。
「どこで道を踏み外しちまったのやら。その気になりさえすりゃ、いくらでもやり直すことができたのに」
  やり直す? 
由紀夫は、心の中で問い返した。
  和馬。お前は、まだそんな絵空事を信じてるのか。父の登史郎という存在がいる限り、そんなことは望むべくもなかったというのに。
父と兄の間の確執がいかに根深いものだったのかを、和馬はおそらく知らない。それは、たまさか由紀夫だけが知り得たことだった。

そして、前触れもなく和馬の身に認知問題が降りかかって来たのは、英世の死から十数年の後のことになる。
「英世さん。長男とはいえ、丹羽家を継ごうなんて気持ちはさらさらなかったんだろ。おまけに、先代の顔に泥を塗るようなことを繰り返してきたんだから」
「ああ、それはよおく分かってる。長男を差し置いて俺が丹羽家を継ぐことになったのは、まあ宿命みたいなもんだ。ただ、正直、兄貴に対して後ろめたい思いがなかったかと言われると、な。やっぱり兄は兄だからなあ」
由紀夫は、ちょっと意外な思いで和馬を見た。堂々たる指導力を発揮してきたこの男にも、そんな機微な感情があったのか。
「ま、それはさておき、目下の懸案はこの認知届だ」
和馬が、雑念を振り払うように言った。
「ああ。はっきり言ってかなり深刻な事態だ。もしもだよ。もしも誰かが、お前の財産を狙って嘘の認知届を出したんだとすれば、お前の家庭の内情がある程度分かってる人間の可能性が高い。これを見ると‥‥」
由紀夫が、目の前に並べた二枚の戸籍謄本をもう一度見直す。
「認知届は15年前だ。その時点では淑子さんも元気だったし、駿介君だってまだ結婚前だ。仮に誰かが陰謀を企てたんだとしても、数年後に駿くんが非業の死を遂げるなんて先々のことまで見通せてたはずがない」
和馬が頷く。
「お前が死んだ時点で、満を持してここにもう一人の相続人がいますと名乗り出るハラだったか。仮に名乗り出なかったとしても、遺産分割手続きですべての戸籍を集めて、もし隠し子がいたことが分かったらその人物に連絡を取らないわけにはいかない。隠し子を無視して相続手続きしても、すべて無効になるからな。その時点でお前はもうこの世にはいないから、関係者の誰一人、認知の事実を否定する材料なんか持ち合わせていない。和馬社長ってこんなウラの顔があったんだって、お前の評判も丸つぶれになるところだったかもな」
そのあたりは和馬も先刻想定済みだった。この口の減らない男に相談を持ち掛けたのはそのためだ。
「本当にお前にまったく心当たりがないんなら‥‥」
まだ言うか、とばかりに睨みつける和馬を横目に、由紀夫が続ける。
「時期と言い目のつけどころと言い、なかなか見事な計画というしかないな。でも、こうやってたまたま気付くことができたのも何かの巡り会わせだろう。誰の企みかは分からんが、何としてでも真相を解明しなきゃな。お前ももういい齢だ。いつ何があってもおかしくない。明日にでも絵莉に事の次第を説明して、とり急ぎ打開策を考えてみるよ」
あんまりみっともいい話じゃないけどな、と和馬が苦笑いで頷いた。

act.3

「おはよう」
「どこが早いの。今、何時だと思って」
週に二三回、のんびりお昼前に出勤してくる由紀夫と絵莉とのお決まりのやり取りだ。
「おはようございます」
続いて、入口の脇のデスクから竹原麻乃のいつに変わらぬ元気な声が聞こえた。島津由紀夫が市ヶ谷に法律事務所を立ち上げた当初から、秘書および事務経理その他雑用一切を担ってくれている好奇心旺盛で気さくなおばさんだ。とうに60を過ぎているが、訴訟や調停の手続きはもちろん、門前の小僧よろしく法律知識も一通り身に着けている。ああ見えて機転も利くし、作業は早くて正確。実質事務所を切り盛りしているのは彼女だと言ってもいい。
元代表で、今は顧問という肩書きの由紀夫は東京西郊の自宅から、現代表である娘の絵莉は湾岸の豊洲にあるタワーマンションから通っている。所属弁護士は親子二人だけ、それに古参秘書の麻乃を加えた典型的なマチ弁だ。もっとも、元代表の方は週休四日以上を決め込んでいるようだから、実質戦力は1.5人未満といったところか。ありがちなことだが、弁護士二人はともに事務処理能力に難があるだけに、麻乃なくしては事務所は立ち行かない。
由紀夫が代表だった頃は、刑事民事の別なく、来る者は拒まずをモットーにしゃかりきに仕事を引き受けていたが、絵莉の時代になってからは、離婚や遺産分割など主に家事事件関係が専門となっている。
「絵莉、ちょっといいか」
由紀夫は、奥のデスクの絵莉に声を掛けた。いつになく真剣な表情の父の様子を見て、絵莉がパソコンを閉じた。弁護士親子が、ソファで向かい合う。
「へーえ。あの和馬おじさんがねえ」
かいつまんで経緯を聞いた絵莉が嘆息を漏らした。
幼い頃、丹羽家に遊びに行くたびに大歓迎してくれたあの和馬おじさんに緊急事態発生か‥‥。事が事だけに、好奇の念がむくむくと湧き上がるのも無理はなかった。
一方で、絵莉にとって和馬は、単なる父親の親友というだけではない。いつもりゅうとして隙なくスーツを着こなした身なりと言い堂々とした物腰と言い、頼りがいのあるおじさま像そのものなのだ。今やすっかり髪が薄くなってしまったが、そのせいもあって、映画の配信サイトでファンになったショーン・コネリーに何となくイメージが重なる。
「でも、本人にはまったく心当たりがないそうだ」
親友の名誉をなおざりにするわけではないが、断定ではなく伝聞口調になるのは弁護士の習い性である。
由紀夫が、問題の新旧2枚の戸籍謄本をテーブルに並べる。
「和馬は、この認知は断じて自分が届け出たものじゃない。だから、何としてでも取り消して欲しいって言うんだが‥‥。どう思う?」
「認知は、一度届け出たら取消しできないことになってるんだけど、実際のところ、血縁がなかったとか詐欺強迫による違法なものだとかの場合は無効の主張ができるんだよね。和馬おじさんの場合も、本人が知らないところで誰かが勝手に嘘の届け出をしたということが立証できさえすれば、認知無効が認められる可能性は十分あるよ」
「でも、その立証責任は無効を主張する側、つまり和馬だよな」
「そう。だから、まず、認知届を出したのが自分じゃないことを立証しなきゃ。でも、15年以上前の届け出の無効を証明するとなると、結構大変かも」
絵莉が小さくため息をつく。
「でも、やるしかない。もしも、今、和馬に万一のことでもあってみろ。丹羽家の莫大な財産の半分が、どこの馬の骨とも分からない人間のものになっちまう」
百合香を養女にするという和馬の計画はさておき、現段階では和馬の相続人は孫の恭介ただ一人なのだ。
「馬の骨ってことないでしょ。だって、和馬おじさんの実のお子さんなんだもん」
いたずらっぽく笑う絵莉に、由紀夫が苦笑しながら頷く。
「ああ、その通り。今のところ、それを否定する材料がまったくない。だから、大至急、対処しなきゃならん。百合香さんのことは知ってるよな」
由紀夫は、和馬が百合香を養女にして、孫の恭介が一人前になるまで丹羽家の後事一切を託す決意を固めていることを伝える。
「よくよく考えた末のことらしい。遠い縁戚だっていうし、長男の嫁さんならこっちは馬の骨ということにはならんからな。その手続きに取り掛かろうと思って戸籍謄本を取ってびっくり、まさに青天の霹靂ってヤツだ」
「ふーん、そうなんだ。和馬おじさんに限って作り話ってことはないと思うけど、知らないうちに自分の戸籍に虚偽の記載がされてるなんて聞いたこともないわ。ほんと、油断も隙もあったもんじゃないわよねえ」
父と娘が軽くため息をつく。
「絵莉は家事事件が専門だから、認知だの養子縁組だの身分関係はお手のものだよな」
まあね‥‥。絵莉が頷く。他ならぬ和馬おじさんが得体の知れないトラブルに巻き込まれているとあっては、父さんに頼まれなくったって、ここは私の出番だわ。
「いいわよ。父さんが老骨に鞭打っても、あんまり役に立ちそうもないしね」
「まあ、この方面は専門外だからな。そうとなったら、すぐにでも取り掛かってくれるか。危機に瀕した大富豪の依頼だ。報酬は弾んでくれるぞ」
軽口を叩きながら、由紀夫がデスクの受話器を取った。
「そうと決まったら、まずは和馬に連絡しとこう」
由紀夫は、今回の案件を実質的に絵莉に任せることをかいつまんで伝えてから電話を代わった。
「和馬おじさん。ふつつかながら、力の限りお手伝いさせて頂きます」
「まさか、こんなことで絵莉ちゃんにお世話になろうとは思わなかったよ。何ともみっともない話だが、どうかよろしく頼む」
「だって身に覚えはないんでしょ。みっともないなんてこと全然ないよ。父から全力を尽くすように厳命されてますし、他ならぬ和馬おじさんの一大事だもん、気合い入れてやらせてもらいます」

