ひらめき 著作権の根本になるのは、複製権(著作物をコピーして利用する権利)です。

そのまんまコピー(デッドコピー)は勿論のことですが、元の著作物の一部を「流用」したり「引用」したり「転載」したりすることも、複製権侵害に当たります。
ただ、「引用」については、公正な利用などいくつかの条件を満たせばOKとなりますので、例えばテレビや新聞、雑誌で著作物の一部を使用する場合は、大抵これで逃げているようです。

さて、判断が難しいのは盗作問題です。

通常、誰が見ても真似だろうという作品を発表すると、著作権の一つである「翻案権」の侵害として訴えられてしょうがありません。
でも、何となくメロディが似ている音楽だとか、ストーリーが似ている小説だとかとなると、一筋縄ではいきません。
翻案権侵害の要件は、「元の著作物の表現の本質的特徴感じ取れる」かどうかで決まるとされています。
でも、これだけ抽象的な要件ですから、いざとなると判断は裁判にゆだねるしかありません。
有名なところでは、服部克久の「あっぱれさんま大先生」のエンディングテーマが、小林亜星のCMソング「どこまでも行こう」の盗作であるとして争われた裁判です。asei.jpg
1審は服部側勝訴、2審は小林側勝訴、最高裁で小林勝訴が確定しましたが、それほどまでに難しい問題ということになるでしょう。

判決は、「メロディーのはじめと終わりの何音かが同じ」「メロディーの7割以上が同じ高さの音」で、この類似性が偶然の一致によって生じたものと考えることは不自然だから、服部の作品は『どこまでも行こう』をもとにして作ったものであると認定しました。

こういう風に、2つの作品の類似する部分を抽出して照合することによって認定するのが、一般的な判断基準になっているようです。

exclamation&question 2)、田上えりさん田上みどりさんが、Hotel Victoriaを知っていたのかどうか不明であるが、仮にこの曲を知らなかったとしても盗作が成立するのか?

ひらめき 両田上氏が、Hotel Victoriaを知らなかったということを立証できれば、侵害は成立しません。ただし、知らなかったことを証明するのは至難の業です。
「ある事実・現象がなかった」ということを証明するのは、「悪魔の証明」といわれるほどに難しいのです。
考えてみて下さい。例えば、「わが家にゴキブリがいる」ことは一匹見つけただけで証明できますが、果たしてあなたは「わが家にゴキブリはいない」ということを証明できるでしょうか?
作詞作曲の両田上さんが、「水色の時」を作った時点で、Hotel Victoriaを知らなかったことを証明することは、おそらく不可能でしょう。

exclamation&question 3)、 数十年後にこのような和解が成立したとして、過去にさかのぼって、田上さんが(過去に)得た収入の一部を支払う必要があるのか?

ひらめき 基本的に、こうした個人対個人の権利や義務に関する問題は、「私的自治の原則」といって当事者双方の話し合いによって決まります。
ただし、その話し合いの際、例えば故意や過失があったかとか、そのことに時効が成立しているかとかいった民法の規定が交渉の材料になることは当然です。
もし両者の話し合いがどうしても成立しなければ、最終的には訴訟ということになりますが、裁判という公的権力が介在することになれば、もはや私的自治は通用しなくなり、当然民法や著作権法などの規定が厳密に適用されます。

したがって、

exclamation&question ある曲から印税収入を得ていた作曲家は、見に覚えのない盗作のクレームを受け、過去に得た収入から賠償金を支払わねばならないと言ったリスクを抱えているのか?

については、証明は大変だとしても身に覚えがないのであれば原則そのリスクは負わない、と言ってもいいでしょう。
万に一つの偶然をリスクと考えるなら別ですが、そんなリスクに備えなければならないとすれば、創作活動も企業活動も成立しないでしょう。

となると、1000年に一度の大地震大津波のリスクにも備えるべきだったのか、福島原発に対する東電の対策は、企業活動としては無理からぬことだったということになりかねませんね。
しかし、その結果がもたらした圧倒的な被害と無数の悲劇を考えれば、決して両者を同列に論じるわけにはいかない。私はそう考えます。

(写真は、小林亜星オフィシャルサイトから引用)