act.18

「どうだった?」
玄関のドアを開けると、母親が待ち受けていた。ずっと気が気ではなかったのだろう、顔が土気色に見える。
「何だか、とんでもないことになったよ」
智恵子の顔からさらに血の気が引いた。
「どういうこと?」
「とりあえず、この書面を読んで」
祐樹が、今日の調停の席で受け取ったばかりの書面を取り出した。
「申立人が提出した主張書面。15年前、ぼくを認知したのは申立人の丹羽和馬氏ではない。和馬氏の兄さんだって言うんだ」
「兄さんって。あんた、何言ってるの?」
「とても口では説明できないよ。とにかく読んでみて」
母と息子は、ダイニングテーブルに向かい合って座った。智恵子は、微かに震える手で書面を持って食い入るように字面を目で追い始めたが、ほんの数行読んで言った。
「祐樹。気が散るからちょっと一人にしてちょうだい」
息子に見られているのがいかにも居心地が悪いようだった。いいよ、読み終えたら呼んでと言って、祐樹は自分の部屋に引き上げた。
書面を読み進むのに併せて、智恵子の脳裏にあの夜の記憶が蘇る。

あの夜‥‥。
忘れもしない、あれは、祐樹の5歳の誕生日だった。いつもよりちょっとだけ豪華な料理にワインを一本、そして手作りのケーキ。
いつに変わらぬ親子三人の食事だったが、あの人の様子だけがちょっと違っていた。トレードマークだった長髪を短く切りそろえてひげもそっていた。おまけに、スーツにネクタイ姿。一体どうした風の吹き回しなの、と言っても、祐樹の誕生日だからと言って笑うだけだった。
食事中も、いつもはお喋りなあの人がこの夜に限って物静かだった。思えば、表情も何だか重苦しげに見えたような気がする。
食事を終えて、あの人は祐樹を手招きした。傍に来た息子をぎゅっと抱きしめて耳もとで何かをささやいた。いつもとは明らかに違う様子に、何だか妙な胸騒ぎがしてならなかった。
祐樹を先に寝かしつけた後、あの人はいつになく真剣な面持ちで、話があると言った。
「智恵子。今日は、お前に大切なことを話しておかなきゃいけない」
「あまりいい話じゃないみたい」
そうでもないよ、とあの人は笑った。
「実は、今日、市役所で祐樹の認知の届け出をしてきた。いずれ、きちっとけじめをつける積りだった。5歳の誕生日はいい機会なんじゃないかと思ってね」
ちょっと自分の耳を疑ったっけ。
とうとう、祐樹に正式に父親ができる。父親の名前が空欄になっていた戸籍に、この人の名前が書き込まれる。これまで戸籍謄本を見るたびにたまらなく哀しい思いをしてきたが、敢えて口に出すことはなかった。でも、この人は分かってくれていた。
涙がぼろぼろと溢れてくるのにも構わず、私は立ち上がってあの人の胸にしがみついた。あなた、ありがとうありがとうと、うわ言のように繰り返していた。
「いずれ、新しい戸籍謄本を取り寄せて確認するといい。祐樹の両親は、丹羽和馬と本間智恵子となってるはずだ」
しばらくそのまま抱き合ったまま、私は幸せを噛みしめていた。そして、その興奮が収まるのを待っていたかのように、あの人は身体を離して両肩に手を置いた。
「智恵子。お前には、もう一つ言っておかなければならない」
あの人は私の目を見つめてそう言った。いいニュースの後には悪いニュースが控えているものだ。さっきとは裏腹に、じっと私の目を見つめる顔がひどく苦しげに見えた。
  ついに来たか。
私は直感的に思っていた。
  いつかはこの日が来るだろう。
あの人と付き合うようになってからずっと、決して心の片隅から消えることのなかった小さなしこりのようなもの。
あの人の思いやりを疑う気は毛頭ない。けれど、あの人にはかけがえのない家庭があり、名だたる旧家の当主で地元経済界の重鎮でもある。いずれ、私と祐樹の存在があの人の障害になる日が来るに違いない。
でも、虐待夫から逃れて気に染まない夜の仕事で鬱々と過ごしていたあの若き日、たまたま巡り合うことができてからこの方、私はずっとあの人にすがって生きてきた。祐樹という子宝にも恵まれて、日陰の身とはいえこの上もなく幸せだった。でも、こんな平穏な日々がいつまでも続くはずがない。いつか、きっとあの人は去って行く。それがさだめというものだ。
  もしも。もしも別れる日が来たら、あの人なしで祐樹と二人でやっていくことができるんだろうか? いつもそこから先は考えることを放棄してきた。
あの夜、あの人が私の視線をそらすことなく言った言葉。それは、いつも心の奥底で危惧していた言葉そのものだった。
「事情があって、明日からはもうお前たちに会えない」
事情? 反射的に訊いた。
「丹羽家と会社の事情だ」
あの人は、ためらいがちに答えた。
「具体的なことは言えないが、これ以上、二重生活を続けることがどうしてもできなくなった」