さて、何から手を付けようか‥‥。
顧問の由紀夫が例の通り早々と帰宅した後、絵莉は自分なりの方針を固めることにした。グーグルカレンダーを開いて、明日からのスケジュールを確認する。それなりの数の案件を扱ってはいるが、日中まったく身動きが取れないというわけではない。明日は午前中、東京家裁で離婚調停。午後は空いている。
とにかく、和馬が認知したことになっている本間祐樹のことを調べるのが先決だろう。彼の年齢も職業も現住所も、その人物像は今のところ何一つ分かっていないのだ。とりあえずの手掛かりは、祐樹の母親であろうと思われる本間智恵子ということになる。
通常、隠し子の消息を辿るのはさほど難しい事ではない。遺産分割の際、もしも故人にかつて認知した子がいれば、必ずその人物を探し当てて相続人に加えなければならない。認知した限りは、隠し子も法的にはれっきとした実子なのだ。ほんの数年前までは夫婦間で生まれた子との間に格差があったが、民法が改正されて今はまったく同じ相続権を持っている。いずれにしても、隠し子も参加しなければ遺産分割そのものが成立しないのだ。絵莉もこれまでに故人が認知した子を探し出して、遺産分割協議に参加してもらったことは何度もある。
では、どうやって隠し子を探し出すのか。その方法はただ一つ。ただひたすら戸籍を辿って、その裏に隠れた事実を探っていくこと。これしかない。
和馬の旧い方の戸籍の認知の欄には、本間智恵子と祐樹の本籍地が記載されている。
『新宿区東新宿3丁目』
翌日、家裁での離婚調停を終えて絵莉は新宿区役所に向かった。

本来、戸籍謄本の発行を申請できるのは、本人と家族のみである。しかし、弁護士であれば、相続や離婚などの事案で職務上必要な場合は取得できることになっている。絵莉は家事事件が専門だけに、戸籍関係の文書の請求は手慣れたものだ。戸籍係の窓口で、さほど待つこともなく本間智恵子の戸籍謄本を受け取って、急ぎ足で区役所前のスターバックスに飛び込む。
さてと‥‥。
絵莉は、窓際のカウンター席に腰を下ろした。まずはカフェラテを口に含んでゆっくり香りを味わってから、おもむろに謄本を取り出す。
戸籍に記載されているのは、筆頭者の本間智恵子と長男の祐樹の二人だけ。やはり、智恵子と祐樹は親子らしい。智恵子は昭和49年新潟県長岡市生まれ。頭の中で素早くそろばんを弾く。
  まだ46歳‥‥。戦前生まれの和馬とは親子ほどの齢の差がある。
この戸籍が作られたのは平成9年。それ以前、智恵子は新潟の両親ではなく本間姓の男性の戸籍にいたことも記されている。
──となると。現在の戸籍に婚姻関係の記録は残っていないものの、智恵子はかつて本間という男性と結婚していた、そしておそらく平成9年に離婚した可能性が高い。
息子の祐樹は平成11年9月1日生まれとなっているから、まだ20歳。和馬から見れば、こちらは孫の世代だ。和馬の旧い方の戸籍に記載されていた通り、平成16年9月1日に認知されている。
  認知の届け出は、祐樹が5歳になった誕生日当日か。
絵莉が小さくつぶやく。祐樹の父親が丹羽和馬、母親が本間智恵子となっているのを改めて確認してから、冷めかけたカフェラテをもう一口飲んで息をついた。
20年あまり前、還暦前の金持ち爺さんが、離婚して間もない30歳以上も年下の女性をはらませた。そして、生まれた落とし子が5歳になった時、わが子として認知した。戸籍が語る事実を下世話に翻訳すればそういうことになる。
でも、丹羽和馬はその事実を真っ向から否定している。そして、依頼人の主張を立証して法的に確定する事が弁護士に課せられた使命。とはいえ、とうの昔に定まった身分関係を覆すのは並大抵の事ではない。
  いずれにしても、先ずはこの母子と連絡を取るしかないな‥‥。
絵莉は、謄本とともに発行してもらった『戸籍の附票』を開いた。附票には、戸籍とヒモ付けられた住民票の内容が記されている。
本間智恵子は、平成9年に新戸籍を作ると同時に、本籍と同じ住所で住民登録をしている。そして、それからおよそ1年余り後に川崎市多摩区稲田に住所を変更、間もなく長男祐樹が生まれて世帯に加わっている。以後20年あまり、母子二人の世帯構成は変わっていない。
絵莉は、スマホでグーグルマップを開いて川崎の住所の正確な位置を確認する。画面を指でなぞりながら、絵莉はふっと胸騒ぎを覚えた。
そして、その予感は的中する。探り当てた住所は、和馬の本拠地府中から多摩川を挟んで目と鼻の先だった。夕方、事務所に戻ってから丹羽地所の社長室に電話を入れた。電話口に出たのは、秘書の百合香だった。絵莉が名乗ると、あらご無沙汰しております、という親しげな声が聞こえた。丹羽家の嫁でもある百合香とはこれまで何度か顔を合わせている。
彼女には今回の件はすべて伝えてあるとのことだったので、単刀直入に言った。
「社長の戸籍トラブルの件、百合香さんはもうおおよそご存知なんですよね。それについて、ここまでに分かった結果をご報告しようと思いまして」
「すみません。あいにく社長は今外出中なんです。戻りましたら申し伝えますので、とりあえず、概略だけ承ってもよろしいですか?」
一瞬躊躇したが、和馬と百合香はいわば一心同体。その方が間違いなく話は早い。
ではかいつまんでと、本間親子の戸籍を確認したこと、母親の智恵子が昭和49年生れの46歳、息子の祐樹が平成11年生まれの20歳であること、そして祐樹の父親の欄には認知した丹羽和馬の名前が記載されていることを伝えた。電話の向こうで、百合香がメモを取る気配がうかがわれた。
「昭和49年生まれというと、本間智恵子さんは駿介と2つ違いなんだ」
百合香が、今は亡き夫の名前をぽつりと漏らした。舅の和馬には息子とほぼ同じ年齢の愛人がいて、孫に近い年齢の子を産ませた。少なくとも戸籍上は、それが間違いのない事実‥‥。これは、百合香にとってもただ事ではない。
あまり気が進まなかったが、絵莉は追い打ちをかけるようにもう一つの事実を伝えた。
「ちょっと驚いたんですが、この親子の現住所は川崎市多摩区で、丹羽地所からだと車でほんの10分程度の場所なんです」
それは、和馬と本間智恵子との愛人関係をうかがわせる事実でもある。
「分かりました。ご報告頂いた内容、間違いなく社長に申し伝えます」
冷静を装ってはいたが、その声にかすかな動揺が感じられた。
それでは、とりあえず本間親子の戸籍謄本と附票のスキャン画像をメールで送っておきます、と伝えて電話を切った。

