act9

本間祐樹に文書を送付してからおよそ一か月が経った。島津絵莉は、しばらくぶりに丹羽地所の社長室のドアを押した。今日も、丹羽社長の脇には秘書の百合香が控えている。
「内容証明を送ってから間もなくひと月になりますが、やはり本間親子からは何の連絡もありません。予定通り、家庭裁判所に認知無効の調停を申し立てようと思いますが」
「そうだな。粛々と手続きを進めるしかないな」
絵莉が、プリントアウトした調停申立書をテーブルに拡げる。
申立人は丹羽和馬、相手方は本間祐樹、そして申し立ての趣旨は『認知無効』。
申し立ての理由の欄には、申立人の父親による15年前の認知届は虚偽のものだという主張が書きこまれている。
「ちなみに、法的には一度届け出た認知を取り消すことはできませんが、その届け出そのものが虚偽であった場合は、ご本人が無効を主張することは可能とされています」
絵莉が改めて手続きを説明する。
認知や嫡出否認など家族の身分関係の争いは、調停で当事者が合意するだけでは成立しない。双方の合意を確認した後、DNA鑑定で血縁関係の有無を科学的に証明した上で最終的に確定することになっている。もしも調停の段階で合意できなかった場合は、改めて家裁の人事訴訟で白黒をつけるしかない。
「今週中にでも申し立て手続きに入りたいと思いますが、今日は、本間親子の身辺調査報告書もお持ちしましたのでご確認ください」
絵莉が、奈津子から受け取ったばかりのA4版の報告書の綴りを取り出す。和馬社長は、文面に目を通すのもそこそこに、添付された多数の写真を食い入るように見つめた。
「これが本間智恵子か。ふーん、けっこう美人じゃないか」
望遠レンズで撮ったかなりのアップの写真もある。
「智恵子さんは、週に3日、近くの歯科医院で受付け係をしています。マンションから出掛けるところ、勤務先の歯医者に出入りするところ、場面は色々ですが、勤務先と自宅との往復以外、立ち寄るのはせいぜいスーパーぐらい。これを見る限り、ごく普通の中年女性です」
なるほど、と言いながらページをめくった和馬の手が止まった。
「で‥‥、これが私の息子というわけだ」
和馬が見詰めているのは、リュックを背に自転車に乗ってマンションを出ていく若者の写真だった。
「親子は、やはりその川崎のマンションで同居していました」
「なかなか好青年じゃないか」
「祐樹氏は、一橋大学の3年で社会学を専攻しています」
「ほお‥‥」
和馬が驚いたように声を上げた。
「社長、何か?」
「いや、実は私も私の親父も一橋でね。へえ、そうか本間祐樹は一橋の学生なのか」
和馬の表情が急に和らいだように見えた。
「大学には、川崎の自宅から30分あまりかけて自転車で通っているそうです」
「ほーお。私も府中から国立まで自転車で通ったもんだ。もう50年も前になるかな」
和馬はふうっと小さく笑った。
「そうか、一橋とはなかなか優秀だ。私に似たのかな」
絵莉は、思わず百合香と顔を見合わせた。
「社長。申し訳ないですが笑えません。冗談はさておき、二人の顔に心当たりは。‥‥もちろんありませんよね」
和馬が、もう一度報告書の写真をしげしげと眺めてから首を横に振った。
「一週間に渡る張り込みの結果確認できた親子の日常や生活実態は、時系列リポートのページに詳細に記されています。ただ‥‥」
絵莉は、ちょっと言いよどむ。
「ただ、担当した調査員によれば、403号室に出入りする男性は確認できなかったとのことです」
絵莉は、芳しい成果を上げられなかった奈津子のちょっと悔しそうな表情を思い出していた。
「マンションの複数の住民にも確認は取りましたが、親子と同居している男性もいない。この間、智恵子が外で男性と会っている気配もない。15年前の認知は、社長になりすました誰かが届け出たと考えるしかありませんが、少なくとも現在は、本間親子の周辺に、疑わしい男性の影は一切見当たらないとのことです」
和馬の表情がまた険しくなっている。目を閉じて腕を組んだまま10秒間ほど黙り込んだ後、おもむろに口を開いた。
「となると。さしたる勝算もないまま戦いに赴くしかない、ということになるのかな」
依頼人の言葉が、絵莉の胸にちょっと刺さった。将軍から、お前は無能な参謀だと厳しく指摘されたようなものだ。
「はい。今のところは」
絵莉は、声を振り絞って答える。状況を取り繕ったり安易な楽観論を述べたりしても、この聡明な将軍に通じるわけがない。
「ただ、調停というのはあくまで話し合いであって戦いではありません。戦いと呼ぶべきなのは、調停の後に控えている裁判です。国同士で言えば、調停はいわば外交交渉、それが決裂して初めて訴訟の提起、つまり宣戦布告に至るということになります」
苦し紛れのレトリックだった。しかし、将軍は小さく頷いたもののその表情は硬いままである。
「だが、外交交渉には、カードって奴が付きものじゃないのかね」
痛いところを突かれた。駆け引きカードもなしに外交交渉など成立しない。この将軍の前では、付け焼刃のレトリックなどたちどころに破綻してしまう。
「おっしゃる通りです。今のところ、こちらは本間親子のことなどまったく知らないとひたすら主張するのが関の山で、切り札と言えるような交渉材料はありません。かと言って、このまま手をこまねいているわけには参りません。本間親子の人物像は、おおよそこの調査報告で把握できましたが、その人柄や性格などは、まだ見当もつかない状態です。実際の家事調停の場で、祐樹氏が果たしてどう出てくるのか。状況の推移をにらみながら、後に控える裁判を視野に戦略を練ることが肝要かと思います」
「しかし、戦略を練ろうにも、こちらには交渉材料すらないんだ。ましてや武器になるものなど一切ないんじゃないのかね」
返す言葉がなかった。本間祐樹に内容証明を送ってからひと月。懸案だった犯人・動機・方法の三点セットの解明は何一つ進んでいない。ありていに言えば、今のところ、こちらは和馬と祐樹の父子関係を覆すだけの材料を何ひとつ持ち合わせていないのだ。祐樹が、あの認知が無効だったと同意してくれる、そんなほぼあり得ない可能性にすがるしかないのが現実だった。
「おっしゃる通りです。その状況を踏まえて、私としては、二つの方向性を想定しています」
ほお、聞こうじゃないか、という風に和馬が軽く頷く。
「調停の初回期日は、通常申し立てから2か月程度先に設定されます。初回期日で結論が出ず調停が続行する場合、二回目の期日はそこからひと月以上先になります。合意不能で不成立になって裁判になるとしても、それはさらにその先。つまり、私たちにはかなりの時間的余裕があります。その間に、15年前に誰が何のためにどうやって虚偽の申し立てをしたのか、全力を尽くしてその裏付けを取ること。これが第一の選択肢です」
結局は確たる見通しもない精神論的なプランか。和馬の表情に落胆の色が浮かぶ。それには気づかぬ気に絵莉は続ける。
「もう一つは、本間祐樹の真意を確認した上で、本人に対するアプローチ方法を検討することです。5歳の時に認知された彼は、成人した今、その事実を果たしてどう認識しているのか。認知届が虚偽であったことを知りながら親子関係を否定しないいわば確信犯なのか、それとも自分が億万長者の隠し子であるというおとぎ話を疑いもせず生きてきた脳天気な大学生なのか。現段階では彼の意思はまったく見当もつきませんが、真摯に事情を説明すれば、話し合う余地が生まれるかも知れません」
「一橋に通ってるぐらいだ。まあ、それなりの知力や良識を備えていてもおかしくはないだろうが」
「問題は、どうやって祐樹さんとコンタクトを取るかです。送った内容証明にはなしのつぶてですから、今のところ、こちらと話し合う気はないと判断するしかありません」
「なら、どうやって彼の意思を確認するのかね」
「裁判所の調停では、当事者同士は顔を合わせず、片方ずつ交互に事情や主張を聴取するのが原則です。でも、場合によっては同席で話し合うこともあります。祐樹さんの同意が得られて、もしも調停の席でお二人が直接対面することにでもなったら‥‥」
和馬が、ちょっと虚を突かれたような表情を浮かべた。
「果たしてどうなるのか、正直、私には想像もつきません。でも、調停で面と向かってお話をして、祐樹さんの考えや人となりが見えてくれば、局面を打開できる可能性が生まれるかも知れません」
和馬が目を閉じて考え込んだ。父と子が向かい合うその瞬間を思い浮かべてでもいるのだろうか。
「私はこの青年をまったく知らないし、彼の方だってそれは同じだ。見知らぬ者同士が、親子として顔を合わせたらどうなるか。彼は一体どんな態度を取るのか。はっきり言って、私にしたって自分がどんな振る舞いに出るのか見当もつかんよ」 
「ごもっともです。ただ、対面の機会があるとしても、まだまだ先のことです。それまでに、私は、届け出が虚偽であったことの裏付け探しを鋭意進めます。並行して、祐樹青年に何とかコンタクトを取って、事前に話し合いができないかを探ります」
言葉の力強さとは裏腹に、絵莉にはまだ何の勝算もなかった。

社長室を出た時、見送りの百合香が声を掛けてきた。
「島津先生。実は、認知届が出された頃のことをいろいろ考えてたんですが。ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
絵莉は、内心ちょっと色めき立った。
「ええ。多分、思い過ごしだとは思うんですけど」
「いや、認知無効に関しては、今八方ふさがり状態ですから、どんな情報でも喉から手が出るほど欲しいところです。是非、教えて下さい」
「分かりました。実は、認知の届け出がされたあたりのことを思い出そうと思って、例のビジネス手帳をもう一度見直してたんですが、社長のマイカーの件で、ちょっと引っかかることがありまして」
「社長は、運転なさるんですか?」
「ええ、若い頃はかなりのカーマニアだったそうで、ずっとアストンマーチンに乗っておられます。イギリスの高級スポーツカーだそうです」
アストンマーチン。絵莉も、名前ぐらいは聞いたことがあった。
「私が丹羽地所にお世話になるようになった頃から、社用ではもちろんタクシーかハイヤーでしたけど、ご自宅と会社との往復はいつも車でした。今でも、近辺にちょっと出かける時なんか意気揚々とハンドルを握っていらっしゃいます。スポーツカーなのにいかにもイギリスらしい優雅で重厚な雰囲気があって、ダンディな社長にはぴったりの車です」
後に社長の息子の嫁になる秘書は、若い頃、ひょっとすると齢の離れた社長に秘かな憧れを抱いていたのかも知れない。百合香が秘書のアルバイトを始めた頃ならば、社長は働き盛りだったはず。絵莉自身、学生の頃、和馬がダンディを絵に描いたような紳士だったことを覚えている。今でこそ髪の毛はすっかり後退してしまったものの往年の面影は健在で、あまり風采の上がらない父の由紀夫とは好対照だった。
「あの頃からずっと、お仕事の間は基本的に私がキーをお預かりして、お車の管理は任されています」
絵莉には、イギリスの名車と今回の問題がどうしても結びつかない。
「でも、認知を届け出た日は、一日中都心にお出掛けだったんですよね」
「そうなんです。手帳にも、この日は車を動かした記録はありません」
「それじゃあ‥‥?」
絵莉は、百合香の意図を計りかねた。
「いや、私が気になったのは、その日の夕方、社長の外出中に車のキーを貸し出したメモがあったからなんです」
「社長以外の方に、ですか?」
「もちろん、滅多な方にお貸しするわけには行きません。キーを貸してくれとおっしゃったのは、当時の常務でした」
「常務?」
「はい。社長のお兄様の英世常務です」

数々の不祥事を繰り返してきた和馬社長の兄のことは、丹羽家の顧問弁護士である父から何度か聞いたことがある。
「確か、もう亡くなられているとか」
「はい。もう10年以上も前に肺がんを患われて。社長とは違って、お酒もたばこも何でもござれの派手な方でした。常務取締役に就任されたのは、私がこの会社にお世話になる少し前だったと聞いています。あまり大きな声では言えませんが、お父様から相続した莫大な遺産をギャンブルで使い果たしてしまって、やむなく社長が常務取締役の席を用意されたのだとか」
和馬おじさんらしいな、絵莉は思っている。
「何か、若い頃は音楽業界にいらしたとかで、最初にご挨拶した時、ひげ面の長髪に派手なTシャツ姿で、ちょっとびっくりしました。およそ不動産会社には似つかわしくないお姿でしたけど、よくよく見ると、やっぱりご兄弟だけあって目鼻立ちはよく似てらっしゃいます。やっぱり血は争えませんよね。あれ? 血は争えないって、兄弟の場合でも言うんだっけ?」
首をひねった百合香と顔を見合わせて、二人同時に吹き出していた。
「でもまあ、常務は殆ど出勤されることもありませんでしたから、社員たちもあまり関わらないようにしていました」
創業家一族の鼻つまみ、丹羽英世という存在がありありと思い浮かぶ。
「あの日、常務が訪ねて来られた時、社長は例の商工会議所のシンポジウムで都心にお出掛けでした。常務は、昨日、社長とラウンドした帰り、車にサングラスを置き忘れたとおっしゃって」
「へえ。ご兄弟でゴルフ。お二人だけで?」
「ええ、確かに手帳には、8月31日常務と多摩国際カントリークラブというメモがありました。そういえば、常務がゴルフをやってみたいって言うから付き合うことになったよって、社長、何だかうれしそうにおっしゃっていました」
──うれしそうに? 
親も家もないがしろにしてきた兄が、相続した巨額の財産を根こそぎ使い果たして弟の情けにすがって暮らしている。丹羽家の当主からすれば到底赦すことのできない所業だが、それでもこの世で二人っきりの兄弟だ。和馬社長にとって、兄はかけがえのない存在だったのだろう。
「初心者だから迷惑かけないように、ゴルフ場に頼んで平日二人だけで回れるように手配されたみたいです。でも、あの日、社長はお昼前には会社にお帰りになっています。とてもコースに出るようなレベルではなくて、ゴルフにならないからハーフだけで切り上げたんだそうです。結局キャディさんにはワンラウンド分以上走り回らせちゃったよって笑っておられました」
そうですかとうなずきながらも、百合香が何を言おうとしているのか、絵莉には話の行き先がまだ見えてこない。
「で、その翌日、お兄様が忘れたサングラスを取りに来られたんですね」 
「そうなんです。では、車までご一緒しますと申し上げたんですが、なあにほんの2・3分で済むことだからっておっしゃって。ですから、お車のキーをお渡ししたんです」
「それで? キーはすぐに戻されたんですか?」
「すぐにサングラス姿で戻って来られて、やっぱりサンバイザーに引っ掛けたままだったよって。本当にほんの数分ほどのことでした」
 絵莉の胸に膨らみかけていた興味が急速にしぼむ。
「その日、社長は帝国ホテルから直接帰宅されましたので、キーをお貸ししたことは翌日ご報告しておきました。ゴルフの帰り途、常務は棒ふりなんてもう二度とごめんだって言ってたけど、そりゃゴルフ場の側のセリフだよなって苦笑いされてました」
「英世さんが大変な不祥事を起こされた後も、ご兄弟の関係は決して悪くなかったんですね。確かにちょっと微笑ましいエピソードかとは思いますが。そのことが何か?」
問われた百合香が首をひねる。
「いえ、何かというわけではないんです。ただ、問題の日の前後で普段と変わったことがあったら一応ご報告しておこうと思いまして」
なるほどそうでしたか、とは言ったものの、絵莉にはその出来事と虚偽の認知届とがつながるとは思えなかった。