私は言葉を失っていた。言いたいことが胸を渦巻いていたが、言葉にならない。しばらく重苦しい沈黙が続いた。
「済まない。私だって、お前たちに会えなくなるのは身を切るように辛い」
うめくような声が、今にも嗚咽に変わってしまうような気配すらあった。ただ事ではない苦悩が痛いほどに伝わって来る。その言葉に嘘や企みがあるなどとはとても思えなかった。
でも、どうしようもないんだ。少し目をそらしながらあの人は言った。
電話やメールぐらいはできるんでしょ? 私はすがるような思いで問い掛けた。しかし、あの人は苦し気な表情のまま、首を小さく横に振った。
完全に関係を断つということ? そう考えるしかなかった。
でも、とあの人はもう一度口を開いた。
お前たちの今後の生活の心配は一切ない。このマンションは智恵子の名義にしてあるから何の問題もないし、月々の生活費だって祐樹の学費だって、私の資産を管理している信託銀行にすべて指示してある。今後もずっと、これまで通り支払われることになっている。
そんなことどうだって‥‥。反射的にそう思ってから、ふと考えた。もしも別れが避けられないのだとしたら、今後母子二人生きていく糧が必要になるのは事実だ。
と思うと同時に、我に返った。
お金の心配さえなければ、あの人がいなくても私は大丈夫なんだろうか? あの人は経済的な拠り所だったのは確かだけれど、それよりも何よりも精神的な拠り所でもあったはず。
でも‥‥。私はさらに考えた。
私には、もう一つの拠り所がある。あの人を偽ってまで授かったかけがえのない我が子が。ずうっと恐れていた通り、目の前が一瞬真っ暗になったけれど、その先にぼおっとした薄明かりが灯っているような気がした。幼い祐樹が灯してくれるささやかな薄明り‥‥。
あの人とめぐり逢って七年。もう、愛だの恋だのという関係はとうに卒業してもいい頃かも知れない。愛と言うのなら、拠り所と言うのなら、私には祐樹がいる。まだ幼いあの子のために、いざとなれば、あの人がいなくてもやっていかなくちゃいけない。いよいよ来るべき時が来たんだと、祐樹のためにただ打ちひしがれているわけにはいかないんだと、心の片隅に小さな高揚のようなものが生まれていた。
そんな思いを知ってか知らずか、あの人は続けた。
だからこそ、今日、祐樹の認知届を出しておかなければならなかった。これで、将来私にもしものことがあった時、祐樹は丹羽和馬の相続人になる。私には妻との間に一人息子がいるから法定相続分はその子の半分になるが、丹羽家の資産からすればそれでも相当なものだ。
しかし、とあの人は噛んで含めるような口調で続けた。
「どうか、これだけは肝に銘じておいて欲しい。私があの世に行くまでは、祐樹の認知のことは決して誰にも言わないと約束してくれ。時が来るまでは、いたずらに家族や丹羽家の親族を混乱させたくないというだけじゃない。知っての通り、丹羽家は由緒ある旧家だ。その当主に隠し子がいたとなると大変な事態だ。もしも、相続が発生する前にこのことが知れたら、誰が何を企むか知れないし、ひょっとしたらお前たちにも累が及ばないとも限らない。このまま放っておけば、祐樹が私の子であるという事実は決して揺るがない。だから、このことを声に出して波風を立てることだけは絶対に避けてほしい」
一言もゆるがせにしない。そんな口調であの人は続けた。
「もしも私が死んだら、その時点で丹羽家の弁護士が私の過去の全戸籍を確認することになるから、そこで初めて祐樹の存在が分かるはずだ。すぐに弁護士から連絡が来て、否応なく丹羽の家族とともに遺産分割の手続きに入ることになる。息子である祐樹なしで遺産分割を進めることは法的にできない。祐樹を無視した遺産分割はすべて無効になるんだ。気が重いだろうが、顔を合わすことなく弁護士と書面をやりとりするだけで手続きを進めることだってできる。すべては祐樹の将来のためだ」
私は、自分たちが大変な立場にいることを改めて認識した。大急ぎで頭を整理しなければ。ずっと頼り切っていたこの人と、もう会うことができなくなるという絶望感。でも、我が子が間違いなく大富豪の相続人だというおとぎ話のような事実。降って湧いたような二つの現実を前にして、感情を整理するのはたやすいことではなかった。
混乱の極みの中で、私は助けを求めるようにもう一度あの人の方を見た。その時初めて、和馬の表情に何かどす黒く澱んだおりのようなものが張り付いているような気がした。
「あなた、大丈夫? ひどく顔色が悪いわ」
「ああ。大丈夫だ。ちょっとこの件で心労が重なったかな」
あの人は小さく笑った。自分で決めておきながら、私たちにもう二度と会えないという現実に打ちのめされていたとでもというのだろうか。