  さあて、これからどうしよう?
絵莉は、息をついて考えを巡らせた。 和馬の証言とここまでに明らかになった事実を総合すれば、考えられる可能性は三つ。
その一。依頼人はウソをついている。
現実に和馬は、20年あまり前、年の離れた愛人との間に男児をもうけ、数年後に認知届を出した。しかし、今は何らかの事情があって、その逃れようのない事実を真っ向から否定している。ただ、もし万一そんなウラ事情があるのだとすれば、それを隠蔽する見事な演技はショーン・コネリーにもヒケは取らない。
でも、この仮説にはいくつかの欠陥がある。一つは、事故で長男を失った和馬にとって、今やこの子は唯一の直系の子だ。一人息子を亡くし孫がまだ幼いことを思えば、丹羽家の血筋を何よりも大切にする和馬にとって血のつながった子の存在は願ってもないことではないか。かの天皇家だって、側室制度という公然の愛人システムがあったからこそ、長く男系の血統を維持してきたぐらいなのだから。
そもそもだ。実際に身に覚えがあるのなら、わざわざ弁護士を雇って、あまりみっともいいとは言えない内容を表沙汰にして事を荒立てる必要がどこにある? いくらウソで塗り固めようが事実を覆すことなんかできやしないことぐらい、あの和馬おじさんなら十分に分かっているはずだ。
可能性その二。依頼人は忘れている。
愛人の存在や認知が事実だとして、記憶や認識能力の衰え、あるいは何らかの精神疾患のせいで、そのことを完全に忘却している。しかし、この仮説にも欠陥がある。相談を受けた父の由紀夫はそんな気配を毛ほども感じ取っていないし、和馬社長の電話での受け答えにも何一つ様子のおかしい点はなかった。精神的にまったく問題がないのに、こんな重大な件のみが記憶から完全に消え去るなんてことがあるとは思えない。
そしてその三。
依頼人はハメられた。
和馬はウソもついてないし精神状態や記憶に障害があるわけでもない。つまり、和馬に愛人がいた事実も、その子を認知した事実もなかった。そう、和馬は何者かの罠にかけられた。でも、遥か15年も昔、秘かにそんな陰謀が巡らされていたなんて、スパイ映画じゃあるまいしそんな荒唐無稽な話があるだろうか。
しかし、だ。
莫大な資産を持つ老人がいて、その実子になれば相続人の地位を得られるというのは紛れもない事実。そこに目をつけて、よからぬ事を企む人間がいる可能性がないとは言えまい。
認知当時、当の本間祐樹はまだ5歳。自分で仕組めるわけがない。とすれば、一体誰が? 母親の智恵子? 確かに、息子が億万長者になるのなら悪事を企む大きな動機にはなるかも知れない。
とはいえ、和馬との接点が一切なさそうな本間智恵子が、そんなとんでもない謀略を企てて実行するというのはいくら何でも無理がある。少なくとも、丹羽一族の事情を知る何者かがウラで糸を引いていなければ、およそこんな仮説は成立しない。
いずれにしても、今、ここで三つの可能性をためつすがめつしたところが、何の結論も出ようはずがない。確かに、事実関係だけ見れば、「その一」のウソつき説を取るしかないだろう。でも、戸籍という逃れようのない現実を目の前に突きつけられてもなお、愛人の存在や認知の事実を全否定する和馬の姿勢が揺らぐ気配はない。何しろ、問題を顕在化させたのは、他ならぬ和馬自身なのだ。
とすれば。
事実関係はさておき、依頼人の要望を実現することこそが弁護士に課せられた責務だ。ならば、三つの可能性のうち、依頼人の主張に沿ってその一と二はひとまず除外して進めるしかあるまい。つまり、愛人の存在も隠し子を認知した覚えもないという和馬社長の主張を裏付け、立証すること。それが私のミッションだろう。
具体的に考えてみよう。戸籍以外には、和馬と本間親子を関係づける証拠は何一つない。その唯一の拠り所、すなわち当時の認知届が無効なものだということを立証すればいいはずだ。到底一筋縄では行かないだろうけど、それが証明できさえすれば、和馬と本間祐樹との父子関係はただちに消滅することになる。
それにしても、戸籍といえば個人情報の最たるものだ。その届け出は、よほどのことがない限り本人が自ら窓口で行うものだろう。ましてや、認知という重要かつ機微な届けであればなおさらだ。でも、肝心の和馬はまったく身に覚えがないという。和馬が嘘をついていないことを前提とするならば、誰かが和馬になりすましたとでもいうのか。でも、一体どうやって? 
明日、もう一度新宿区役所に行ってみるか。戸籍係で事情を説明して、当時の認知届について調べてみよう。もちろん、15年も前の個別の届けのことを覚えている者がいるとは思えない。でも、ひょっとしたら届け出関係の書類が保存されているかも‥‥。

うーん。ちょっとお腹がすいたな。
絵莉は、スマホでピザの宅配を注文して書棚から六法全書と判例集を取り出した。
これまで離婚や遺産分割の仕事は山ほどこなしてきたものの、さすがに認知無効の主張なんてレアな争いに関わった経験はほとんどない。人の身分に関わる事だから、きっと厳密な事実認定手続きが規定されてるに違いない。そして、実際にこれまでどんな裁判事例があったのか。どう審理され、どんな判決が出されたのか‥‥。
あーあ、今日も残業か。
絵莉は、つぶやきながら分厚い本のページを開いた。

翌日、絵莉は再び新宿区役所の戸籍係を訪れた。聞けば、戸籍関係の届出書類は、過去27年間分は廃棄されず保存されることになっているという。丹羽和馬が本間祐樹を認知したのは平成16年。まだ、十分に保存対象範囲だ。
早速、所定の手続きを取って、和馬が届け出たことになっている15年前の認知届のコピーの発行を申請する。想定外の事態への対応能力はゼロだが、決まった手続きに従いさえすれば万事滞りなく進むのがお役所仕事というものだ。証明印の押された届出書のコピーの発行には10分もかからなかった。受け取った書類を手に、絵莉は昨日と同じスターバックスの窓際のカウンターテーブルに席を取った。
届出書には所定の書式に、届け出た日付、認知した丹羽和馬、認知された本間祐樹とその母智恵子の住所氏名などが手書き文字で書かれていた。
  窓口で届け出たのは誰‥‥? 
絵莉は固唾を飲んで届出書を目で追う。
しかし、届出書の提出者の欄は、『本人』にチェックが入っていた。つまり、誰かが代理で提出したのではなく、和馬が自分自身で届け出たことになっているのだ。
昨夜、仮定「その三」の方針で行くことを決めた。認知届はニセモノだった、すなわち何者かの陰謀説だ。もちろん、「その一」や「その二」の可能性、つまり和馬自身が怪しいという疑惑が完全にぬぐい切れたわけではないけれど、ひとまずはその前提でと動き始めた矢先だというのに。和馬が知らない間に何者かがウソの認知届を出したという裏付け探しは、15年前の届出書のコピーによってのっけから挫折である。
だが、そう簡単にあきらめるわけにはいかない。そこに何かカラクリはないのか。
絵莉は、届出書を睨みつける。届出書の手書き文字がその眼を射る。
  筆跡‥‥。手掛かりになるとすれば筆跡しかない。この届出書に書かれた文字は和馬のものではないという筆跡鑑定は可能だろうか。
しかし、と絵莉は即座にその考えを打ち消す。
残念ながら、裁判所は筆跡鑑定そのものを重視していないし、鑑定結果もあまり信用していないというのはこの世界の常識だ。仮に本人を真似て書かれているとすれば、その文字がニセモノだと断定するのは極めて困難だし、もしも誰かに代筆してもらったとでも反論された日には筆跡なんてまったく無意味になってしまう。結局、筆跡鑑定なんて、確固たる証拠を裏づける補強手段程度のものと思っておいた方がいい。
  筆跡に頼ることなく、認知届がニセモノだという証拠を探すしかない。でも、一体どうやって? 
だが、認知届の真偽もさることながら、目を逸らすわけにはいかない根本的な問題が絵莉の脳裏を離れない。
  手続きをしたのは父親本人となっている。つまり、丹羽和馬が自ら窓口で届け出たということだ。たかだか紙っぺら一枚とはいえ、これは届け出が虚偽だという主張を真っ向から否定する事実に他ならない。 
絵莉の目の前には暗雲が立ち込め、空想じみた根拠もない考えが浮かんでは消えるばかりだった。
  のんびりカフェラテを飲みながら、こんな届出用紙一枚、いくら睨みつけたってラチが明くもんじゃない。ひとまずは、報告を兼ねて和馬おじさんと会ってみようか。この届出書を突き付けたら、おじさんどんな顔をするだろう。でもなあ、おじさん、ひょっとしたらかなりの名優かも知れないからなあ‥‥。
絵莉の脳裏から、仮説その一、その二の可能性が完全に消えているわけではない。
  ついでに、届け出当時の丹羽家の人間関係とか会社の周辺状況を聞いてみようか。ひょっとしたら、そこから何かヒントが見つかるかも知れないし。
絵莉は、書類をバッグに押し込んで立ち上がった。

