数々の不祥事を繰り返してきた和馬社長の兄のことは、丹羽家の顧問弁護士である父から何度か聞いたことがある。
「確か、もう亡くなられているとか」
「はい。もう10年以上も前に肺がんを患われて。社長とは違って、お酒もたばこも何でもござれの派手な方でした。常務取締役に就任されたのは、私がこの会社にお世話になる少し前だったと聞いています。あまり大きな声では言えませんが、お父様から相続した莫大な遺産をギャンブルで使い果たしてしまって、やむなく社長が常務取締役の席を用意されたのだとか」
和馬おじさんらしいな、絵莉は思っている。
「何か、若い頃は音楽業界にいらしたとかで、最初にご挨拶した時、ひげ面の長髪に派手なTシャツ姿で、ちょっとびっくりしました。およそ不動産会社には似つかわしくないお姿でしたけど、よくよく見ると、やっぱりご兄弟だけあって目鼻立ちはよく似てらっしゃいます。やっぱり血は争えませんよね。あれ? 血は争えないって、兄弟の場合でも言うんだっけ?」
首をひねった百合香と顔を見合わせて、二人同時に吹き出していた。
「でもまあ、常務は殆ど出勤されることもありませんでしたから、社員たちもあまり関わらないようにしていました」
創業家一族の鼻つまみ、丹羽英世という存在がありありと思い浮かぶ。
「あの日、常務が訪ねて来られた時、社長は例の商工会議所のシンポジウムで都心にお出掛けでした。常務は、昨日、社長とラウンドした帰り、車にサングラスを置き忘れたとおっしゃって」
「へえ。ご兄弟でゴルフ。お二人だけで?」
「ええ、確かに手帳には、8月31日常務と多摩国際カントリークラブというメモがありました。そういえば、常務がゴルフをやってみたいって言うから付き合うことになったよって、社長、何だかうれしそうにおっしゃっていました」
──うれしそうに? 
親も家もないがしろにしてきた兄が、相続した巨額の財産を根こそぎ使い果たして弟の情けにすがって暮らしている。丹羽家の当主からすれば到底赦すことのできない所業だが、それでもこの世で二人っきりの兄弟だ。和馬社長にとって、兄はかけがえのない存在だったのだろう。
「初心者だから迷惑かけないように、ゴルフ場に頼んで平日二人だけで回れるように手配されたみたいです。でも、あの日、社長はお昼前には会社にお帰りになっています。とてもコースに出るようなレベルではなくて、ゴルフにならないからハーフだけで切り上げたんだそうです。結局キャディさんにはワンラウンド分以上走り回らせちゃったよって笑っておられました」
そうですかとうなずきながらも、百合香が何を言おうとしているのか、絵莉には話の行き先がまだ見えてこない。
「で、その翌日、お兄様が忘れたサングラスを取りに来られたんですね」 
「そうなんです。では、車までご一緒しますと申し上げたんですが、なあにほんの2・3分で済むことだからっておっしゃって。ですから、お車のキーをお渡ししたんです」
「それで? キーはすぐに戻されたんですか?」
「すぐにサングラス姿で戻って来られて、やっぱりサンバイザーに引っ掛けたままだったよって。本当にほんの数分ほどのことでした」
 絵莉の胸に膨らみかけていた興味が急速にしぼむ。
「その日、社長は帝国ホテルから直接帰宅されましたので、キーをお貸ししたことは翌日ご報告しておきました。ゴルフの帰り途、常務は棒ふりなんてもう二度とごめんだって言ってたけど、そりゃゴルフ場の側のセリフだよなって苦笑いされてました」
「英世さんが大変な不祥事を起こされた後も、ご兄弟の関係は決して悪くなかったんですね。確かにちょっと微笑ましいエピソードかとは思いますが。そのことが何か?」
問われた百合香が首をひねる。
「いえ、何かというわけではないんです。ただ、問題の日の前後で普段と変わったことがあったら一応ご報告しておこうと思いまして」
なるほどそうでしたか、とは言ったものの、絵莉にはその出来事と虚偽の認知届とがつながるとは思えなかった。

act10

百合香とて、実のところは似たようなものだった。手帳のメモを見直しながら当時の記憶を一日一日じっくりと辿ってみた時、何かしら引っ掛かったのはこの出来事ぐらいしかなかった。それにしても、社長の兄が、ほんの数分間車のキーを手にしただけのことである。そもそも、社長の愛車を使って一体何ができるというのか。その疑念の正体を突き詰めようとすると、考える先から思念がモザイクの粒々となって手のひらからこぼれ落ちていく。そんな有様だった。
百合香は、サーバーから淹れたコーヒーを持って秘書席に戻った。ブラックコーヒーの香りが鼻腔に心地よい。
  15年前と言えば、ちょうど丹羽地所にアルバイトで勤め始めたばかりの頃だ。この本社ビルも、駿介が将来の社長含みで丹羽地所に迎えられることが決まって竣工したばかり。学生アルバイトとはいえ、真新しいオフィスに社長秘書として出勤するのはとても誇らしかったっけ。
当時のことを思い出しながら、百合香は考えを巡らせる。
  たかだか車のキーのことが、どうして気になるんだろう。ほんの数分貸しただけのことなのに。常務がスペアキーでも作ったとか? 無理無理。たった2・3分でできるはずがない。そもそも、何のために? 