その夜を最後に、丹羽和馬からの連絡はぷっつりと途絶えた。たった一度だけ電話をしてみたことがある。祐樹が5年生になった頃だった。地元の公立中学校がひどく荒れているという話を聞いて、祐樹に中学受験をさせた方がいいかどうか、判断がつかなくて悩み抜いた末のことだった。しかし、この番号は使われていないというアナウンスが受話器から流れてくるのみ。思い余って、メールも送ってみたが、こちらもアドレス不明の通知が返ってくるだけだった。
結局、祐樹が都内の中高一貫校に合格が決まったその日、携帯電話の連絡先リストから和馬の電話番号とメールアドレスを削除した。今思ってみれば、精神的にようやく和馬から独り立ちできたのはこの時だったかも知れない。
とはいえ、あの夜和馬が言った通り月々の生活費は振り込まれたし、学校から届いた納付通知を信託銀行の担当者に送れば学費は滞りなく支払われた。胸にぽっかりと穴が開いたような思いもあったが、その穴を埋めるように、私の関心は完全に一人息子に向くようになっていた。
あの日から15年あまりが過ぎた。祐樹は一貫校の中学部から高等部へ進み、2年前、念願の一橋大学に合格した。祐樹が幼い頃から、この子は将来一橋にとあの人はいつも言っていた。そのことをことあるごとに伝えてきたせいだろう、一橋大学を目標に祐樹は懸命に勉学に励んできた。父の言葉を胸に着実に成長する我が子の歩みを伝えたい思いは強かったし、祐樹自身が父への思いを抑え込んでいることも知っていた。それを不憫に思いつつも、あの夜交わした約束をたがえることはできなかった。
あの人は言っていた。連絡を取ることは、すなわち丹羽家を大混乱に陥れることになるのだと。その結果、智恵子や祐樹に災厄が降りかかることにもなりかねないのだと。何よりも大事なのは祐樹の将来だ、事情を汲み取ってくれぐれも自重するように。あの人はくどいほどに念を押していた。だから、ずっと母子二人でただただ自重して平穏な毎日を過ごしてきたのだ。

そして、前触れもなく丹羽和馬の名前で文書が届いたのが三カ月あまり前のこと。もしも丹羽家から何か連絡があるとしても、それは遠い先のこと、多分和馬の訃報なのだろうと思い込んでいた智恵子にとって、それは思いもよらない内容だった。15年前の祐樹の認知届は、まったく丹羽和馬のあずかり知らないところでなされたものであり無効である。ありていに言えば、祐樹と自分はあかの他人だという宣言だった。
智恵子は、なかなか事態が飲み込めなかった。そんな馬鹿な。最後の夜のあの人の言葉は一体何だったの? あれから、ずっと私たちはじっと身を潜めるようにして暮らしてきた。まだ幼稚園児だった祐樹が大学生になった今になって、こんな仕打ちが待ってるなんて。
茫然自失状態で何の行動も起こせないまま、時間だけが過ぎて行った。そして間もなく、今度は裁判所からの呼び出し状が届いた。宛て先は息子の祐樹、同封されていた調停の申立書の文面に智恵子の名は見当たらなかった。
さすがにもう、このまま手をこまねいているわけにはいかない。でも、一体何をどうしたらいいのか。智恵子にも祐樹にも皆目見当がつかなかった。祐樹は、大学で法律の基礎ぐらいは学んでいたが、机上の理論など全く役に立ちそうもなかった。大学の図書館やネットでひたすら民法や家族関係法について調べ上げ、身分関係の法的な手続きが理解できるようになったところだった。
こうして裁判所から指定された出頭日がやってきたが、結局出席は見合わせるしかなかった。親子関係を否定する父と話し合う準備も覚悟もまったく整わないまま出席すれば、どんな事態が待ち受けているか知れなかった。
そして数日後。再び裁判所から次回の調停期日の日時が記された文書が届いた。
いよいよ腹をくくるしかなかった。和馬の真意は理解できないが、裁判所が間に入ってくれるのであれば、事がここに立ち至った事情だけはちゃんと理解してもらわなければならない。こうして、智恵子はペンを取った。
自分にとって和馬は運命の人。そして、祐樹はその証しであることだけは、どうしても分かって貰わなければ。その点に関する限り、何らやましいところはない。智恵子は、20年あまり前に遡る和馬との関係を思い出し思い出し、思いのたけを克明に書き綴った。溢れる思いに言葉が追い付かず、何度も書き損じては一から書き直した。とにかく、裁判官や関係者に、和馬との特別の事情を分かって欲しいという一心だった。
やっとのことで、陳述書を書き終えたのはほんの数日前のこと。大急ぎでコピーを取って、裁判所と申立人の弁護士宛てに速達で送った時には、裁判所から指定された二回目の期日がもう目前に迫っていた。
智恵子は、今日の二回目調停に初めて出席した祐樹が受け取った文書に目を通して行く。だが、その内容になかなか理解がついていかない。
  あの人は、丹羽和馬ではなかった? しかも、とうの昔に亡くなっている? 