act.4

絵莉が丹羽地所に来るのは初めてだった。秘書の百合香の案内で社長室に入る。巨大なパノラマウィンドウを背に和馬が座っていた。
「丹羽社長、ご無沙汰してます」
一応オフィシャルな場だけに、さすがにいつものように和馬おじさんと呼ぶわけにはいかない。一方、和馬の方はそんなことには頓着せず、絵莉ちゃん、世話をかけるね、と返した。
ソファに向かい合わせに座って、絵莉がバッグから何通かの文書を取り出す。
「昨日メールでコピーをお送りしておきましたが、これが本間親子の戸籍謄本です。そしてこちらが、先ほど手に入れたばかりの15年前の認知届出書です」
和馬は、本間親子の戸籍謄本に軽く目を通した後、認知届を手に取ってしげしげと眺めた。
「知らない間に、私の名前でこんなものが届けられてたとはなあ。いやはや」
ほぼ予想通りの反応だった。他ならぬ自分が認知届を出したという動かぬ証拠を前にしても、身に覚えがないという立場が揺らぐ気配はまったくない。
「百合香さん、どうかな。これが私の筆跡だと思うかね」
和馬は、百合香も隣に同席させていた。息子の嫁として、そして遠からず養女となる秘書に全幅の信頼を寄せていることがうかがわれる。
「確かに社長のサインのように見えます。ただ、ぱっと見、ちょっと違和感がなくはないような‥‥。でも、しかとは分かりかねます」
経験上、直感的な印象というのは意外と馬鹿にならないものではあるけれど‥‥。
「少なくとも、平成16年に、役所が漏れのない認知届を受け取って戸籍に正式に記載したのはまぎれもない事実です」
絵莉が、和馬の顔を正面から見詰める。
「社長。届出書のこの部分をもう一度確認して頂きたいんですが」
絵莉は、認知届の届出人の欄を指さした。
「届出人は、父親本人となっています。つまり、誰かが代理で提出したのではなく、社長自身がご自分で届け出たことになってるんです。しかし、社長にはそんな覚えはまったくない。ということは、何者かが社長になりすまして届出書を提出したとしか考えられなくなります」
「何者かが‥‥」
和馬がつぶやいた。
「結婚だって離婚だって、本人たちの自由意思で届け出られるし、形式さえ整っていれば役所は受理します。いや、受理しなければならないんです。その点は認知も同じです。原則、父親の自由意思のみで認知はできます。母親の同意も、裁判所のお墨付きをもらう必要も一切ありません」
和馬が押し黙る。様々な想念が脳裏を駆け巡っているのだろうか、やや心ここにあらずといった様子の和馬に絵莉が声をかけた。
「社長の知らないうちに、誰かがウソの認知届けを出したなどということがあり得るでしょうか?」
「私の名をかたって誰かが届け出をする? そんなことが現実に可能なのか?」
「身分関係を大きく変更するんですから、届け出る際には、当然戸籍係の窓口で本人確認が必要になります。大抵は免許証とかパスポートですが、スパイ映画じゃあるまいし、なりすますために身分証明書を偽造するなんて事はいくら何でも考えにくいですよね」
和馬は、眉根を寄せて考え込む。絵莉は、ちょっと目先を変えてみようと百合香に声を掛けてみた。
「当時、百合香さんは、もうこの会社に出入りなさってたんでしたっけ」
「はい。今、私もそれを考えてました。平成16年といいますと、私まだ学生だったんですけど、4月からアルバイトで秘書の真似事をさせて頂くようになった年だったと思います」
「そうですか。それでは、お二人に記憶をたどって頂きたいんですが。この認知届が出された平成16年の9月前後、何か思い当たることがなかったでしょうか? どんな些細なことでも結構です」
和馬の眉根のしわがさらに深くなり、百合香も首をひねる。
「すいません、急にそんなこと言われても思い出せるわけないですよね」
「百合香さん。何か、当時の資料は残ってないかな? 会社関係でもプライベートでも構わんから」
「保管庫の方を確認してみます。ただ、残っているとしても、帳簿類とか税務申告関係の書類ぐらいだと思います」
「それで構わない。何か、当時のことを思い出すきっかけがつかめるかも知れん」
分かりました、と言いながら腰を浮かせかけた百合香が、ふっと思い付いたように言った。
「実は、あの頃私、社長のスケジュール管理に手落ちがあってはいけないと思って、大判のビジネス手帳を買い込んでかなり細かくメモしてたんです。何しろ、アルバイトとはいえ秘書という仕事は責任重大だって父親からひどく脅かされて、今思うとおかしいぐらい気合いが入ってたもんですから」
百合香が、ちょっと照れ臭そうに笑った。
「ひょっとすると、その手帳に何かヒントになるようなメモが残ってるかも知れません。おそらく、実家に置いてあると思うので、今晩にでも確認してみます」
「すばらしい。百合香さん、是非ともよろしくお願いします」
百合香は、夫と長男を亡くした後実家に帰っている。かけがえのない家族の思い出の染みついたマンションに、身重の身でたった一人住み続けることなど到底できるはずもなかった。はかり知れないショックも癒えぬまま無事次男を出産できたのは、実家の両親の心身両面にわたる手厚いケアがあったからこそなのだろう。その後、和馬のたっての願いに応じて秘書に復帰できたのも、保育園に通い始めたとはいえまだまだ手のかかる恭介を両親が看てくれているからに違いない。
和馬には当時の会社関係の資料に目を通してもらい、百合香には手帳のメモ内容を確認した上で当時の記憶を辿ってもらう。ひょっとしたら、そこから認知届にまつわるヒントが何か浮かんでくるかも知れない。
とりあえずはお二人にこの宿題をこなして頂くことにして、今夜はゆっくりと休ませて頂くことにしようかな。絵莉は、そんなことを思いながら丹羽地所を後にした。          

act.5

翌日、午前中のスケジュールが空いているのを確認して、絵莉は川崎の本間智恵子の自宅を確認しておこうと思い立った。直接話をする積りはないが、実際に住民票の住所に住んでいるのか、自宅はどんな建物なのか、20歳の息子とは現在も同居しているのか‥‥。認知届が虚偽なのかどうかはさておくとしても、肝心の本間親子のことがまだ何一つ分かっていない。
とはいえ、民事の争いで、対立相手のことが最初から詳しく分かっているなんてことはまずない。大抵は、依頼人の主張を聞いて、どんな相手とどんな対立関係にあるのかをおおよそ見当つけるのが関の山。しかも、その依頼人の主張たるや、自分は一方的に損害を被った可哀そうな被害者だから相手を目いっぱい懲らしめてやるという点で、例外はほとんどない。自分の側の非など金輪際顧みることのない依頼人の話をまともに信じたら、相手はとんでもない極悪人ということになる。逆に、相手側からすれば、間違いなく私の依頼人の方が極悪人ということになるのが道理だ。そんなわけで、絵莉は依頼人の主張についてはとりあえず話半分に聞くのが常である。
それにしても、今回はまた特別だ。相手に関して分かっているのは、戸籍の記録から得られた情報だけ。認知届が出された経緯どころか、依頼人である和馬と相手方との関係性すら、皆目見当がつかないのだ。これからどんな戦略を組み立てるにしても、いささかでも相手のことを知っておくに越したことはない。
敵を知れば百戦危うからず‥‥。絵莉は口の中で小さくつぶやいた。

京王線調布駅で相模原線に乗り換え、多摩川を越えてすぐの稲田堤で電車を降りた時には午前10時半を少し回っていた。
『川崎市多摩区稲田5‐3‐12 レジデンス多摩川403号』
改札を出たところで、戸籍の附票に記載されていた住所をスマホの地図アプリに打ち込んで、現在地からのルートを検索する。所要時間は徒歩でおよそ8分。謎の母子が暮らす町の土地柄を見ておいてもいいだろう。
駅前の商店街はすぐに途切れて、新興住宅街らしいこじんまりした戸建てと中層のマンションが立ち並んでいる。どこにでもありそうな郊外の風景を眺めながら、考えるともなく本間母子に思いを馳せてみる。
戸籍の附票に記載された住民登録の履歴によれば、母親の智恵子は、平成9年に一人でこの土地に移り住んでいる。当時、まだ二十代半ば過ぎ。
智恵子は、平成8年に本間姓の男性と離婚した後、新宿で新生活のスタートを切っている。歌舞伎町にほど近い土地柄からして、離婚したばかりの若い女が一人で生きていくために、まずは水商売を選んだだろうことは想像に難くない。容姿に恵まれていれば、それなりのお店で働くこともあり得るだろうし、ひょっとするとそこで年の離れた大富豪と巡り合ったとしてもおかしくはない。
いや、もちろん和馬社長が彼女のことを知らないというのは大前提だ。でも、これはあくまで想像。想像するだけならバチも当たらないだろう。絵莉は、内心、埒もない言い訳をしている。
魔が差したとでも言えばいいのだろうか、謹厳実直を絵に描いたような大富豪はその若くて美しいホステスにすっかり心を奪われてしまう。智恵子の方も、落ち着いた初老の紳士に徐々に惹かれるようになる。
  平成8年から9年頃か‥‥。20年あまり前ということは、私はまだ花も恥じらう女子高生だ。和馬社長、今ではすっかり髪が薄くなったけど、あの頃は確か素敵なロマンスグレーだったもんなあ。
絵莉の想像はどんどん逞しくなっていく。
かくして、年の離れた二人の関係は急速に接近していった。和馬は、間もなく智恵子のために自宅にほど近い川崎にマンションを用意して、生活に不自由しないだけのお手当を渡すようになる。そして、そのマンションに足しげく通ううち、彼女は妊娠。
いい年をして抜き差しならない立場に追い込まれた和馬社長。でも、あの誠実で思いやりのある人柄だ。どうしても産みたいと彼女にせがまれたら、拒むことなんかできやしなかっただろう。しかし、当時、家には長年連れ添った妻と一人息子との平穏な生活があった。自分が招いた種とはいえ、ここまでひとかどの実業家として実績を重ねてきた和馬が初めてぶつかった難局であった。
  うーん。
このあたりで絵莉が我に返る。これじゃ、想像というよりは妄想に近いストーリーだ。でも‥‥。ひょっとすると意外に的外れでもないかも。と思った瞬間、手にしたスマホが「目的地周辺です」と囁いた。画面を見ると、地図アプリの矢印が赤く点滅して到着を知らせてくれている。
目の前には、ベージュのタイル張りの小ぎれいな5階建てのマンションが建っていた。玄関ロビーのドアの上には黒地に金文字で「レジデンス多摩川」とある。附票の現住所にあった通りだ。
建物の外装を見ても車寄せの奥の玄関越しに見えるロビーの様子を見ても、かなりグレードの高いマンションであることが見て取れた。そりゃそうだ。何たってパトロンは、この辺りの不動産王なんだもん。
  おっと妄想妄想。和馬おじさんには、まったく身に覚えがないんだったよね。絵莉が頭の中でぺろりと舌を出す。
オートロックのドアの脇にはカメラ付きのインターフォンが設置され、その向かい側の壁には郵便受けが並んでいる。
確か部屋番号は、と‥‥。
403号の郵便受けには、残念ながら名前は書かれていなかった。最近はセキュリティ意識が高まってるから、名前を表示するのはむしろ少数派だ。でも、これでは、本間親子が今も実際にこの住所に住んでいるのかどうかすら確認できない。
インターフォンで403号を呼び出してみようか‥‥。
ふと、そんな誘惑にかられた。でも、もし在宅していたとしても、どんな風に話を切り出せばいいのやら。
こんな形で事件の関係者の自宅を訪ねるのは、絵莉にとっては初めてのことだった。対立相手に対する弁護士の最初のアプローチは、書面を郵送するのが普通だ。急ぎの場合や住所不明の場合などに限り、代理人に就いたことの通知がてら電話をかけるのがせいぜいで、直接訪ねることなんてまずあり得ない。ましてやアポなしとなると、無用な反発や警戒心を持たせて対立をあおることになるのがオチだ。
そもそも、本間智恵子とはどんな人間なんだろう。分かっているのは、いつ、どこで生まれたのか、どこに住民登録をしているのか、といった戸籍に書かれている事柄だけ。離婚して新宿の高級クラブで働いていたとか、和馬社長に見初められたとか、マンションを買ってもらったとか、すべて根拠もない絵莉の妄想に過ぎない。
  せめて、彼女の声や喋り方を聞いたら、何となく人となりぐらい想像できるかも知れない。せっかくここまで来たんだから、当たって砕けろ、だ。もしも返事があったら、NHKですが受信契約はお済みでしょうか、とでも言えば当たり障りもないだろう。
絵莉は、インターフォンのカメラからさりげなく顔を背けて、おずおずと403と数字を打ち込んでコールボタンを押した。