act10

百合香とて、実のところは似たようなものだった。手帳のメモを見直しながら当時の記憶を一日一日じっくりと辿ってみた時、何かしら引っ掛かったのはこの出来事ぐらいしかなかった。それにしても、社長の兄が、ほんの数分間車のキーを手にしただけのことである。そもそも、社長の愛車を使って一体何ができるというのか。その疑念の正体を突き詰めようとすると、考える先から思念がモザイクの粒々となって手のひらからこぼれ落ちていく。そんな有様だった。
百合香は、サーバーから淹れたコーヒーを持って秘書席に戻った。ブラックコーヒーの香りが鼻腔に心地よい。
  15年前と言えば、ちょうど丹羽地所にアルバイトで勤め始めたばかりの頃だ。この本社ビルも、駿介が将来の社長含みで丹羽地所に迎えられることが決まって竣工したばかり。学生アルバイトとはいえ、真新しいオフィスに社長秘書として出勤するのはとても誇らしかったっけ。
当時のことを思い出しながら、百合香は考えを巡らせる。
  たかだか車のキーのことが、どうして気になるんだろう。ほんの数分貸しただけのことなのに。常務がスペアキーでも作ったとか? 無理無理。たった2・3分でできるはずがない。そもそも、何のために? 
──でも。もしかしたら‥‥。
百合香は、立ち上がって社長室のドアをノックした。
「百合香さん、どうした?」
「社長、つかぬことをおうかがいしますが、アストンマーチンのスペアキーというのは簡単にできるものなんでしょうか?」
「おいおい、藪から棒に何だ?」
「いえ、絵莉先生と話をしてて、ちょっと気になることがあったものですから」
「そうか。スペアキーなら私も作ったことがあるんだが、アストンマーチンは、名車だけあってやたらにセキュリティがしっかりしててね」
車の話になると、和馬は途端に饒舌になる。
「今のリモコンキーになる以前から、たかだかスペアキーのためにわざわざディーラーに車を持ち込まなきゃいけなかったんだよ。ペアリングって言って、工場で新しいキーを車両本体に認識させて同期させるシステムになってるんだ。まあ、面倒な分安心なんだがね」
百合香の表情が徐々に沈み込むのにも気付かず和馬は続けた。
「ペアリングを済ませていない合鍵を差し込もうもんなら、けたたましい警報音が鳴り響くから車泥棒も車上荒らしもまず不可能らしい」
普段、車になどまったく興味を示さない秘書に長広舌を振るっていた和馬が、ふと我に返る。
「どうしてまたそんなこと聞くのかね」
「いえ、私の思い過ごしだったようです。ちょっとでも気になることは、とりあえず確認して下さいって、絵莉先生から念を押されたもんですから」
和馬がいぶかし気に頷く。
「そういえば、社長。亡くなられた常務、お車はお好きでしたか?」
「いや、兄は音楽一辺倒だったから車なんてまったく興味なかったよ。確か運転免許も持ってなかったんじゃないかな」
免許もなかった‥‥。やっぱり思い過ごしだったのか。
「そうですか。社長、お時間取らせて申し訳ありませんでした」
「百合香さん」
出て行こうとする百合香を、和馬が呼び止めた。
「あなたには、変なトラブルに巻き込んでしまって申し訳なく思ってる。養子縁組の件も、ご両親とはじっくりとお話しして了解して下さってるんだが、あなた自身、何か納得できないようなことはないだろうか」
「いえ。駿介さんの遺志を継ぐんだと思えば、それだけで力が湧いてくる気がします。恭介が一人前になってくれるまで、何としてでも丹羽家と会社を盛り立てて行く。その覚悟はできています」
慎ましげな顔に決意の色が見えていた。
「恭介はまだ5歳だ。先は長いぞ」
「社長にご指導頂けるなら、精一杯、努力は惜しまない積りです」
和馬が微笑みながら頷いた。

act11

「お帰りなさい」
事務所のドアを押した絵莉に秘書の麻乃が声を掛ける。
「和馬の件、何か進展はあったか?」
ソファでのんびりとコーヒーを飲んでいた由紀夫が尋ねた。向かい側に腰を下ろしながら絵莉が答える。
「内容証明にはまだ反応なし。松尾リサーチの調査報告で本間親子の実像はおおよそ見えてきたとはいえ、認知無効のエビデンス探しは手詰まり状態。今日も丹羽地所まで行って、認知届当時に何か思い当たることがないかって確認したんだけど‥‥」
絵莉が大袈裟に肩をすくめる。
「前途多難だな」
何とも緊張感を欠く父の顔を見ながら、ふと思いついて絵莉が尋ねる。
「父さん、アストンマーチンって知ってる」
「和馬の愛車だろ。大学時代、映画の007のボンド・カーに一目ぼれしたんだ。以来、あいつアストンマーチン以外眼中にない」
「へーえ、そうなんだ。 007、ジェームス・ボンドか。ねえねえ、そう言えば和馬おじさんって、ちょっとショーン・コネリーに感じが似てない?」
ああ、確かに言われてみれば、と口をはさんだのは秘書席の麻乃である。
「丹羽地所の社長さん、誰かにイメージが似てると思ったのよ。そうそう、ショーン・コネリーだわ」
「でしょ。和馬おじさん、顔立ちは純和風なんだけど、どことなく雰囲気が似てるんだよね」
「そう、あの頭の禿げ具合なんかそっくりよねえ」
「ひどぉい。でも、あんなかっこいいスキンヘッドはそういないよ」
「ちょっとお前たち、一体何の話してるんだ」
とめどがない会話を、由紀夫がやっとのことでせき止める。それをしおに、実はね、と言いながら、絵莉が百合香から聞いた車のキーのエピソードをかいつまんで話し始めた。
「じゃあ、百合香さんは社長の亡くなったお兄さんのことを何か疑ってるんですか?」
また麻乃が奥の席から割り込んできた。
「麻乃さんは、何食わぬ顔で全部話を聞いてるんだよなあ」
「はい。業務は完璧にこなしつつ、事件に関するお話はすべて聞かせて頂いてます」
やれやれ、と由紀夫がつぶやく。
このベテラン秘書は、既にこの事件の概要を把握しているようだ。マルチタスクは女の特技というのが口癖だけに、事務処理作業中でもその目と耳からは種々雑多な情報が次々とインプットされているらしい。
「車のキーと今回の件がどう関わるのかよく分かんないんだけど、何だか引っかかるらしいの」
「女の第六感ってやつか」
由紀夫の陳腐な感想にあきれたように首を横に振り振り、麻乃がソファの傍にパイプ椅子を置いて座り込んだ。
「顧問は、確か社長のお兄さんとも幼なじみなんですよね」
代表の座を絵莉に譲ってから、秘書は、由紀夫を顧問、絵莉を先生と呼んでいる。
「ああ、俺たちの3学年上だったかな。終戦で新制の小学校に入学した頃からかな、丹羽家に行く度に英あんちゃんって呼んで和馬と一緒によく遊んでもらった。絵莉も、子どもの頃に行ったことあるから覚えてるだろうが、丹羽家のお屋敷は古くてやたらにでかいだろ。俺たちはまだわけも分からないガキだったし、戦中戦後の頃だから片付けも手入れも行き届いてなかったからとにかく不気味でさ。何しろ薄暗いし、廊下と階段が入り組んでて行っても行っても果てしない迷路みたいだし」
「確かに、あのおうち、何だかちょっと得体が知れないみたいな感じはあったかな」
「あの頃は、母屋の裏に渡り廊下でつながった離れがいくつかあって、空襲で焼け出された親戚筋の人たちが何家族も暮らしてたみたいでな。離れの縁側に着物姿のおばあ様がひっそり座って笑いかけてきた時には、悲鳴を上げて逃げたもんだ。幽霊か妖怪にでも見えたんだろうが、我ながらまったく失礼な話だよ。探検気分で奥の間をのぞいてみたら、閻魔様の掛け軸が掛かってたり、般若だとか能面だとかが壁一面に飾ってあったりで、まあ怖かったのなんのって」
「へーえ。ワンダーランドみたいじゃないですか」
「なんだか楽しそうよね」
女たちが勝手な感想を漏らす。
「冗談じゃない。悪ガキが大勢集まった時には、数を頼りに恐る恐る肝試しみたいなことやったこともあるけど、普段はとてもとても。そうそう、離れの逆側にはちょっと離れて土蔵が並んでたんだけど、これがまた薄暗くて化け物屋敷みたいでな。英あんちゃんも和馬も、悪さする度にお仕置きで閉じ込められるって言うんだよ。それ聞いた時には、このうちに生まれなくてよかったって心底思ったよ。今なら、完全に児童虐待だな」
どうやら思い出話は尽きそうもない。
「父さん。お子様時代の話はまた今度聞かせてもらうから、英世さんのこと教えてよ」
「中学に入った頃からかなあ。英世さんはジャズだのカントリーだの進駐軍系の音楽に夢中になって、親父さんにねだって買い込んだレコードを一日中電蓄で聞いてたよ。もちろん、俺たちみたいなガキなんかもう全然相手にしてくれない。それからしばらくして、ロカビリーって和製ロックが大ブームになって、いよいよ手が付けられなくなっちまってな。突然高校を中退して、家出同然で音楽業界に飛び込んだのさ。親父さん怒り狂っちゃって、兄さんに憧れてた和馬はもうすっかりしょげ返ってたなあ」
その後、大学を卒業した和馬が丹羽地所に入社して先代登史郎の後継としての地歩を着実に固める中、由紀夫も若くして丹羽家と丹羽地所双方の顧問弁護士として招かれた。この間、和馬と英世の兄弟はほとんど音信不通だったと聞いている。
ただ、兄が事あるごとに、母の文子に金の無心に来ていたことに和馬は薄々気付いていた。半分ため息をつきながらも、母が漏らす言葉の端々からは、少しでも出来の悪い息子の力になってやれることを喜んでいるフシもうかがえた。母親というものは有難いものだと、そして、ああ見えて父親だって黙認していたはずだと和馬が苦笑いしていたのを由紀夫はよく覚えている。
英世と和馬が久しぶりに正面切って顔を合わせたのは、父登史郎の通夜の席だった。昭和から平成へと年号が変わったこの年、兄弟はともに五十の坂を越えていた。派手な業界で自由気ままに生きてきた兄と、丹羽家の後継者として累代の資産を運用する会社経営に精力を傾ける実直な弟。片や長髪のひげ面で、柄物シャツに形ばかりの黒ネクタイを締めた業界人、片や地元指折りの名士を弔う式典を粛々と取り仕切る喪主。数十年という月日を経て、兄弟は好対照というしかない姿で遺族席に並んでいた。
その後、登史郎の遺志によって遺言執行者に指名された由紀夫は、四十九日の法要と納骨を終えた時点で、相続人である英世と和馬の兄弟と向かい合うことになる。
「先代は、遺留分を考慮して英世さんに四分の一、四分の三を和馬が相続するよう遺言を残していた。それに従って、兄の英世さんが主に現金や金融資産を、和馬が不動産と丹羽地所の株式を受け取る形で双方が了解して円満に終了した」
「確かに、表向きは一応円満ってことにはなりましたけど。長男の取得分が四分の一でしょ。あの時、英世さんは本当に納得されたんですかねえ?」
数多の争いを間近に見てきたベテラン秘書は、人の内面に潜む感情が気にかかっている様子である。
「実は、その10年以上も前に、俺は先代から遺言作成の相談を受けててね。先代は昔の家督相続への拘りがあって、跡継ぎの和馬にすべての財産を相続させたいというんだ。そこで俺は、長男の英世さんには法的に遺留分という権利があることを説明した上で、将来の丹羽家に禍根を残すことのない方法を取ることを勧めた。具体的には、遺留分に相当する遺産の四分の一を英世さんに相続させるべきだって進言したんだ」
遺留分。
ごくかいつまんで言えば、遺言の効力が一部及ばなくなる規定である。たとえ相続人の誰かには一切相続させないという遺言があったとしても、妻や子であれば、遺産の一定の割合をもらう権利を主張できる。
既に妻の文子を亡くしていた登史郎の場合、相続人は英世と和馬の二人の息子だけ。仮に登史郎が全財産を和馬に相続させると遺言したとしても、英世は遺留分として遺産の四分の一を受け取る権利を持っている。
四分の一とはいえ、一般庶民から見れば目の飛び出るような財産だ。その巨額の財産を、当時、まだ音楽業界と反社会勢力との境界線の辺りでうろついていたぐうたらな男に遺したことが正しい判断だったのかどうか。由紀夫は後に、愚兄の人となりを考慮せずに先代に助言したことを賢弟から責められることになる。丹羽家の将来を見据えれば、遺留分を巡って裁判で争うよりはよほど賢明な選択だったという由紀夫の申し開きも、その後の顛末を前にすれば虚しく響いた。
「親からすれば、勝手に家を出て行って親孝行のかけらすら見せなかった放蕩息子だからなあ。昔ならさしずめ勘当モンだ。四分の一とはいえ、遺産を受け取れただけでも上等。英世さんも、まあ納得してたんじゃないか」
「それにしても、あの丹羽家だもん。四分の一ったってけた外れだったんでしょ」
「ああ。評価額20億は下らなかった」
ヒュー、絵莉と麻乃が同時に口笛を吹いた。
「もっとも、相続税の方も目が飛び出るぐらいだったがな」
にやりと笑って、喋り詰めの由紀夫がひと息ついてから続けた。
「ただ、その後、英世さんはとんでもないことをしでかす」
「ああ、父さん、いつだったか言ってたよね。例の丹羽家史上最悪のスキャンダルでしょ」
「あの時は、本当に大変でした。顧問は、朝から晩までかかりきりでしたもんねえ」
麻乃が当時を思い出すように言った。
「英世さんは、ミュージシャンの夢はもうとっくにあきらめてたけど、もともとヤマっ気のある性格だったんだろう。莫大な遺産を相続した上に、何だかんだ言っても重しになってた親父さんがいなくなって、ちょっと有頂天になってたのかな。業界の悪い取り巻き連中に誘われてギャンブルにはまっちまったんだ」
「あーあ、もう予想通りの展開。飲む打つ買う、なんて言うけど、財産食いつぶすんなら何たってバクチが一番、よね」
「ギャンブル狂いたって、絵莉。英世さんのは生半可なもんじゃないぞ」
英世はマカオでホテル暮らしをしながらバカラ賭博に明け暮れて、父から相続した財産は結局2・3年で跡形もなく消えてしまった。巨額の遺産があったのは確かだが、もちろん無尽蔵というわけではない。
マカオのカジノでは、長期滞在のVIPはほとんど現金のやり取りはしない。金持ち連中は、いくら負けようが、財力に応じてホテルからいくらでもお金を融通してもらえるのだ。今や大富豪となった英世もその例外ではなかった。
すっかり気が大きくなってるから、負けるたびに倍々ゲームで借り続けて、気が付いたらとんでもないことになっていたというのが実態だった。ギャンブル依存症というのはたちの悪い病気だから、ギャンブル漬けの噂を聞きつけた和馬がいくら諭そうが諫めようがまったく効果はなかった。
「そういえば、カジノで地獄を見たとか名言を吐いたどっかの名門企業の御曹司がいましたよね」
「ああ。あれとまったく同じさ。オーナー会社のカネ好き放題引っ張って背任で実刑食らったあの社長に比べたら、英世さんの場合は巨額ったって所詮は個人資産だ。たかだか20億ぐらい、まあ可愛いもんだ」
絵莉が、また大きくため息をつく。
「英世さんに、ご家族は?」
「若い頃、一度結婚したことがあるんだけど、嫁さんはすぐに出てった。独身時代と変わらず女性関係はルーズだし、業界の派手な付き合いにかまけてほとんど新居にも帰ってこない。多分行き当たりばったりで衝動的に籍入れたんだろうけど、まともな女性ならとてもついてけないよな。この時も、おふくろさんに頼まれて、先代には内緒で俺が離婚の交渉をしたんだ。子どもはいなかったし、あの時点では嫁に分与するだけの財産もほとんどなかった。けど、実家が裕福だからって慰謝料はそれなりに取られたもんだから、結婚なんてもうこりごりだなんて言ってたなあ。まっ、それにしたってせいぜいが500万程度だ。ギャンブルで20億スった人間の言い草とは思えんが」
「じゃあ、お子様もいらっしゃらない?」
由紀夫が頷く。
「まあ、家族でもいたら、さすがにあそこまでの無茶はしなかっただろうな」
話が横にそれちまったが、と由紀夫が話題を本筋に戻した。
「それで結局英世さん、マカオでの借金が雪だるま式に膨れ上がっていよいよにっちもさっちも行かなくなった。和馬に頼まれて、結局俺が後始末に走り回るはめになったってわけさ」
「何しろ海外の、しかもそのスジが相手でしょ。金額と言い精神的ストレスと言い島津法律事務所史上最大の困難案件だったかも。ほんと、思い出してもぞっとしますよ」
麻乃が大袈裟に肩をすくめた。
「借金はどれぐらいあったの?」
「ざっと50億。英世さんの遺産の倍は超えてたな」
もはや絵莉は驚かない。およそ現実感を欠いた数字の連続に、金銭感覚が完全に麻痺していた。
「そりゃ、もう破産手続きしかないね」
「和馬は、丹羽家から破産者を出すことにえらく抵抗したけど、海外のカジノホテルの借金がほとんどだから、義理ある相手に迷惑を掛けることは一切ないと説得した。ギャンブルによる破産は認められないこともあるが、名目上はホテルに対する負債になってたから何とかクリアできた。それにしても、相手は名だたるマカオのカジノだ。日本のウラ社会とも通じている。下手すると、和馬や丹羽地所にまで累が及ぶ可能性もあったから、俺も必死だったよ」
由紀夫は、先ず裁判所で今回のケースのような海外の債務もすべて破産の対象になることを念入りに確認した。その上で、法務省や外務省に何度も問い合わせを繰り返しながら専門書と首っ引きで手続きを進めていった。それにしても、一個人が海外に何十億単位の借金を負うなどという事例はめったにあるものではない。次から次、頭を抱えるような事態に直面する。その度に、由紀夫は心の中で英世の愚かさ加減を罵りながら、それでも全精力を傾けて試行錯誤を重ねていった。結局、定例の業務以外はほぼこの事件にかかりきりで、ようやく目途がついた時には半年以上を費やしていた。
破産と言っても、何も借金すべてを踏み倒すというわけではない。自分の持てる財産をことごとく吐き出した上で、どうしても足りない分だけは返済を免除してもらうというのが基本だ。具体的には、本人の財産をすべて寄せ集めて、借金額に応じた割合で債権者一人ひとりに分配することになる。
由紀夫は、改めて英世の財産の洗い出しに手を付けた。先代から英世が相続した遺産は、預貯金のほか、株式、国債、投資信託などの有価証券類がほとんどだった。派手な生活を続けていたとはいえ、何しろそもそもの基礎財産がべらぼうなものだ。それが生み出す利息や配当金は馬鹿にならないし、おまけにあの頃はリーマンショック前で株価も上昇基調だったから含み益は相当な額に達していた。ギャンブル以外の散財分には十分おつりが来ることが分かり、結局、予想していた通り英世の実質的な債権者はマカオのカジノとホテルのみと言ってもいいことを再確認した。
事前準備をやっとこさ整えた由紀夫は全債権者に通知書を送付。それを受けて、債権者集会にはマカオから黒いスーツにカラーシャツの債権者代理人が何人も来日し、百戦錬磨のこわもて達とのタフな交渉が連日続いた。その結果、借金総額には及ばないものの、マカオ勢は英世の巨額の財産の大半をせしめることになる。カジノやホテルは、そもそもが濡れ手で粟といってもいい債権者だ。最終的に20億円という巨額の資金を回収できれば、上々の首尾と言ってもいいだろう。合意の書面にサインをした後、黒スーツの猛者たちは満面の笑みで由紀夫に握手を求めてきたものだ。
ようやく日本での免責手続きがすべて終了した後、由紀夫は、和馬にまで決して累が及ばないようにしておくことにも心を砕いた。改めてマカオの裁判所に日本での破産手続きの承認を申し立て、元債権者であったカジノやホテルの丹羽家に対する接触禁止命令まで周到に整えて、島津法律事務所最大級のミッションはようやく完了したのだった。
「これがまあ、英世さんが先代から相続した巨額の遺産が跡形もなく消えちまった一部始終ってわけだ」
聞き終えた絵莉が大きなため息をついている。
「父さん、大変だったんだ。あたしはその方面には疎いから、とても無理だわ」
「俺だって、あんな大変な仕事は二度と御免だ」
「その後、お兄様は丹羽地所に常務として迎えられたんですよねえ」
「ああ。たった一人の兄が無一文になっちまったんだからな。その辺り、和馬の心情も分かるだけに敢えて反対はしなかった」
「ちょっと泣かせるじゃん。和馬おじさんって、やっぱり男気があるよね」
「あの兄弟、性格は正反対だけど、お互い妙に情に厚いところがあるんだよな。とにかく、英世さんにそれなりの生活ができるだけの収入を確保してやるのが目的だったから、和馬も仕事の方に関してはまったく期待してなかった。それと、これはここだけの話なんだが」
由紀夫が、ちょっと意味ありげに目くばせをした。
「先代の遺産分割で英世さんが四分の一を相続したって言ったろ。その中に少しだけ不動産が含まれてたんだが、そいつの名義を書き換えないで先代のままにしておいたんだ。まあ、当時で一億にも満たない程度だったから、全体からすれば微々たるもんなんだが」
「一億円なんて微々たるもんか。何ともはや‥‥。あれ? でも父さん、それって遺言執行者としてはちょっとまずいんじゃないの?」
「まあ、そう言われりゃその通りなんだが、所有権の移転登記が遅れても法的にはまったく問題はないからな。でも、たとえ自分の不動産であろうと登記が自分の名義になっていないと売却はできない。つまり現金化できない、いわば宝の持ち腐れってなとこだな。まあ、英世さんのあの危ない性格に保険をかけておいたわけだ」
「ということは? ひょっとして‥‥」
由紀夫と麻乃が顔を見合わせて意味ありげに笑った。
「その不動産、破産手続きの対象にならなかったの?」
「登記上、その土地は亡くなった父親名義のまんまだったから、本当は既に所有権が英世さんに移ってるなんて誰に分かる? まあ遺産分割協議書か相続税申告書でも確認すれば別だが、何しろその時点で既に相続から7年近く経ってるんだ。部外者には、そんなこと想像もできんだろう。丹羽家関連の不動産の固定資産税は和馬がすべてまとめて支払ってたから、本当の所有者が英世さんに移ってるなんて誰にも分るはずがない。ましてや、相手ははるばるマカオからやって来た代理人だよ。7年以上も前の遺産分割のことまで調べられる道理がない」
「確かに、当事者からの主張がない限り裁判所も口出ししないからなあ」
絵莉が、ちょっと呆れ顔でつぶやいた。
「かくして、英世さんの隠し財産には手を付けずに済んだ。いざって時のための保険が意外な場面で効果を発揮したわけだ。ま、7年前の先代の遺言執行者であり、この時の破産管財人でもある俺にしかできない超頭脳プレーってとこだな」 
「あきれた。父さん、それって、頭脳プレーどころか破産管財人としてはれっきとした背任行為じゃない」
しーっと口元に人差し指を立てた由紀夫が、敏腕秘書の方を見てにやりと笑う。
「あれ。ひょっとして、麻乃さんも知ってたの?」
「あら、まさか。秘書ごときがそんな裏のカラクリまで存じ上げてるもんですか」
横を向いて知らん顔を決め込んだ麻乃を見て、絵莉にも事の次第がはっきりと飲み込めた。
「父さん。口止め料はちょっと高いわよ」
分かった分かったと苦笑いした由紀夫に向かって、絵莉が真顔になる。
「英世さんの不祥事のことはよおく分かりました。でも、話を戻すと、百合香さんが気にかけてるのはその超問題児の生前の不審な行動なんだよね」
「車のキーの件か。俺にはさほど不審行動とも思えんがな。15年前に、英世さんが仮に和馬の愛車のキーをたった数分借りたとしてだよ。それが、和馬の認知の問題とどう結びつく?」
「うーん。ほら、百合香さん、長年の秘書稼業が身に付いてるからさ。敬愛する社長に害を及ぼしかねない相手には本能的に警戒警報が鳴るのかなあ」
その辺りになると、絵莉も首をひねるしかない。
「麻乃さんは、どう思う?」
絵莉の問いかけに、麻乃がちょっと考え込んでから言った。
「私には、車のキーの件だけに限らず、その前後の英世さんの行動がちょっと引っ掛かりますね」
「というと?」
「いや、普段ご兄弟が一緒に行動なさることはあまりなかったんですよね。それが、突然ゴルフに誘ってきたり、めったに出社しない会社に顔を出したり。そこには、何か理由があるような気がして」
敏腕秘書の思わせぶりな口調に絵莉がちょっと色めき立つ。
「どんな理由が考えられる?」
腕を組んでしばし考え込んだ後、麻乃はおもむろに口を開いた。
「うーん、残念ながら皆目見当もつきませんわ」
あっけらかんとした答えに由紀夫と絵莉ががっくりと肩を落とした。