まさに天地がひっくり返るような内容だった。何日もかけて陳述書に切々と書き連ねたひたむきな思いがあざ笑われているかのように思えた。
二度繰り返し読んで深い深呼吸を繰り返した後、祐樹を呼んだ。母子がテーブルを挟んで向かい合う。
「私にはどうしても理解できないんだけど。いや、書いてある内容は分かるんだけど、こんなことが本当にあり得ることなのか、もう頭がついてかないの。祐樹は、どう思う?」
「分かるわけないじゃん。父さんと最後に会ったのは5歳の誕生日なんだよ。顔も覚えてないよ」
「そうだよね。これがほんとなら、とんでもないことになるわ。ねえ、祐樹、私たちどしたらいいんだろ」
母は必至で感情をコントロールしている。しかし、その強張った表情を見れば、パニック状態すれすれだということが息子にはよく分かる。智恵子の心情を思いやりながら、祐樹は極力冷静な口調で言った。
「母さん。今回、ぼくもそれなりに法律の勉強はしたんだけど、まず第一に、この書面に書かれていることが事実なのかどうかが問題になると思う。丹羽和馬の兄が嘘の届け出をしたカラクリとか、その兄らしき人物がこのマンションに出入りしてたとか、どこまでが本当でどこまでが想像の産物なのかまったく分からないじゃない」
「そうだよね。興信所の調査報告だって根拠はタクシー運転手のあやふやな記憶だけみたいだし、具体的な証拠なんて全然ないわよね」
「でしょ。まだ憶測の域を出てないよね。だからと言って、ぼくらの方だってそれを否定する方法はないんだけどさ」
「じゃあ、どうすりゃいいの」
「もしも、ぼくがこの申立てをどうしても認めなかったら、調停はそこで打ち切りになるらしいんだ。そしたら、後は裁判に訴えるしかない。裁判になったら認知無効を主張する側に立証する責任があるんだけど、あの主張書面と調査報告書で無効が証明できたことになるのかどうか。ぼくにもちょっと分らない」
「じゃあ、裁判所があの主張を認めたら認知は無効になるの?」
祐樹が目を伏せてうなずく。
「でも、こんなことを裁判で白黒つけるなんて何だか嫌だよね」
智恵子がつぶやくように言った。
「母さん、よく聞いてね。問題は、15年前の認知届が本物なのか偽物なのかだよね。でも、その根本にあるのは、ぼくの父親が丹羽和馬なのか否かってことでしょ?」
智恵子が、うんうんとうなずく。
「ぼくは父さんの顔をよく覚えてないけど、母さんは覚えてるよね」
「当り前じゃない」
「そしたら、丹羽和馬が母さんが知ってる父さんなのかどうか、本人の顔を直接見たら一目瞭然じゃない?」
智恵子が目を見開いた。
「ちょっと待って。そんな、冗談じゃないよ、今さらあの人に会うなんて。しかもこんなことで」
「母さん、その人が母さんの知ってる父さんなのかどうか分からないんだよ。父さんが今になってこんなこと言ってくるなんてとても信じられないのなら、直接会って確認するしかないじゃないか」
智恵子が目を伏せて考え込んだ。
  もしも、あの人が丹羽和馬じゃなかったら。いま読んだばかりの書面にあるように、実兄の英世という人物が和馬になりすましていたのだとしたら‥‥。
智恵子は全身から力が抜けていくのを感じていた。何だか息をするのもおっくうな気がした。新宿のクラブで出会って辛い思いを聞いてもらったのも、家庭持ちだとは知りつつ心から愛すことになったのも、親子三人で過ごしたあの平穏な日々も、すべてがあの人の嘘の上に築き上げられた出来事だったということなのか。
  でも‥‥。
智恵子は、顔を上げて目の前の息子を見た。
でも、もしそうだったとしても、私は騙されただけのこと。この子にとっては、そんな生易しいものではない。他ならぬ自分の父親が、これまでずっと信じて疑わなかった人とはまったく違う人物だったことになる。いや、姿かたちはその人なのだとしても、名前も素性も、その属性のすべてが別人。自分をこの世に在らしめたものが突然形を喪い、あやふやでつかみどころのないものになってしまう。この子の存在そのものが、根っこから揺らいでしまう。そんな事態を、この子は受け止めて自分なりに得心することができるのだろうか、それとも、まだそんなところにまでは考えが及んでいないのだろうか。
目の前の息子の表情は穏やかに見えた。むしろ、とんでもないショックを受けている母を思いやるように、気遣わしげな眼でこちらを見ている。
「もしも、あの人が丹羽和馬になりすましていたんだとしたら‥‥」
智恵子は、20年あまり前、新宿のクラブで初めてあの人に会った時のことを思った。客は最初は大抵名字を名乗るから、丹羽和馬というフルネームを知ったのはちょっと後のことだったはず。何度か指名してもらい、身の上話を聞いてもらうようになるうちに、あの人もフルネームや不動産会社経営など自分のことを少しずつ話すようになったのではなかったか。その辺りから、あの人はとんでもない嘘に手を染め始めたのだろうか。
「まさか。そんなこと、あり得ない」
ひとりごちる智恵子に、祐樹はただうなずくしかなかった。
「もしも、もしもだよ。申立人が言うことが事実だったとしても、まさか、父さんは最初からぼくを和馬さんの相続人にしようなんて企んでいたわけじゃないよね」
「そりゃそうよ。だって、あの人、私と知り合った当初から丹羽和馬って名乗ってたんだよ。もしそれが嘘だったとしても、私と付き合うことも、ましてやあなたが生まれることだって、その時点では想像もつかなかったはずじゃない」
確かに、と祐樹がつぶやいた。
「成り行きで弟の名前を名乗ったもんだから、その後もずっと事実を打ち明ける機会がなかったってこと?」
智恵子も首をひねっている。
「それで、その後どこかの時点で、その嘘を本当にする決心をしたってことなんだろうか。それが、ぼくが5歳になった時のあの認知届だったってこと?」
「ちょっと待ちなさいよ、祐樹。あの人が丹羽和馬の偽物だと決まったわけじゃないんだよ」
  でも‥‥。
智恵子は、もう一度申立人の主張書面をめくり直した。和馬の兄の英世は、平成17年の2月に肺がんで亡くなっているという。認知届はその前年、祐樹が5歳になった平成16年だ。そして、その認知と同時に、あの人は私に別れを切り出している。
  ちょっと待って。ひょっとしたら、あの人が言ってたのは‥‥?
瞬間、智恵子の身体に電気のようなものが走った。
  ひょっとしたら‥‥。
瞬間、智恵子の身体に電気のようなものが走った。
  あの夜、あの人は言った。どうしようもない事情があるんだ、と。
その事情とは‥‥? 丹羽家のしがらみや会社関係の事情ではなかった? もう余命いくばくもない自分自身の身体のことだった? 