act.6

「それで、本間智恵子は居たのかい?」
いつも落ち着き払っている丹羽和馬が、ちょっと勢い込んだ口調で聞いた。本間智恵子の住まいや土地柄の報告に興味津々で聞き入る様子を見て、和馬があの辺に愛人を囲っていたなんてストーリーはやっぱり根も葉もない妄想に過ぎなかったかと絵莉は改めて思っている。
「残念ながら反応がありませんでした。何しろ、平日の真っ昼間ですから。居留守の可能性だってありますし」
「でも、一応本間親子の所在が分かったんだ」
「いや、親子が実際にあのマンションに住んでいるのかどうか、まだ確認はできていません。私は身上調査の専門家ではありませんので、ここはやっぱり餅は餅屋。必要とあらば、興信所を使って何日か張り込めば、403号の住人の実像はある程度把握できるはずです。商売柄、信頼できる業者には心当たりがありますが」
そこまで言った時、絵莉は目の前の男が不動産会社の経営者であることを思い出した。
「その前に、社長。ひょっとして、このマンションが分譲なのか賃貸なのか、調べることは可能ですか? それから、もし分譲ならば、403号の現在の所有者が誰なのかも」
「もちろん、お安い御用だ。すぐに調べさせよう」
間髪を入れず、「はい」という声とともに百合香が立ち上がって内線電話を取った。隣り合ったオフィスのスタッフに、マンションの名称と住所を伝えててきぱきと指示を与えている。
「さすが、仕事が早いですね」
「そりゃやっぱり餅は餅屋さ」
和馬が満足そうに頷いた。
さほど待つこともなく、ドアにノックがあって、失礼しますの声とともに若い男性社員が入ってきた。
「お問い合わせの件、確認できました」
社員はプリントアウトした登記簿謄本をテーブルに並べた。
「レジデンス多摩川は、全戸分譲です。これが403号の登記情報になります」
今は、法務局のホームページからオンラインで全国の不動産登記情報がダウンロードできるようになっている。不動産業者にとって、この程度の作業は単なる日常業務に過ぎない。若い社員は謄本を指し示しながら言った。
「ご覧のように、平成9年の新築で専有面積は68平米、所有者は本間智恵子、新築時に売買で取得しています。抵当権が設定された記録はないので、ローンを組むことなくおそらく一括で支払ったと思われます」
「その頃の相場から考えて、分譲価格はどれぐらいか分かるか?」
「調べてみないと正確なことは分かりませんが、あの頃はITバブルのちょっと前になりますから、この地域でこれだけの広さですと、おそらく4000万前後じゃないかと」
やはり餅は餅屋だ。若い社員は、自分がまだヨチヨチ歩きだった頃の不動産の価格を即座に答えた。
「4000万を一括払いか。離婚でよほどの慰謝料をせしめたんだろうか」
「いや、そんな莫大な慰謝料というのは、通常はちょっと考えられません。まだ20代半ばの女性がそれだけの不動産を買ってしかも現金で支払ったとすると、実家が非常に裕福だったということもあり得ましょうが、やはり、しかるべきスポンサーがいたと考えるのが自然かと」
もちろん、和馬おじさんを疑ってるわけじゃないんだよ‥‥。内心で言い訳しながら絵莉が続ける。
「403号室の所有者が本間智恵子氏だとすれば、おそらく、住民票通り親子は今も居住中という可能性が高いと思います。これで、私たちも次の段階に進む事ができます」
「次の段階?」
「はい。まずは、本間祐樹氏に、事実関係の確認とこちらの意向を伝えることが必要です。つまり、戸籍上、平成16年に丹羽和馬が祐樹氏を認知したことになっているが、和馬は祐樹氏も母親の智恵子氏のこともまったく存じ上げない。従って、双方に親子関係はないのは自明であり、認知そのものが無効であることを双方で確認したい。こうした内容を書面で送ります」
「なるほど。はてさて、どんな反応が返ってくるやら。しかし、もし反応がなかったら?」
「向こうに後ろめたいことがあるのであれば、おそらく返事はないでしょう。そうなったら、認知無効を申し立てる法的手続きの準備に入ります。法的手続きと言っても、即裁判というわけではなくて、まずは調停で双方が話し合うというのが決まりになっています」
「双方というのは?」
「認知無効の場合、母親の智恵子さんは当事者にはなりません。社長が認知をした相手、つまり祐樹氏に対して申し立てるという形になります。ただ、今後、場合によっては智恵子さんにも参加してもらう可能性が出てくるかも知れません。調停はあくまで話し合いによる解決というのが趣旨ですから、ひとまずは無効を立証するだけの裏付けが取れていなくても大丈夫です。とりあえず相手方となる祐樹氏の意思を確認して、もしも認知が間違いであったことに同意してくれれば、裁判に訴えるまでもなく認知の無効が認めらます。ただし、手続き上、DNA鑑定で血縁がないことの確認は必要になりますが」
そっと和馬の表情をうかがい見たが、DNA鑑定という言葉に反応する様子はまったくない。身に覚えがないのだから、当然と言えば当然なのだが。
「調停で祐樹氏が認知無効に同意しなければ調停は不成立となって、あとは裁判で白黒つけるしかありません。裁判になれば、こちら側が認知が無効であることを立証できない限り勝てません。でも、調停から裁判まで時間は十分にあります。その間に、何としてでもご自身が認知届けをしていないことを裏付ける証拠を探しださなければいけません」
「さあ、それなんだが」
和馬が、目の前のテーブルに積み上げた分厚い書類のファイルを指さした。
「一応、平成15年から17年にかけての会社の資料をひっくり返してみたんだが‥‥」
社長は、残念そうに首を横に振った。
まあ予想した通りだ。絵莉は、頷いて百合香に視線を移す。
「この間お話しした手帳ですが、やっぱり実家に残っていました」
百合香は、バッグからA5版サイズの分厚いビジネス手帳を取り出してテーブルに置いた。よほど使い込んだと見えて、革の表紙がすっかり色あせている。
「丹羽地所にお世話になるようになった平成16年の手帳です」
受け取ってパラパラとページを繰る。手帳は、見開きになった各月のカレンダーのページと、日付ごとに書き込めるページに分かれている。アルバイトを始めた4月から、日付のページには、黒と赤と青に色分けした細かな文字で克明なメモがびっしりと書き込まれている。職務を全うしようと懸命に心を砕く新米秘書の姿がしのばれた。
「これが、認知届が出された9月1日火曜日のページです」
絵莉が手帳に目を落とした。
『終日日商シンポ@国際フォーラム。1030正面玄関ハイヤー迎え。1200現着、昼食会。1330シンポ開始。1700終了予定。1800帝国H松濤の間にて懇親会』
絵莉が目を通したのを確認して、百合香が言った。
「ご覧の通り、この日、社長は商工会議所主催のシンポジウムに出席しておられます。場所は、有楽町の東京国際フォーラムでした」
「かなりタイトなスケジュールですね。ということは、この日、社長が新宿区役所へ行くことはかなり難しい?」
絵莉が和馬に視線を向ける。
「日商シンポは定例行事だから、この時のことを特段覚えているわけではないが、このスケジュールで途中高速を降りて新宿に寄るなんてとても無理だな」
「なるほど。ただ、15年も前だとハイヤーの経路の記録が残っているかどうか。今と違って、まだGPS機能はなかったはずですから。もちろん、この日、社長が新宿区役所に行って届け出をする時間的余裕はなかったという裏付けの一つにはなるはずですが」
社長が、一息ついたようにうなずいた。しかし、正直言って、この程度のことが裏付けになるだろうか。しかも‥‥。
絵莉は、ふっと脳裏に浮かんだ疑問を口にした。
「シンポジウムの途中、客席を抜け出して新宿に行くことは可能だったでしょうか。有楽町から新宿なら、車で3・40分もあれば往復できます」
社長が、再び眉根を寄せて考え込む。
「あの日は、いつも通り、最前列の招待席で顔見知りのメンバーと並んで座っていたはずだが。しかし、ずっと席を外さなかったことを会議所の仲間に証言してもらうというのは、どうも‥‥」
確かに、証言を頼むとなると、事の次第を説明しないわけにはいかない。認知うんぬんという問題だけに、謹厳実直をもってならす社長にはいささか抵抗があるだろう。それに、社長と席を並べた人たちは今やかなりの年配揃いだろうし、15年も前のおぼろげな記憶が果たして信頼に足るものとみなされるかどうか。
「ごもっともです。ただ、認知無効を申し立てるのであれば、申立人である社長が認知届を出していないことを立証しなければいけません。ご存じかも知れませんが、無かったことを証明することは悪魔の証明と言われます。悪魔の存在なんて誰も信じちゃいませんが、ならば存在しないことを証明してみろと言われても‥‥」
首を横に振る絵莉を見て、和馬が大きく息をついた。
百合香の手帳は、裏付け材料としては、はなはだ心もとないものだと結論付けるしかなかった。
「百合香さん、この日のことで、ほかに何か記憶に残っていることはありませんか?」
「いろいろ、思い出そうとしてはみたんですが」
百合香は、残念そうに首を振った。
それでは、もしも当時のことで何か思い出すことがあったら教えて下さい。どんな些細なことでもけっこうですから、と強く念押しして絵莉は社長室を出た。

