東京郊外に広大な土地を持つ名だたる旧家・丹羽家。
令和元年、丹羽家当主で地元経済界の重鎮・和馬は思いもよらない事態に見舞われる。あまりに不可解な出来事に直面した和馬は、旧来の友人であり丹羽家の顧問弁護士でもある島津由紀夫に助けを求めることになった。この不測の出来事の裏には何者かの陰謀が隠されているのか、あるいは和馬自身の何らかの行動が招いた事態なのか。
由紀夫の娘でやはり弁護士の絵莉の奔走、和馬の長男の嫁で長年秘書を勤める百合香が記憶をたどりながら巡らせる推理、そして探偵事務所の手練れ調査員奈津子の綿密な聞き込みによって、この不可解な事態に隠された秘密が徐々にあぶり出されて行く。

#48  ~2022.11.26~

act.21

第3回目期日当日。
利害関係人として、本間智恵子が初めて裁判所に出頭。調停委員に促されて長男祐樹とともに調停室に入った。
この日は、調停委員に加えて裁判官も最初から顔を揃えているという。智恵子に対しては、よほど念入りな聴取が行われているのだろう。和馬と絵莉は、今回も延々と待たされることになった。
二人がやっと調停室に呼び入れられた時には一時間が優に過ぎていた。席に着いた二人に裁判官が言った。陳述書に書かれた丹羽和馬氏とのこれまでの関係を逐一確認した上で智恵子に認知無効について意見を聞いたが、虚偽の認知届などという申立人の主張はまったく理解できないとのことだった。それを受けて、裁判官は智恵子に和馬と直接顔を合わせる意思があるかを確認したという。
智恵子はしばらく逡巡していたが、間もなく思いを定めたように言った。自分だけで直接お会いしたい。今日自分は、母として息子の父親を確認するために来た。最終的に事実を解明するには直接会うことが避けられないと思うが、場合によっては取り乱すかも知れない。その究極の現場に息子にはいてほしくない。
裁判官は和馬にそうした事情を伝えた上で改めて意向を確認。その場で、申立人和馬と相手方祐樹の母智恵子とを同席させることを決定した。かくして、和馬と代理人の絵莉、裁判官、調停委員らが待つ調停室に智恵子を呼び入れることになったのである。
間もなく、調停委員に案内されて、小ざっぱりした装いの小柄な中年女性が入室した。化粧っけはないが整った顔立ちが見て取れる。調査報告書の写真でマンションや勤務先を出入りする姿は見ていたが、和馬たちが直接本人を見るのは無論初めてだった。
和馬と絵莉が立ち上がり、ややぎこちない様子で頭を下げた。智恵子の方もお辞儀を返したものの、顔を伏せたまま和馬の方をまったく見ようとはしない。智恵子が着席するのを待って、裁判官が口を開いた。
「今日は、相手方のお母様である本間智恵子さんに利害関係人としてご出席頂いています。智恵子さんには、以前ご提出頂いたご自身の克明な陳述書をベースに先ほどお話をうかがいました。一方、申立人である和馬さんのご主張は前回提出の書面で明らかです。それらを読み比べますと、お互いの事実認識そのものが大きく隔たっていると言わざるを得ません。相手方は、認知を届け出たのは当然父親である丹羽和馬氏であると、一方申立人は、和馬氏を装った別人の存在を主張されています。調停では、通常はお互いの主張を調整して合意を探って行くわけですが、今回の事件では調整しようにも根本的な部分がどうしても嚙み合わないというわけです」
智恵子は、うつむいたまま目を固く閉じて身じろぎもしない。そんな智恵子を、和馬が視線の端でずっと捉えている。
「となりますと、申立人である和馬氏と智恵子さんがお付き合いされていた和馬氏は果たして同一人物なのかどうか。和馬氏と智恵子さんが直接顔を合わせることで、疑問はたちどころに解消すると思われます。そこで、双方のご意思を確認した上で、同席して頂くことになったわけですが‥‥。智恵子さん」
智恵子が、ちょっと顔を上げてはいと一言応えた。
「こちらにいらっしゃる方が丹羽和馬さんです。ご自分の目でご確認いただけますか」
智恵子がうなずいて、意を決したようにゆっくりと和馬の方へとこうべを巡らせた。向かいに座った裁判官と調停委員が緊張の面持ちでその表情を見守る。
智恵子と目が合って和馬が軽く会釈をした。和馬を見るその表情には何の変化もなかったが、一瞬ののち、智恵子は視線を落とした。軽くうなずいたようにもがっくりと首を垂れたようにも見えた。智恵子がつぶやくように言った。
「こちらが、丹羽和馬さんですか?」
「はい、初めてお目にかかります。私が丹羽和馬です」
和馬が答えた。智恵子は自分に言い聞かせるように何度もうなずいた。おそらく、申立人の主張書面を読んで、過去を何度も何度も反芻して半ば覚悟していたのだろう、智恵子の表情に驚きや失望の色は見えなかった。
「この方は、私が知っている和馬さんではありません」
智恵子がつぶやくように言った。裁判官と調停委員が同時に息をつく。絵莉が和馬の方を振り返った。和馬だけが、まだ智恵子を食い入るように見つめていた。
智恵子が、とつとつと語り始めた。
「陳述書にお書きした通り、私は今から20年以上も前にあの方と出逢い、お付き合いをさせて頂くことになりました。結婚こそできませんでしたが、一人息子の祐樹が生まれてそれなりに幸せでした。でも、祐樹が小学校に入る少し前のことですが、やむを得ないご事情があってお別れせざるを得ませんでした。地獄のような結婚生活で精も根も尽き果てていた私に救いの手を差し伸べて下さった方です。別れることは身を切るように辛いことでしたが、これ以上あの方にわがままを言うわけにはいきませんでした」
智恵子の言葉を、和馬と絵莉、そして裁判官と調停委員らがじっと聞いていた。
「でも、あの方は、別れてから後も変わらず経済的な手厚いサポートを続けてくれました。ですから、事情があってお会いすることはできなくても、あの方は、ずっと私たち親子を遠くから見守ってくれてるものだとばかり思ってきたんです。でも‥‥」
智恵子は、言葉を切ってしばし考え、やがて思いを振り切るように言った。
「残念ですが、こちらの方は私たちが知っている和馬さんではありません」
しばらく沈黙が続いた。数々の修羅場や壮絶な対立を裁いてきた裁判官も、容易には口を挟めない空気が場を支配していた。それを察知した絵莉が、気を取り直すように努めて事務的な口調で言った。
「智恵子さん。主張書面に書かせていただいた通り、私たちは、祐樹さんの認知届を出したのは、こちらの丹羽和馬氏の兄である英世氏なのではないかと考えています。でも、当の英世氏は、残念ながら、もう15年近く前、認知届からおよそ半年経った頃に亡くなっておられます」
智恵子がうつむいたまま小さくうなずく。
「従って、英世氏と直接会うことはもはや叶いません」
智恵子の様子をうかがいながら絵莉がバッグを手に取った。
「ここに、英世氏の生前の写真があります。いかがでしょうか。写真をご覧頂いて、智恵子さんがお付き合いをなさってた方ご本人なのかどうかご確認頂けないでしょうか」
「島津さん」
和馬が思いのほか強い口調で言った。
「智恵子さんのお気持ちも察してあげないか。この場で、これ以上智恵子さんを追い詰めるようなことはよそう。そういう機会は、またいずれ来る」
和馬をじっと見つめていた智恵子が口を開いた。

つづく (^.^)/~~~

#47

<前#まで ~この不可解な出来事の裏には、丹羽家先代登史郎と長男英世との知られざる確執があったのではないか。丹羽兄弟とは幼なじみの由紀夫は娘の絵里に語っている>

「天皇家と比べるのは何とも畏れ多いが、丹羽家ってのは、代々男系男子相続を頑なに守ってきた、いわば家父長制の権化のような家系だ。その当主としては、男系の血脈を次代に確実に継承するのが最大のお役目だ。当然、あらゆるリスクを排除しなければならん。先代だって、最初の子である英世が可愛くなかったはずはない。でも、丹羽家の血筋を確実に守るために、やむにやまれず次男を跡継ぎに選ぶしかなかった。俺は、そう思ってる」
息を詰めるようにして父の言葉を聞いていた絵莉が、ちょっと息をついた。
「親としての愛情はさておき、お家が大事ってこと? ったく、江戸時代じゃあるまいし。分からなくはないけど、理由はどうあれ、15歳にして英世さんの人生は父親によって大きく狂わされたのは間違いないよね」
「まあ、あくまで憶測の域を出ないが」
「父さん。いつだったか、あの嘘の認知届の動機は遺産狙いなんかじゃなくて別にあるって言ってたよね」
由紀夫が小さくうなずいた。
「本当の動機は、英世さんが、自分の実の息子を丹羽本家の正統な後継者の一人にすること。それが成功すれば、血筋を疑ってお家のために自分を追放した父親に対する巧妙かつ完璧な復讐になる。父さんは、そう考えてるの?」
由紀夫は、娘の問いに答えることなく、ふうと息をつきながらゆっくりと空を仰いだ。
父は、あの頃を思い出している。丹羽兄弟と一緒に遊んだ幼い頃を思っているのだと、絵莉は思う。リーダーの英あんちゃんと和馬と由紀夫、敗戦の大混乱もどこ吹く風の三人の腕白坊主。家系だの血筋だの一切考えることもなく、あのちょっと不気味なお屋敷で、日が暮れるのもお構いなしにただ一心に遊びまくった無邪気なあの頃‥‥。
天井を見上げたまま、由紀夫がつぶやくように言った。
「和馬は情に厚い男だ。もしも、英世さんが正直に智恵子さんと祐樹君のことを打ち明けてたら、和馬は絶対に悪いようにはしなかったはずだ。英世さんだって、それはよく分かってた。でも、どうしてもそれができなかった」
絵莉は由紀夫の言葉を反芻しながら考える。
「父親と丹羽家に対する激しい葛藤のせい?」
由紀夫は空を見据えたまま小さくうなずいた。
「和馬には何の恨みもない。でも、たった15で父親から無慈悲に見捨てられた兄と、何の疑問も持たずにその父親に従った弟だ。兄は内心、そんな弟に複雑な思いを抱いていたとしてもおかしくない。しかも、気まま放題の人生を送ったあげく、ギャンブルで遺産を食いつぶしたという拭いがたい負い目もある」
「末期がんの宣告を受けたからって、おめおめと弟に頼るわけにはいかなかった‥‥」
「英世さんにとって、そもそもの問題の始まりは、丹羽家先代登史郎氏との父子の血縁関係だ。時が流れて、何の因果か今度は自分自身が父子の問題を招いたからといって、今やその丹羽家の当主となった弟に頭を下げるなんて‥‥。英世さんにそんな選択肢はあり得なかった」
当時の英世の心情に思いを馳せてでもいるかのように、絵莉が何度もうなずいている。
「突然末期がんの宣告を受けて、英世さんは改めて自分の失意の人生を振り返っただろう。自分を追放した父親のこと、父をその行動に駆り立てた丹羽家という忌まわしい存在。余命宣告を受けて追い詰められていく中で、英世さんは苦悶しながら考え抜いた。そしてある時‥‥」
由紀夫がちょっと息をついた。絵莉は、その横顔を見ながら思う。この出来事を知ってのち、父はきっと英世の境涯に幾度となく思いをめぐらせてきたんだろう。
「ある時、命あるうちに不遇の息子のためにできることはないのかという思いと、自分の運命を翻弄し続けてきた父と丹羽家に対する復讐の念が思いがけずシンクロした。英世さんは、息子の将来に万全を期すとともに、血縁に縛られた丹羽家の土台そのものにくさびを打ち込むようなプランを探り当てたんだ」
「それが、息子の祐樹を、丹羽家当主和馬の実子と偽ることだった‥‥」
「あくまで想像だが、おそらくそんな風にして動機が形成されていったんだと思う。将来、当主の和馬が亡くなった時、相続のために過去の戸籍を確認したら何と隠し子がいることが分かった。でも、はるか昔に和馬が届け出た認知が実は嘘っぱちだったんじゃないかなんて、一体誰が考える? せいぜい、あの和馬さんにも秘められた過去があったんだってささやき合うぐらいが関の山だろう。英世さん、そんな風に考えをめぐらせながらそのプランを実行に移していった。何だか、俺には英世さんの鬼気迫るような姿が目に浮かぶようだ」
由紀夫は、ずっと息を詰めるようにして聞いている絵莉の方に向き直ってちょっと表情を緩めた。
「考えてみりゃあ、丹羽家ってのはそれ自体がとんでもない化け物なのかも知れんな。いつも和馬に言うんだが、俺は庶民の家に生まれて本当に良かった」
「私も‥‥」
絵莉がつくづくと漏らした。
「だって、私たち女きょうだいだもん。ましてや、私は二人目の子だよ。もしも島津家がそんな名家だったら、また女の子かって、父さんをどれだけがっかりさせたことか。うちが庶民の血筋でほんとによかった」
ありがとね、父さん、と言いながらおどけた表情で手を合わす娘を見て父がうっすらと笑みを漏らした。