──でも。もしかしたら‥‥。
百合香は、立ち上がって社長室のドアをノックした。
「百合香さん、どうした?」
「社長、つかぬことをおうかがいしますが、アストンマーチンのスペアキーというのは簡単にできるものなんでしょうか?」
「おいおい、藪から棒に何だ?」
「いえ、絵莉先生と話をしてて、ちょっと気になることがあったものですから」
「そうか。スペアキーなら私も作ったことがあるんだが、アストンマーチンは、名車だけあってやたらにセキュリティがしっかりしててね」
車の話になると、和馬は途端に饒舌になる。
「今のリモコンキーになる以前から、たかだかスペアキーのためにわざわざディーラーに車を持ち込まなきゃいけなかったんだよ。ペアリングって言って、工場で新しいキーを車両本体に認識させて同期させるシステムになってるんだ。まあ、面倒な分安心なんだがね」
百合香の表情が徐々に沈み込むのにも気付かず和馬は続けた。
「ペアリングを済ませていない合鍵を差し込もうもんなら、けたたましい警報音が鳴り響くから車泥棒も車上荒らしもまず不可能らしい」
普段、車になどまったく興味を示さない秘書に長広舌を振るっていた和馬が、ふと我に返る。
「どうしてまたそんなこと聞くのかね」
「いえ、私の思い過ごしだったようです。ちょっとでも気になることは、とりあえず確認して下さいって、絵莉先生から念を押されたもんですから」
和馬がいぶかし気に頷く。
「そういえば、社長。亡くなられた常務、お車はお好きでしたか?」
「いや、兄は音楽一辺倒だったから車なんてまったく興味なかったよ。確か運転免許も持ってなかったんじゃないかな」
免許もなかった‥‥。やっぱり思い過ごしだったのか。
「そうですか。社長、お時間取らせて申し訳ありませんでした」
「百合香さん」
出て行こうとする百合香を、和馬が呼び止めた。
「あなたには、変なトラブルに巻き込んでしまって申し訳なく思ってる。養子縁組の件も、ご両親とはじっくりとお話しして了解して下さってるんだが、あなた自身、何か納得できないようなことはないだろうか」
「いえ。駿介さんの遺志を継ぐんだと思えば、それだけで力が湧いてくる気がします。恭介が一人前になってくれるまで、何としてでも丹羽家と会社を盛り立てて行く。その覚悟はできています」
慎ましげな顔に決意の色が見えていた。
「恭介はまだ5歳だ。先は長いぞ」
「社長にご指導頂けるなら、精一杯、努力は惜しまない積りです」
和馬が微笑みながら頷いた。

act11

「お帰りなさい」
事務所のドアを押した絵莉に秘書の麻乃が声を掛ける。
「和馬の件、何か進展はあったか?」
ソファでのんびりとコーヒーを飲んでいた由紀夫が尋ねた。向かい側に腰を下ろしながら絵莉が答える。
「内容証明にはまだ反応なし。松尾リサーチの調査報告で本間親子の実像はおおよそ見えてきたとはいえ、認知無効のエビデンス探しは手詰まり状態。今日も丹羽地所まで行って、認知届当時に何か思い当たることがないかって確認したんだけど‥‥」
絵莉が大袈裟に肩をすくめる。
「前途多難だな」
何とも緊張感を欠く父の顔を見ながら、ふと思いついて絵莉が尋ねる。
「父さん、アストンマーチンって知ってる」
「和馬の愛車だろ。大学時代、映画の007のボンド・カーに一目ぼれしたんだ。以来、あいつアストンマーチン以外眼中にない」
「へーえ、そうなんだ。 007、ジェームス・ボンドか。ねえねえ、そう言えば和馬おじさんって、ちょっとショーン・コネリーに感じが似てない?」
ああ、確かに言われてみれば、と口をはさんだのは秘書席の麻乃である。
「丹羽地所の社長さん、誰かにイメージが似てると思ったのよ。そうそう、ショーン・コネリーだわ」
「でしょ。和馬おじさん、顔立ちは純和風なんだけど、どことなく雰囲気が似てるんだよね」
「そう、あの頭の禿げ具合なんかそっくりよねえ」
「ひどぉい。でも、あんなかっこいいスキンヘッドはそういないよ」
「ちょっとお前たち、一体何の話してるんだ」
とめどがない会話を、由紀夫がやっとのことでせき止める。それをしおに、実はね、と言いながら、絵莉が百合香から聞いた車のキーのエピソードをかいつまんで話し始めた。
「じゃあ、百合香さんは社長の亡くなったお兄さんのことを何か疑ってるんですか?」
また麻乃が奥の席から割り込んできた。
「麻乃さんは、何食わぬ顔で全部話を聞いてるんだよなあ」
「はい。業務は完璧にこなしつつ、事件に関するお話はすべて聞かせて頂いてます」