act12

その頃、当の百合香も首をひねっていた。
何で常務のことがこんなに引っかかるんだろう。社長の車のキーをほんの数分借り出したからって、別に怪しむようなことじゃない。そもそも常務は運転免許も持っていないわけだし、名車だけあってスペアキーもそう簡単に作れそうもないらしい。となると、サングラスを置き忘れたという話にどうやら嘘はなさそうだ。いずれにしたって、アストンマーチンのキーと認知届に関連があるとはとても思えない。私、やっぱり常務に対してナーバスになり過ぎかな。
百合香は、15年前のビジネス手帳をもう一度めくってみる。
『9月1日火曜日、終日日商シンポ、於東京フォーラム』
問題の認知届が出されたこの日、社長は朝から有楽町の東京国際フォーラムでシンポジウムを観覧し、夜の帝国ホテルでの懇親会を終えて、そのままハイヤーで帰宅している。
その前日、社長は英世常務と二人でゴルフに出かけている。
我ながら往生際が悪いなと思いながら、百合香は前の日のページを開いてみる。
『8月31日月曜日、常務とラウンド、於多摩川国際CC』
克明に綴られた百合香の手帳だが、普段業務に関わることのない常務の名前は、この二日以外ほとんど登場しない。もちろん、たまたま兄弟が親交を温めたことに伴う偶然なのだが、普段、会社とも社長ともほとんど没交渉の常務が問題の日の前後に限って登場することに、百合香はどうしても違和感が拭えないのだった。
もう一度だけ、記憶をたぐってみよう。
9月1日。メモによれば、社長不在の社長室に常務がやってきたのは午後5時。百合香は、社長秘書の仕事についてからまだ半年も経っていない。初対面の時自己紹介をした時を含めて、常務と直接話をしたのはまだ数えるほどだった。
──確かあの時。秘書室のガラス扉にノックがあった。
あれっ? 
ドアを押して入ってくる常務を見て、ちょっと驚いたっけ。一瞬、社長が帰ってきたのかと思ったんだ。そうそう。社長と見間違えたのはあの時のことだ。
百合香は、濃い霧の中を手探りで進むように懸命に記憶を辿っていく。
──あの日、常務は長髪を刈り揃えてひげも剃っていた。しかも、いつものラフな服装とは打って変わってスーツにネクタイ姿。
一体、どうした風の吹き回しだろう。百合香の脳裏に、あの時交わした会話が少しずつ蘇る。
実は知り合いの結婚式があってね。義理のある人だから、ちょっとまともな格好をしてみたんだが、意外と似合うだろ? 
あっけに取られている百合香に、常務は確かそんなことを言った。
百合香は、慌てて愛想笑いで取り繕った。
驚きました、常務。スーツ、本当にお似合いです。さすがご兄弟だけあって、こうして見ると社長に本当にそっくりでいらっしゃいます。
社交辞令だけではない。あの頃は、社長の髪もまだそこそこ豊かで、白髪の目立ってきた短めの髪をオールバックになでつけていた。常務が長髪にひげ面の時には思いもよらなかったが、目鼻立ちといい背格好といい、「血は争えない」なんて慣用句がふと脳裏に浮かんだのも無理はない。
馬子にも衣裳って、顔に書いてあるよ。常務の軽口が続いた。でも、こうしてみると、俺も満更捨てたもんじゃないだろ。いっちょ、本気でビジネスマンとしてやり直すかな。
それだけはご勘弁! 
常務の数々の不始末を聞いている百合香は反射的に思った。でも、こうやって身だしなみを整えればそれなりの風格はある。見た目だけなら、ひとかどの紳士に見えないこともないかも。
でも、そんなことを思ったのはほんの一瞬のこと。サングラスを車に忘れたという常務にキーをお渡しして、すぐに返却してもらった。ただ、それだけのことだった。  
──でも‥‥。
百合香の内心にさざ波が起こっている。社長と常務の顔立ちはかなり似ている。血は争えない、と思ってしまったぐらい。
──ならば‥‥。
百合香には、自分が危うい仮説に向かって歩を進めている自覚があった。
──ひょっとして‥‥。
あれだけ似てれば、ひょっとしてなりすますことだって。
つまり‥‥。社長を装って認知届を出すことだってできたかも知れない。
──でも、姿かたちが似てるというだけで、役所相手に本人になりすますことなんてできるんだろうか。まさか、そんなことあり得ない。当然、本人であることを確認できる公的な身分証明書が要るはずだ。‥‥公的な証明書? 
免許証!
日本で最もポピュラーな身分証明書は、運転免許証だ。目の前の人物と免許証の写真を見比べて、同一人物であることを確認するのが通常の手続きだ。
百合香は、はやる気持ちを必死で抑えながら考えを進めている。もし万一、社長にそっくりの人物が社長の免許証を提示すれば、その人物が本人であることを一体誰が疑うだろう。
百合香は椅子を蹴って立ち上がった。社長室のドアの前で深呼吸をしてからノックした。
「百合香さん。どうしたんだ」
百合香のただならぬ様子に、和馬が怪訝な表情を見せる。
「社長、つかぬことをおうかがいしますが‥‥」
またかね、と言いながら苦笑いする和馬にかぶせるように百合香が言う。
「社長は、ご自分の運転免許証をどこに保管していらっしゃいますか」
一瞬、ポカンとした表情を浮かべた和馬が、やれやれと言った表情で応える。
「ずっとアストンマーチンのグローブボックスに入れてるよ。私は、あの車以外は運転しないからね」
百合香の動悸はもうピークにまで達していた。
「もうずっと以前からそうなさってましたか?」
「ああ。グローブボックスの中に免許証保管用のホルダーがあるから、昔からずっと重宝してきた」
百合香が声にならない声を漏らして、へなへなとソファに座り込んだ。

