今回は高倉健・吉永小百合の初共演となる1980年作品の「動乱」(1980年)を取りあげます。この映画は「海峡を渡る愛」と「雪降り止まず」の2部からなる長編で二・二六事件に関わる壮大なテーマを取り上げています。先ずは「海峡を渡る愛」のあらすじから。

宮城啓介は陸軍の中隊長であるが自身の隊の溝口英雄(永島敏行)が隊を脱走する。溝口は姉の薫(吉永小百合)が女郎に売られるのを知ったことが脱走の動機であった。溝口は実家で張り込んでいた宮城の軍隊に捕まり軍曹の原田(小林稔侍)から自決を迫られるが逆に原田を射殺する。溝口は軍法会議で銃殺刑に処される。
その後、溝口の実家を訪ねた宮城は薫が女衒に連れて行かれるところに出くわし、薫に金の入った封筒を手渡す。隊から脱走兵を出した責任により宮城は満鮮国境に飛ばされる。その隊での懇親会で女郎になっている薫と再開する。薫は職業柄、艶めかしく宮城を誘うが、宮城は誘いに乗るようなことはしない。
隊に出入りしている朴(左とん平)は、女を世話する便利屋であるが、軍の武器弾薬や医薬品を横流ししているところを宮城に取り抑えられる。この横流しのため、最前線では武器弾薬・医薬品が不足しており、まともな戦闘や負傷兵の治療もできない状況であった。
宮城は朴の告発を要求するが、朴と通じている上司の小林少佐(岸田森)の反対にあう。一方、薫は自殺を図るが家族の借金の返済義務を負っている女郎に取って自殺は御法度であり、雪の荒野に投げ出される。小林から薫の救出と引き換えに朴の告訴取り下げを提案された宮城は、やむを得ず同意するが、軍の腐敗した体質に怒りをにじませる。

次に「雪降り止まず」です。
東京に戻った宮城と薫は居を構えて同居するが、隣には宮城を危険人物として見張る憲兵の島(米倉斉加年)が住み込んでいる。
宮城は薫を誘って鳥取に旅行する。敬愛する狂信的な軍の改革主義者で皇道派の一員である神崎中佐(田宮高廣)に会うためであった。神崎は、対立する統制派で軍務局長である水沼少将を軍の腐敗の根源と捉えておりその暗殺を計画していた。宮城は神崎に続き皇道派の決起を誓うのであった。薫は自身の身体に触れようとしない宮城に別れを切り出すが、「そばにいて欲しい」との宮城の言葉に同居を継続する。
神崎中佐は水沼少将惨殺を実行し、宮城は共犯の容疑で憲兵隊に連行され尋問を受ける。憲兵隊トップの広津少将(佐藤慶)は、宮城の殺害をほのめかし、憲兵の島は宮城に毒入りの茶を呑ませる。釈放された宮城は自宅で昏睡状態になるが、島が内密に差し入れた薬により、回復する。そして皇道派の青年将校の議論の中で、宮城は決起を決断し、その晩はじめて薫を抱く。
2月26日早朝、宮城以下青年将校は各連隊の兵を動員して岡田啓介首相以下重鎮の殺傷を実行する。一時は決起の主旨が天皇陛下に伝わったと喜んだ青年将校であったが、実際には天皇は自身の部下を殺害した青年将校に激怒し、自ら部隊を率いて鎮圧を主張する。これにより決起した各連隊は原隊復帰せざるを得ず、青年将校たちは逮捕される。裁判の結果、宮城は死刑の判決を受け処刑される。