   ひょっとすると、あの人は自分の身体が末期がんに侵されていることを知って、何も言わずに身を引くことにしたのか。智恵子と祐樹の将来に憂いがないようにすべての準備を整えて、あの人は何も告げずに逝ってしまったのか。
智恵子は何とか冷静を保とうとしていた。
確かに、あの人は経済的な心配のないようすべてを整えてくれた。とはいえ、結局のところ、あの人が私たち母子を無慈悲に捨ててしまったのは紛れもない事実じゃないか。智恵子の胸の奥には、ずっと和馬への不信が澱のようにこびり付いていた。
  でも、あの人は私たちを見捨てたわけじゃなかったのか。自分に残された限りある時間で、なし得る限りのことをしてくれたのか。自分の命と引き換えにするかのように。
智恵子は、どうしても拭い切れなかった不信感が、氷が溶けるように跡形もなく消え去っていくのを感じていた。
  私たちの将来のため‥‥? 
突然、新たな疑念がむくむくと頭をもたげてきた。確かにあの人は、将来に渡って私たちの生活費や学費に困ることのないよう万全の備えをしてくれた。でも、それに加えてあの人は、祐樹を大富豪の息子にするなどという常軌を逸したことまで考えたのだろうか。余命いくばくもないことを知った動揺のさ中、ずっと身を偽ってきた成り行きから、そんな途方もない発想に取りつかれてしまったのだろうか。
  でも待って。
あの人が弟を装って認知届を出したなんて、そんな馬鹿げたことが本当にあり得るものなのか? 根も葉もない、誰かの作りごとではないのか? 
あの人は、もし認知の事実が知れたら、丹羽家の連中が何を企みどんな行動に出るか知れないとしつこいほどに言っていた。だから、俺が死んで相続手続きが始まるまでは決して名乗り出てはいけないと。
一瞬、智恵子の脳裏に丹羽家という得体の知れない化け物が不気味にうごめく姿が見えたような気がした。
──ひょっとすると、なりすましというのは、認知を覆すために丹羽家の人々が仕掛けてきたとんでもない言いがかりに過ぎないんじゃないか。
疑念は果てしなくふくらむ。でも、自分がその気になりさえすれば、事実はいともたやすく明らかになるのだ。ここはもう、覚悟を決めるしかない。
「祐樹」
智恵子は息子の目を正面から見据えて言った。
「分かった。母さん、その丹羽和馬さんに会うよ。会って事実を確かめるよ」

            act.20

数日後、島津法律事務所に、本間祐樹が利害関係人として母親の智恵子を申請し受理されたとの連絡が入った。事態はいよいよクライマックスを迎えようとしている。絵莉の気持ちはいやが上にも高ぶっていた。
その夜。今夜は女子会なんですよ、などと言いながら秘書の麻乃が軽い足取りで出て行くのを見計らったかのように由紀夫が切り出した。
「絵莉、いよいよだな」
力強くうなずく絵莉を見ながら、由紀夫が深々と息をついた。
「実はな。お前に言うべきかどうかずっと迷ってたんだが、やっぱり和馬の代理人に隠しておくわけにはいかない」
どしたの、改まって、と娘が父の向かい側に腰を下ろした。
「お前はずっと、犯人、方法、動機の三要素の解明にこだわってたな」
絵莉がうなずく。
「確かに、犯人と方法についてはほぼ間違いないだろう。問題は残る動機だ」
「父さん、前にもそんなこと言ってたけど、動機なんて決まってるじゃない」
由紀夫は、無言で絵莉を見詰めている。
「‥‥まさか、父さん。和馬社長の遺産狙いじゃなかったとでも言うの?」
由紀夫が目に見えないほど小さくうなずいた。
「多摩丘陵の施設のラウンジで英世さんと語り合った話はしたな」
「英世さんから遺書を託された時のこと?」
そうだ、と言いながら由紀夫がとつとつと語り始めた。
和馬宛ての例の遺書を託された後、今日はお疲れになったでしょう、それでは私はこの辺で、と言いながら腰を浮かせかけた時のこと。英世が由紀夫に声を掛けてきたという。
「由紀夫先生。もうちょっといいかな」
「はい? ええ、まあ特に急ぎの用はないですが」
由紀夫は、改めて革製のソファに腰を下ろした。
「先生とは、もう長い付き合いになるなあ」
英世さん、妙に改まってどうしたんだ? 由紀夫はちょっと戸惑いながら応えた。
「かれこれ60年にはなりますか。幼い頃から、英世さんには和馬と一緒によく遊んでもらいました。私からすりゃ、今も変わらぬ英あんちゃんですよ」
「ああ、あの頃は楽しかった。終戦を挟んで、まだ世の中は騒然としてたはずだけど、ガキどもはそんなこと知ったこっちゃない。好き勝手にさんざん遊び回ったよな」
あの頃はよかった、と英世は繰り返した。
「でも、しばらくして英世さんは家を出て行かれた」
「うん。高校に入って間もなくの頃だった」
「私もそうでしたが、和馬の意気消沈っぷりは、見ていて可哀そうになるぐらいでした。英あんちゃんが好きな道に進まれるんだからって、ずいぶん慰めたもんですよ」
「好きな道か‥‥」
英世は、ちょっと言葉を切って考え込む風だった。
「もちろん、ジャズにのめり込んで、俺には音楽しかないって思い込んでたのは事実だ。でも、何も高校中退して家出するほどのことでもないだろ」
由紀夫はちょっと答えに窮した。あの頃、和馬と由紀夫は、まだ中学校に入ったばかり。和馬の思いは知らず、むしろ由紀夫は、自分の思いを貫く英世の決断に、さすが英あんちゃんと喝采する思いもなかったわけではない。
「いくら若気の至りとはいえ、その結果が巡り巡ってこのざまだ」
「まあ、若気の至りと肺がんに因果関係はないでしょうが」
英世は、首を振りながらどうかなとつぶやいて、ふと思いついたように言った。