「社長、申し訳ありません。もう大丈夫です」
ソファから立ち上がろうとする百合香を和馬が制した。
「体調が悪いのか?」
「いえ。そうじゃないんです。社長、私、どうやら大変なことに気が付いたみたいで」
「どういうことかな」
百合香は、手帳のメモを頼りに懸命に思い出した事実を語った。15年前の認知が届け出られた当日、今は亡き常務がアストンマーチンのキーを借りに来たこと、その時、髪を切りひげを剃ってスーツ姿だったこと‥‥。
へえ、そんなことがあったのか。それで、と和馬が促す。
「実は、その時の常務のお姿が、社長とそっくりだったんです。私、一瞬見間違えてしまったぐらいです」
「確かに、子どもの頃は、目鼻立ちがよく似てるって言われたもんだが‥‥」
それがどうしたんだとでも言いたげな和馬に、百合香が覚悟を決める。
「ここからは、あくまで私の想像です。お兄様の名誉にも関わることですので、ご不快な内容になるかも知れませんが」
百合香の思いつめた表情に和馬が頷く。
「あの日、市役所の窓口で、顔立ちのそっくりな常務が社長の免許証を見せれば、ご本人を装うことができたんじゃないでしょうか」
百合香の言葉に和馬が目を大きく見開いた。
「それじゃあ、何か。その日、兄がアストンマーチンのキーを借り出して、グローブボックスから私の免許証を持ち出したというのかね」
百合香がうなずく。
「しかし、キーはすぐに返したんだろ。仮に免許証を持ち出したとしても、市役所に行って手続きするなんて時間はとてもないんじゃないか」
一瞬戸惑った百合香だったが、突然何ごとかに気付いたように手にした手帳を開いた。ページをめくって目を走らせた後、百合香は何度もうなずきながら和馬に向き直った。
「確かに社長のおっしゃる通りです。しかも、常務にキーをお貸ししたのはあの日の夕方5時過ぎとなっています。その時点で、もう役所の窓口は閉まっています」
「ということは?」
けげんそうな和馬を見つめたまま、百合香は一度大きく深呼吸をしてから言った。
「私のメモによれば、その前日、社長は常務とゴルフに出かけていらっしゃいます。ひょっとすると、常務が車から免許証を持ち出されたのは前日だったのではないでしょうか」
和馬が目を閉じてしばらく考え込んだ。
「確かに、よくは覚えていないが、受付けだの会計だのしてる間、常務には助手席で待ってもらってたかな」
「もし私の想像通りだったとしたら、市役所で届け出を済ませた後、免許証を無断で持ち出したことがバレないうちに急いで元に戻しておかなければいけません」
和馬にも、事の次第が徐々に像を結び始めている。
「それで、サングラスを忘れたという名目でキーを借りて、こっそり免許証を元の位置に戻しておいた。戻すだけならほんの数秒もあれば十分です」
「確かに、普段車に保管してる免許証を確認することなんて滅多にない。一日ぐらい持ち出したってバレる気遣いはない。それは確かだが‥‥」
「常務は、社長が車に免許証を保管してらっしゃることをご存知だったでしょうか」
何か心当たりでもあったのか、和馬が小さく頷いた。
「で、それを利用することを思い付かれた。そして、その企みを実行するために、まずはやりたくもないゴルフに社長をお誘いになった。多分、翌日、社長が終日都心にお出掛けだということもご存知だったと思います」
和馬が視線を落として考え込んだ。自身のおぼろげな記憶を辿りながら、百合香の仮説の可能性に思いを巡らせているのだろうか。そして、もしそれが事実なのだとすればと、兄の信じ難い行動の意味に思いを馳せているのだろうか。
そんな和馬の様子を見つつ、百合香も少しずつ落ち着きを取り戻してきている。
「社長。これはあくまで、手帳のメモと私のかすかな記憶を重ね合わせた仮説です。信頼性のやや怪しい私のメモ以外、証拠になるようなものは一切ありません」
聞こえているのかいないのか、和馬は黙ったままだ。
「何だか、ついつい興奮してしまいましたが、冷静になってみると、我ながら何だか妄想じみた考えのような気がしてきました。聞き流して頂いた方がよさそうです。社長、失礼の段、どうかお許し下さい」
失礼しますと言ってきびすを返した百合香を、和馬は無言のまま見送った。

act13

  15年前か。
丹羽和馬は身じろぎもせずに物思いにふけっている。
あの頃は、まだ妻の淑子も長男の駿介も健在だった。一方、兄の英世は、若くして家を出て、父の登史郎からは勘当同然の身の上。一度は結婚したものの、すぐに別れている。父から相続した莫大な財産もギャンブルで使い果たしてしまい、破産後私が手を差し伸べてもさほど生活態度が変わったようには見えなかった。
これらすべては自業自得。憐れむべき理由は、何一つない。だが、和馬は、この世でたった一人の兄をどうしても憎む気にはなれなかった。確かに、己れを律することができず、目先の欲望に流され、群がる軽薄な輩に利用されて、不始末を繰り返した兄だった。しかし今も、心底悪意のある人間ではなかったと思えてならない。
──その兄が‥‥。
百合香の仮説は妄想などではない。言われてみれば、和馬にはいくつも思い当たる節があった。和馬は、英世のスーツ姿を見てはいないが、百合香の言葉に嘘はあるまい。兄と自分の目鼻立ちが似ていることは自覚していた。瓜二つとまでは言わないが、身だしなみを整えれば、おそらくなりすますことも不可能ではないという気がしていた。確かに物的な証拠はないが、あれだけの傍証があるのだ。百合香の仮説は、おそらく事実だろうという確信があった。
  ならば、兄をそんな行動に駆り立てたものは、一体? 
その肝心の点については、百合香はもちろん、自分自身何一つ裏付ける情報を持っていない。裏付け情報もなく物的な根拠もない仮説は憶測でしかない。これ以上は、もはや素人の手に余るというしかなかった。

その夜、和馬はしばらくぶりに新宿の高層ホテルにある会員制クラブに出掛けた。向かいの席には、島津由紀夫と絵莉、弁護士親子が顔を揃えている。
「百合香さん、すごぉい」
和馬の話を聞いて、絵莉は驚きを隠さなかった。
「よくぞ、そこまで思い出してくれたわね。まさか、百合香さんが突破口を開いてくれるとは思わなかったわ」
「多分、彼女の推理は、大筋で間違ってはいないと思う。前日のゴルフ、当日の車のキーの借り出し、突然の変身ぶり、この仮説ですべて説明がつく。やはり、すべて兄の仕組んだこと、そう考えるしかない」
絵莉がうなずいて、同意を求めるように隣の由紀夫の方を見た。一緒になって喜んでくれるはずの父は、しかしなぜか眉間にしわを寄せて妙に難し気な顔をしている。父さんどうしたの、と問いかけようとした時、その父が口を開いた。
「確かにそうだな。だが、問題が二つある」
「問題って?」
「一つは、具体的な物証が一切ないってことだな。犯人、いや、仮に英世さんがなりすまして届け出を実行したんだとしても、もう亡くなっている以上、確認のしようがない。百合香メモは、仮説を導くための傍証でしかない。そもそも、キーの借り出しだってその日の英世さんの姿や身なりだって、直接話をした百合香さん以外に覚えている人物がいるとは思えない」
「でもさ、父さん。これは刑事事件じゃないんだから、厳密な立証の必要はないんじゃない。これだけの傍証があれば、それなりに説得力のある主張ができると思う。家事事件では、寝ごと言ってんじゃねえよってぐらいの無理筋の書面だってしょっちゅう見るよ」
「確かに、最近の弁護士なら、さもありなんだが」
「で? 父さん、もう一つの問題は?」
「動機だろ」
向かいの席の和馬がぽつりと言った。
その通りだと、絵莉も思っていた。認知無効を立証するためには、嘘の認知届を出した犯人・方法・動機の解明こそが絶対条件。ずっと呪文のように唱えてきた立証三点セットだ。仮説とはいえ、『犯人』と『方法』の目星がついた今、残るは『動機』ということになる。
和馬が言葉を続ける。
「百合香からこの話を聞いてから、そのことばっかり考えてた。あの兄貴が、なんで妙な小細工を弄して嘘の認知届を出すなんて突拍子もない行動に出たのか」  
わざわざ弟になりすまして認知を届け出たのだとすれば、その目的は一体?
考えられる答えは、一つしかない。その子、本間祐樹という青年を大富豪である弟の相続人にするため。そう考えるのが妥当なところだろう。
ならば、本間祐樹とは一体何者なのか?
「当事者のお前はどう思うんだ?」
和馬は大きく息をついた。
「いろいろ、可能性を考えてみた。誰かに騙されたり脅されたりしてあんなとんでもない企みの片棒を担ぐなんてことは、いくら何でもあり得ない。どう考えても、自らの意思で取った行動に違いない。となると、本間祐樹は兄貴にとって特別の存在ということになる。例えば‥‥」
和馬が言いよどむのを見て、由紀夫が言葉を引き継いだ。
「例えば、隠し子か」
和馬が無言でうなずいた。絵莉もまた、同じことを考えていた。
「本間祐樹は、丹羽和馬ではなく丹羽英世の隠し子だった‥‥」
由紀夫がつぶやくように言った後、三人はしばらく押し黙った。
「ちょっと失礼する」
沈黙に耐えかねたように和馬が手洗いに立った。その後ろ姿を見送ってから由紀夫が絵莉に向き直った。
「確かに、本間祐樹が英世さんの隠し子だという可能性は否定できない。だが、もしも本当に英世さんがあんな常軌を逸した行動に出たのだとしてだ。それは、自分の息子を巨額の遺産の相続人にするのが目的だったんだと思うか?」
「え? だって‥‥。それ以外に何があるの? 破産した兄が、自分の子を大富豪の弟の息子に装ったんだとしたら、目的は遺産狙いしかあり得ないでしょう」
由紀夫がふうっと小さく息をついた。いつになく沈鬱げな父の表情に気づいて、絵莉は一瞬戸惑った。
「いや。まあいい。ただ、お前には言っておく。事はそんなに単純じゃない」
どういうこと、と反射的に問いかけようとした時、和馬が戻ってきた。絵莉は気を取り直して、努めて事務的な口調で切り出した。
「社長、それでは今後の方針ですが、百合香さんの仮説を裏付けることが今や喫緊の課題です。お兄様の生前、本間親子との間に何らかの接点はなかったのか。その点にターゲットを絞って、改めて興信所に依頼して調査を進めます。15年前の裏付け調査となるとちょっと難しいかも知れませんが、何らかの痕跡が残っている可能性はあります」
「もしも、生前の英世さんと本間親子の間に何らかの接点があったとしたら、百合香さんの仮説は妄想なんかじゃなく事実だったということになる。そうなったら、百合香さん、大殊勲だな」
由紀夫は、さっき絵莉に垣間見せた表情が嘘のように陽気な声で言った。
遥か昔のおぼろげな記憶を必死に手繰り寄せて構築した仮説。確かに、百合香以外の一体誰がここまで辿り着けただろうか。もっとも、今のところ、まだ想像の域を出てはいないのだが。
「そろそろ、家裁に調停を申し立てる時期なんだけど、認知無効の主張根拠を何て書けばいいのか、けっこう悩ましくて。でも、百合香さんのおかげで、何とか目途がつきそうだわ」
絵莉が、和馬に向き直った。
「社長。私は、明日にでも認知無効調停の申し立て手続きに入ります。申し立てから初回期日まで、早くとも二か月はかかります。その間に、何としてでもお兄様と相手方の本間親子との間に何らかの関係があったことを確認したいところです。それが確認でき次第、速やかに百合香さんの仮説をベースにした主張書面を作成して追加提出する積りです」
「どうか、よろしく頼む。ちなみに、その調停には私も出席するんだろうね」
「弁護士にすべてお任せで、当事者が出席しない場合もあります。ただ、今回の場合は、親子という身分に関わることですから、いずれかの段階でご本人にも出席して頂くことになります」
「その席で、この本間祐樹と言う青年と顔を合わせることもあり得るんだったな?」
「原則、調停は別席で行います。ただ、話し合いの流れ次第では同席で顔を合わせる可能性もないではありません」
「そうか。いや、一度、我が息子と直接会ってみたいものだと思ってね」  
冗談とも本気ともつかない和馬の言葉に、由紀夫と絵莉が顔を見合わせた。