と、壮大なストーリーとなっています。ここまで読んでいただいた方には大変申し訳ないのですが、実は内容的には薄っぺらい映画で画面に「健さん・小百合さんが出ているだけで満足」という方以外にはお勧め出来ません。何より、事件の直前の皇道派、統制派の対立には複雑な事情があったにも関わらず、統制派の水沼軍務局長(実際の人物は永田鉄山軍務局長)が皇道派トップの真崎教育総監を罷免したこともあって軍の腐敗の象徴とし,ており、神崎(実際は相沢三郎中佐)が水沼を殺害することで問題が解決されるとする根拠が不明です。更に歴史上は直情型と認識されている相沢を冷静な宮城が敬愛するに至った経緯も判りません。憲兵の島は、宮城に毒を盛りながら薬を提供する等、宮城のシンパを演じており、映画全般を通して皇道派青年将校の思想・行動に賛同する内容となっています。
歴史的には諸説あるものの「力により体制を変えようとする」青年将校の決起は許されるものではなく、また、青年将校達はエリートで当時フランス料理店である龍土軒(今も西麻布で営業しています)で会合を重ねていた(高価なフランス料理を食べながらという訳ではなかったらしいが)訳ですから、決起の目的が貧しい農民の救済と言ってもにわかに信じがたく、軍内部派閥の勢力争いに軍を動かしたと位置づけるのが妥当ではないかと思われます。
更に、葉子(桜田淳子)は決起直前に将校の一人である野上(にしきのあきら)と結婚を約束しており、事件後に一人残された彼女の運命は悲惨なものであったと推察されます(青年将校の配偶者の状況は「妻たちの二・二六事件」澤地久枝に詳しく書かれています)。この様に愛する女性の運命を悲惨なものにすることについて配慮しない人間性に欠ける思想・行為を支持するかのような映画の内容(しかも女性の人格尊重が当たり前になってきた1980年に公開)というのはかなり違和感を覚えます。健さんが小百合さんをはじめて抱いたのも決起を決めた夜でした。
とは言え健さんが出演する以上、健さんを悪者にするわけには行かず、この映画関係者が皇道派=善、統制派・現体制=悪としたいのであれば、永田鉄山少将は金子信夫、岡田啓介首相は安部徹など、ちゃんとした悪役を配置して欲しかったです。となると、二・二六事件は健さんによる岡田一家への殴り込みとなり東映やくざ映画と同じになってしまいますが、さすがに歴史認識としては如何なものかと思います。そもそも銃を持っている相手にドス一つで殴り込むところにカッコよさがあるのに、素手の相手を剣で切ったり、就寝中の相手に銃をぶっ放すのは健さんの美学に反しており、やはり違和感を覚えます。

さて、 二・二六 事件に触れるときりがないので、この映画のポイントに移ります。
ポイントは朴が武器弾薬・医薬品の軍事物資を横流しする場面です。この場面についても映画では実際にどの様にして横流ししたのか詳細に説明されておらず不満の残るところです。軍事物資が「天皇陛下からお預かりしたもの」ですから弾丸の一個でも不足したら大変なことになる筈です。それがどうしてやすやすと横流しできたのでしょうか?
山本七平によれば軍の「員数主義」が原因とのことです。軍事物資の在庫については、帳簿上の残高と実際の有り高の一致を確認していたと思われますが、横流しによって有り高が少なくなっているのに、問題にならないためには帳簿上の残高を改ざんする以外ありません。上司としても自身の責任を問われかねないので、問題が公になるのを惧れ、改ざんを黙認していたのではないかと思われます。
この様に数字を合わせるためには、帳簿の改ざんをやむなしとするのが「員数主義」と言えます。この考え方が数十年に亘り日本の企業に受け継がれてきた向きがあります。今回発覚したダイハツの不正についても上層部からのプレッシャーによって、ルール通りやっていては高いノルマを達成出来ないが未達成が許されないため、ルールの逸脱、記録の改ざんによって達成を報告する他なかったのではないかと思われます。
今回の事件は第三者委員会によって「現場だけではなくプレッシャーをかけた上層部にも責任あり」との報告が出されている様なので、役員は「知らなかった」で現場に責任を押し付けて逃げる訳には行かないと思います。特に大株主であるトヨタ自動車の監査体制やダイハツ株の買収の際のDue Diligenceの内容はどうだったのか気になるところです。ダイハツの操業停止によってダイハツ車の所有者や従業員だけでなく、部品の納入業者が納品できなくなって資金繰りに支障をきたす可能性があり、納入業者や下請け加工業者に及ぼす影響についても配慮して欲しいものです。

さてこのコラムはGSネタで締めくくることとしていますが、今回は若くして非国民の未亡人となってしまう桜田淳子を取り上げたいと思います。昭和33年生まれの桜田はGS世代とは言えませんが、昭和47年8月のスター誕生のオーディションで牧葉ユミの「見知らぬ世界」を歌っています。「見知らぬ世界」の作詞・作曲者である植田嘉靖(作詞家としてのペンネームは「こうじはるか」)は1967年にGSとしてデビューする前のスイングウエストのリードギタリストで、スイングウエストの代表曲である「雨のバラード」、「涙のひとしづく」は植田のペンによるものです。当時14歳の桜田が殆どヒットしなかった、少し大人びたこの曲を選んだ理由は不明ですが、驚くべきは昭和47年12月のスター誕生のオーデションで山口百恵が同じ牧葉ユミの「回転木馬」(作詞片桐和子、作曲ベンチャーズ)を歌っていることです。牧葉ユミは「冒険」の小ヒットはありましたが、それほど知られた存在ではなく、百恵はオーデションの段階で既に淳子をライバルとして意識していたのか、はたまた、偶然に同じ歌手の曲を選んだのか、歌謡界の大きな不思議と言えましょう。
尚、相方のにしきのあきらは昭和45年デビューで既にGS時代は終焉していますが、デビューLPにてスパイダースの「夕陽が泣いている」(作詞・作曲;浜口庫之助)をカバーしています。これはにしきのが浜口庫之助のお弟子さんであるためと思われますが、残念ながらアレンジにGS色は全くありません。