act.21

第3回目期日当日。
本間智恵子が、利害関係人として初めて裁判所に出頭した。

つづく (^.^)/~~~

#46

<前#まで ~由紀夫が娘の絵莉に語っている。それは、丹羽家長男の英世が若くして家を出たのは音楽のためではなく、実は先代である父・登史郎に追放されたも同然なのだという秘められた事実だった>

「弁護士たるもの、想像だけでこんなことが言えると思うか?」
絵莉が、父親を見つめる。
「またまたあ。父さんったら。お得意のはったりでしょ」
絵莉の軽口にも、由紀夫の表情はまったく緩まない。絵莉が、父親のこんな真面目な表情を見るのは久しぶりのことだった。
絵莉がまだ新米の頃は、大先輩として弁護士心得をうるさいほどに厳しく伝授してくれたものだが、父の事務所を引き継いで以降、すっかり好々爺になって仕事に口を出すことは絶えてなかった。しかし、この日ばかりは、父はかつての百戦錬磨の法律家の顔を見せていた。
「英世さんが亡くなった後、先代の相続手続きの際に集めた戸籍関係書類をひっくり返してみた。もしも不審な記載でもあったら、相続の時点で気付いてたとは思うが、まあこれも顧問弁護士の職務の一環だと思ってな。そしたら‥‥」
絵莉が、ごくりと唾を飲み込んだ。
「丹羽登史郎氏の古い戸籍には、確かに昭和12年に長男英世、昭和15年に次男和馬が生まれたとの記録があった。ただ‥‥」
由紀夫が言葉を切って、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。こういうもったいをつけたしゃべり方は昔から鼻についたが、弁舌によって人を護ることを生業とする昔気質の弁護士の習い性なのだと、今は絵莉にも分かる。
「一つだけ疑問点があった。英世さんの出生日だ。昭和12年10月となってた。でも、先代の登史郎さんと奥様との婚姻は、同じ昭和12年の3月」
絵莉が指折り数えながら言う。
「足掛け8か月かあ。英世さんは、月足らずで生まれたってこと? でも、婚姻から200日が過ぎてれば嫡出子として認められるって規定は、旧民法でも同じだったはずだよね。8か月なら200日は確実に超えてる。ってことは、法的にも先代夫婦の実の子であることに疑問の余地はないんじゃない?」
「確かにその通りだ。結婚からたった8か月で生まれたんだとしても、月足らずの未熟児で生まれた可能性は十分にある。ただ、俺は物心ついた頃から兄弟を知ってるが、和馬はどっちかと言えば虚弱体質だったが、お兄さんの方は生まれつき大柄で頑健だった。あの時代の医療技術から考えて、英世さんが果たして月足らずの未熟児だったのかどうか。ちょっと微妙なところだな」
「つまり?」
「月足らずで生まれた可能性もないではないが、そうじゃない可能性だって十分にあるってことさ」
そうじゃない可能性‥‥、と口の中でつぶやきながら絵莉はまだ頭をひねっている。
「でもさ、戦前は婚姻届けなんて結構いい加減だったらしいよ。届けの前から同居して、実質婚姻状態だった可能性だってあるよね」
「ああ。もちろんそれも考えた。でもな‥‥」
由紀夫が、言葉を切ってもう一度冷めたコーヒーを一口すする。
また出た! お得意のもったいぶり弁論術。絵莉は内心つぶやいている。
「実は、丹羽地所では七・八年前に設立60年を記念した社史を編纂しててな。社史なんてもんは、自画自賛のオンパレードでおよそ読めたもんじゃないんだが、丹羽地所の創業の頃の様子が分かるかもと思ってぺらぺらとめくってみた。それによると、創業者である先代登史郎氏は、昭和10年ごろ、丹羽家を家督相続するに当たって勤務していた商工省を辞職して、間もなく不動産事業の調査研究にためにアメリカに渡ってるんだ。不動産ビジネスの先進地ニューヨークで半年ほど暮らして、その理論と実務を精力的に学んだらしい。そこで、日米開戦に向けて風雲急を告げていた時代を見据えて、丹羽家が所有する膨大な不動産を会社に移転するという画期的なプランを温めたって記述されてる。そして、昭和12年の3月に帰国。直後に、待ちわびてた許嫁の文子さんと華燭の宴を挙げている」
「ってことは‥‥」
絵莉がちょっと考え込む。
「ひょっとして、母親の文子さんが英世さんを妊娠した時点で、父親の登史郎氏はニューヨークで暮らしてた可能性が高いってこと?」
由紀夫がうなずいた。
「そして、8カ月後に英世さんが出生。月足らずとは言っても、たかだかふた月程度。まんざらあり得ないことでもない。登史郎氏は、少しばかり疑問は持ったかも知れないが、何しろ丹羽家としては待望の跡継ぎ男子の誕生だ。当時まだ健在だった先々代ともども、跡継ぎが無事生まれた喜びの方が大きかったろう」
絵莉が、ふうと息をついた。
「父さんは、英世さんが先代の本当の子じゃないと思ってるの?」
「いや、あくまで可能性だ。当時はDNA鑑定なんてないから、父子関係を確認する手段と言えばせいぜいが血液型ぐらいだ」
「ひょっとして‥‥。調べたの?」
「英世さんが肺がんの診断を受けた時だったかな。がんも遺伝的要素が強いっていうから、話の流れで丹羽家の人々の血液型が話題になったことがある」
絵莉が、もう一度ごくりと唾を飲み込んだ。
「それで‥‥?」
「お前の期待には沿えないが、和馬によれば、先代夫婦も兄弟も、全員が同じO型だったらしい。丹羽家はO型一族だなんて言ってたぐらいだ」
「なーんだ」
「血液型では、英世と和馬が父親違いなのかどうか判断のしようがないってことだな。結局のところ、父の登史郎、長男の英世ともにこの世にいない今となっては、もう父子関係否定説を科学的に確認する方法はない。仮にこれが犯罪捜査だったとしても、遺灰からのDNA鑑定は不可能なはずだ」
話は以上だ、とでも言うように、由紀夫がもう一度冷めたコーヒーをすすった。絵莉はこめかみに手を当てながらちょっと考え込む。
「でもさ‥‥」
絵莉がつぶやくように言った。
「問題の本質は、血縁関係の有無じゃないんだよね。実際の血縁関係がどうあれ、問題は先代の登史郎氏がどう思ってたかでしょ。登史郎氏は、長男が新妻の不義の子ではないかと疑っていた。ん? 婚姻前だから不義の子とは言えないか。まあそんなことはどうでもいいけど、当時、科学的に血縁関係を確定する方法なんてなかったから、疑いを完全に晴らすことはできない。事実はどうあれ、先代の疑心暗鬼が解消しない限り、英世さんは丹羽家から追放されるように運命づけられてたってことなの?」
「丹羽一族の長老連中の中には、ひょっとすると先代と同様に長男が月足らずで生まれたことに不審の念を抱いてた者もいたかも知れない。うるさ型が長男を切るよう先代に進言した可能性だってあるかも知れない。当主といえども、長老の意向となれば、そうそう無視するわけにもいかなかったろう。まあその辺の経緯までは分からんが、最終的に登史郎氏は苦渋の決断を下したってことだ」
「先代は疑わしきを罰するしかなかった‥‥。そういうこと?」
いかにも納得いかなげな娘の顔をじっと見て、おそらくそういうことだ、と由紀夫は小さく繰り返した。
「その結果、英世さんは家を出ていくしかなかった。いくら血筋を守るためだからって、たった15やそこらで‥‥。あんまりだわ」
「おいおい、絵莉。あんまり熱くなるな。言っておくが、この話はあくまで俺の想像、というよりむしろ憶測に過ぎない。それに、仮にその憶測が事実だったとしても‥‥」
由紀夫がちょっと言葉を切った。
「 何度も言うが、 これは妻に対する猜疑心とか嫉妬心に突き動かされたと言うような単純な話じゃないんだ」
絵莉は、父の顔をまじまじと見る。

つづく (^.^)/~~~

#45


<前#まで ~ついに、丹羽和馬と本間智恵子が直接対面することが決まったその夜、島津由紀夫は絵莉に、丹羽英世が亡くなる前の会話を語り始めた>

「由紀夫先生は、俺が家を出たから次男の和馬が丹羽家を継ぐことになったんだと思ってるだろ?」
英世はさらりとした口調で言った。
「実は、逆なんだ」

「逆? 逆って、どういうことなの」
由紀夫の述懐に、絵莉が割って入った。
「俺も、英世さんが何を言ってるのか、とっさに分からなかった。で、英世さんの言葉をもう一度繰り返してみた。長男の自分が家を出たから弟の和馬が丹羽家を継ぐことになった。その逆ってことは‥‥」
「弟の和馬氏が家を継ぐことになったから英世さんは家を出た‥‥、ってこと? そんな、まさかぁ‥‥?」
「でも、原因と結果をさかさまにしたらそういうことになる。英世さん、自分の命がもう長くないのを知って、妙な妄想にとらわれでもしてるんじゃないか。正直、俺はそんなことまで考えた」