事務所に帰った絵莉は、早速デスクのパソコンを立ち上げた。善は急げとばかり、本間祐樹に宛てた通知書面を書き始める。
『平成16年9月1日、私こと丹羽和馬は貴殿を認知したことになっています。しかし、これは私が一切与り知らないところで届け出がなされた無効なものです。この件に関して、一度直接お会いしてお話ししたいと思いますので、是非一度当方宛てご連絡頂けないでしょうか。もしも話し合いに応じて頂けない場合は、近日中に家庭裁判所に認知無効の調停を申し立てる積りです。いずれにしても、お互いに事実関係を確認し、双方納得できる解決に至るよう率直な話し合いができれば幸いです』
認知無効にたどり着くまでの手続きは、三段階に分かれる。先ずは、双方当事者同士の任意の話し合い。次いで、家庭裁判所の調停の席での協議。それでも合意できなかった場合の最後の手段が裁判だ。
文面を何度か読み直して、差出人が和馬の代理人弁護士島津絵莉であることを明記してプリントアウトし、秘書の竹原麻乃にもチェックしてもらう。秘書に書面チェックをしてもらうなんて沽券に関わるなんて弁護士もいるが、絵莉はそんなことは気にしない。絵莉に言わせれば、もしも誤字脱字のある不備な書面を送付でもしたら、その方がよっぼど沽券に関わる。所長とは名ばかり、マチ弁としてはまだ新米同然の絵莉にとって、この経験豊かなベテラン秘書は万事頼りがいのある心強い存在なのだ。
二重チェックを終えた麻乃に内容証明で送ってくれるよう頼んでから、絵莉は家事調停の申し立ての準備に取り掛かることにした。経験上、こういった通知文書を送っても、相手方が反応を寄こすことは稀だ。反応がなければ、速やかに第二段階の家裁の調停に進むことになる。これからの手続きの流れを見据えれば、現段階でやれることはやっておいた方がいい。
絵莉は、裁判所のホームページから所定の書式をダウンロードした。申立人の丹羽和馬と相手方である本間祐樹の戸籍謄本や附票を見ながら、現住所、本籍など必要事項を記入。続いて、申し立ての趣旨の欄には、『申立人が届け出たとされる認知が無効であることを確認し、親子関係を解消する』と書き込む。
さあて、問題はここからだ。申し立ての理由の欄をにらみながら、絵莉はしばし腕組みをする。とりあえず、現段階でこちらが認識している事実関係をかいつまんで書いておこうか。つぶやきながら、絵莉はキーボードを叩いた。
『申立人にとって、相手方およびその母親は面識すらない全くの赤の他人である。平成16年に届け出たとされる認知についても、申立人はまったく与り知らない。従って、この認知には大きな手続き上の誤りがあるので、認知の無効を求める』
──うーん。説得力、まるでなし。
パソコン画面をにらみつけながら、和馬社長の一方的な主張以外、無効の根拠となるものが何一つないことを改めて思う。
裁判所は、子どもは親なしでは生きていけないひ弱な存在であることを前提に、「子」という身分を安定させることを最優先する姿勢を取っている。従って、15年も前に確定している身分関係を覆すなんて、よほどのことがない限り不可能なのだ。よほどのこと、とは誰が見てもなるほどとうなずくだけの有無を言わさぬ証拠を示すこと。和馬社長がいくら声を大にして訴えようが、根拠もない身勝手な主張だと思われるのがオチだ。ならば、先ずは直接の話し合いの可能性を探り、本間祐樹の出方をうかがいながら現状を覆すだけの攻撃材料を必死になって探すしかない。
──それにしても‥‥。
絵莉は、パソコンの前に頬づえをついて想像してみる。
あの通知文書を受け取った時、本間親子はどんな反応をするだろうか。認知無効という主張にさぞや慌てるに違いないが、事が事だけに不用意に連絡を寄越すとも思えない。ひとまずは静観する可能性が高いだろう。ひと月ほど様子を見て何の反応もなければ、手続きの第二段階、すなわち裁判所に調停を申し立てることになる。ペナルティがあるわけではないが、裁判所からの呼び出しとなれば、本間親子もさすがに無視を決め込むわけにも行かないだろう。だが、首尾よく調停がスタートしたとしても、おいそれとこちらの主張に応じて認知無効を認めるとは思えない。となれば、合意不能で調停不成立となって、社長を原告、本間祐樹を被告とする認知無効の訴訟を提起する条件が整うことになる。
──とはいえ、だ。
たとえ裁判になったとしても、それまでに現状を覆すだけの攻撃材料なんて見つかるだろうか。現段階でこちらの手持ち札はといえば、さほど証拠能力が高いとは言えない認知届の筆跡鑑定あたりが関の山。果たして、今後何らかの手掛かりが得られるものやら皆目見当もつかない。
ひょっとすると、裁判になっても祐樹が出席を拒み続ける可能性もあるだろうか。家事事件では、被告が出頭しない場合、一概に欠席裁判となるわけではないとされてはいるものの、原告の主張が認められて被告に不利な判決が出る余地がないとも限らないが。
── あるいは‥‥。
あの通知文書を見て、祐樹が話し合いに応じてくることもあり得るだろうか。少なくとも、母親の智恵子が認知の事実を知らなかったとは考え難い。しかし、当時まだ幼かった祐樹には事情が知らされていなかったかも知れない。とすれば、母親を問い詰めて改めて自分の本当の出自を追及しようと考えることだってないとは言えまい。
──いや、待て待て。
絵莉は、身を起こして一度大きく伸びをした。
甘い見通しが当たったためしはない。パソコンの前であれこれ堂々巡りしているぐらいなら、裁判までもつれ込むことを想定して戦略を考えるべきだ。裁判になった場合、認知無効の立証のポイントとなるのは、一体誰が、何のために、どうやって虚偽の認知届を出したのか。つまるところ、問題は、犯人、動機、方法の三点に絞られる。何だか推理ドラマみたいになってきたけれど、それを解明しない限り、裁判で無効の主張が認められる見込みはないと思っておいた方がいい。
ならば、もうぐずぐずしてるわけにはいかない。一刻も早く、本腰を入れて認知無効を裏付ける証拠探しに着手するしかないだろう。
――裏付け調査となれば、やっぱり餅は餅屋かな。
絵莉の脳裏に、ある人物の顔が浮かんでいた。