act.14

絵莉から百合香の推理を聞かされて、女探偵の好奇心は再びフル稼働の様相を呈した。夫婦や親子兄弟間の調査を数限りなくこなしてきた松尾奈津子にとっても、多摩の大富豪の家で起こった今回の出来事はこれまで経験したことのないものだった。
絵莉との最初の打ち合わせで確認したミッション。それは、嘘の認知を届け出た犯人・方法・動機の三点セットを解明することだった。そのうち、犯人と方法については、社長秘書の百合香がついに一つの仮説を探り当てた。その仮説の裏付けになる事実を探し出すことこそが女探偵に課せられた使命だ。その裏付けさえ見つかれば、残る『動機』だって自ずから明らかになるに違いない。
前回の調査で特筆すべき成果を上げられなかっただけに、今度こそはの念も一入であった。ただ、今度のミッションも決して簡単なものではない。何しろ、もう十何年も前に亡くなった人物の生前の行為を探らなければならないのだ。興信所の仕事は、現在進行形の調査がほとんどだ。過去の事実を探り当てるというのは、本来得意とするところではない。でも、盟友の絵莉の方は、既に家裁に認知無効の調停を申し立てている。初回期日までに、何としてでもあの仮説を裏づける事実を探り当てるのが奈津子の任務だ。責任は重い。
前回、本間親子の周囲に男性の気配はまったく見当たらなかった。だが、今度は、闇雲に対象の身辺や行動を追いかけるのではなく、ある目的に沿って事実関係を探り出すという作業だ。いわば、前回がゼロからストーリーを作り出すための調査だったとすれば、今回は明確なストーリーに添って裏付けを探す調査ということになる。実際の聞き込みに当たっても、今度は対象人物の写真が大きな威力を発揮することになる。丹羽英世という特定の人物の顔だちや体格、身なりなど、聞き込みのためのツールを存分に使えるのだ。
ただし、その前に大きな問題が横たわっている。その人物は、既に十数年前に亡くなっているのだ。その人物の生前の足取りを辿るのは生半可な作業ではない。その困難さを十分に心得つつ、奈津子は行動を開始した。
本間智恵子は近所付き合いがあまりない。都内の中高一貫校に通い、そのまま大学へ進んだ祐樹の友人も近くにはいないようだ。だが、そのことは、聞き込み調査の障害にはならない。むしろ、親しい知り合いに遭遇すれば警戒されかねないし、そこから本人に調査員の存在が漏れる可能性だってないではない。
奈津子は、佐野という初老のベテラン調査員とコンビを組んで入念に周辺の聞き込み調査を開始した。佐野は、奈津子が松尾リサーチに入った当初、探偵業の何たるかを叩きこんでくれた師匠でもある。
手始めに、手分けして近隣のコンビニやスーパーを訪ね、親子と接触のありそうなマンションの住人に目星をつけて注意深くコンタクトを取った。だが、英世の写真に対して心当たりがあるという情報はまったく得られなかった。いくら写真があろうが、やはり十数年も前の片隅の記憶など、とっくに風化しているのが当たり前なのか。
奈津子は、佐野と相談して聞き込みの対象を切り替えることにした。思わしい成果が得られなければ、臨機応変に方針を変更する。期限に迫られるのが宿命の探偵業の鉄則だ。
もしも、英世氏が本間親子の暮らすマンションに通っていたのだとすれば、どんなルートを使っていたのか。その頃の英世氏の自宅は都心に近い四谷のマンションだったことが確認できている。英世氏は自分で運転をしないし、おそらく電車を使うタイプではなさそうだ。四谷から川崎に通っていたとすれば、タクシーの可能性が高い。都心で流している無数のタクシーを洗い出すのはおよそ現実的ではないが、郊外の住宅地なら話は別だ。川崎から四谷に帰る際には、電話で近辺のタクシーを呼んでいたのではないか。百戦錬磨の佐野も同じ意見だった。
確かに、日々不特定多数の客を乗せるタクシー運転手が10年以上も前の客のことを憶えているかどうかは疑問だ。しかし、電話で配車を頼んでいたとすれば、いつも決まったタクシー会社に依頼していたに違いない。奈津子の経験では、タクシー運転手は常連とまではいかなくても何度か乗せた客の顔は本能的に記憶しているものだ。しかも、あの辺りの住宅街では、英世氏の風貌はけっこう目立っていた可能性もある。
奈津子と佐野は、マンションの近隣のタクシー会社に狙いを定めた。ただし、猫も杓子も個人情報という時代だ。クレームを恐れる会社からきついお達しが出ているらしく、近頃はタクシードライバーの口もやたらに固くなっている。
しかし、そこは蛇の道は蛇。多少の鼻ぐすりを使ってでも有益な情報を取ることは、今も昔も探偵の常套手段だ。もちろん違法行為というわけではないが、あまり大っぴらにするのもはばかられるので、鼻ぐすりを必要経費として請求することはない。つまり、他の経費の中に潜り込ませることになる。
直接タクシー会社の営業所に行って、運転手のたまり場で訊けば話が早そうだが、会社側に知れると事が面倒になる。まずは、最寄り駅の構内に並んでいる地元のタクシーに乗って、片っ端からドライバーに当たってみようということになった。一応は客だから、そうそう粗末にあしらわれることもないだろう。多少経費はかさむものの、有難いことに、今回の依頼人はカネに糸目はつけない。
奈津子は、佐野と二人、手分けしてタクシーの聞き込みを開始した。だが、もちろんそう簡単にヒットするはずもない。初日、二日目と、二人合わせて喫した空振りの数は百の大台に近づいていた。
「探偵稼業ってつくづく因果な商売ですね」
二日目の深夜近く、ガラガラの上り電車で都心方面へ帰る道すがら、奈津子が思わず愚痴をこぼした。
「所長。探偵事務所のトップたる者、そいつは禁句ですよ」
いつも穏やかな佐野が、かつての師匠の顔をちらりと見せた。ベテラン調査員にとっては、こんなことは日常茶飯事なのである。
三日目も、朝からほぼ丸一日を費やしたものの成果はゼロ。さすがの奈津子も意気消沈気味で、これはちょっと方針を変えるべきかと思い始めた夕方近くのことだった。
これまでと同様、信号待ちを見計らって丹羽英世の写真を見せた時、反応を見せた運転手がいたのだ。昔何度か乗せたことがある男かも知れないと言う。勢い込んで、とりあえず目についたコンビニの駐車場に車を入れてもらった。
「よく見てもらえます。どう? 間違いないですか?」
「まあうろ覚えだけど。長髪にひげでしょ。この辺りじゃ、あんな風体の男はそうそうおらんから」
人の好さそうな初老の運転手が笑いながら言った。
「どこで乗せたんですか?」
途端に運転手の表情が硬くなった。
「いや、申し訳ないね。個人情報を話すわけにはいかないんですよ。会社からきつく言われてますから」
「そりゃそうですよね、でもね、林さん」
奈津子は、料金メーターの上に掲示されている写真入りの乗務員証の名前を呼び掛けた。
「これにはちょっと事情があるんです。実は、私は東京の興信所の調査員なんですけどね」
奈津子は、名刺を運転手に手渡しながら続けた。
昔、この男に騙されてひどい目に遭わされた若い女性からの依頼で、何とかして探し出さなきゃいけないんです。この男、当時この辺に住んでたらしくて‥‥。口から出まかせだったが、今は何としてでも林運転手の証言を得なければいけない。
ひどい目って? 
実は。と、これまで経験した事件を適当に組み合わせて、この男がいかにあくどい人間なのか、この誠実そうな運転手の正義感に訴えそうなストーリーを語った。全財産を貢がされただの、会社の金にまで手を付けただの、挙句の果て心身ともにぼろぼろになっただの‥‥。中年男に騙された若い女性とくれば、若干リアリティに難があっても聞き手の方で自由に想像を膨らませてくれる。この辺り、長年の経験でもう手慣れたものだが、平気な顔でこういうでっち上げができることに、奈津子はプロとしての自負心と人としての自己嫌悪をほんの少し感じている。
ひでえ奴だね‥‥。
ぼそりと呟いた初老の男の表情に、ちょっと迷いが生まれている。
よし。ここは、押しの一手だ。彼女、それからすっかり精神を病んじゃって、ずうっと引きこもり状態だったんですよ。でも、最近になってようやく気力を取り戻してね。社会復帰して再出発するためには、どうしてもあの男を探し出して忌まわしい過去にけりをつけるしかないって、もう必死なんですよ。もちろん、10年以上も前の話だから法的にどうこうできるわけではないんですけどね、と言いながら手の中で折りたたんだ5千円札を運転手に押し付ける。
運転手は、札を手にしたままちょっと考え込んだ。職業倫理的な抵抗感が、正義感の前に徐々に崩れていくのが分かった。
「俺が言ったなんて、絶対に言わないでくれよ」
もちろんです、と言いながら、奈津子はICレコーダーのRec表示が赤く光っているのを横目で確認している。無断録音は令状がないと原則違法とされるが、それはあくまで警察の犯罪捜査におけるルールだ。民事事件の場合、無断録音でも大抵は証拠採用されるし、その効果には絶大なものがある。ましてや、今回の目的は裁判のための証拠集めではなく、百合香仮説の裏付け調査なのだ。
林運転手は、この道30年以上という超ベテランだ。JR南武線沿いの川崎市内、東急・小田急・京王といった各私鉄との乗換駅を中心に流しているという。その途中、近くから無線で配車の依頼があった場合は喜んで受けることになる。そんな形でたまたま何回か乗せたことがある男が、この写真の男に非常によく似ているとのことだった。
「この男性の迎えの場所はどこだったか、覚えてらっしゃいますか?」
「うーん、もうずいぶん前のことだからなあ‥‥」
林運転手が目をつぶって考え込む。
「確か、何回か迎えに行ったはずなんだけど」
もしも林運転手の記憶にあるのが英世その人なのだとすれば、間違いなく十数年も前のことになる。写真の男の顔立ちに覚えがあっても、どこで乗せたのかまでは思い出せないようだった。
「ひょっとして‥‥」
奈津子が声を掛ける。誘導は避けた方がいいのだが、このままでは、まったく埒が明きそうもなかった。
「ひょっとして、レジデンス多摩川?」
「レジデンス多摩川? 稲田の‥‥?」
林運転手が考え込む。奈津子は、固唾を飲んでそんな林を見つめる。
と、林が何かに思い当たったように何度か頷いた。
「そう言えば、確かに、あそこだったかも。あのマンション、珍しく車寄せがあってね。道路側の壁に屋根がせり出してちょっと暗がりになってるから、天気がいいと目が慣れなくってさ。初回の時、そこにあのひげ面がぬうっと顔出したもんだから、ちょっと肝つぶしたんだ」
林運転手が、何だ、姉さん、知ってたんじゃないかとつぶやくのを聞きながら、奈津子は秘かに拳でガッツポーズを取っていた。
英世は、生前智恵子が住むマンションに出入りしていた。英世と智恵子、問題の二人の接点がついに見つかったのだ。これで、和馬になりすまして智恵子の息子を認知したのが兄の英世であるという妄想じみた仮説に、初めて信憑性が生まれた。奈津子は、もう一度英世の写真を見せて、レジデンス多摩川で何度か乗せたのがこの男に間違いないことを再確認する。
「あの風貌だからね。どうしたってこの辺りじゃ目立つよ。そうそう、おまけに確かこの人、長距離客だったからねえ。まあ、この辺りの客は、大抵駅とか病院とか役所とか近距離がほとんどなもんだから、余計に印象に残ってるんだ」
「へえ、長距離。ちなみに、行先はどちらでしたか?」
奈津子が、内心の興奮を懸命に抑えながらおずおずと訊く。
「確か、毎回都心まで乗ってくれたっけなあ。俺たちにとっちゃあ、ほんとに有難いお客さんだったよ」
「都心と言いますと?」
「いや、そこまではちょっと」
「四谷とか?」
「うーん、そうだったかも‥‥」
少なくともこの人物が都心まで乗っていたのは間違いないようだ。英世氏が住んでいた四谷の可能性だって十分にある。
かつて、丹羽英世と思われる人物が何度も本間智恵子のマンションを訪れていた。二人の直接の接触を確認することはできないが、もう十分だろう。これまでに分かった事実を組み合わせれば、真相は自ずから明らかだ。
「林さん、本当に助かりました。さっそく被害者に報告させて頂きます。きっと大喜びされると思います」
「まあ、その子のために、少しでもお役に立てたんならうれしいよ」
林運転手が満足げに笑った。実のところ、被害者は若い女性ではないのだが。心からのお礼と嘘のストーリーをでっち上げた謝罪を込めて、奈津子はそっと頭を下げた。
さあて、苦労に苦労を重ねてついにこの手でつかみ取った成果だ。一刻も早く絵莉に知らせなきゃ。
奈津子は、このことは会社には絶対内密にしますと約束した上で、林運転手の名刺をもらってそのままいつもの駅に直行してもらった。
取り急ぎ連絡を入れた佐野と改札口で落ち合う。満面の笑みで迎えてくれた佐野の顔を見て、思わず涙ぐみそうになるのをどうにか抑えて奈津子が言った。
「師匠。因果な商売も、まんざら悪くはないですね」
大先輩が白い歯をのぞかせながらうんうんとうなずいた。

間を置かず、第一報が絵莉にもたらされた。
絵莉は、沸き立つような思いを抑えて直ちに丹羽地所の社長室に電話を入れる。受話器を取ったのは、もちろん秘書の百合香だった。我知らず、動悸が上がり呼吸も荒くなっている。
「百合香さん。どうか落ち着いて聞いて下さい」
落ち着くのは絵莉さんの方でしょ、とでも言いたげに百合香がくすりと笑った。
「百合香さんの推理、どうやら的中したかも知れません」
「推理って。あの車のキーの件ですか? じゃあ、やっぱり常務が‥‥」
「はい。調査の結果、とうとう英世常務と本間智恵子の接点が見つかりました。詳しくは後ほどお伝えしますが、先ずは社長につないで頂けますか」
高揚した絵莉の報告を聞いて、そうかと思わず声を上げた丹羽和馬だったがその口調は徐々に沈んで行った。考えてみれば、たった一人の兄がとんでもない所業に及んだという仮説がいよいよ現実味を帯びてきたのだ。真相解明に向けて事態が大きく進展したとはいえ、決して手放しで喜べることではない。
「調査報告書が上がり次第、運転手さんの証言録音と一緒にお持ちします。英世常務と本間親子とのつながりが確認できた以上、私の方では百合香さんの推理を踏まえた主張書面の作成に入ります」