「因果関係って言やあ‥‥」
英世は言葉を切って中空に目をやった。そのまま思いのほか長い沈黙が流れた後、英世は小さく笑って言葉を継いだ。
「由紀夫先生は、俺が家を出たから次男の和馬が丹羽家を継ぐことになったんだと思ってるだろ?」
「ええ。先代が隠居なさる際にもろもろお手伝いしましたが、ご自身も確かそのように仰ってました」
「親父ならそう言うだろうな。まあ、誰だってそう思う。でもな、先生……」
英世が由紀夫の方を見て、さらりとした口調で言った。
「実は、逆なんだ」

「逆? 逆って、どういうことなの」
由紀夫の述懐に、絵莉が割って入った。
「俺も、英世さんが何を言ってるのか、とっさに分からなかった。で、英世さんの言葉をもう一度繰り返してみた。長男の自分が家を出たから弟の和馬が丹羽家を継ぐことになった。その逆ってことは‥‥」
「弟の和馬氏が家を継ぐことになったから英世さんは家を出た‥‥、ってこと? そんな、まさかぁ‥‥?」
「でも、原因と結果をさかさまにしたらそういうことになる。英世さん、自分の命がもう長くないのを知って、妙な妄想にとらわれでもしてるんじゃないか。正直、俺はそんなことまで考えた」

「いや、先生。しようもない戯言だよ。どうか気にせんでくれ」
英世は取り繕うように言った。
「英世さんは、どうしても音楽をやりたいから家を出たわけじゃ、必ずしもなかったんですか?」
まあ大昔の話さ、と言って英世は笑った。
由紀夫は言葉が接げなかった。今の今まで、親友の和馬が丹羽家を継ぐことになったのは、兄の英世が若気の至りで音楽の道に走ったからだと思い込んでいた。しかし、その兄自身が語った言葉は、やはりこう解釈するしかない。
『弟の和馬が家を継ぐことになったから、兄の自分は家を出ざるを得なかった‥‥』
まさか。そんなことがあるはずがない、と思いながら由紀夫は考えを巡らせていた。
跡継ぎを決めるのは当主の登史郎だ。英世の言うことが事実なのだとすれば、先代は一体どうして長男ではなく次男に家を継がせることにしたのか。昔で言えば、勘当か廃嫡にも等しい極めて異例な行為だ。よほどの事情がない限り、そんなことはあり得ない。
「そういや、最近有識者会議だとか何だとか、やたら皇位継承の論議がやかましいな」
突然の話題転換に由紀夫はまた戸惑う。
この年。平成16年の春、時の小泉内閣は「皇室典範に関する有識者会議」なるものを設置し、皇室維持のための安定的な皇位継承制度についての検討を開始していた。
「ここ40年ほど男性皇族が生まれてないから、皇位を男系男子に限ったままでは天皇制存続が危ういって話だよな」
いぶかしげに思いながらも、由紀夫はただうなずくしかない。
「天皇家と比べるってのも何ともおこがましい限りだが、実はな。丹羽家も家系をさかのぼれる限り、もう十代以上に渡って男系男子の相続を続けてきてるんだぜ」
およそ脈絡が辿れない話の道筋が、ほんの少しだけ見えてきた気がした。
「でも、それを言うなら、英世さんだってれっきとした丹羽家直系の男系男子じゃないですか。しかも、押しも押されもせぬ先代の惣領息子だ。さっき、変なことおっしゃいましたけど、長男を差し置いて次男が継ぐっていうのは、かなり異例のことじゃないですか。どう考えても、英世さんが家を出たから、致し方なく次男の和馬が継ぐことになった。そう考えるしかないと思いますが」
「惣領息子か。何だか、カビでも生えてきそうな言葉だな」
穏やかな口調だったが、それに続く言葉に由紀夫は再び声を喪う。
「まあ、戸籍上はその通りだ」

「戸籍上は、って。それ、どういうことなの」
案の定、また絵莉が話に割り込んできた。
「『戸籍上』の反対は?」
唐突な父の問いに娘は戸惑いながら答える。
「‥‥血縁上?」
由紀夫がうなずく。
「じゃあ、戸籍上はそうなってるけど、血縁上はそうじゃない? 英世さんは、先代の実の息子じゃないってことなの?」
「まあ、文脈的にはそういうことになる。だから、俺はちょっと二の句を継げなかった。戸籍上、英世さんは先代登史郎氏の長男ということになっているが、実はそうじゃない。直接そう言ったわけじゃないが、英世さんの言葉をそのまま解釈するとそういうことになる」
「つまり、先代の本当の子じゃないって、英世さんは高校生になったばかりの頃、そのことを知って家を出たってことなの?」
由紀夫は、押し黙ったまま首を縦にも横にも振らない。
「でも、英世さんは、そんなことどうやって知ったの? たかだか十代の少年が、自分の出自を調べるなんてこと、あるのかしら」
「もちろん、誰かに聞かされたんだろう」
「誰に?」
「そんな機微な話を知ってる人物。さらにそれを英世さんに告げることができる人間。丹羽家を継いだ和馬ですら、おそらく今もってそんな話は知らんだろうし想像もしてないだろう」
「つまり?」
「ご両親のどちらか。いや、事の性格からして母親であるはずがない。間違いなく父親の登史郎氏だろう」
「仮にも父親が? たかだか15歳の少年に、お前は私の本当の息子ではないって。そんなとんでもない事実を伝えたって言うの?」
激高の色を見せる娘に父が噛んで含めるような口調で言う。
「絵莉、元服って知ってるか?」
「元服? 確か、昔の成人式みたいなもんでしょ」
「ああ、子どもが一人前の大人になったことを認める儀式だ。地方の旧家には、今でもその風習が残ってるらしい。その元服の年齢は、おおよそ15歳と言われてる」
絵莉が声にならない声を上げる。
お前ももう大人だ。だから、ものごとの道理も分かるはずだ。先代はそう言って、長男に因果を含めたとでも言うのか? 