「いや、先生。しようもない戯言だよ。どうか気にせんでくれ」
英世は取り繕うように言った。
「英世さんは、どうしても音楽をやりたいから家を出たわけじゃ、必ずしもなかったんですか?」
まあ大昔の話さ、と言って英世は笑った。
由紀夫は言葉が接げなかった。今の今まで、親友の和馬が丹羽家を継ぐことになったのは、兄の英世が若気の至りで音楽の道に走ったからだと思い込んでいた。しかし、その兄自身が語った言葉は、やはりこう解釈するしかない。
『弟の和馬が家を継ぐことになったから、兄の自分は家を出ざるを得なかった‥‥』
まさか。そんなことがあるはずがない、と思いながら由紀夫は考えを巡らせていた。
跡継ぎを決めるのは当主の登史郎だ。英世の言うことが事実なのだとすれば、先代は一体どうして長男ではなく次男に家を継がせることにしたのか。昔で言えば、勘当か廃嫡にも等しい極めて異例な行為だ。よほどの事情がない限り、そんなことはあり得ない。
「そういや、最近有識者会議だとか何だとか、やたら皇位継承の論議がやかましいな」
突然の話題転換に由紀夫はまた戸惑う。
この年。平成16年の春、時の小泉内閣は「皇室典範に関する有識者会議」なるものを設置し、皇室維持のための安定的な皇位継承制度についての検討を開始していた。
「ここ40年ほど男性皇族が生まれてないから、皇位を男系男子に限ったままでは天皇制存続が危ういって話だよな」
いぶかしげに思いながらも、由紀夫はただうなずくしかない。
「天皇家と比べるってのも何ともおこがましい限りだが、実はな。丹羽家も家系をさかのぼれる限り、もう十代以上に渡って男系男子の相続を続けてきてるんだぜ」
およそ脈絡が辿れない話の道筋が、ほんの少しだけ見えてきた気がした。
「でも、それを言うなら、英世さんだってれっきとした丹羽家直系の男系男子じゃないですか。しかも、押しも押されもせぬ先代の惣領息子だ。さっき、変なことおっしゃいましたけど、長男を差し置いて次男が継ぐっていうのは、かなり異例のことじゃないですか。どう考えても、英世さんが家を出たから、致し方なく次男の和馬が継ぐことになった。そう考えるしかないと思いますが」
「惣領息子か。何だか、カビでも生えてきそうな言葉だな」
穏やかな口調だったが、それに続く言葉に由紀夫は再び声を喪う。
「まあ、戸籍上はその通りだ」

「戸籍上は、って。それ、どういうことなの」
案の定、また絵莉が話に割り込んできた。
「『戸籍上』の反対は?」
唐突な父の問いに娘は戸惑いながら答える。
「‥‥血縁上?」
由紀夫がうなずく。
「じゃあ、戸籍上はそうなってるけど、血縁上はそうじゃない? 英世さんは、先代の実の息子じゃないってことなの?」
「まあ、文脈的にはそういうことになる。だから、俺はちょっと二の句を継げなかった。戸籍上、英世さんは先代登史郎氏の長男ということになっているが、実はそうじゃない。直接そう言ったわけじゃないが、英世さんの言葉をそのまま解釈するとそういうことになる」
「つまり、先代の本当の子じゃないって、英世さんは高校生になったばかりの頃、そのことを知って家を出たってことなの?」
由紀夫は、押し黙ったまま首を縦にも横にも振らない。
「でも、英世さんは、そんなことどうやって知ったの? たかだか十代の少年が、自分の出自を調べるなんてこと、あるのかしら」
「もちろん、誰かに聞かされたんだろう」
「誰に?」
「そんな機微な話を知ってる人物。さらにそれを英世さんに告げることができる人間。丹羽家を継いだ和馬ですら、おそらく今もってそんな話は知らんだろうし想像もしてないだろう」
「つまり?」
「ご両親のどちらか。いや、事の性格からして母親であるはずがない。間違いなく父親の登史郎氏だろう」
「仮にも父親が? たかだか15歳の少年に、お前は私の本当の息子ではないって。そんなとんでもない事実を伝えたって言うの?」
激高の色を見せる娘に父が噛んで含めるような口調で言う。
「絵莉、元服って知ってるか?」
「元服? 確か、昔の成人式みたいなもんでしょ」
「ああ、子どもが一人前の大人になったことを認める儀式だ。地方の旧家には、今でもその風習が残ってるらしい。その元服の年齢は、おおよそ15歳と言われてる」
絵莉が声にならない声を上げる。
お前ももう大人だ。だから、ものごとの道理も分かるはずだ。先代はそう言って、長男に因果を含めたとでも言うのか? 
「世の中には、俺たち庶民には想像もつかない世界があるんだよ。事の本質は、妻の不貞を疑って嫉妬したとか恨んだとか、そんな下世話な話じゃない。畏れ多くもだ。天皇家を例に出すぐらい血筋を重んじる名家だよ。その主だったら、血がつながっていないかも知れない人間に跡を継がせるわけにはいかないと思うのが、むしろ当然かも知れない」
絵莉は、もはや言葉を差し挟むことも忘れている。
「生まれてこの方、我が子としてずっと育ててきた息子だ。心の片隅に少しばかりの疑いがあったとしても、一方ならぬ情がなかったはずがない。でも、名だたる旧家の当主として、丹羽家の血筋を守るために、先代は泣いて長男を切った。俺はそう思ってる」
由紀夫は、ちょっと息をついてから話を続けた。
「とはいえ、長男を廃して次男に家を継がせるには、一族郎党はじめ関係者の誰もが納得する理由が要る。丹羽一族には、かつて本家と主だった分家の長老が集まる会合があったらしい。本家の当主といえども、重要事項を決定する際には、長老会議のお墨付きをもらわなきゃいけなかったんだとか。もちろん、本家の家督相続となれば最重要事項だ。とはいえ、いざ次男を跡継ぎにするにしても、他ならぬ丹羽家の嫡男が当主の実の子ではないなんて疑いを表沙汰にするわけにはいかない。しかし、長男が家を捨てて音楽の道に走ったとなれば、長老連中も次男の相続に敢えて異議を唱えるわけにもいかなかっただろう」
「それで先代は、15歳になったばかりの英世さんに、お前は実の子ではないから、跡継ぎは自分の血をひく弟とするって言い渡して、この家を出て行くように仕向けたって言うの?」
娘の眼差しに、やり場のない怒りが満ちていた。
「事の仔細までは分からない。でも、おそらく、それに近いことがあったんじゃないかと思う」
絵莉が、しばらく押し黙った後ちょっと緊張を解いたように言った。
「あくまで、父さんの想像だよね」
由紀夫は、絵里の顔を見つめてしばし考え込んでから、意を決したように言葉を継いだ。
「弁護士たるもの、想像だけでこんなことが言えると思うか?」

つづく (^.^)/~~~

#44

<前#まで ~私が愛した丹羽和馬は、丹羽和馬ではなかった‥‥? 本間智恵子は激しく戸惑いながら、懸命にあの日の記憶を辿っている>

  ひょっとしたら‥‥。
瞬間、智恵子の身体に電気のようなものが走った。
  あの夜、あの人は言った。どうしようもない事情があるんだ、と。
その事情とは‥‥? 丹羽家のしがらみや会社関係の事情ではなかった? もう余命いくばくもない自分自身の身体のことだった? 
   ひょっとすると、あの人は自分の身体が末期がんに侵されていることを知って、何も言わずに身を引くことにしたのか。智恵子と祐樹の将来に憂いがないようにすべての準備を整えて、あの人は何も告げずに逝ってしまったのか。
智恵子は何とか冷静を保とうとしていた。
確かに、あの人は経済的な心配のないようすべてを整えてくれた。とはいえ、結局のところ、あの人が私たち母子を無慈悲に捨ててしまったのは紛れもない事実じゃないか。智恵子の胸の奥には、ずっと和馬への不信が澱のようにこびり付いていた。
  でも、あの人は私たちを見捨てたわけじゃなかったのか。自分に残された限りある時間で、なし得る限りのことをしてくれたのか。自分の命と引き換えにするかのように。
智恵子は、どうしても拭い切れなかった不信感が、氷が溶けるように跡形もなく消え去っていくのを感じていた。
  私たちの将来のため‥‥? 
突然、新たな疑念がむくむくと頭をもたげてきた。確かにあの人は、将来に渡って私たちの生活費や学費に困ることのないよう万全の備えをしてくれた。でも、それに加えてあの人は、祐樹を大富豪の息子にするなどという常軌を逸したことまで考えたのだろうか。余命いくばくもないことを知った動揺のさ中、ずっと身を偽ってきた成り行きから、そんな途方もない発想に取りつかれてしまったのだろうか。
  でも待って。
あの人が弟を装って認知届を出したなんて、そんな馬鹿げたことが本当にあり得るものなのか? 根も葉もない、誰かの作りごとではないのか? 
あの人は、もし認知の事実が知れたら、丹羽家の連中が何を企みどんな行動に出るか知れないとしつこいほどに言っていた。だから、俺が死んで相続手続きが始まるまでは決して名乗り出てはいけないと。
一瞬、智恵子の脳裏に丹羽家という得体の知れない化け物が不気味にうごめく姿が見えたような気がした。
──ひょっとすると、なりすましというのは、認知を覆すために丹羽家の人々が仕掛けてきたとんでもない言いがかりに過ぎないんじゃないか。
疑念は果てしなくふくらむ。でも、自分がその気になりさえすれば、事実はいともたやすく明らかになるのだ。ここはもう、覚悟を決めるしかない。
「祐樹」
智恵子は息子の目を正面から見据えて言った。
「分かった。母さん、その丹羽和馬さんに会うよ。会って事実を確かめるよ」