             act.15

調停の初回期日までに、本間祐樹からの反応は一切なかった。ただ、裁判所からの通知を受け取っているのは間違いないとのことだった。
その日、午前9時40分、丹羽和馬と代理人の島津絵莉は横浜家裁川崎支部に到着した。調停は、相手方、つまり本間祐樹の住所地を管轄する裁判所に申し立てることになっている。申立人控室と相手方控室は離れた位置にあり、お互いが顔を合わすことのないよう配慮されていた。二人は、申立人控室の長椅子に並んで腰を下ろす。
「いよいよですね。今日、祐樹氏が出頭するかどうか分かりませんが、少なくとも調停委員にこちらの主張だけはしっかりと聞いてもらいましょう」
「もしも、相手方が来なかったら、調停はどうなるのかね」
「とりあえず、次回の期日を決めて出席を促します。それでも、ずっと欠席した場合は、裁判所から何らかの働きかけをすることになると思います」
「それでも来なければ?」
「首に縄をつけてでも、という訳にはいきませんから、おそらく調停は不成立となって打ち切り。その場合は次の段階、認知無効の訴訟を提起することになります」
「裁判にも来なければ?」
「基本的には、原告である社長の主張を被告の祐樹氏が全面的に認めたとみなされます。いわゆる欠席裁判ということになって圧倒的に有利にはなりますが、家事事件の場合、必ずしも主張がすべて認められるわけではありません。何しろ身分関係を変更する訳ですから、それなりの裏付け証拠は不可欠です」
「例の兄のなりすまし疑惑。あれは、どの程度の裏付けになるのかな?」
「裁判官の判断次第ですが、お兄様と本間母子との関係を示す調査報告がありますから、十分に考慮されると思います」
指定時刻になって、申立人側の和馬と絵莉が調停室に呼び入れられた。男女の調停委員から簡単な手続き説明を受けた後、本題に入る。
「相手方の本間祐樹さんはお見えになっていますか?」
絵莉が、一番気になっていたことを訊く。
「先ほど相手方控室を確認したんですが、お姿が見えません。裁判所からの通知は受け取ってらっしゃるようなんですが、答弁書も出てませんし、一切反応がありません」
やっぱり。調停は双方の話し合いが基本だが、一方が出席しないのでは文字通り話にならない。
絵莉は、今後の進行がどうなるのかを尋ねた。とりあえず、次回期日を設定して郵送で通知し、それでもやはり何のアクションもないようであれば、意向調査、出頭勧告などの手続きを取ることになるとのことだった。
「もし、それでも駄目なら‥‥。調停不成立の判断をせざるを得ません」
想定していた通りの展開だった。
そこから、事情聴取が始まった。概要は、申立書面に書いた通りですがと前置きして、先ずは和馬が、15年前の認知届けにまったく身に覚えがないこと、認知した相手にも何の心当たりもないことをかいつまんで語った。
そこからは絵莉が引き取った。従って、この認知は無効だというのが私どもの主張ですが、もちろん、何の根拠もなくそんなことを申し上げているわけではありません。本日、もう一通の主張書面を提出しますと言って文書を取り出した。
「これは、この虚偽の認知が、誰によってどういうカラクリで届け出られたのか。その経緯を調査した結果を克明に記載したものです」
二人の調停委員が、思わず顔を見合わせた。
「主張内容は後ほどご確認頂くとして、かいつまんで概略を説明させて頂きます。申立人の秘書の記録によれば、認知届がされた当日、申立人の実兄が申立人の車のキーを借り出したことが分かっています」
絵莉は、これまでに明らかになった事実と、そこから導かれる仮説を述べていく。申立人は運転免許証を車に保管しており、それを知っていた実兄が、前日にそれを持ち出し当日に車に戻した疑いが強く推認される。普段長髪にひげ面でラフな服装だった実兄が、この日に限って容貌を整え、スーツ姿だったことも確認されている。普段は似ても似つかない兄弟だが、実は顔立ちはそっくりで、髪や服装を整えると秘書も一瞬見間違えたぐらいだった。
こうした事実を総合すると、弟になりすました兄が、市役所で弟の免許証を示して認知を届け出た可能性が非常に高い。ただ、その事実を確認しようにも、この実兄は認知届の翌年に他界している。付け加えるならば、実兄は当時肺がんに侵されており、虚偽の届け出をした時点で既に余命いくばくもない状態だった。
「ちなみに、申立人は都下有数の資産家ですが、実兄は以前一度破産しており、さほどの財産はありませんでした」
絵莉がここでいったん息を整えた。この間ずっと、二人の調停委員は息を詰めるように聞いていた。
「もちろん、これだけであれば突飛な妄想のように思われるかも知れません。私どもは、申立人の兄が、一体どうしてこのようなとんでもない行動を取るに至ったのか、その動機についても調べました」
絵莉は、バッグから文書の綴りを取り出した。
「これは、相手方本間祐樹さんと、その母親である智恵子さんの身辺調査報告書です。これも、後ほど精査して頂きたいんですが、本間さん親子がお住まいになっているマンションに、かつてこの実兄が出入りしていたという調査結果が記されています」
二人の調停委員が、ほおっと声にならない声を上げた。
「十数年も前のことですから、申立人の実兄と智恵子さんの具体的な関係までは確認のしようがありませんが、ここまでの事実から導き出される結論は一つです」
絵莉は、ここで一呼吸を置いた。調停委員は身じろぎもしない。
「申立人の兄は、自分と関係の深い人物を大富豪である申立人の相続人とするために、弟を装って虚偽の認知届を出した。もうこの世にいらっしゃらないお兄様を貶めるのは決して本意ではありませんが、事実は事実として主張するしかありません。私どもは、申立人が認知したことになっている本間祐樹氏は、おそらく申立人の兄の実子なのではないかと推察しています」
しばし、沈黙が調停室を包んだ。家族関係のトラブルには慣れっこの調停委員たちも、さすがにここまでの事態は想定外だったようである。困惑しながら、この驚愕のストーリーを反芻していた。
「今申し上げたことはあくまで仮説ではありますが、提出した書面を読んで頂ければその蓋然性が極めて高いことがご納得頂けるはずです」
従って、15年前に出された認知届は違法な手続きによるものであり無効であることに疑問の余地はない、という言葉で絵莉は陳述を締めくくった。その熱弁を気おされた面持ちで聞いていた調停委員が、やっと我に返ったように言った。
「ご主張は概ね分かりましたが、どうもこれは軽々に扱える問題ではありませんね。今日ご提出頂いた主張書面と調査報告書は、裁判官も含め、後ほど精読させて頂きます。ぜひ相手方からも反論をお聞きしたいところですが、今日のところはどうしようもありません。次回には何とかご出席頂けるよう、裁判所からも働きかけたいと思います」
こうして、ひとまず次回期日の日取りを調整した上で、初回の調停は終了した。

            act.16

それは、初回から一カ月余りが過ぎた第二回目期日の前日のことだった。相手方の本間祐樹から代理人弁護士の島津絵莉に書面が届いた。万年筆の丁寧な文字でしたためられたその書面は、コピーが裁判所にも送られているとのことだった。
絵莉は、少なからず驚いた。明日の期日にも、おそらく祐樹は来ないだろう。その場合は、裁判所から出頭勧告をしてもらい、それでも埒が明かなければ速やかに訴訟を提起する。その既定路線で準備を進めていた。そこに唐突に届いた相手方からの初めての書面だった。
絵莉は、デスクに腰を下ろしておもむろに目を通した。
冒頭に『陳述書』と記された書面は、「私は、本件の相手方、本間祐樹の母、智恵子です」との文言で始まっていた。
「私は、昭和49年に新潟県長岡市で生まれ、平成7年に23歳で結婚、横浜で新生活を始めました。ところが‥‥」
ところが、職場で知り合った結婚相手は、外づらはいいくせに妻に対しては、一方的に力でねじ伏せるような男だった。結婚生活が始まると同時に、何か気に障ると突然キレて殴る蹴るの暴力にさらされる日々が始まった。そのくせ、一時の激高がおさまると、智恵子を抱きしめて、悪かった、もう二度としないと、一転別人のような優しさを見せる。智恵子も、その度にやり直そうと気を取り直す。そんな事が、幾度も幾度も繰り返された。
一体何が原因なのか、自分の何が悪いのか、智恵子には皆目見当がつかなかった。果てしない地雷原をびくびくしながら這って歩くような毎日が続き、一度ならず警察沙汰になったこと、骨折して入院したことさえある。退院後、夫はさらに智恵子に異常な執着を見せるようになる。その結果、半ば監禁状態に置かれ、精神に不調をきたすまでに追い詰められていったのだという。
八方ふさがりの中、智恵子は思い切ってDV被害者の支援機関に連絡を取り、決死の覚悟でシェルターに逃げ込んだ。そこで公的な支援を得て、調停・裁判と泥仕合を重ねた末に、平成8年、やっとのことで離婚が成立。智恵子にとってそれは、時に悪夢にうなされ、時にフラッシュバックに苦しんだ末にかろうじてつかみ取った一筋の光明だった。
しかし、自分に強い執着を示していた元夫に所在を知られることは、恐怖以外の何ものでもなかった。そのため実家に帰ることもできず、智恵子は秘かに新宿で一人暮らしのスタートを切る。離婚したばかりで何のキャリアも資格もない若い女が一人で生きていくためには水商売を選ぶしかなかった。幸い、新宿でも指折りとされるナイトクラブにホステスとして採用され、何とか一人で生きていく目途をつけることができるようになる。とはいえ、元夫による精神的な呪縛からまだ逃れられずにいた智恵子にとって、虚飾に彩られた昼夜逆転の毎日は精神的な安らぎからは程遠いものだった。
そんなある日、音楽関係の仲間の送別会の流れだというグループの席に着くことになる。その中にいた、長髪にひげ面の中年の男が、人懐こい笑顔で智恵子にしきりに話しかけてきた。警戒心の強い智恵子だったが、この男には意外なほど不快感を持たなかった。今思えば、店にやってくる年かさの男にありがちな下心をまったく感じなかったからかも知れない。
男はその後、どこか影のあるうら若いホステスに興味を覚えたらしく、足しげく店に通うようになった。来店のたび智恵子を指名して、どこか陰のあるホステス相手に音楽業界や芸能界の裏話など話術巧みに語るのが常だった。ただ、一方的に好き放題喋りまくるわけではなく、智恵子が興味深げに耳を傾けたり、時にくすりと笑うのがうれしくてたまらないようだった。
男は丹羽和馬と名乗った。そして、若い頃からの趣味が嵩じて音楽の世界にも首を突っ込んでいるが、家業を引き継いだ不動産経営が本業なのだと語った。音楽業界と不動産業界、ちょっと意表を突いた取り合わせでもあり、男の風貌にしてもおよそ会社の経営者とは見えなかった。でも、そういう経済的裏付けがあるからこそ、思う存分自由に趣味にのめり込めるのだと言って男は笑った。ウソや軽口や作り話がまかり通る夜の世界。その時点では、敢えて疑問を差しはさむほどこの男に興味があるわけでもなかった。
だが、そのうちに、男の人となりについての智恵子の印象は少しずつ変わっていった。この人は、いつも暗い表情の私を楽しませようとしてくれる。他愛のない話でも、その声を聞いている間だけは、かつての傷心の日々を忘れられるような気がするのだった。智恵子は徐々に、年の離れた和馬に対して父親のような優しさと包容力を感じるようになっていた。
笑いと嬌声に溢れた華やかな店の中で、和馬と智恵子がいる一角だけは別の時間が流れているようだった。いつの頃からか智恵子は、婚姻中の地獄のような日々のこと、今もPTSDに悩まされ時にビルから飛び降りる衝動に襲われること、ママにもホステス仲間にも固く口を閉ざしてきた秘密を少しずつ打ち明けるようになる。この頃には、和馬の饒舌は鳴りを潜め、すっかり聞き役に回っていた。それにしても、一体どこの誰が、わざわざ高いお金を払ってお酒を飲みに来て、そんなうっとうしい話を聞いてくれるだろう。でも、和馬は違っていた。いつも親身になって耳を傾けてくれ、時にその目に涙さえ浮かんでいたことも智恵子は知っている。
ある夜のこと、話すうち感極まった智恵子は和馬の胸で思いっきり声をあげてむせび泣いた。しゃくりあげる彼女の肩を、和馬は幼な児をあやすようにただ撫で続けていた。ホステスとしてあるまじき行為とママから厳しく叱責されたその夜、智恵子は自ら店を辞めている。
その後、和馬は川崎市多摩区に智恵子の名義でマンションを購入、水商売から足を洗っても不自由しないだけの月々の手当てを渡すようになる。粗暴な男との地獄のような生活で引き裂かれた智恵子の精神は、和馬との限られた時間を過ごすうちに、徐々に、しかし確実に癒されていった。
「ありふれた言い方ですが、恋人でもあり父でもありという何ものにも代えがたい存在でした。社長が家庭をお持ちだということは聞いていました。でも、社長は、鬱々として何一つ先の見えない生活から私を救い出してくれた大切な方です。だから、その方の家庭の平穏を乱す事だけは決してすまいと心に決めていました」
智恵子が暮らすマンションに週に何度か和馬が訪れる。そのささやかだが満ち足りた毎日は、何事にも代え難いものだった。和馬を新潟の両親に紹介することはできなかったが、落ち着いたところで久しぶりに帰郷して、微妙なところはぼかしつつ現状を報告。その表情から娘の心情を十分に察してくれたのだろう。目を細めて娘の話に聞き入る両親の姿に、智恵子はやっと手に入れた幸せをしみじみと思っていた。
ところが、間もなくそんな二人の間に深刻な事態が発生する。細心の注意を払っていたはずの智恵子が妊娠してしまったのだ。
「正直にお話しします。私は、社長との将来を望む積りなど決してありませんでした。でも、だからこそ私は、ほんの一つだけでいいから生きていく拠り所が欲しかったのです。まことにはしたないことを申し上げます。あの妊娠は、今日は安全日だから絶対に大丈夫と社長を偽った結果でした。社長との長いお付き合いの中で、私がついたたった一つの嘘でした」
妊娠を知った和馬は、案に相違して、手放しで喜んでくれた。それまで、川崎のマンションに来るのは週に一・二回だったのに、妊娠が分かってからはほとんど入りびたりになって何くれとなく世話を焼いてくれた。
間もなく、智恵子は男児を出産。もとより智恵子は、その子を和馬の子として届け出ることができないことは分かっていた。こうして、本間智恵子の戸籍に、父親空欄のまま祐樹という名の男の子が加わったのである。
和馬は慣れない手つきでミルクをやったり、おむつの交換も厭わずにやってくれたという。そして、私生児として育った祐樹が間もなく学齢期を迎える頃。
「根っから思いやりのある方です。ご自身の年齢を考え、そろそろけじめをつけなきゃならんなとおっしゃって。ご自分で認知を届け出て下さったのです」
そして、陳述書の最後は次のような言葉で締めくくられていた。
「まことに恥多き顛末をお話ししてしまいました。皆さま方には、こうした経緯をお汲み取り頂いた上で、どうか情理を尽くした寛大な判断を下して頂ければ幸いです」