「世の中には、俺たち庶民には想像もつかない世界があるんだよ。事の本質は、妻の不貞を疑って嫉妬したとか恨んだとか、そんな下世話な話じゃない。畏れ多くもだ。天皇家を例に出すぐらい血筋を重んじる名家だよ。その主だったら、血がつながっていないかも知れない人間に跡を継がせるわけにはいかないと思うのが、むしろ当然かも知れない」
絵莉は、もはや言葉を差し挟むことも忘れている。
「生まれてこの方、我が子としてずっと育ててきた息子だ。心の片隅に少しばかりの疑いがあったとしても、一方ならぬ情がなかったはずがない。でも、名だたる旧家の当主として、丹羽家の血筋を守るために、先代は泣いて長男を切った。俺はそう思ってる」
由紀夫は、ちょっと息をついてから話を続けた。
「とはいえ、長男を廃して次男に家を継がせるには、一族郎党はじめ関係者の誰もが納得する理由が要る。丹羽一族には、かつて本家と主だった分家の長老が集まる会合があったらしい。本家の当主といえども、重要事項を決定する際には、長老会議のお墨付きをもらわなきゃいけなかったんだとか。もちろん、本家の家督相続となれば最重要事項だ。とはいえ、いざ次男を跡継ぎにするにしても、他ならぬ丹羽家の嫡男が当主の実の子ではないなんて疑いを表沙汰にするわけにはいかない。しかし、長男が家を捨てて音楽の道に走ったとなれば、長老連中も次男の相続に敢えて異議を唱えるわけにもいかなかっただろう」
「それで先代は、15歳になったばかりの英世さんに、お前は実の子ではないから、跡継ぎは自分の血をひく弟とするって言い渡して、この家を出て行くように仕向けたって言うの?」
娘の眼差しに、やり場のない怒りが満ちていた。
「事の仔細までは分からない。でも、おそらく、それに近いことがあったんじゃないかと思う」
絵莉が、しばらく押し黙った後ちょっと緊張を解いたように言った。
「あくまで、父さんの想像だよね」
由紀夫は、絵里の顔を見つめてしばし考え込んでから、意を決したように言葉を継いだ。
「弁護士たるもの、想像だけでこんなことが言えると思うか?」
絵莉が、父親を見つめる。
「またまたあ。父さんったら。お得意のはったりでしょ」
絵莉の軽口にも、由紀夫の表情はまったく緩まない。絵莉が、父親のこんな真面目な表情を見るのは久しぶりのことだった。
絵莉がまだ新米の頃は、大先輩として弁護士心得をうるさいほどに厳しく伝授してくれたものだが、父の事務所を引き継いで以降、すっかり好々爺になって仕事に口を出すことは絶えてなかった。しかし、この日ばかりは、父はかつての百戦錬磨の法律家の顔を見せていた。
「英世さんが亡くなった後、先代の相続手続きの際に集めた戸籍関係書類をひっくり返してみた。もしも不審な記載でもあったら、相続の時点で気付いてたとは思うが、まあこれも顧問弁護士の職務の一環だと思ってな。そしたら‥‥」
絵莉が、ごくりと唾を飲み込んだ。
「丹羽登史郎氏の古い戸籍には、確かに昭和12年に長男英世、昭和15年に次男和馬が生まれたとの記録があった。ただ‥‥」
由紀夫が言葉を切って、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。こういうもったいをつけたしゃべり方は昔から鼻についたが、弁舌によって人を護ることを生業とする昔気質の弁護士の習い性なのだと、今は絵莉にも分かる。
「一つだけ疑問点があった。英世さんの出生日だ。昭和12年10月となってた。でも、先代の登史郎さんと奥様との婚姻は、同じ昭和12年の3月」
絵莉が指折り数えながら言う。
「足掛け8か月かあ。英世さんは、月足らずで生まれたってこと? でも、婚姻から200日が過ぎてれば嫡出子として認められるって規定は、旧民法でも同じだったはずだよね。8か月なら200日は確実に超えてる。ってことは、法的にも先代夫婦の実の子であることに疑問の余地はないんじゃない?」
「確かにその通りだ。結婚からたった8か月で生まれたんだとしても、月足らずの未熟児で生まれた可能性は十分にある。ただ、俺は物心ついた頃から兄弟を知ってるが、和馬はどっちかと言えば虚弱体質だったが、お兄さんの方は生まれつき大柄で頑健だった。あの時代の医療技術から考えて、英世さんが果たして月足らずの未熟児だったのかどうか。ちょっと微妙なところだな」
「つまり?」
「月足らずで生まれた可能性もないではないが、そうじゃない可能性だって十分にあるってことさ」
そうじゃない可能性‥‥、と口の中でつぶやきながら絵莉はまだ頭をひねっている。
「でもさ、戦前は婚姻届けなんて結構いい加減だったらしいよ。届けの前から同居して、実質婚姻状態だった可能性だってあるよね」