            act.20

数日後、島津法律事務所に、本間祐樹が利害関係人として母親の智恵子を申請し受理されたとの連絡が入った。事態はいよいよクライマックスを迎えようとしている。絵莉の気持ちはいやが上にも高ぶっていた。
その夜。今夜は女子会なんですよ、などと言いながら秘書の麻乃が軽い足取りで出て行くのを見計らったかのように由紀夫が切り出した。
「絵莉、いよいよだな」
力強くうなずく絵莉を見ながら、由紀夫が深々と息をついた。
「実はな。お前に言うべきかどうかずっと迷ってたんだが、やっぱり和馬の代理人に隠しておくわけにはいかない」
どしたの、改まって、と娘が父の向かい側に腰を下ろした。
「お前はずっと、犯人、方法、動機の三要素の解明にこだわってたな」
絵莉がうなずく。
「確かに、犯人と方法についてはほぼ間違いないだろう。問題は残る動機だ」
「父さん、前にもそんなこと言ってたけど、動機なんて決まってるじゃない」
由紀夫は、無言で絵莉を見詰めている。
「‥‥まさか、父さん。和馬社長の遺産狙いじゃなかったとでも言うの?」
由紀夫が目に見えないほど小さくうなずいた。
「多摩丘陵の施設のラウンジで英世さんと語り合った話はしたな」
「英世さんから遺書を託された時のこと?」
そうだ、と言いながら由紀夫がとつとつと語り始めた。
和馬宛ての例の遺書を託された後、今日はお疲れになったでしょう、それでは私はこの辺で、と言いながら腰を浮かせかけた時のこと。英世が由紀夫に声を掛けてきたという。
「由紀夫先生。もうちょっといいかな」
「はい? ええ、まあ特に急ぎの用はないですが」
由紀夫は、改めて革製のソファに腰を下ろした。
「先生とは、もう長い付き合いになるなあ」
英世さん、妙に改まってどうしたんだ? 由紀夫はちょっと戸惑いながら応えた。
「かれこれ60年にはなりますか。幼い頃から、英世さんには和馬と一緒によく遊んでもらいました。私からすりゃ、今も変わらぬ英あんちゃんですよ」
「ああ、あの頃は楽しかった。終戦を挟んで、まだ世の中は騒然としてたはずだけど、ガキどもはそんなこと知ったこっちゃない。好き勝手にさんざん遊び回ったよな」
あの頃はよかった、と英世は繰り返した。
「でも、しばらくして英世さんは家を出て行かれた」
「うん。高校に入って間もなくの頃だった」
「私もそうでしたが、和馬の意気消沈っぷりは、見ていて可哀そうになるぐらいでした。英あんちゃんが好きな道に進まれるんだからって、ずいぶん慰めたもんですよ」
「好きな道か‥‥」
英世は、ちょっと言葉を切って考え込む風だった。
「もちろん、ジャズにのめり込んで、俺には音楽しかないって思い込んでたのは事実だ。でも、何も高校中退して家出するほどのことでもないだろ」
由紀夫はちょっと答えに窮した。あの頃、和馬と由紀夫は、まだ中学校に入ったばかり。和馬の思いは知らず、むしろ由紀夫は、自分の思いを貫く英世の決断に、さすが英あんちゃんと喝采する思いもなかったわけではない。
「いくら若気の至りとはいえ、その結果が巡り巡ってこのざまだ」
「まあ、若気の至りと肺がんに因果関係はないでしょうが」
英世は、首を振りながらどうかなとつぶやいて、ふと思いついたように言った。
「因果関係って言やあ‥‥」
英世は言葉を切って中空に目をやった。そのまま思いのほか長い沈黙が流れた後、英世は小さく笑って言葉を継いだ。
「由紀夫先生は、俺が家を出たから次男の和馬が丹羽家を継ぐことになったんだと思ってるだろ?」
「ええ。先代が隠居なさる際にもろもろお手伝いしましたが、ご自身も確かそのように仰ってました」
「親父ならそう言うだろうな。まあ、誰だってそう思う。でもな、先生……」
英世が由紀夫の方を見て、さらりとした口調で言った。
「実は、逆なんだ」

つづく (^.^)/~~~

#43

<前#まで ~20年余り前に巡り逢った運命の人丹羽和馬は、実は和馬ではなくその兄だった? 認知無効の申立書を読んで、本間智恵子は激しく戸惑っている。智恵子と息子の祐樹を残して姿を消したあの人は、一体何者だったのか?>

智恵子と祐樹はテーブルを挟んで向かい合った。
「私にはどうしても理解できないんだけど。いや、書いてある内容は分かるんだけど、こんなことが本当にあり得ることなのか、もう頭がついてかないの。祐樹は、どう思う?」
「分かるわけないじゃん。父さんと最後に会ったのは5歳の誕生日なんだよ。顔も覚えてないよ」
「そうだよね。これがほんとなら、とんでもないことになるわ。ねえ、祐樹、私たちどしたらいいんだろ」
母は必至で感情をコントロールしている。しかし、その強張った表情を見れば、パニック状態すれすれだということが息子にはよく分かる。智恵子の心情を思いやりながら、祐樹は極力冷静な口調で言った。
「母さん。今回、ぼくもそれなりに法律の勉強はしたんだけど、まず第一に、この書面に書かれていることが事実なのかどうかが問題になると思う。丹羽和馬の兄が嘘の届け出をしたカラクリとか、その兄らしき人物がこのマンションに出入りしてたとか、どこまでが本当でどこまでが想像の産物なのかまったく分からないじゃない」
「そうだよね。興信所の調査報告だって根拠はタクシー運転手のあやふやな記憶だけみたいだし、具体的な証拠なんて全然ないわよね」
「でしょ。まだ憶測の域を出てないよね。だからと言って、ぼくらの方だってそれを否定する方法はないんだけどさ」
「じゃあ、どうすりゃいいの」
「もしも、ぼくがこの申立てをどうしても認めなかったら、調停はそこで打ち切りになるらしいんだ。そしたら、後は裁判に訴えるしかない。裁判になったら認知無効を主張する側に立証する責任があるんだけど、あの主張書面と調査報告書で無効が証明できたことになるのかどうか。ぼくにもちょっと分らない」
「じゃあ、裁判所があの主張を認めたら認知は無効になるの?」
祐樹が目を伏せてうなずく。
「でも、こんなことを裁判で白黒つけるなんて何だか嫌だよね」
智恵子がつぶやくように言った。
「母さん、よく聞いてね。問題は、15年前の認知届が本物なのか偽物なのかだよね。でも、その根本にあるのは、ぼくの父親が丹羽和馬なのか否かってことでしょ?」
智恵子が、うんうんとうなずく。
「ぼくは父さんの顔をよく覚えてないけど、母さんは覚えてるよね」
「当り前じゃない」
「そしたら、丹羽和馬が母さんが知ってる父さんなのかどうか、本人の顔を直接見たら一目瞭然じゃない?」
智恵子が目を見開いた。
「ちょっと待って。そんな、冗談じゃないよ、今さらあの人に会うなんて。しかもこんなことで」
「母さん、その人が母さんの知ってる父さんなのかどうか分からないんだよ。父さんが今になってこんなこと言ってくるなんてとても信じられないのなら、直接会って確認するしかないじゃないか」
智恵子が目を伏せて考え込んだ。
  もしも、あの人が丹羽和馬じゃなかったら。いま読んだばかりの書面にあるように、実兄の英世という人物が和馬になりすましていたのだとしたら‥‥。
智恵子は全身から力が抜けていくのを感じていた。何だか息をするのもおっくうな気がした。新宿のクラブで出会って辛い思いを聞いてもらったのも、家庭持ちだとは知りつつ心から愛すことになったのも、親子三人で過ごしたあの平穏な日々も、すべてがあの人の嘘の上に築き上げられた出来事だったということなのか。
  でも‥‥。
智恵子は、顔を上げて目の前の息子を見た。
でも、もしそうだったとしても、私は騙されただけのこと。この子にとっては、そんな生易しいものではない。他ならぬ自分の父親が、これまでずっと信じて疑わなかった人とはまったく違う人物だったことになる。いや、姿かたちはその人なのだとしても、名前も素性も、その属性のすべてが別人。自分をこの世に在らしめたものが突然形を喪い、あやふやでつかみどころのないものになってしまう。この子の存在そのものが、根っこから揺らいでしまう。そんな事態を、この子は受け止めて自分なりに得心することができるのだろうか、それとも、まだそんなところにまでは考えが及んでいないのだろうか。
目の前の息子の表情は穏やかに見えた。むしろ、とんでもないショックを受けている母を思いやるように、気遣わしげな眼でこちらを見ている。
「もしも、あの人が丹羽和馬になりすましていたんだとしたら‥‥」
智恵子は、20年あまり前、新宿のクラブで初めてあの人に会った時のことを思った。客は最初は大抵名字を名乗るから、丹羽和馬というフルネームを知ったのはちょっと後のことだったはず。何度か指名してもらい、身の上話を聞いてもらうようになるうちに、あの人もフルネームや不動産会社経営など自分のことを少しずつ話すようになったのではなかったか。その辺りから、あの人はとんでもない嘘に手を染め始めたのだろうか。
「まさか。そんなこと、あり得ない」
ひとりごちる智恵子に、祐樹はただうなずくしかなかった。
「もしも、もしもだよ。申立人が言うことが事実だったとしても、まさか、父さんは最初からぼくを和馬さんの相続人にしようなんて企んでいたわけじゃないよね」
「そりゃそうよ。だって、あの人、私と知り合った当初から丹羽和馬って名乗ってたんだよ。もしそれが嘘だったとしても、私と付き合うことも、ましてやあなたが生まれることだって、その時点では想像もつかなかったはずじゃない」
確かに、と祐樹がつぶやいた。
「成り行きで弟の名前を名乗ったもんだから、その後もずっと事実を打ち明ける機会がなかったってこと?」
智恵子も首をひねっている。
「それで、その後どこかの時点で、その嘘を本当にする決心をしたってことなんだろうか。それが、ぼくが5歳になった時のあの認知届だったってこと?」
「ちょっと待ちなさいよ、祐樹。あの人が丹羽和馬の偽物だと決まったわけじゃないんだよ」
  でも‥‥。
智恵子は、もう一度申立人の主張書面をめくり直した。和馬の兄の英世は、平成17年の2月に肺がんで亡くなっているという。認知届はその前年、祐樹が5歳になった平成16年だ。そして、その認知と同時に、あの人は私に別れを切り出している。
  ちょっと待って。ひょっとしたら、あの人が言ってたのは‥‥?
瞬間、智恵子の身体に電気のようなものが走った。

つづく (^.^)/~~~

#42

<前#まで ~本間智恵子は、恋人でもあり父でもありという存在だった丹羽和馬との最後の日を思い出している。そのかけがえのない存在は、二人の愛の結晶である祐樹の5歳の誕生日、祐樹を自分の子として認知したと言い残して母子の前から姿を消した>

その夜を最後に、丹羽和馬からの連絡はぷっつりと途絶えた。たった一度だけ電話をしてみたことがある。祐樹が5年生になった頃だった。地元の公立中学校がひどく荒れているという話を聞いて、祐樹に中学受験をさせた方がいいかどうか、判断がつかなくて悩み抜いた末のことだった。しかし、この番号は使われていないというアナウンスが受話器から流れてくるのみ。思い余って、メールも送ってみたが、こちらもアドレス不明の通知が返ってくるだけだった。
結局、祐樹が都内の中高一貫校に合格が決まったその日、携帯電話の連絡先リストから和馬の電話番号とメールアドレスを削除した。今思ってみれば、精神的にようやく和馬から独り立ちできたのはこの時だったかも知れない。
とはいえ、あの夜和馬が言った通り月々の生活費は振り込まれたし、学校から届いた納付通知を信託銀行の担当者に送れば学費は滞りなく支払われた。胸にぽっかりと穴が開いたような思いもあったが、その穴を埋めるように、私の関心は完全に一人息子に向くようになっていた。
あの日から15年あまりが過ぎた。祐樹は一貫校の中学部から高等部へ進み、2年前、念願の一橋大学に合格した。祐樹が幼い頃から、この子は将来一橋にとあの人はいつも言っていた。そのことをことあるごとに伝えてきたせいだろう、一橋大学を目標に祐樹は懸命に勉学に励んできた。父の言葉を胸に着実に成長する我が子の歩みを伝えたい思いは強かったし、祐樹自身が父への思いを抑え込んでいることも知っていた。それを不憫に思いつつも、あの夜交わした約束をたがえることはできなかった。
あの人は言っていた。連絡を取ることは、すなわち丹羽家を大混乱に陥れることになるのだと。その結果、智恵子や祐樹に災厄が降りかかることにもなりかねないのだと。何よりも大事なのは祐樹の将来だ、事情を汲み取ってくれぐれも自重するように。あの人はくどいほどに念を押していた。だから、ずっと母子二人でただただ自重して平穏な毎日を過ごしてきたのだ。