act.7

翌日、島津絵莉は池袋の松尾リサーチを訪ねた。以前から懇意にしている興信所、いわゆる探偵業者だ。
専門の調査員を抱えたアメリカの大手法律事務所と違って、日本の弁護士は基本的に調査能力を持っていない。でも、特に重要な訴訟となると、相手方のみならず時には当の依頼人に関しても、その過去や素行を調査して裏付けを取らなければならない場合もある。この間は、成り行きで、自分で川崎のマンションまで行くことになったが、あんなことは例外中の例外だ。テレビドラマじゃあるまいし、自分自身の足で現地を訪ねて調査するというのは、特に女性弁護士にとってはかなり荷が重い。そんな時に、頼りにするのが興信所なのである。弁護士にとって、信頼のおける探偵は、いわば欠かせないパートナーと言ってもいい。
「あらあ、絵莉。随分、ご無沙汰だったじゃない」
松尾リサーチの応接室のドアを押すと、所長の松尾奈津子がいつものように満面の笑みとともに両手をいっぱいに拡げて迎えてくれた。
絵莉がまだ弁護士になって間もない頃、勤務し始めたばかりの大手法律事務所と専属契約を結んでいたのが、奈津子の父親が経営する松尾リサーチだった。その頃、奈津子も絵莉と同じように松尾リサーチで働き始めたばかり。
最初に顔を合わせたのは、先輩弁護士のアシスタントに就いて、行方不明の事件関係者の所在調査を依頼した時だった。実は、奈津子の第一印象は最悪だった。絵莉がおずおずと具体的な要望を口にすると、その一つ一つに横柄な口ぶりで異を唱えてくるのだ。それは無理です、できません、のオンパレード。理由も言わないで、一言の元にはねつけられた。悔しいが、こちらはまったくのド素人だから反論できない。
若いくせに、よほどのスキルの持ち主なのかと思いきや、ちなみにと聞いてみればまだ経験は半年に満たないと平然とのたまう。さすがにちょっと頭に来て、所長の娘さんだからって遊び半分でやってもらっちゃ困りますと、びしっと言い放った。ド素人と侮っていた小娘  自分だって小娘のくせに  から思わぬ反撃を受けた奈津子の驚きと悔しさの入り混じったあの時の顔。今、思い出しても吹き出しそうになる。
しかし、調査結果の報告を受けた時、たまたま話の成り行きで、お互い当時爆発的ブームになっていた韓国ドラマの大ファンだということが分かって、ぎこちなかった空気が急速に和らいだ。これで、鼻持ちならない女探偵に対する印象が180度変わったのだから現金な話だ。韓流スターの誰それは、なんて他愛ないお喋りをするうち、奈津子の些事に拘らない気さくな人柄に触れて大いに見直すことになる。
正直言うとさあ、あの時は、若い女弁護士風情に馬鹿にされまいと思って必死で虚勢を張ってたんだよねえ。のちに奈津子は笑いながら言った。絵莉のちょっと底意地の悪い反撃も、今ではまったく根に持っていないことも分かって、二人の間のわだかまりはすっかり氷解していった。
それから何度かコンビを組むうちに、新米弁護士と探偵業見習いは、同年代の女同士、仕事を超えて親しくなっていく。仕事上の悩みはしょっちゅう、時にはオトコに関する悩みもぶつけ合ったし、絵莉が父の個人事務所を継ぐかどうか迷っていた時も親身になって相談に乗ってくれた。
お互い若気の至りだったあの出会いから、もう20年近くになる。その間に、奈津子の方も父親の引退に伴って松尾リサーチの所長の地位を継いだのだが、公私にわたる付き合いは絶えることなく続いている。
「ふーん。ちょっとしたミステリーね」
かいつまんだ説明を聞いて奈津子が言った。興味津々の面持ちである。
昔から、奈津子の好奇心には並々ならぬものがあった。そもそも、他人の不幸は蜜の味などと言われるぐらい、人は、とりわけ女はゴシップや噂話が大好きなもの。奈津子の場合は、人並外れて旺盛だった好奇心が、この仕事に就いてさらに嵩じた気配がある。ひょっとすると探偵事務所を創業した父の血もあるのかも知れないと、絵莉はひそかに思っている。
興信所の業務は、いわば他人の秘密を覗き見するようなものだ。良識を重んじる世間様に対しては、あまり胸を張れるような仕事ではないかも知れない。でも、犯罪にまでは至らずとも、『秘密』には何かしら後ろ暗いことや道義的に許されないことが隠されているものである。義憤か私憤かはさておき、やむにやまれずその秘密を暴き出さなければならない場合があるのもまた確かなのだ。何かしらの被害を被った者が加害者の秘密を探るということになれば、人助けという側面だってないとは言えない。半分成り行きで父親の会社に入った奈津子だったが、いつしか探偵業にプライドを持つようになっていた。
「となると、今回のミッションは、この謎の親子の身辺調査というわけね」
「二人の日常の生活実態、収入、交友関係。智恵子は専業主婦なのか仕事をしているなら勤務先、祐樹は今も同居中か、学生なのか働いているのか、それとも引きこもりだったりするのか。それから‥‥」
「最大の問題は、何といっても智恵子の男関係よね。戸籍上は独身らしいけど、内縁関係の男性がいるかも知れないし、マンションに出入りしてたり内密で付き合ってる相手がいるかも知れない。でもさ。まさか、ふたを開けてみればその正体はやっぱり丹羽社長だった、なぁんてことはないわよね」
「私だってそこは考えたわよ。でも、周辺状況を色々探っても社長の態度振舞いを見ても、どうやらそのセンはないわね。探偵に身辺調査を依頼するって提案にもすっごく乗り気でさ。自分に後ろめたいことがあるんなら、何らか躊躇しそうなもんでしょ」
なるほどね、と言いながら、奈津子はあごに手を当ててちょっと考え込む。
絵莉は、丹羽和馬と本間親子の戸籍関係の書類一式のコピーを取り出した。奈津子は、好奇心たっぷりの顔で目を通す。職業柄、戸籍の読み込みに関して、奈津子は弁護士の絵莉にもまったく引けは取らない。
「うーん。やっぱり平成16年の認知届がポイントね。届け出たはずの社長自身にまったく身に覚えがないなんてね。はてさて、その裏にどんなカラクリが隠されているのやら‥‥」
「誰が、何のために、どうやって嘘の認知届を出したのか。つまり、犯人・動機・方法を解明しないことには、認知無効の主張が認められる見込みはない。それだけは確かね」
奈津子が大きくうなずく。持ち前の好奇心がその目にあふれている。
「絵莉。私、俄然やる気が湧いてきたわ。他ならぬあんたの頼みだもん、私が直接担当させて頂くことにしようかな」
「あら、所長自ら乗り出してくれるなんて、恐縮だわ」
「でも、所長の時給はちょっと高いわよ」
「任せて。何しろ、依頼人は多摩の不動産王なのよ。おカネに糸目はつけないわよ、多分」
顔を見合わせてひとしきり笑ってから、本間祐樹宛てに送った内容証明のコピーと今後の手続きの流れを書いたメモを手渡した。
「内容証明から一か月ほど待って、反応がなかったら家裁に調停を申し立てる積りだから、それまでに初回の報告をお願いできるかな」
「分かった。気合い入れて何とか成果を出さなきゃね」
「多分、本間祐樹は調停には出頭しないだろうし、出て来ても認知無効に同意するはずがないわよね。そうなれば調停不成立で、すみやかに訴訟を提起することになると思う。裁判まで、ざっと見積もって3・4カ月かな。その間多面的に調査を重ねて、何としてでも認知無効を立証するロジックを固めなくちゃ」
絵莉の言葉に、奈津子の表情がちょっと引き締まる。
「立証、すなわち虚偽の認知を届け出た犯人・動機・方法の解明ね。了解。さっそく今日からでも調査を開始します、島津先生」
「期待しておりますわよ、松尾所長」

