「フライデー」誌が死刑が確定した元少年の写真と実名を掲載しました。

かつて「フォーカス」誌が、2人の子どもを惨殺したうえ世間をあざける犯行声明を出した14歳の少年の顔写真を掲載したように、社会正義を錦の御旗に、またぞろ俗人の好奇心を刺激する記事を載っけたのだろうと思いました。しかし、その予想は外れていました。

この事件は、1994年、3人の不良少年が各地でリンチを繰り返し、4人の命を次々とを奪ったという悲惨この上ないものでした。報いやあだ討ちの感情の強い普通の日本人なら、このような鬼畜がこの世に存在すること自体が不正義で国家の損失だから、直ちに死刑にすべきだと考えて当然の事件です。
でも、「フライデー」のこの記事に目を通せば、この外面上のストーリーが事実の一断面にしか過ぎないことに気付かされ、事態はまったく異なった様相を見せてきます。
少年時代、無知未熟のゆえに取り返しのつかない罪を犯してしまった男がその罪をあがなうには、国家がその命を奪うしか方法はないのか。人間の叡智は、文化は、死刑以外に、遺族の果てしない恨み喪失感を埋める方法を探し当てることはできないのか。数千年を経ても、人類は、ハンムラビ法典から一歩も踏み出せないのか……。この記事を読んで、そんなことに思いを巡らせない人はいないでしょう。

でも、ひょっとすると、この力のこもったルポルタージュは、対象にのめり込み過ぎてしまった一ジャーナリストの主観・思い込みに過ぎないかも知れません。また、隠しカメラで撮影した死刑囚の大きなまん丸の純朴そうな目は、気が良さそうだとも、無知で愚鈍そうだとも、何も考えてないようだとも、どうとでも解釈することが出来ます。
しかし、この写真とルポルタージュが相まった時にこそ、見る者は根源的な何かを突きつけられるのです。
それはまるで、写真とルポルタージュという2つの表現が相乗的な化学反応を起こしたようなものかも知れません。表現者が、「事実」と「真実」の間に横たわる深い裂け目を乗り越えようと、力の限りを尽くした結果に違いないと思うのです。

これに対し、35歳になった死刑囚の罪は少年時代に犯したものだから写真や実名を掲載するのはいかがなものか、と大メディアを中心に少年法を盾にこの記事に疑問を呈する向きもありますが、いささか当を欠いているのではないでしょうか。ましてや、「少年法の趣旨に反し人権上重大な問題がある」との声明を発表した東京弁護士会の形式的な行動は、完全に的外れというしかありません。
最高裁が「更生の見込みはないから死ね」と最終判断を下したこの青年に、果たして、今更人権などという概念が通用するものかどうか。犯人を殺すのはいいけど写真や実名を出すのは問題だなんて、たちの悪いブラックジョークとしか思えません。

皆さん。もしコンビニでこの雑誌を見つけたら、5分間だけでいいから、ちょっと立ち読みしてみて下さい。そして、人の命について、国家の合法的な殺人について、また死刑でなければ気が済まない、でもそれで癒されることなど決してない遺族の無念について、ちょっと思いを巡らしてみてはいかがでしょうか。