そして、前触れもなく丹羽和馬の名前で文書が届いたのが三カ月あまり前のこと。もしも丹羽家から何か連絡があるとしても、それは遠い先のこと、多分和馬の訃報なのだろうと思い込んでいた智恵子にとって、それは思いもよらない内容だった。15年前の祐樹の認知届は、まったく丹羽和馬のあずかり知らないところでなされたものであり無効である。ありていに言えば、祐樹と自分はあかの他人だという宣言だった。
智恵子は、なかなか事態が飲み込めなかった。そんな馬鹿な。最後の夜のあの人の言葉は一体何だったの? あれから、ずっと私たちはじっと身を潜めるようにして暮らしてきた。まだ幼稚園児だった祐樹が大学生になった今になって、こんな仕打ちが待ってるなんて。
茫然自失状態で何の行動も起こせないまま、時間だけが過ぎて行った。そして間もなく、今度は裁判所からの呼び出し状が届いた。宛て先は息子の祐樹、同封されていた調停の申立書の文面に智恵子の名は見当たらなかった。
さすがにもう、このまま手をこまねいているわけにはいかない。でも、一体何をどうしたらいいのか。智恵子にも祐樹にも皆目見当がつかなかった。祐樹は、大学で法律の基礎ぐらいは学んでいたが、机上の理論など全く役に立ちそうもなかった。大学の図書館やネットでひたすら民法や家族関係法について調べ上げ、身分関係の法的な手続きが理解できるようになったところだった。
こうして裁判所から指定された出頭日がやってきたが、結局出席は見合わせるしかなかった。親子関係を否定する父と話し合う準備も覚悟もまったく整わないまま出席すれば、どんな事態が待ち受けているか知れなかった。
そして数日後。再び裁判所から次回の調停期日の日時が記された文書が届いた。
いよいよ腹をくくるしかなかった。和馬の真意は理解できないが、裁判所が間に入ってくれるのであれば、事がここに立ち至った事情だけはちゃんと理解してもらわなければならない。こうして、智恵子はペンを取った。
自分にとって和馬は運命の人。そして、祐樹はその証しであることだけは、どうしても分かって貰わなければ。その点に関する限り、何らやましいところはない。智恵子は、20年あまり前に遡る和馬との関係を思い出し思い出し、思いのたけを克明に書き綴った。溢れる思いに言葉が追い付かず、何度も書き損じては一から書き直した。とにかく、裁判官や関係者に、和馬との特別の事情を分かって欲しいという一心だった。
やっとのことで、陳述書を書き終えたのはほんの数日前のこと。大急ぎでコピーを取って、裁判所と申立人の弁護士宛てに速達で送った時には、裁判所から指定された二回目の期日がもう目前に迫っていた。

智恵子は、今日の二回目調停に初めて出席した祐樹が受け取った文書に目を通して行く。だが、その内容になかなか理解がついていかない。
  あの人は、丹羽和馬ではなかった? しかも、とうの昔に亡くなっている? 
まさに天地がひっくり返るような内容だった。何日もかけて陳述書に切々と書き連ねたひたむきな思いがあざ笑われているかのように思えた。
二度繰り返し読んで深い深呼吸を繰り返した後、祐樹を呼んだ。母子がテーブルを挟んで向かい合う。

つづく (^.^)/~~~

#41

<前#まで ~和馬との直接対面を拒否した本間祐樹に対し、裁判官は母智恵子の参加を提案した。確かに、祐樹の真実の父親が和馬なのかどうかを見分けることができるのは智恵子だけである。帰宅した祐樹は、母にそのことを告げた>

「お前には、もう一つ言っておかなければならない」
あの人は私の目を見つめてそう言った。いいニュースの後には悪いニュースが控えているものだ。さっきとは裏腹に、じっと私の目を見つめる顔がひどく苦しげに見えた。
  ついに来たか。
私は直感的に思っていた。
  いつかはこの日が来るだろう。
あの人と付き合うようになってからずっと、決して心の片隅から消えることのなかった小さなしこりのようなもの。
あの人の思いやりを疑う気は毛頭ない。けれど、あの人にはかけがえのない家庭があり、名だたる旧家の当主で地元経済界の重鎮でもある。いずれ、私と祐樹の存在があの人の障害になる日が来るに違いない。
でも、虐待夫から逃れて気に染まない夜の仕事で鬱々と過ごしていたあの若き日、たまたま巡り合うことができてからこの方、私はずっとあの人にすがって生きてきた。祐樹という子宝にも恵まれて、日陰の身とはいえこの上もなく幸せだった。でも、こんな平穏な日々がいつまでも続くはずがない。いつか、きっとあの人は去って行く。それがさだめというものだ。
  もしも。もしも別れる日が来たら、あの人なしで祐樹と二人でやっていくことができるんだろうか? いつもそこから先は考えることを放棄してきた。
あの夜、あの人が私の視線をそらすことなく言った言葉。それは、いつも心の奥底で危惧していた言葉そのものだった。
「事情があって、明日からはもうお前たちに会えない」
事情? 反射的に訊いた。
「丹羽家と会社の事情だ」
あの人は、ためらいがちに答えた。
「具体的なことは言えないが、これ以上、二重生活を続けることがどうしてもできなくなった」
私は言葉を失っていた。言いたいことが胸を渦巻いていたが、言葉にならない。しばらく重苦しい沈黙が続いた。
「済まない。私だって、お前たちに会えなくなるのは身を切るように辛い」
うめくような声が、今にも嗚咽に変わってしまうような気配すらあった。ただ事ではない苦悩が痛いほどに伝わって来る。その言葉に嘘や企みがあるなどとはとても思えなかった。
でも、どうしようもないんだ。少し目をそらしながらあの人は言った。
電話やメールぐらいはできるんでしょ? 私はすがるような思いで問い掛けた。しかし、あの人は苦し気な表情のまま、首を小さく横に振った。
完全に関係を断つということ? そう考えるしかなかった。
でも、とあの人はもう一度口を開いた。
お前たちの今後の生活の心配は一切ない。このマンションは智恵子の名義にしてあるから何の問題もないし、月々の生活費だって祐樹の学費だって、私の資産を管理している信託銀行にすべて指示してある。今後もずっと、これまで通り支払われることになっている。
そんなことどうだって‥‥。反射的にそう思ってから、ふと考えた。もしも別れが避けられないのだとしたら、今後母子二人生きていく糧が必要になるのは事実だ。
と思うと同時に、我に返った。
お金の心配さえなければ、あの人がいなくても私は大丈夫なんだろうか? あの人は経済的な拠り所だったのは確かだけれど、それよりも何よりも精神的な拠り所でもあったはず。
でも‥‥。私はさらに考えた。
私には、もう一つの拠り所がある。あの人を偽ってまで授かったかけがえのない我が子が。ずうっと恐れていた通り、目の前が一瞬真っ暗になったけれど、その先にぼおっとした薄明かりが灯っているような気がした。幼い祐樹が灯してくれるささやかな薄明り‥‥。
あの人とめぐり逢って七年。もう、愛だの恋だのという関係はとうに卒業してもいい頃かも知れない。愛と言うのなら、拠り所と言うのなら、私には祐樹がいる。まだ幼いあの子のために、いざとなれば、あの人がいなくてもやっていかなくちゃいけない。いよいよ来るべき時が来たんだと、祐樹のためにただ打ちひしがれているわけにはいかないんだと、心の片隅に小さな高揚のようなものが生まれていた。
そんな思いを知ってか知らずか、あの人は続けた。
だからこそ、今日、祐樹の認知届を出しておかなければならなかった。これで、将来私にもしものことがあった時、祐樹は丹羽和馬の相続人になる。私には妻との間に一人息子がいるから法定相続分はその子の半分になるが、丹羽家の資産からすればそれでも相当なものだ。
しかし、とあの人は噛んで含めるような口調で続けた。
「どうか、これだけは肝に銘じておいて欲しい。私があの世に行くまでは、祐樹の認知のことは決して誰にも言わないと約束してくれ。時が来るまでは、いたずらに家族や丹羽家の親族を混乱させたくないというだけじゃない。知っての通り、丹羽家は由緒ある旧家だ。その当主に隠し子がいたとなると大変な事態だ。もしも、相続が発生する前にこのことが知れたら、誰が何を企むか知れないし、ひょっとしたらお前たちにも累が及ばないとも限らない。このまま放っておけば、祐樹が私の子であるという事実は決して揺るがない。だから、このことを声に出して波風を立てることだけは絶対に避けてほしい」
一言もゆるがせにしない。そんな口調であの人は続けた。
「もしも私が死んだら、その時点で丹羽家の弁護士が私の過去の全戸籍を確認することになるから、そこで初めて祐樹の存在が分かるはずだ。すぐに弁護士から連絡が来て、否応なく丹羽の家族とともに遺産分割の手続きに入ることになる。息子である祐樹なしで遺産分割を進めることは法的にできない。祐樹を無視した遺産分割はすべて無効になるんだ。気が重いだろうが、顔を合わすことなく弁護士と書面をやりとりするだけで手続きを進めることだってできる。すべては祐樹の将来のためだ」
私は、自分たちが大変な立場にいることを改めて認識した。大急ぎで頭を整理しなければ。ずっと頼り切っていたこの人と、もう会うことができなくなるという絶望感。でも、我が子が間違いなく大富豪の相続人だというおとぎ話のような事実。降って湧いたような二つの現実を前にして、感情を整理するのはたやすいことではなかった。
混乱の極みの中で、私は助けを求めるようにもう一度あの人の方を見た。その時初めて、和馬の表情に何かどす黒く澱んだおりのようなものが張り付いているような気がした。
「あなた、大丈夫? ひどく顔色が悪いわ」
「ああ。大丈夫だ。ちょっとこの件で心労が重なったかな」
あの人は小さく笑った。自分で決めておきながら、私たちにもう二度と会えないという現実に打ちのめされていたとでもというのだろうか。
その夜を最後に、丹羽和馬からの連絡はぷっつりと途絶えた。