やれやれ、と由紀夫がつぶやく。
このベテラン秘書は、既にこの事件の概要を把握しているようだ。マルチタスクは女の特技というのが口癖だけに、事務処理作業中でもその目と耳からは種々雑多な情報が次々とインプットされているらしい。
「車のキーと今回の件がどう関わるのかよく分かんないんだけど、何だか引っかかるらしいの」
「女の第六感ってやつか」
由紀夫の陳腐な感想にあきれたように首を横に振り振り、麻乃がソファの傍にパイプ椅子を置いて座り込んだ。
「顧問は、確か社長のお兄さんとも幼なじみなんですよね」
代表の座を絵莉に譲ってから、秘書は、由紀夫を顧問、絵莉を先生と呼んでいる。
「ああ、俺たちの3学年上だったかな。終戦で新制の小学校に入学した頃からかな、丹羽家に行く度に英あんちゃんって呼んで和馬と一緒によく遊んでもらった。絵莉も、子どもの頃に行ったことあるから覚えてるだろうが、丹羽家のお屋敷は古くてやたらにでかいだろ。俺たちはまだわけも分からないガキだったし、戦中戦後の頃だから片付けも手入れも行き届いてなかったからとにかく不気味でさ。何しろ薄暗いし、廊下と階段が入り組んでて行っても行っても果てしない迷路みたいだし」
「確かに、あのおうち、何だかちょっと得体が知れないみたいな感じはあったかな」
「あの頃は、母屋の裏に渡り廊下でつながった離れがいくつかあって、空襲で焼け出された親戚筋の人たちが何家族も暮らしてたみたいでな。離れの縁側に着物姿のおばあ様がひっそり座って笑いかけてきた時には、悲鳴を上げて逃げたもんだ。幽霊か妖怪にでも見えたんだろうが、我ながらまったく失礼な話だよ。探検気分で奥の間をのぞいてみたら、閻魔様の掛け軸が掛かってたり、般若だとか能面だとかが壁一面に飾ってあったりで、まあ怖かったのなんのって」
「へーえ。ワンダーランドみたいじゃないですか」
「なんだか楽しそうよね」
女たちが勝手な感想を漏らす。
「冗談じゃない。悪ガキが大勢集まった時には、数を頼りに恐る恐る肝試しみたいなことやったこともあるけど、普段はとてもとても。そうそう、離れの逆側にはちょっと離れて土蔵が並んでたんだけど、これがまた薄暗くて化け物屋敷みたいでな。英あんちゃんも和馬も、悪さする度にお仕置きで閉じ込められるって言うんだよ。それ聞いた時には、このうちに生まれなくてよかったって心底思ったよ。今なら、完全に児童虐待だな」
どうやら思い出話は尽きそうもない。
「父さん。お子様時代の話はまた今度聞かせてもらうから、英世さんのこと教えてよ」
「中学に入った頃からかなあ。英世さんはジャズだのカントリーだの進駐軍系の音楽に夢中になって、親父さんにねだって買い込んだレコードを一日中電蓄で聞いてたよ。もちろん、俺たちみたいなガキなんかもう全然相手にしてくれない。それからしばらくして、ロカビリーって和製ロックが大ブームになって、いよいよ手が付けられなくなっちまってな。突然高校を中退して、家出同然で音楽業界に飛び込んだのさ。親父さん怒り狂っちゃって、兄さんに憧れてた和馬はもうすっかりしょげ返ってたなあ」
その後、大学を卒業した和馬が丹羽地所に入社して先代登史郎の後継としての地歩を着実に固める中、由紀夫も若くして丹羽家と丹羽地所双方の顧問弁護士として招かれた。この間、和馬と英世の兄弟はほとんど音信不通だったと聞いている。
ただ、兄が事あるごとに、母の文子に金の無心に来ていたことに和馬は薄々気付いていた。半分ため息をつきながらも、母が漏らす言葉の端々からは、少しでも出来の悪い息子の力になってやれることを喜んでいるフシもうかがえた。母親というものは有難いものだと、そして、ああ見えて父親だって黙認していたはずだと和馬が苦笑いしていたのを由紀夫はよく覚えている。
英世と和馬が久しぶりに正面切って顔を合わせたのは、父登史郎の通夜の席だった。昭和から平成へと年号が変わったこの年、兄弟はともに五十の坂を越えていた。派手な業界で自由気ままに生きてきた兄と、丹羽家の後継者として累代の資産を運用する会社経営に精力を傾ける実直な弟。片や長髪のひげ面で、柄物シャツに形ばかりの黒ネクタイを締めた業界人、片や地元指折りの名士を弔う式典を粛々と取り仕切る喪主。数十年という月日を経て、兄弟は好対照というしかない姿で遺族席に並んでいた。
その後、登史郎の遺志によって遺言執行者に指名された由紀夫は、四十九日の法要と納骨を終えた時点で、相続人である英世と和馬の兄弟と向かい合うことになる。