絵莉は、何か胸に迫りくるものを感じないではいられなかった。陳述書の筆遣いから見て、本間智恵子は自分が付き合ってきた相手、そして我が子の父親が丹羽和馬だと思い込んでいると判断せざるを得ない。その男が、実は和馬の兄だったなどとは想像もしていないのだろう。
ただ、ここに描かれている男の人となりは、これまで聞かされてきた英世像とはほど遠いものだった。ギャンブルで身を持ち崩した自制心のかけらもない無軌道な人物と、慈愛をたたえた人情味あふれる人物との間には大きな乖離があった。丹羽英世という人物にそんな側面があったのか、それとも、ただ愛人の前でそういう人物を演じ続けていただけなのか‥‥。
ともかく、一刻も早く、和馬にこの陳述書を読んで貰わなければならない。絵莉は秘書の麻乃に大急ぎで陳述書をスキャンして数部プリントアウトしてもらい、画像データを和馬社長にメールしておくよう頼むと同時に事務所を飛び出した。
一時間あまり後、丹羽地所の社長室には和馬と秘書の百合香、この事件の代理人の絵莉、そして急遽呼び出しを食った顧問弁護士の由紀夫の4人が顔を揃えていた。由紀夫が智恵子の陳述書のコピーに大急ぎで目を走らせている。事前にメールで書面を受け取った和馬と百合香は既に熟読していた。
由紀夫が読み終わるのをのんきに待ってもいられない。絵莉が口火を切る。
「智恵子さんの陳述書、私もそれなりに感ずるところがありました。おそらく、智恵子さんの言葉に嘘はないでしょう。でも、陳述書に登場する和馬社長がご本人でないということは明白です。では、社長を名乗って智恵子さんと付き合っていた人物は、一体誰なのか」
「私になりすませるぐらい丹羽家や会社のことを詳しく知っていて、長髪にひげで音楽関係の仕事をしている人物」
百合香が後を引き取った。
「そして、興信所の調査で、かつて本間智恵子さんの住むマンションに出入りをしていたことが裏付けられた人物、ということになりますね」
「私になりすまそうなんて、そんな突飛なこと発想する人間はどう考えたって一人しかいない」
と言った和馬の口調は、しかし思いのほか穏やかだった。亡き兄と見知らぬ女性との秘められた過去に深く思いを馳せていた様子がうかがわれた。
「私は英世さんと会ったことがないので何とも言えませんが、これまでに聞かされていたイメージとは随分違っているような気がしましたが」
「いや、英世さんは、小さい頃から思いやりのある人だったよ」
やっと陳述書を読み終えた由紀夫が口を挟んだ。
「幼い頃よく一緒に遊んだから、よく覚えている。確か俺たちは英世さんの3学年下だったんだが、子どもの頃の3歳の差は大きい。メンコにしたってベーゴマにしたって、俺たちがいくら必死になったって敵うわけがないだろ。和馬なんか、負けるたびに大泣きするもんだから、英世さん、バレないように上手に手加減してくれるんだ。英あんちゃん、優しいとこあるなあっていつも思ってた」
「おいおい、冗談だろ」
「いや、本当だ。ガキの頃から和馬は単純だったから気が付いてなかったと思うけど、俺にはよく分かる。あの人は、高校中退して家を出たっきりで不行跡を重ねたし、莫大な遺産をギャンブルで食いつぶすなんて取り返しのつかないことしでかしたからイメージは最悪だけど、根は情のある人だった」
「そう言えば‥‥」
和馬が、思いを巡らせるように視線を上げた。
「俺の幼い頃、丹羽の家では子どもが悪さしたらお仕置きに土蔵に閉じ込められたもんなんだが」
「ああ、覚えてるよ。あの魑魅魍魎の館に閉じ込められるって聞いて、子ども心に心底ぞっとしたよ」
「もう勘弁ならんとなって親父に俺が蔵まで引きずって行かれる時、兄貴、自分のことみたいにわんわん泣き叫ぶんだ。親父の足にしがみ付いて、父さん止めて和馬を許してやってって」
「うーん。英あんちゃんなら分かる気がする」
「その反面、流されやすくて頼まれたら嫌とは言えない。悪く言えばちょっと人に迎合するところがあったかな。周りに乗せられて結局破産することになったのも、そんな性格が災いしたんだと俺は思ってる。でもまあ、智恵子さんとのことは、天国の兄貴に問いただすわけにもいかんしなあ」
「それにしても‥‥」
百合香がぽつりと言った。
「そもそも智恵子さんは、一体どういう積りでこんな陳述書を書かれたんでしょう? 一度は我が子を認知してくれた和馬社長に、どうか思い直してくれと懇願されてるんでしょうか」
「おいおい、ちょっと待ってくれ。忘れないで欲しいが、私は認知してないんだからな」
「あっ、それはもちろんそうなんですけど」
慌てる百合香に一時場が和んだものの、それぞれがまだちょっと混乱していた。
「待てよ」
しばらく黙り込んでいた由紀夫が、ちょっと我に返ったように言った。
「この文面からすると、智恵子さんは、本当の父親である英世さんが亡くなっていること自体を知らないということになるよな?」
そりゃそうでしょ、と言いかけた絵莉の口が固まった。考えてみれば、智恵子は祐樹の父親は丹羽和馬という人物だと思い込んでいる。だとすれば‥‥。
「私たちは、奈津子の調査報告で智恵子さんと英世さんとの関係を確認できたけど、本間親子にとっては、そもそも丹羽英世なんて人は存在しないのよね。二人が頼りとしてきた夫であり父親である人物は、あくまで丹羽和馬と名乗る別人なんだもん。とすれば、本間親子は、その人物がとっくに亡くなっていることを今も知らないままってこと?」
「そういうことになる。それともう一点。本来であれば、英世さんが亡くなった時点で突然彼からの連絡が途絶えたはずだよな。でも、智恵子さんの陳述書からは、そんな様子がまったくうかがえない」
確かに、といった表情で三人がうなずく。
「ということは、英世さんは、亡くなった時点で、既に本間親子と完全に縁を切っていたことになるんじゃないか」
四人は、しばらく押し黙った。ここしばらくの間に立て続けに起こった現実、そして智恵子の書面で今日初めて知った事情。それらを重ね合わせて、それぞれが懸命に事態を整理しようとしていた。
そのくぐもった空気を破って、由紀夫が四人を現実に引き戻した。
「原点に戻ってみよう。もしも、英世さんが和馬になりすまして例の認知届を出したんだとすれば、その目的は?」
「自分の実の息子に社長の財産を相続させるため、としか考えられないよね」
「まあ、普通に考えればそういうことになる。認知を届け出た15年前といえば、まだ和馬の奥さんの淑子さんも健在だった。確か、跡継ぎの駿介君を丹羽地所に迎え入れることが決まった頃だな。普通、妻よりも夫の方が早くなくなるもんだから、英世さんとしては、将来弟の和馬が亡くなった時点で、遺産の半分は淑子さん、残りを駿介君と自分の息子が半々で相続するぐらいのことを考えてたんだろう」
「父さん」
絵莉が割って入る。
「ちょっとしっかりしてよ。婚外子と嫡出子の相続分を平等にするって最高裁判決が出たのは平成25年よ」
「おっと、そうだったか。ってことは、認知を届け出た平成16年の時点では、婚外子に当たる祐樹氏の法定相続分は駿介君の半分だったわけだ。正確に計算すると‥‥。淑子さんが二分の一、駿介君が六分の二、祐樹氏が六分の一、ってことになるか。絵莉、これでいいんだよな」
「はいはいお見事、正解よ」
ところが、案に相違して妻の淑子が早くに亡くなり、その後長男の駿介も不慮の事故で世を去る。その結果、遺産のすべては、駿介に代わってその忘れ形見である次男の恭介が相続することになった筈だった。ところが、そこに突如、祐樹が駿介の腹違いの弟として登場。その結果、現状では、和馬の孫である恭介と認知された祐樹が二分の一ずつの相続分を持つことになってしまった。
「もし和馬社長が百合香さんを養女にしたとすると、法定相続分は恭介君、祐樹氏、百合香さんが三分の一ずつということになる」
「でもさ、平成16年の時点で、英世さんがそんな先のことを予想できたはずがないわよね。どう考えたって」
和馬がうなずきながら大きく息をついて、それにしても、と言った。
「本間親子は、その辺りの経緯や英世さんの思惑をどこまで知っていたのやら。本間智恵子という人物は、長年付き合ってきた男の正体に何の疑問も持たなかったんだろうか」
「地獄から救い出してくれた男性に頼り切って、ただ一途にすがりつくしかなかったんでしょうか‥‥」
百合香がぽつりと言った。きっとそうだったんだろうな、と思わずうなずいた絵莉がはっと我に返る。弁護士としては、必要以上に対立相手を思いやるわけにはいかない。
「でもさ。そもそも、初対面の時に英世さんはどうして和馬社長の名前を名乗ったんだろ」
百合香が応じる。
「まさか、その時点で、遺産をかすめ取ろうなんて企んでたとは思えませんよね。そのホステスと特別の関係になるかどうかも分からないし、ましてや将来子どもが生れるなんて想定できるはずもありません」
由紀夫が、陳述書のコピーをめくりながら言った。
「二人が知り合ったのは平成8年から9年頃だ。英世さんが例のギャンブルで巨額の借金を抱えて自己破産したのが平成7年」
皆の視線が由紀夫に集まる。
「あの頃俺は、破産手続きで英世さんと毎日のように会っていたけど、そりゃもう完全に腑抜け状態だった。浮かれて先代から相続した遺産を食いつぶしちまって、どこにも持って行きようのない自己嫌悪に陥ってた。打ちひしがれた英世さんが智恵子さんを見初めることになったのは、地獄を見てきた者同士の同病相憐れむような思いでもあったのかも知れんな。最初に和馬社長の名前を名乗ったことに、さほど深い思惑があったとは思えない。高級クラブでの見栄とかホステスにアピールしようっていう下心でもあったか、まあ酒の席での軽口かジョークぐらいのことだったんだろう。いずれにしたって、当初から和馬の遺産を狙う魂胆があったなんてことはどう考えたってあり得ない」
「それは間違いないよね。その後、智恵子さんと深い関係になってからも、結局言いそびれたままちょっといびつな関係が続いたってことかな」
「英世さん、ずっと独身だったんですよね。いっそ智恵子さんと結婚しちゃえばよかったのに」
確かに、と言ってから由紀夫が続けた。
「しかし、結婚して籍なんか入れたら、たちどころに自分の正体がばれてしまう。二人が出会った頃、英世さんはもう還暦を過ぎてた。六十年間気まま放題に生きてきて、初めて心底大切な人に巡り逢ったんだとすれば、だ。その人にだけは、金持ちの弟を装って騙してたなんて無様な事実だけは知られたくなかったか」
しばらく誰も口を開かなかった。老いらくの恋と、言葉にするのは簡単だ。しかし、そんな慣用句では決して言い表せない、二人がともに歩んだ日々をその場の皆が知っている。
「そして、結局智恵子と祐樹の前でずっと別人を装い続けてきたことで、英世さんはある日、悪魔のささやきを聞くことになる」
「悪魔は何てささやいたの? ずうっと丹羽和馬を装ってきたんだから、いっそ戸籍上でも既成事実を作ってしまえって? そうすれば、愛する我が子は大富豪の相続人になれるんだぞって?」
「そんな身も蓋もない言い方をするな。けどまあ、当たらずといえども遠からずだろうな。でも、悪魔のささやきが聞こえたのは、あるきっかけがあったからだ。そして、悪魔に導かれてとんでもない企てを実行に移したのには、已むに已まれぬ理由があった」  
分るよな、と由紀夫が三人を順番に見回した。
けげんな表情の絵莉、眉根を寄せて考え込む百合香、そして最後に和馬と目が合った。 その瞬間、和馬がはっと何かに思い当たったように顔を上げた。
「末期がんの宣告か‥‥」
絵莉と百合香が同時にああっと声にならない声を上げた。
「おそらく。余命いくばくもないことを知った英世さんは、自分の命よりも何よりも、心ならずも日陰者にしてしまった我が子、未だ5歳にもならない祐樹を遺していくことに胸が張り裂ける思いだったろう」
和馬が、百合香が、そして絵莉が息を殺して由紀夫を見つめている。
「もう、間もなく自分の命は燃え尽きる。この身を投げ打ってでも、残された時間で幼い我が子のために何かできることはないのか。きっと、英世さんは自問自答を繰り返したんだろう」
「その時、悪魔のささやきが聞こえた‥‥」
「ああ。時間に追い詰められて、英世さんは必死でもがき抜いたに違いない。多分、もう冷静な判断ができる状態じゃなかったかも知れない。そして‥‥、悪魔の声に導かれるまましゃにむに突っ走った」
由紀夫が言葉を切って、再び沈黙が場を支配した。それぞれが、英世の心情に思いを馳せているようだった。
しばらく経って、気を取り直したように和馬が口を開いた。
「でも、この本間祐樹という青年。幼い頃からずっと、自分は丹羽和馬の子だと信じてたんだろう。だとすれば、当の和馬からすべてが虚構だったという主張を突き付けられて、今、どんな思いでいるんだろうな」
その場の皆がちょっと虚を突かれた。嘘の認知届のからくりを暴くことばかりにかまけていて、英世の忘れ形見と思われる青年の心情に思いを馳せたりする余裕などこれまで誰にもなかった。
「その辺りのことを判断する材料は、まだ一切ありません。申立人側としては、英世さんと本間親子との関係を前提に、認知届が虚偽であったことを主張していくしかありません」
情よりも理を旨とするのが職務である絵莉が事務的な口調で言った。
「相手方は今になってこんな陳述書を提出してきました。おそらく、明日の調停には出席する積りだと思われます。そうなれば、局面が大きく動きます」
「私とこの祐樹という青年との直接対面が、いよいよ現実味を帯びてきたな」
和馬が、ぽつりと言った。
「成り行き次第ですが、果たして祐樹氏が対面に応じるかどうか‥‥」
「でも、もしも直接対面が実現したら。何だか、想像するだけで空恐ろしいような‥‥」
再び、沈黙が流れた。
以前にも、和馬と祐樹の直接対面の話が出たことはあった。しかし、その時点では、認知無効に白黒をつける手っ取り早い方法という意味合いしかなかった。この不可解な出来事の裏に丹羽英世という存在がいたことも、智恵子や祐樹との秘められた関係も、誰一人知らなかったのだ。
沈黙の中、今この場にいる四人が四人、それぞれが同じことを自問自答していた。
  智恵子と祐樹は、本当の夫であり父親である英世の死を知らず、今もなおその人物が丹羽和馬だと思い込んでいるのだろうか。とすれば、もしも母子と本当の和馬との対面が実現して事実が顕わになった時、そこに立ち現れるのは一体どんな光景なのか。母子にとって、それは人生の土台が崩れ去るような瞬間になるのではないだろうか‥‥。