つづく (^.^)/~~~

#40

<前#まで ~第2回目の調停の期日。ついに本間祐樹が裁判所に出頭した。現状、法的には父と子の関係にある和馬と祐樹。二人の直接対面は、果たして実現するのだろうか>

和馬と絵莉が調停室に入ると、二人の調停委員に挟まれて、中央に五十前後と思われる女性裁判官が着席していた。裁判官は瀧川と名乗った後、先ずここまでの事情を確認した。申立人丹羽和馬は、相手方本間祐樹との親子関係がないこと、15年前の認知届が虚偽のものであると主張している。一方本間祐樹は、和馬が間違いなく自分の父親であるとの主張は変わらず、現段階では双方の主張はまったく相いれない。
「申立人は、相手方と直接顔を合わせて真偽を確かめたいとのご意向だとうかがいました。相手方は、幼い頃は父親とほぼ通常の家族関係にあったものの、小学校入学前を最後に一切連絡が途絶えたとのことです。つまり、もう15年以上会っていない状態が続いていて、しかもご自宅には、父親が映っている写真やビデオなどは一切ないんだそうです。ですから、祐樹さんの記憶の中の父親の姿は非常におぼろげで、直接お会いしても果たして見分けがつくかどうかまったく自信がないとおっしゃってます」
和馬と絵莉は、息を詰めるようにして裁判官の話を聞いていた。
「そこで、裁判所として一つ提案を差し上げました」
裁判所の提案? 絵莉にも、それがどんなものなのか見当がつかない。
「今回の申立ては、あくまで父と子の関係を確認することで、当事者は丹羽和馬さんと本間祐樹さんです。しかし、祐樹さんの父親がどうなるのかという点は、母親である智恵子さんにとっても大変な問題です。そこで、次回期日、母親の智恵子さんに利害関係人としてご参加頂いたらどうかと考え、祐樹さんに打診しました」
絵莉が、大きく息をつきながらなるほどとうなずいた。
「智恵子さんにご参加頂いて、和馬さんと直接顔を合わせて頂ければ、祐樹さんの父親が丹羽和馬さんなのか否かは一目瞭然です。もちろん、智恵子さんご自身のご意向を確認しなければいけませんが、祐樹さんはこの提案を了解されました」
絵莉が、和馬の方に目をやった。
「私の方も、それは願ってもないことです」
和馬は、極力冷静を保とうとしているようだった。そんな和馬を瀧川裁判官がじっと見ていた。裁判官は事実と証拠を元に判断を下すのが原則だが、当事者の様子や態度振舞いも大きな要素となる。絵莉は、この裁判官が和馬の主張に嘘偽りがないことを見て取ってくれていることを祈った。

act.19

「どうだった?」
玄関のドアを開けると、母親が待ち受けていた。ずっと気が気ではなかったのだろう、顔が土気色に見える。
「何だか、とんでもないことになったよ」
智恵子の顔からさらに血の気が引いた。
「どういうこと?」
「とりあえず、この書面を読んで」
祐樹が、今日の調停の席で受け取ったばかりの書面を取り出した。
「申立人が提出した主張書面。15年前、ぼくを認知したのは申立人の丹羽和馬氏ではない。和馬氏の兄さんだって言うんだ」
「兄さんって。あんた、何言ってるの?」
「とても口では説明できないよ。とにかく読んでみて」
母と息子は、ダイニングテーブルに向かい合って座った。智恵子は、微かに震える手で書面を持って食い入るように字面を目で追い始めたが、ほんの数行読んで言った。
「祐樹。気が散るからちょっと一人にしてちょうだい」
息子に見られているのがいかにも居心地が悪いようだった。いいよ、読み終えたら呼んでと言って、祐樹は自分の部屋に引き上げた。
書面を読み進むのに併せて、智恵子の脳裏にあの夜の記憶が蘇る。

あの夜‥‥。
忘れもしない、あれは、祐樹の5歳の誕生日だった。いつもよりちょっとだけ豪華な料理にワインを一本、そして手作りのケーキ。
いつに変わらぬ親子三人の食事だったが、あの人の様子だけがちょっと違っていた。トレードマークだった長髪を短く切りそろえてひげもそっていた。おまけに、スーツにネクタイ姿。一体どうした風の吹き回しなの、と言っても、祐樹の誕生日だからと言って笑うだけだった。
食事中も、いつもはお喋りなあの人がこの夜に限って物静かだった。思えば、表情も何だか重苦しげに見えたような気がする。
食事を終えて、あの人は祐樹を手招きした。傍に来た息子をぎゅっと抱きしめて耳もとで何かをささやいた。いつもとは明らかに違う様子に、何だか妙な胸騒ぎがしてならなかった。
祐樹を先に寝かしつけた後、あの人はいつになく真剣な面持ちで、話があると言った。
「智恵子。今日は、お前に大切なことを話しておかなきゃいけない」
「あまりいい話じゃないみたい」
そうでもないよ、とあの人は笑った。
「実は、今日、市役所で祐樹の認知の届け出をしてきた。いずれ、きちっとけじめをつける積りだった。5歳の誕生日はいい機会なんじゃないかと思ってね」
ちょっと自分の耳を疑ったっけ。
とうとう、祐樹に正式に父親ができる。父親の名前が空欄になっていた戸籍に、この人の名前が書き込まれる。これまで戸籍謄本を見るたびにたまらなく哀しい思いをしてきたが、敢えて口に出すことはなかった。でも、この人は分かってくれていた。
涙がぼろぼろと溢れてくるのにも構わず、私は立ち上がってあの人の胸にしがみついた。あなた、ありがとうありがとうと、うわ言のように繰り返していた。
「いずれ、新しい戸籍謄本を取り寄せて確認するといい。祐樹の両親は、丹羽和馬と本間智恵子となってるはずだ」
しばらくそのまま抱き合ったまま、私は幸せを噛みしめていた。そして、その興奮が収まるのを待っていたかのように、あの人は身体を離して両肩に手を置いた。
「智恵子。お前には、もう一つ言っておかなければならない」

つづく (^.^)/~~~

#39

<前#まで ~認知無効調停の第2回目期日。ついに本間祐樹が裁判所に出頭した。和馬が全く見も知らないこの青年は、戸籍上はれっきとした和馬の息子とされているのである。調停の席で、祐樹は一体何を語るのだろうか>

「ついに主役登場か」
「いよいよですね。私も、さすがにちょっと緊張してきました」
だが、和馬たちはそれから長く待たされることになる。かなり込み入った事情だけに、祐樹の聴取には時間がかかっているようだった。

「本間祐樹さんからこれまでの経緯を事細かに伺いました」
ようやく調停室に呼び込まれた和馬たちに、調停委員が切り出した。
「事実関係は、基本的にお母様が書かれた陳述書の通りで間違いないようです。幼い頃の記憶など一通りお聞きした後、申立人が相手方を認知した事実はなく申立人の兄が届け出た可能性が高いというご主張の概略をお伝えした上で、先日ご提出頂いた主張書面と調査報告書をご本人にお渡ししました。今、控室の方で改めて読んで頂いています」
「こちらの主張を聞いて、祐樹さんは、どんなご様子でしたか」
「あくまで私どもの印象ですが、その、あっけに取られたような感じで。まったく理解が及ばないのか、とりあえず反論なさる様子は見受けられませんでした」
主張書面には、15年前の認知届が虚偽のものであること、届け出たのが丹羽和馬の兄の英世であること、さらに、兄が弟になりすましたカラクリまでが克明に書かれている。
自分の父が丹羽和馬であると彼が信じ込んでいたのだとすれば、祐樹の衝撃は計り知れない。生まれてこの方父親だと思っていた男が、実はまったく違う人物だった。そんな途方もない現実を、そう簡単に受け止めきれるとは思えない。青年は今、どんな思いであの書面の文字を追っているのだろう。
「祐樹さんの記憶では、幼かった頃にはお父様はいつもご自宅のマンションに来ておられたとのことです。ところが、いつの頃からか顔を見せなくなった。後で母親に聞いたところでは、祐樹さんの5歳の誕生日が最後だったそうです」
やはり、ずっと前に、父親は母子と関係を絶っていた。だから、母子は父親が和馬を装った別人であったことも、はるか昔に亡くなっていることも知らないままだったのだ。
「物心がつくかつかないかの齢ですから、お父様のことはほとんど覚えていらっしゃいません。ただ、最後の夜のことだけはおぼろげな記憶があると仰っていました」
   最後の夜!
絵莉は、ちょっと待って下さいと言いながら、あわてて資料のファイルをひっくり返した。認知の記録が記載された本間親子の戸籍を開く。
「やっぱりそうだった。うろ覚えでしたけど、認知の届け出は平成16年の9月1日。祐樹氏の5歳の誕生日当日です」
絵莉の言葉に、和馬がちょっと考え込む。
「兄が他界したのは平成17年の年明けでした。亡くなる少し前でしたか、当初余命半年って診断だったけど、桜が咲けば丸1年生き延びたことになるって言ってたのを覚えてます。ということは、末期の肺がんの診断が出たのは平成16年の春‥‥」
「そして、英世さんが社長を装って認知届を出したのがその年の秋口。肺がんの診断からおよそ半年後ということになります」
和馬と絵莉、そして二人の調停委員もしばし押し黙った。それぞれが、ここまでに分かった事実とそこから想定される可能性に思いを馳せていた。
一体どうして、兄は弟になりすまして認知届を出すなどという行為に及んだのか。和馬の脳裏に、昨日由紀夫が語った言葉がよみがえる。
15年前、余命が短いことを知った英世は、精神的にも経済的にも何の拠り所もない愛人と幼い息子を残して逝くことの不安にさいなまれていた。そんな時、英世の耳元で悪魔がささやく。お前の死後、世を忍ぶ愛する者たちがつつがなく暮らしていける手立てはないのか。それを見つけて実行することだけが、野放図な人生を歩み続けたお前の唯一の生きた証しではないのか、と。そして、英世は我が子を大富豪の実子と偽るという行為に手を染めた。和馬は、今はもうこの世にいない兄のやるせない思いを痛いほどに感じていた。
絵莉もまた、昨日の由紀夫の言葉をあらためて反芻していた。英世があの企てを実行に移したのがあの年の祐樹の誕生日当日だったという事実は、由紀夫の想像が決して的外れではなかったことを物語っているような気がした。確信を深めながら絵莉が口を開いた。
「祐樹さんは、今、我々が提出した書面を読んでおられるはずです。祐樹さんにとっては大変衝撃的な内容だとは思いますが、今回の認知無効の申立ての理由は十分に理解されるはずです。事ここに至れば、もう論点は一つに絞られるんじゃないでしょうか」
二人の調停委員は無言で聞いている。
「祐樹さんが父親だと思っている人物は、本当に申立人である丹羽和馬なのかどうか。この点が最大の問題です。祐樹さんは、幼い頃、父親と頻繁に会っておられました。だとすれば、顔ぐらいはおぼろげにでも覚えていらっしゃるんじゃないかと思うんですが」
絵莉がちょっと言葉を切って和馬の方を見た。和馬がうなずく。
「いかがでしょう。いっそのこと、当事者双方が直接顔を合わせることはできないでしょうか。申立人とお兄様の目鼻立ちが似ているというのは事実ですが、決して瓜二つというわけではありませんし、15年経ったからと言って顔立ちそのものが変わるわけもありません。実際に面と向かえば、すべてが明らかになると思うんですが」
調停委員が顔を見合わせた。親子関係を自明のものと思っている息子とそれを真っ向否定する父。二人の当事者が面と向かって直接対峙する。5歳の時から会っていないとはいえ、確かに目の前の男が自分の記憶の中にある父なのかどうか判断できる可能性がないとは言えない。
調停委員も、こうした成り行きを考えないではなかった。しかし、ここまで入り組んだ事情と当事者たちの感情の機微を思うと、そこで起こる事態は想定しがたい。おいそれと進めるわけにはいくまい。まずは相手方の祐樹が同席に同意するかどうかを確認した上で、最終判断は裁判官に委ねることとなった。
和馬は、絵莉とともにいったん控室に戻った。10分、20分、じりじりしながら、ただ待つしかなかった。間もなく30分が経とうとする頃、大変お待たせしましたと声が掛かった。