「ああ。もちろんそれも考えた。でもな‥‥」
由紀夫が、言葉を切ってもう一度冷めたコーヒーを一口すする。
また出た! お得意のもったいぶり弁論術。絵莉は内心つぶやいている。
「実は、丹羽地所では七・八年前に設立60年を記念した社史を編纂しててな。社史なんてもんは、自画自賛のオンパレードでおよそ読めたもんじゃないんだが、丹羽地所の創業の頃の様子が分かるかもと思ってぺらぺらとめくってみた。それによると、創業者である先代登史郎氏は、昭和10年ごろ、丹羽家を家督相続するに当たって勤務していた商工省を辞職して、間もなく不動産事業の調査研究にためにアメリカに渡ってるんだ。不動産ビジネスの先進地ニューヨークで半年ほど暮らして、その理論と実務を精力的に学んだらしい。そこで、日米開戦に向けて風雲急を告げていた時代を見据えて、丹羽家が所有する膨大な不動産を会社に移転するという画期的なプランを温めたって記述されてる。そして、昭和12年の3月に帰国。直後に、待ちわびてた許嫁の文子さんと華燭の宴を挙げている」
「ってことは‥‥」
絵莉がちょっと考え込む。
「ひょっとして、母親の文子さんが英世さんを妊娠した時点で、父親の登史郎氏はニューヨークで暮らしてた可能性が高いってこと?」
由紀夫がうなずいた。
「そして、8カ月後に英世さんが出生。月足らずとは言っても、たかだかふた月程度。まんざらあり得ないことでもない。登史郎氏は、少しばかり疑問は持ったかも知れないが、何しろ丹羽家としては待望の跡継ぎ男子の誕生だ。当時まだ健在だった先々代ともども、跡継ぎが無事生まれた喜びの方が大きかったろう」
絵莉が、ふうと息をついた。
「父さんは、英世さんが先代の本当の子じゃないと思ってるの?」
「いや、あくまで可能性だ。当時はDNA鑑定なんてないから、父子関係を確認する手段と言えばせいぜいが血液型ぐらいだ」
「ひょっとして‥‥。調べたの?」
「英世さんが肺がんの診断を受けた時だったかな。がんも遺伝的要素が強いっていうから、話の流れで丹羽家の人々の血液型が話題になったことがある」
絵莉が、もう一度ごくりと唾を飲み込んだ。
「それで‥‥?」
「お前の期待には沿えないが、和馬によれば、先代夫婦も兄弟も、全員が同じO型だったらしい。丹羽家はO型一族だなんて言ってたぐらいだ」
「なーんだ」
「血液型では、英世と和馬が父親違いなのかどうか判断のしようがないってことだな。結局のところ、父の登史郎、長男の英世ともにこの世にいない今となっては、もう父子関係否定説を科学的に確認する方法はない。仮にこれが犯罪捜査だったとしても、遺灰からのDNA鑑定は不可能なはずだ」
話は以上だ、とでも言うように、由紀夫がもう一度冷めたコーヒーをすすった。絵莉はこめかみに手を当てながらちょっと考え込む。
「でもさ‥‥」
絵莉がつぶやくように言った。
「問題の本質は、血縁関係の有無じゃないんだよね。実際の血縁関係がどうあれ、問題は先代の登史郎氏がどう思ってたかでしょ。登史郎氏は、長男が新妻の不義の子ではないかと疑っていた。ん? 婚姻前だから不義の子とは言えないか。まあそんなことはどうでもいいけど、当時、科学的に血縁関係を確定する方法なんてなかったから、疑いを完全に晴らすことはできない。事実はどうあれ、先代の疑心暗鬼が解消しない限り、英世さんは丹羽家から追放されるように運命づけられてたってことなの?」
「丹羽一族の長老連中の中には、ひょっとすると先代と同様に長男が月足らずで生まれたことに不審の念を抱いてた者もいたかも知れない。うるさ型が長男を切るよう先代に進言した可能性だってあるかも知れない。当主といえども、長老の意向となれば、そうそう無視するわけにもいかなかったろう。まあその辺の経緯までは分からんが、最終的に登史郎氏は苦渋の決断を下したってことだ」
「先代は疑わしきを罰するしかなかった‥‥。そういうこと?」
いかにも納得いかなげな娘の顔をじっと見て、おそらくそういうことだ、と由紀夫は小さく繰り返した。
「その結果、英世さんは家を出ていくしかなかった。いくら血筋を守るためだからって、たった15やそこらで‥‥。あんまりだわ」
「おいおい、絵莉。あんまり熱くなるな。言っておくが、この話はあくまで俺の想像、というよりむしろ憶測に過ぎない。それに、仮にその憶測が事実だったとしても‥‥。何度も言うが、これは妻に対する猜疑心とか嫉妬心に突き動かされたと言うような単純な話じゃない」
絵莉は、父の顔をまじまじと見る。

つづく (^.^)/~~~

to be continued to #47
   ~will be released on 2022.11.19~