act. 8

長男祐樹に対する認知の無効を告げる丹羽和馬からの書面を手にして、本間智恵子は激しく動揺していた。突然、丹羽和馬の代理人弁護士の名前で届いた長男祐樹に対する認知の無効を主張する内容証明。
──一体、どういうこと‥‥。
あれから、もう15年も前になるのか。祐樹が5歳になった時、あの人は、そろそろきちんとしなきゃと言って認知を届け出てくれた。
これで、祐樹は晴れて丹羽和馬の相続人だ。もしもの場合には、祐樹は間違いなく莫大な遺産を受け取ることになる。でも、もし万一この事実が知れたら、丹羽家からどんな妨害があるかも知れない。だから、私は祐樹を認知した事実を誰にも言う積りはない。お前も、その日が来るまで、丹羽家や丹羽地所の関係者とは決して連絡を取らないでくれ。
その日……?
ああ、俺がこの世からおさらばするその日だ。
あの人は、そう言っていた。それを今さら、あの認知を無かったことにするだなんて、そんなわけの分からない話って‥‥。
智恵子は、気を落ち着けようと深く息を吸った。
──でも、もしも‥‥。
もし万一認知が無効になったら、祐樹はててなし子に逆戻りしてしまうのか。そんな馬鹿な。15年も前に、祐樹は晴れて丹羽和馬の実の息子になったのに、今になってそれがひっくり返るなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがない。
莫大な遺産のことなど頭になかった。祐樹の父親がいなくなる。ただただ、そのことだけが心に引っ掛かっていた。
その日の夜。智恵子は、帰宅した祐樹にその書面を見せた。そもそも、内容証明の宛て先は祐樹だ。隠しておくわけにはいかない。
智恵子は、書面を読む我が子をじっと見詰める。あの人が私たちの前から姿を消したのは、認知を届け出た直後、この子がまだ5歳の頃だった。この子には、父親の面影はほとんど残っていないだろう。みんなの家と違ってうちにはお父さんがいないのはどうして、という素朴な疑問が生まれるのは当然だった。幾度となく父親のことを聞かれたが、子どもが納得できる説明などできるはずもなく、その度に智恵子は言葉を濁してきた。
父さんは、訳があってどうしても私たちとは会えないけれど、遠くでずっと見守っていてくれるの。私たちがこうやって何不自由ない暮らしができるのも、全部父さんのおかげなんだよ。
母の様子を見て、父親のことはあまり触れてはいけないことなんだと悟ったのだろう。祐樹は成長するにつれ父親の話題は控えるようになっていた。
母の方から父親のことを語ったのは、祐樹が念願の一橋大学に合格した時だった。しかし、その日、お前の父親は丹羽和馬という人で多摩の不動産王と呼ばれるお金持ちなんだよ、と伝えた時、案に相違して祐樹はさして驚かなかった。
知ってたよ、とこともなげに言う息子を母は驚きの表情で見つめた。
「まあ、ずっと気にはなってたんだけど、父親が誰かを調べる方法なんて思い付かなくてさ。でも、ほら高校の修学旅行で台湾に行く時、パスポートの申請に戸籍謄本取ったじゃん。その時、ふっと両親の欄を見たら、父親は『丹羽和馬』ってなってた」
「修学旅行って、祐樹。もう二年も前じゃない」
「うん。でも、ちょっと母さんに聞くわけにもいかなくてさ。その人は平成16年にぼくを認知したと書かれてて、その人の本籍は府中市ってなってた。それで、ダメ元でその名前をネットで検索してみたら、結構な情報が出てきてさ。老舗の不動産会社の経営者で、多摩地区では相当な有名人らしいね。同姓同名の可能性もあるけど、会社も同じ府中だし多分間違いないだろうって思ってた」
そう、知ってたんだ‥‥。母は小さくつぶやいた。
それにしても、この子はいつの間にこんな大人びた表情を見せるようになったのだろう。図体ばかり大きくなっても、まだまだ子どもだとばかり思っていたのに。
智恵子は、昨日までとは別の顔をした我が子を言葉もなく見つめていた。。

祐樹にとって、父の記憶はおぼろげだ。父親が母子のもとに来ていたのは、ほんの5歳の頃までだったのだから無理もない。ただ、あの頃、この家には母さんだけじゃない、確かに父さんらしき人がいたことだけは覚えている。幼な心にそれが父なのだと感じ取っていたのか、長じてからの後知恵なのか、本当のところは分からない。
今も一つだけはっきり覚えていることがある。その晩、父らしき人は、テーブルを挟んで母と話し込んでいた。いつもの通りにおやすみと言った時、その人はちょっとこっちに来いと言って、幼い祐樹を痛いぐらいにぎゅっと抱きしめてくれた。覚えている限りそんなことは初めてのこと、そして今になって思えば最後のことだった。だから、その時のことは強く記憶に残っている。しばらく抱きしめたまま言い聞かせるように何か言っていたが、ちんぷんかんぷんの内容を覚えているはずもない。父さんってすごい力だ。身動きもできないまま、ただそんなことを思っていた。
それがその人と過ごした最後の夜になった。その後、すっかり姿を見せなくなったその人のことを母に聞いたことは数知れない。父さんは仕事で外国に行っててね、日本にはなかなか帰って来られないの。ニューヨークだったり上海だったりシンガポールだったり、父の住む街は何度も変わったが、幼い祐樹はその度に地球儀でその異国の地を確かめたものだった。とはいえ、かくも長き父の不在を子ども心が納得できるはずもない。父の話をする度に駄々をこねるのが母子の日常風景となっていた。
でも、小学校の高学年にもなると、祐樹は母親の困り切った表情に気づくようにもなっていた。そして、都内の中高一貫校に通うようになった頃には、父のことはあまり問い詰めちゃいけないことなんだと自分に言い聞かせたりもした。父さんは外国暮らしだからじゃなくて、何か別の理由があって一緒に暮らせないんだ。祐樹は、うすうすそのことに気付いていた。ただ、不思議に父を恨む気持ちは湧いて来なかった。祐樹の脳裏には、あの最後の夜のことが残っていた。あの時、幼い自分を抱きしめながら父は何を語っていたのだろう。祐樹にとって、それは遥か遠い昔の何か甘酸っぱさを伴う記憶だった。
中学から高校へと進学するにつれて、両親がどういう関係だったのかもうすうす分かるようになってきた。どうやら両親は結婚していなかったらしいという事実は、思春期の少年を戸惑わせ、一時は母にも強い反発を覚えたこともあった。
何となくはばかる気持ちがあって確認してはいなかったが、母子の生活費はその後もずっと父が支払ってくれているらしいことにも気付いていた。私立学校の学費は馬鹿にならないし、衣食調度など日々の生活レベルにしても、パート程度の収入しかない母子にはどう考えても不相応なものだということぐらいは分かる齢になっていた。
とはいえ、高校時代の祐樹は、自分に父親はいないのだと強いて思い込もうとしていた。進学や将来の進路に思い悩んだ時、あの人に相談できたらとふと思うことは何度もあったが、それは叶わぬ夢と割り切るしかなかった。
ただ、一つだけ母から何度も聞かされていたことがある。父はかつて、まだ幼い祐樹を見ながら、将来この子にはどうしても一橋に進んで欲しいと言っていたというのだ。だから祐樹は、漠然とではあったが一橋大学を目指すことを運命づけられているような気がしていた。そして、ついにその念願の一橋に合格した時、真っ先に知らせたいのがあの人だったことに気づいて、祐樹は父の存在を改めて思ったのだった。
合格通知を受け取って、父との約束を果たしたような思いを噛みしめたあの日から2年余り。その父から突然届いた書面には、事務的な口調で丹羽和馬は祐樹の父親ではないのだと書かれていた。
高校時代、戸籍謄本で父の名前を知り、幼い頃に自分を認知していたことを知った。その認知届からかれこれ15年が経っている。この間、何一つ問題がなかったのだから、今さら父との親子関係が揺らぐなんて考えもしなかった。
父の丹羽和馬がどういう人物なのか。ネットで、どうやら多摩の大地主で地方財界の重鎮らしいことまでは確認していた。それなりに名のある人物のようだが、ネット情報は、経済活動の報告やニュース記事と和馬が経営する会社の広報関係がほとんどだった。通り一遍の記事は読み飛ばして父親とおぼしい人物の家族関係やプライベートな情報も探ってはみたが、分かったのは、せいぜい妻が既に死去していること、その後跡継ぎの長男や孫を不慮の事故で亡くしたこと程度だった。それだけに、自分がその人物の息子だということには何ら実感が伴わないまま、地味で代わり映えのしない母子二人の生活が過ぎていった。
その父が、15年前のあの夜、自分を強く抱きしめてくれた父が、今になってお前は私の子ではないと言い出した。そんな理不尽な話があるものかという反発の一方、実のところ、そんなこともあるだろうという漠然とした予感もないではなかった。物心がついた時には、既に父はいなかった。父のいない家、祐樹にとってそれはもう当たり前の情景だったのだ。その身の上に抗ったり嘆いたりするようなナイーブな感情は、もうとっくに卒業していた。
そのせいだろうか。突然の衝撃的な通知書面に目を通した時、祐樹は不思議なくらい平静を保っていた。ただ、祐樹の胸中に沸々と湧き上がってくるものがあった。それは、これまで考えもしなかった新たな疑問だった。
──丹羽和馬は父ではない? ならば、自分の本当の父は一体誰だというのか? いや待て。それならば‥‥。
疑問はさらに深まり、おずおずと核心へと近づいていく気配があった。
──それならば、そもそもぼくは誰なんだ? 本間祐樹とは、一体何者なんだ? 

母子の間に気まずい空気が流れていた。
「父さんは、今さら、一体どういう積りでこんな文書を送ってきたんだろう」
「見当もつかない」
智恵子が短く答えてしばらく会話が途絶えた。テーブルの上の一点を見詰める母の手が小刻みに震えている。
もう十何年も何の連絡もよこさなかった父から突然こんなものを送られてきて、母は今混乱の極みにある。それは、息子の自分以上かも知れない。ここで自分が取り乱すわけにはいかないし、母を問い詰めるのも筋違いだ。
「母さん、一つだけ教えて。ぼくの父親は、丹羽和馬だよね」
初めて顔を上げた母は、息子の目を見据えて一度、二度と強く頷いた。
長く二人きりで暮らしてきた母の性格はよく分かっている。母さんは嘘をついていない。祐樹は確信した。
── ならば、一体どんな事情があって父はこんな行動に出たのか。認知の事実を知った何者かに無理強いでもされたのか。
──あるいは‥‥。丹羽和馬は、確かもう八十に近い。認知能力が衰えて記憶力や判断力を喪いでもしたのだろうか。
『御返答頂けないようであれば速やかに裁判所の法的手続きに入る』
書面には、事務的な口調でそう記されていた。あたかも、祐樹が事実を捏造して遺産を狙う狡猾な輩とでも言いた気な文面だった。


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~前編~はこちらから!

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