つづく (^.^)/~~~

#38

<前#まで  ~本間智恵子の切々とした陳述書を読んで、関係者一人ひとりがあの事件に隠されていた事実に思いを馳せ、亡き英世に対する思いを新たにしていた。英世の実の子と思われる祐樹本人がついに出席するであろう調停の前夜、島津由紀夫は生前の英世との最後のやり取りを語り始めた>

「英世さんから紅葉を観に来ないかと連絡が来たのは、その年の秋だった。余命いくばくもない幼なじみからのお誘いだ。断る理由はなかった」
平成16年11月末。英世は、3階あたりまで吹き抜けになった広々としたラウンジでくつろいでいた。アール・デコ調の豪華なテーブルとソファが並び、ステージ状になった一角にはグランドピアノまで置かれている。一見して、よほど裕福な階層でなければ入所できそうもないしつらえであった。
水族館を思わせる巨大な窓から見事なもみじの庭園を望みながら向かい合った。英世は、若い頃の放蕩三昧が嘘のような吹っ切れた表情を見せていた。
好き放題やってきたから今さら何も思い残すことはないんだが、と英世は言った。ただ、親ってのは面倒を掛けられるのが生き甲斐みたいなもんだからまあいいとして、弟の和馬にまで迷惑を掛け通しだったことが心残りでな。あいつには色々言い遺しておきたいことがあるんだが、まだもうしばらくは生きてる積りだから、と言って英世は薄く笑いを浮かべた。
そこで、由紀夫先生に一つお願いがあるんだが、と彼は続けた。
やっぱり。一緒に紅葉を愛でようというだけで声を掛けてくれたというわけではなさそうだった。
「あのみっともない事件からもう十年近くになるかな。その節は、先生には本当にお世話になったなあ」
英世は、妙に殊勝な顔で話し始めた。
「自己破産でほぼスッカラカンにはなったけど、おかげで借金の方はきれいさっぱり無くなった。でも、和馬の奴は、俺を丹羽地所に迎える時かなりの額の支度金まで用意してくれた。ほんと、あいつにだけは頭が上がらないよ。あれ以来、ギャンブルからはすっかり足を洗ったんだが、まあ色々付き合いもあって、残念ながらその金ももうほとんど残ってない」
さもありなん‥‥。由紀夫は、心の中でつぶやく。音楽はこの人の人生そのものだ。派手な業界にいれば、ちょっとやそっとの金、あっという間に羽を生やして飛んでいっただろう。
「俺の肺がんがもう末期だってことは先生も知ってるよな」
英世は続けた。
立つ鳥、後を濁さずって言うだろ。知っての通り俺には嫁さんも子どももいないから、もしもの際、俺の相続人は弟の和馬だけってことになるんだが、残念ながらわずかばかりの預金以外遺産と呼べるものは一切残ってない。
そこでだ、と言いながら、英世が胸ポケットから封筒を取り出した。封はしていない。表に『遺書』と書かれているのを見て、由紀夫はちょっと胸を突かれた。
促されて、封筒から一枚の便箋を取り出す。そこには、ほんの三行ばかりの手書きの文字が記されていた。
『私こと丹羽英世は、唯一の相続人である弟の丹羽和馬が、私の死後すみやかに相続放棄の手続きを取るよう望む』
その後に、今日の日付と署名と捺印がある。
「特に問題はないだろ」
「少なくとも、遺言状としての形式は整っています。内容についても、英世さんの明確なご意思が読み取れますので問題はありません。相続放棄をさせる強制力があるわけではありませんが、和馬社長は当然お兄様のご遺志を尊重するでしょう」
「そりゃよかった」
英世が笑った。
さすがに、ちっぽけな遺産の整理だの隠れた借金がないかだの、あの世に行ってまで和馬の手を煩わすのは忍びなくてな。だから、これは先生に預けておくから、その時が来たらよしなにお願いしたい。英世は封筒に丁寧に封をして、改めて由紀夫に手渡しながら言った。
「この期に及んで、まだ由紀夫先生に面倒をかけるのはまことに心苦しいが、どうかよろしく頼む」
「確かに承りました。ついては、念のためにお聞きしておきますが。その後はもう借金はありませんよね」
英世が破顔する。
そりゃもっともな質問だ。でも、それは言わぬが花、ということにしとこう。ひょっとすると、俺が死んだ後、相続人の和馬宛てに巨額の請求書か届くかも知れんぞ。だから、借金も含めて相続放棄しとけば間違いない。言わずもがなのこんな遺言を書いたのはそういうわけだ。そう言って、英世はもう一度小さく笑った。
それからほんの数ヶ月で、英世は危篤状態に陥る。連絡を受けて由紀夫が駆けつけた時には、既に和馬をはじめ丹羽家の主な顔ぶれが揃っていた。庭園のあの見事なもみじは、すっかり葉を落としていた。
いよいよいまわの際になって、縁の深い親族が英世のベッドサイドに集まった。由紀夫も、枕元の和馬の後ろから見守っていた。意識があるのかないのか、朦朧とした様子の兄が弟にしきりに何事かを語りかけようとしているように見えた。和馬が、兄の口元に耳を寄せる。英世が何かをつぶやき、和馬が一言二言応えた。厄介をかけ通しだった弟に、気ままで放埓な人生を一言謝罪したのだろうか。兄弟とも幼い頃からの遊び友達だった由紀夫にはそんな風に見えた。
こうして、英世はあっけなく逝ってしまった。父の代から丹羽家に迷惑をかけ続けた人生は決して褒められたものではなかったが、和馬にとってはかけがえのない二人きりの兄弟だったのも事実。その喪失感は決して小さくはないようだった。
地元の名だたる旧家として恥ずかしくないだけの葬式を済ませ、一息ついた頃、由紀夫は故人の遺言を預かっていることを和馬に伝えた。手続き上、自筆の遺言には裁判所のお墨付きが必要とされているが、由紀夫が知っている内容からすればそんな手間をかけるまでもない。
由紀夫は、封をしたままの遺言状を唯一の相続人である和馬に手渡して、英世と語り合ったあの秋の日のことを話した。もちろん、和馬に迷惑の掛けっぱなしのまま逝くことになった慚愧の念を伝えることも忘れなかった。
「その数日後、和馬から相続放棄手続きの依頼があった」
ああそう言えば、と麻乃が大きくうなずいた。
「そんな案件がありましたっけねえ。大富豪の丹羽社長が敢えてお兄さんの遺産の相続放棄なんて、何だか違和感があったのを覚えてます。そうですか、あれは英世さんのご遺志だったんですか」
さすがミス・マルチタスク、記憶力の方もあなどれない。
「お二人さんのご期待には沿えないが、その後、和馬宛てに巨額の請求書が届くことはなかったな」
女二人が顔を見合わせてくすりと笑った。

     act.17

翌朝。
JR川崎駅東口を出て川崎港方向に向かって徒歩15分余り。戦前に建てられたとおぼしき横浜家裁川崎支部の建物はすっかり老朽化している。調停がスタートする朝10時前になると、一基しかないエレベーターの前には当事者や弁護士たちが長い列をなす。館内冷房も本来機能をほぼ喪って久しく、夏場ともなれば人々は汗にまみれてただ呆然と立ち尽くすばかりである。おまけに、年季の入ったエレベーターが息も絶え絶えに昇るスピードたるや、おそらく階段で上がった方がよほど早いに違いない。
かくして、調停室のある4階フロアにたどり着いた時点で当事者たちは既に心身ともに疲労困憊、満を持してと高ぶっていたモチベーションは半減することになっている。そんな試練を乗り越えて、丹羽和馬と島津絵莉はやっとのことで前回と同じ申立人控室に着席した。
調停委員が顔をのぞかせたのは、指定時刻の10時ちょうどだった。委員は、先ほど本間祐樹さんがお見えになりましたので今日は相手方から先にお話をうかがいます、とにこやかに告げた。

つづく (^.^)/~~~

#37

<前#まで ~本間母子は、丹羽和馬を名乗っていた父が、実は和馬の兄の英世だった事を知らない。英世は一体どうして弟になりすまして本間祐樹を認知するなどというとんでもない行動に出たのか? 丹羽兄弟の幼なじみでもある弁護士の由紀夫がその謎を解きほぐしていく>