その夜。
由紀夫と絵莉が事務所のソファで向かい合っていた。脇のパイプ椅子には、さも当然のように秘書の麻乃が控えている。テーブルにはハイボールと2本の缶ビール、麻乃が小ぎれいに盛り付けたナッツだのサラミだのの小皿が並んでいる。
「本間智恵子さんの陳述、ほんと身につまされたわ。英世さんの人物像が180度変わっちゃった」
「私も、読んでてもう涙がぽろぽろ」
「あれ? 麻乃さんも、あの陳述書読んだんだ?」
訊くまでもない。裁判所から送られてきた陳述書をスキャンしプリントアウトしたのはこのミス・マルチタスクなのである。
女たちの感傷的な会話にちょっと引き気味になりながらも、由紀夫も内心は同じ思いだった。
「父さんは英世さんとも幼なじみなんだよね」
「つくづく思ったよ。家を出て無軌道な人生を歩んできても、英世さんの根っこは変わってなかったんだなって。前にも言ったろ。ほんとは心根の優しい人だったって」
「でも、大人になってからの破滅的な振舞いしか知らない私たちからしたら、ちょっと想像できなかった」
「だろうな。実は、智恵子さんの陳述書を読んで、俺にはちょっと思い当たることがあってな」
絵莉と麻乃が同時に由紀夫を見た。
「例のギャンブルで破産した後、英世さん、さすがに心底悔いたみたいだった。弟の申し出に応じて丹羽地所に形ばかり籍を置くようになってからは、それなりに身を慎むような気配もうかがわれた。ところが、だ」
英世に肺がんのステージ4という診断が出たのは、不品行が鳴りを潜め平穏な日々が続いてしばらく経った頃だった。精密検査でほぼ手の施しようがない状態まで進んでいることを告知された英世は、しかし、ほとんど取り乱すこともなく、多摩丘陵にある緩和ケア専門の終末医療施設に入所した。もちろん、担当医からの丁寧な病状説明を受けた弟和馬の手配によるものだった。
「英世さんから紅葉を観に来ないかと連絡が来たのは、その年の秋だった。余命いくばくもない幼なじみからのお誘いだ。断る理由はなかった」
平成16年11月末。英世は、3階あたりまで吹き抜けになった広々としたラウンジでくつろいでいた。アール・デコ調の豪華なテーブルとソファが並び、ステージ状になった一角にはグランドピアノまで置かれている。一見して、よほど裕福な階層でなければ入所できそうもないしつらえであった。
水族館を思わせる巨大な窓から見事なもみじの庭園を望みながら向かい合った。英世は、若い頃の放蕩三昧が嘘のような吹っ切れた表情を見せていた。
好き放題やってきたから今さら何も思い残すことはないんだが、と英世は言った。ただ、親ってのは面倒を掛けられるのが生き甲斐みたいなもんだからまあいいとして、弟の和馬にまで迷惑を掛け通しだったことが心残りでな。あいつには色々言い遺しておきたいことがあるんだが、まだもうしばらくは生きてる積りだから、と言って英世は薄く笑いを浮かべた。
そこで、由紀夫先生に一つお願いがあるんだが、と彼は続けた。
やっぱり。一緒に紅葉を愛でようというだけで声を掛けてくれたというわけではなさそうだった。
「あのみっともない事件からもう十年近くになるかな。その節は、先生には本当にお世話になったなあ」
英世は、妙に殊勝な顔で話し始めた。
「自己破産でほぼスッカラカンにはなったけど、おかげで借金の方はきれいさっぱり無くなった。でも、和馬の奴は、俺を丹羽地所に迎える時かなりの額の支度金まで用意してくれた。ほんと、あいつにだけは頭が上がらないよ。あれ以来、ギャンブルからはすっかり足を洗ったんだが、まあ色々付き合いもあって、残念ながらその金ももうほとんど残ってない」
さもありなん‥‥。由紀夫は、心の中でつぶやく。音楽はこの人の人生そのものだ。派手な業界にいれば、ちょっとやそっとの金、あっという間に羽を生やして飛んでいっただろう。
「俺の肺がんがもう末期だってことは先生も知ってるよな」
英世は続けた。
立つ鳥、後を濁さずって言うだろ。知っての通り俺には嫁さんも子どももいないから、もしもの際、俺の相続人は弟の和馬だけってことになるんだが、残念ながらわずかばかりの預金以外遺産と呼べるものは一切残ってない。
そこでだ、と言いながら、英世が胸ポケットから封筒を取り出した。封はしていない。表に『遺書』と書かれているのを見て、由紀夫はちょっと胸を突かれた。
促されて、封筒から一枚の便箋を取り出す。そこには、ほんの三行ばかりの手書きの文字が記されていた。
『私こと丹羽英世は、唯一の相続人である弟の丹羽和馬が、私の死後すみやかに相続放棄の手続きを取るよう望む』
その後に、今日の日付と署名と捺印がある。
「特に問題はないだろ」
「少なくとも、遺言状としての形式は整っています。内容についても、英世さんの明確なご意思が読み取れますので問題はありません。相続放棄をさせる強制力があるわけではありませんが、和馬社長は当然お兄様のご遺志を尊重するでしょう」
「そりゃよかった」
英世が笑った。
さすがに、ちっぽけな遺産の整理だの隠れた借金がないかだの、あの世に行ってまで和馬の手を煩わすのは忍びなくてな。だから、これは先生に預けておくから、その時が来たらよしなにお願いしたい。英世は封筒に丁寧に封をして、改めて由紀夫に手渡しながら言った。
「この期に及んで、まだ由紀夫先生に面倒をかけるのはまことに心苦しいが、どうかよろしく頼む」
「確かに承りました。ついては、念のためにお聞きしておきますが。その後はもう借金はありませんよね」
英世が破顔する。
そりゃもっともな質問だ。でも、それは言わぬが花、ということにしとこう。ひょっとすると、俺が死んだ後、相続人の和馬宛てに巨額の請求書か届くかも知れんぞ。だから、借金も含めて相続放棄しとけば間違いない。言わずもがなのこんな遺言を書いたのはそういうわけだ。そう言って、英世はもう一度小さく笑った。
それからほんの数ヶ月で、英世は危篤状態に陥る。連絡を受けて由紀夫が駆けつけた時には、既に和馬をはじめ丹羽家の主な顔ぶれが揃っていた。庭園のあの見事なもみじは、すっかり葉を落としていた。
いよいよいまわの際になって、縁の深い親族が英世のベッドサイドに集まった。由紀夫も、枕元の和馬の後ろから見守っていた。意識があるのかないのか、朦朧とした様子の兄が弟にしきりに何事かを語りかけようとしているように見えた。和馬が、兄の口元に耳を寄せる。英世が何かをつぶやき、和馬が一言二言応えた。厄介をかけ通しだった弟に、気ままで放埓な人生を一言謝罪したのだろうか。兄弟とも幼い頃からの遊び友達だった由紀夫にはそんな風に見えた。
こうして、英世はあっけなく逝ってしまった。父の代から丹羽家に迷惑をかけ続けた人生は決して褒められたものではなかったが、和馬にとってはかけがえのない二人きりの兄弟だったのも事実。その喪失感は決して小さくはないようだった。
地元の名だたる旧家として恥ずかしくないだけの葬式を済ませ、一息ついた頃、由紀夫は故人の遺言を預かっていることを和馬に伝えた。手続き上、自筆の遺言には裁判所のお墨付きが必要とされているが、由紀夫が知っている内容からすればそんな手間をかけるまでもない。
由紀夫は、封をしたままの遺言状を唯一の相続人である和馬に手渡して、英世と語り合ったあの秋の日のことを話した。もちろん、和馬に迷惑の掛けっぱなしのまま逝くことになった慚愧の念を伝えることも忘れなかった。
「その数日後、和馬から相続放棄手続きの依頼があった」
ああそう言えば、と麻乃が大きくうなずいた。
「そんな案件がありましたっけねえ。大富豪の丹羽社長が敢えてお兄さんの遺産の相続放棄なんて、何だか違和感があったのを覚えてます。そうですか、あれは英世さんのご遺志だったんですか」
さすがミス・マルチタスク、記憶力の方もあなどれない。
「お二人さんのご期待には沿えないが、その後、和馬宛てに巨額の請求書が届くことはなかったな」
女二人が顔を見合わせてくすりと笑った。

          act.17

翌朝。
JR川崎駅東口を出て川崎港方向に向かって徒歩15分余り。戦前に建てられたとおぼしき横浜家裁川崎支部の建物はすっかり老朽化している。調停がスタートする朝10時前になると、一基しかないエレベーターの前には当事者や弁護士たちが長い列をなす。館内冷房も本来機能をほぼ喪って久しく、夏場ともなれば人々は汗にまみれてただ呆然と立ち尽くすばかりである。おまけに、年季の入ったエレベーターが息も絶え絶えに昇るスピードたるや、おそらく階段で上がった方がよほど早いに違いない。
かくして、調停室のある4階フロアにたどり着いた時点で当事者たちは既に心身ともに疲労困憊、満を持してと高ぶっていたモチベーションは半減することになっている。そんな試練を乗り越えて、丹羽和馬と島津絵莉はやっとのことで前回と同じ申立人控室に着席した。
調停委員が顔をのぞかせたのは、指定時刻の10時ちょうどだった。委員は、先ほど本間祐樹さんがお見えになりましたので今日は相手方から先にお話をうかがいます、とにこやかに告げた。
「ついに主役登場か」
「いよいよですね。私も、さすがにちょっと緊張してきました」
だが、和馬たちはそれから長く待たされることになる。かなり込み入った事情だけに、祐樹の聴取には時間がかかっているようだった。

「本間祐樹さんからこれまでの経緯を事細かに伺いました」
ようやく調停室に呼び込まれた和馬たちに、調停委員が切り出した。
「事実関係は、基本的にお母様が書かれた陳述書の通りで間違いないようです。幼い頃の記憶など一通りお聞きした後、申立人が相手方を認知した事実はなく申立人の兄が届け出た可能性が高いというご主張の概略をお伝えした上で、先日ご提出頂いた主張書面と調査報告書をご本人にお渡ししました。今、控室の方で改めて読んで頂いています」
「こちらの主張を聞いて、祐樹さんは、どんなご様子でしたか」
「あくまで私どもの印象ですが、その、あっけに取られたような感じで。まったく理解が及ばないのか、とりあえず反論なさる様子は見受けられませんでした」
主張書面には、15年前の認知届が虚偽のものであること、届け出たのが丹羽和馬の兄の英世であること、さらに、兄が弟になりすましたカラクリまでが克明に書かれている。
自分の父が丹羽和馬であると彼が信じ込んでいたのだとすれば、祐樹の衝撃は計り知れない。生まれてこの方父親だと思っていた男が、実はまったく違う人物だった。そんな途方もない現実を、そう簡単に受け止めきれるとは思えない。青年は今、どんな思いであの書面の文字を追っているのだろう。
「祐樹さんの記憶では、幼かった頃にはお父様はいつもご自宅のマンションに来ておられたとのことです。ところが、いつの頃からか顔を見せなくなった。後で母親に聞いたところでは、祐樹さんの5歳の誕生日が最後だったそうです」
やはり、ずっと前に、父親は母子と関係を絶っていた。だから、母子は父親が和馬を装った別人であったことも、はるか昔に亡くなっていることも知らないままだったのだ。
「物心がつくかつかないかの齢ですから、お父様のことはほとんど覚えていらっしゃいません。ただ、最後の夜のことだけはおぼろげな記憶があると仰っていました」
   最後の夜!
絵莉は、ちょっと待って下さいと言いながら、あわてて資料のファイルをひっくり返した。認知の記録が記載された本間親子の戸籍を開く。
「やっぱりそうだった。うろ覚えでしたけど、認知の届け出は平成16年の9月1日。祐樹氏の5歳の誕生日当日です」
絵莉の言葉に、和馬がちょっと考え込む。
「兄が他界したのは平成17年の年明けでした。亡くなる少し前でしたか、当初余命半年って診断だったけど、桜が咲けば丸1年生き延びたことになるって言ってたのを覚えてます。ということは、末期の肺がんの診断が出たのは平成16年の春‥‥」
「そして、英世さんが社長を装って認知届を出したのがその年の秋口。肺がんの診断からおよそ半年後ということになります」
和馬と絵莉、そして二人の調停委員もしばし押し黙った。それぞれが、ここまでに分かった事実とそこから想定される可能性に思いを馳せていた。
一体どうして、兄は弟になりすまして認知届を出すなどという行為に及んだのか。和馬は、昨日由紀夫が語った言葉を反芻していた。
15年前、余命が短いことを知った英世は、精神的にも経済的にも何の拠り所もない愛人と幼い息子を残して逝くことの不安にさいなまれていた。そんな時、英世の耳元で悪魔がささやく。お前の死後、世を忍ぶ愛する者たちがつつがなく暮らしていける手立てはないのか。それを見つけて実行することだけが、野放図な人生を歩み続けたお前の唯一の生きた証しではないのか、と。そして、英世は我が子を大富豪の実子と偽るという行為に手を染めた。和馬は、今はもうこの世にいない兄のやるせない思いを痛いほどに感じていた。
沈黙を破ったのは絵莉だった。
「祐樹さんは、今、我々が提出した書面を読んでおられるはずです。祐樹さんにとっては大変衝撃的な内容だとは思いますが、今回の認知無効の申立ての理由は十分に理解されるはずです。事ここに至れば、もう論点は一つに絞られるんじゃないでしょうか」
二人の調停委員は無言で聞いている。
「祐樹さんが父親だと思っている人物は、本当に申立人である丹羽和馬なのかどうか。この点が最大の問題です。祐樹さんは、幼い頃、父親と頻繁に会っておられました。だとすれば、顔ぐらいはおぼろげにでも覚えていらっしゃるんじゃないかと思うんですが」
絵莉がちょっと言葉を切って和馬の方を見た。和馬がうなずく。
「いかがでしょう。いっそのこと、当事者双方が直接顔を合わせることはできないでしょうか。申立人とお兄様の目鼻立ちが似ているというのは事実ですが、決して瓜二つというわけではありませんし、15年経ったからと言って顔立ちそのものが変わるわけもありません。実際に面と向かえば、すべてが明らかになると思うんですが」
調停委員が顔を見合わせた。親子関係を自明のものと思っている息子とそれを真っ向否定する父。二人の当事者が面と向かって直接対峙する。5歳の時から会っていないとはいえ、確かに目の前の男が自分の記憶の中にある父なのかどうか判断できる可能性がないとは言えない。
調停委員も、こうした成り行きを考えないではなかった。しかし、ここまで入り組んだ事情と当事者たちの感情の機微を思うと、そこで起こる事態は想定しがたい。おいそれと進めるわけにはいくまい。まずは相手方の祐樹が同席に同意するかどうかを確認した上で、最終判断は裁判官に委ねることとなった。
和馬は、絵莉とともにいったん控室に戻った。10分、20分、じりじりしながら、ただ待つしかなかった。間もなく30分が経とうとする頃、大変お待たせしましたと声が掛かった。

和馬と絵莉が調停室に入ると、二人の調停委員に挟まれて、中央に五十前後と思われる女性裁判官が着席していた。裁判官は瀧川と名乗った後、先ずここまでの事情を確認した。申立人丹羽和馬は、相手方本間祐樹との親子関係がないこと、15年前の認知届が虚偽のものであると主張している。一方本間祐樹は、和馬が間違いなく自分の父親であるとの主張は変わらず、現段階では双方の主張はまったく相いれない。
「申立人は、相手方と直接顔を合わせて真偽を確かめたいとのご意向だとうかがいました。相手方は、幼い頃は父親とほぼ通常の家族関係にあったものの、小学校入学前を最後に一切連絡が途絶えたとのことです。つまり、もう15年以上会っていない状態が続いていて、しかもご自宅には、父親が映っている写真やビデオなどは一切ないんだそうです。ですから、祐樹さんの記憶の中の父親の姿は非常におぼろげで、直接お会いしても果たして見分けがつくかどうかまったく自信がないとおっしゃってます」
和馬と絵莉は、息を詰めるようにして裁判官の話を聞いていた。
「そこで、裁判所として一つ提案を差し上げました」
裁判所の提案? 絵莉にも、それがどんなものなのか見当がつかない。
「今回の申立ては、あくまで父と子の関係を確認することで、当事者は丹羽和馬さんと本間祐樹さんです。しかし、祐樹さんの父親がどうなるのかという点は、母親である智恵子さんにとっても大変な問題です。そこで、次回期日、母親の智恵子さんに利害関係人としてご参加頂いたらどうかと考え、祐樹さんに打診しました」
絵莉が、大きく息をつきながらなるほどとうなずいた。
「智恵子さんにご参加頂いて、和馬さんと直接顔を合わせて頂ければ、祐樹さんの父親が丹羽和馬さんなのか否かは一目瞭然です。もちろん、智恵子さんご自身のご意向を確認しなければいけませんが、祐樹さんはこの提案を了解されました」
絵莉が、和馬の方に目をやった。
「私の方も、それは願ってもないことです」
和馬は、極力冷静を保とうとしているようだった。そんな和馬を瀧川裁判官がじっと見ていた。裁判官は事実と証拠を元に判断を下すのが原則だが、当事者の様子や態度振舞いも大きな要素となる。絵莉は、この裁判官が和馬の主張に嘘偽りがないことを見て取ってくれていることを祈った。

つづく (^.^)/~~~

to be continued to #41
     ~will be released on 2022.10.7~