已むに已まれぬ理由‥‥。
瞬間、和馬が はっと何かに思い当たったように小さくうなずいた。
「末期がんの宣告か‥‥」
絵莉と百合香が同時にああっと声にならない声を上げた。
「おそらく。余命いくばくもないことを知った英世さんは、自分の命よりも何よりも、心ならずも日陰者にしてしまった我が子、未だ5歳にもならない祐樹を遺していくことに胸が張り裂ける思いだったろう」
和馬が、百合香が、そして絵莉が息を殺して由紀夫を見つめている。
「もう、間もなく自分の命は燃え尽きる。この身を投げ打ってでも、残された時間で幼い我が子のために何かできることはないのか。きっと、英世さんは自問自答を繰り返したはずだ」
「その時、悪魔のささやきが聞こえた‥‥」
「ああ。時間に追い詰められて、英世さんは必死でもがき抜いたに違いない。多分、もう冷静な判断ができる状態じゃなかったかも知れない。そして‥‥、悪魔の声に導かれるまましゃにむに突っ走った」
由紀夫が言葉を切って、再び沈黙が場を支配した。それぞれが、英世の心情に思いを馳せているようだった。
しばらく経って、気を取り直したように和馬が口を開いた。
「でも、この本間祐樹という青年。幼い頃からずっと、自分は丹羽和馬の子だと信じてたんだろう。だとすれば、当の和馬からすべてが虚構だったという主張を突き付けられて、今、どんな思いでいるんだろうな」
その場の皆がちょっと虚を突かれた。嘘の認知届のからくりを暴くことばかりにかまけていて、英世の忘れ形見と思われる青年の心情に思いを馳せたりする余裕などこれまで誰にもなかった。
「その辺りのことを判断する材料は、まだ一切ありません。申立人側としては、英世さんと本間親子との関係を前提に、認知届が虚偽であったことを主張していくしかありません」
情よりも理を旨とするのが職務である絵莉が事務的な口調で言った。
「相手方は今になってこんな陳述書を提出してきました。おそらく、明日の調停には出席する積りだと思われます。そうなれば、局面が大きく動きます」
「私とこの祐樹という青年との直接対面が、いよいよ現実味を帯びてきたな」
和馬が、ぽつりと言った。
「成り行き次第ですが、果たして祐樹氏が対面に応じるかどうか‥‥」
「でも、もしも直接対面が実現したら。何だか、想像するだけで空恐ろしいような‥‥」
再び、沈黙が流れた。
以前にも、和馬と祐樹の直接対面の話が出たことはあった。しかし、その時点では、認知無効に白黒をつける手っ取り早い方法という意味合いしかなかった。この不可解な出来事の裏に丹羽英世という存在がいたことも、智恵子や祐樹との秘められた関係も、誰一人知らなかったのだ。
沈黙の中、今この場にいる四人が四人、それぞれが同じことを自問自答していた。
  智恵子と祐樹は、本当の夫であり父親である英世の死を知らず、今もなおその人物が丹羽和馬だと思い込んでいるのだろうか。とすれば、もしも母子と本当の和馬との対面が実現して事実が顕わになった時、そこに立ち現れるのは一体どんな光景なのか。母子にとって、それは人生の土台が崩れ去るような瞬間になるのではないだろうか‥‥。

その夜。
由紀夫と絵莉が事務所のソファで向かい合っていた。脇のパイプ椅子には、さも当然のように秘書の麻乃が控えている。テーブルにはハイボールと2本の缶ビール、麻乃が小ぎれいに盛り付けたナッツだのサラミだのの小皿が並んでいる。
「本間智恵子さんの陳述、ほんと身につまされたわ。英世さんの人物像が180度変わっちゃった」
「私も、読んでてもう涙がぽろぽろ」
「あれ? 麻乃さんも、あの陳述書読んだんだ?」
訊くまでもない。裁判所から送られてきた陳述書をスキャンしプリントアウトしたのはこのミス・マルチタスクなのである。
女たちの感傷的な会話にちょっと引き気味になりながらも、由紀夫も内心は同じ思いだった。
「父さんは英世さんとも幼なじみなんだよね」
「つくづく思ったよ。家を出て無軌道な人生を歩んできても、英世さんの根っこは変わってなかったんだなって。前にも言ったろ。ほんとは心根の優しい人だったって」
「でも、大人になってからの破滅的な振舞いしか知らない私たちからしたら、ちょっと想像できなかった」
「だろうな。実は、智恵子さんの陳述書を読んで、俺にはちょっと思い当たることがあってな」
絵莉と麻乃が同時に由紀夫を見た。
「例のギャンブルで破産した後、英世さん、さすがに心底悔いたみたいだった。弟の申し出に応じて丹羽地所に形ばかり籍を置くようになってからは、それなりに身を慎むような気配もうかがわれた。ところが、だ」
英世に肺がんのステージ4という診断が出たのは、不品行が鳴りを潜め平穏な日々が続いてしばらく経った頃だった。精密検査でほぼ手の施しようがない状態まで進んでいることを告知された英世は、しかし、ほとんど取り乱すこともなく、多摩丘陵にある緩和ケア専門の終末医療施設に入所した。もちろん、担当医からの丁寧な病状説明を受けた弟和馬の手配によるものだった。
「その秋のことだ。紅葉が実にきれいだから、秋を満喫しがてら是非遊びに来てくれという連絡をもらったんだ‥‥」

つづく (^.^)/~~~

#36

<前#まで ~本間親子は、母智恵子を地獄のような日々から救い出してくれたのが丹羽和馬だと思い込んでいる。しかし、それが本当は兄の英世だった事は間違いない。それならば ‥‥ 。次から次、疑問が果てしなく湧き上がってくる>

「この文面からすると、智恵子さんは、本当の父親である英世さんが亡くなっていること自体を知らないということになるよな?」
そりゃそうでしょ、と言いかけた絵莉の口が固まった。考えてみれば、智恵子は祐樹の父親は丹羽和馬という人物だと思い込んでいる。だとすれば‥‥。
「私たちは、奈津子の調査報告で智恵子さんと英世さんとの関係を確認できたけど、本間親子にとっては、そもそも丹羽英世なんて人は存在しないのよね。二人が頼りとしてきた夫であり父親である人物は、あくまで丹羽和馬と名乗る別人なんだもん。とすれば、本間親子は、その人物がとっくに亡くなっていることを今も知らないままってこと?」
「そういうことになる。それともう一点。本来であれば、英世さんが亡くなった時点で突然彼からの連絡が途絶えたはずだよな。でも、智恵子さんの陳述書からは、そんな様子がまったくうかがえない」
確かに、といった表情で三人がうなずく。
「ということは、英世さんは、亡くなった時点で、既に本間親子と完全に縁を切っていたことになるんじゃないか」
四人は、しばらく押し黙った。ここしばらくの間に立て続けに起こった現実、そして智恵子の書面で今日初めて知った事情。それらを重ね合わせて、それぞれが懸命に事態を整理しようとしていた。
そのくぐもった空気を破って、由紀夫が四人を現実に引き戻した。
「原点に戻ってみよう。もしも、英世さんが和馬になりすまして例の認知届を出したんだとすれば、その目的は?」
「自分の実の息子に社長の財産を相続させるため、としか考えられないよね」
「まあ、普通に考えればそういうことになる。認知を届け出た15年前といえば、まだ和馬の奥さんの淑子さんも健在だった。確か、跡継ぎの駿介君を丹羽地所に迎え入れることが決まった頃だな。普通、妻よりも夫の方が早くなくなるもんだから、英世さんとしては、将来弟の和馬が亡くなった時点で、遺産の半分は淑子さん、残りを駿介君と自分の息子が半々で相続するぐらいのことを考えてたんだろう」
「父さん」
絵莉が割って入る。
「ちょっとしっかりしてよ。婚外子と嫡出子の相続分を平等にするって最高裁判決が出たのは平成25年よ」
「おっと、そうだったか。ってことは、認知を届け出た平成16年の時点では、婚外子に当たる祐樹氏の法定相続分は駿介君の半分だったわけだ。正確に計算すると‥‥。淑子さんが二分の一、駿介君が六分の二、祐樹氏が六分の一、ってことになるか。絵莉、これでいいんだよな」
「はいはいお見事、正解よ」
ところが、案に相違して妻の淑子が早くに亡くなり、その後長男の駿介も不慮の事故で世を去る。その結果、遺産のすべては、駿介に代わってその忘れ形見である次男の恭介が相続することになった筈だった。ところが、そこに突如、祐樹が駿介の腹違いの弟として登場。その結果、現状では、和馬の孫である恭介と認知された祐樹が二分の一ずつの相続分を持つことになってしまった。
「もし和馬社長が百合香さんを養女にしたとすると、法定相続分は恭介君、祐樹氏、百合香さんが三分の一ずつということになる」
「でもさ、平成16年の時点で、英世さんがそんな先のことを予想できたはずがないわよね。どう考えたって」
和馬がうなずきながら大きく息をついて、それにしても、と言った。
「本間親子は、その辺りの経緯や英世さんの思惑をどこまで知っていたのやら。本間智恵子という人物は、長年付き合ってきた男の正体に何の疑問も持たなかったんだろうか」
「地獄から救い出してくれた男性に頼り切って、ただ一途にすがりつくしかなかったんでしょうか‥‥」
百合香がぽつりと言った。きっとそうだったんだろうな、と思わずうなずいた絵莉がはっと我に返る。弁護士としては、必要以上に対立相手を思いやるわけにはいかない。
「でもさ。そもそも、初対面の時に英世さんはどうして和馬社長の名前を名乗ったんだろ」
百合香が応じる。
「まさか、その時点で、遺産をかすめ取ろうなんて企んでたとは思えませんよね。そのホステスと特別の関係になるかどうかも分からないし、ましてや将来子どもが生れるなんて想定できるはずもありません」
由紀夫が、陳述書のコピーをめくりながら言った。
「二人が知り合ったのは平成8年から9年頃だ。英世さんが例のギャンブルで巨額の借金を抱えて自己破産したのが平成7年」
皆の視線が由紀夫に集まる。
「あの頃俺は、破産手続きで英世さんと毎日のように会っていたけど、そりゃもう完全に腑抜け状態だった。浮かれて先代から相続した遺産を食いつぶしちまって、どこにも持って行きようのない自己嫌悪に陥ってた。打ちひしがれた英世さんが智恵子さんを見初めることになったのは、地獄を見てきた者同士の同病相憐れむような思いでもあったのかも知れんな。最初に和馬社長の名前を名乗ったことに、さほど深い思惑があったとは思えない。高級クラブでの見栄とかホステスにアピールしようっていう下心でもあったか、まあ酒の席での軽口かジョークぐらいのことだったんだろう。いずれにしたって、当初から和馬の遺産を狙う魂胆があったなんてことはどう考えたってあり得ない」
「それは間違いないよね。その後、智恵子さんと深い関係になってからも、結局言いそびれたままちょっといびつな関係が続いたってことかな」
「英世さん、ずっと独身だったんですよね。いっそ智恵子さんと結婚しちゃえばよかったのに」
確かに、と言ってから由紀夫が続けた。
「しかし、結婚して籍なんか入れたら、たちどころに自分の正体がばれてしまう。二人が出会った頃、英世さんはもう還暦を過ぎてた。六十年間気まま放題に生きてきて、初めて心底大切な人に巡り逢ったんだとすれば、だ。その人にだけは、金持ちの弟を装って騙してたなんて無様な事実だけは知られたくなかったか」
しばらく誰も口を開かなかった。老いらくの恋と、言葉にするのは簡単だ。しかし、そんな慣用句では決して言い表せない、二人がともに歩んだ日々をその場の皆が知っている。
「そして、結局智恵子と祐樹の前でずっと別人を装い続けてきたことで、英世さんはある日、悪魔のささやきを聞くことになる」
「悪魔は何てささやいたの? ずうっと丹羽和馬を装ってきたんだから、いっそ戸籍上でも既成事実を作ってしまえって? そうすれば、愛する我が子は大富豪の相続人になれるんだぞって?」
「そんな身も蓋もない言い方をするもんじゃない」
珍しく娘をたしなめるような口調だった。しかし、父はすぐにいつもの表情に戻って言った。
「けどまあ、当たらずといえども遠からずだろうな。でも、悪魔のささやきが聞こえたのは、あるきっかけがあったからだ。そして、悪魔に導かれてとんでもない企てを実行に移したのには、已むに已まれぬ理由があった」  
分るよな、と由紀夫が三人を順番に見回した。
けげんな表情の絵莉、眉根を寄せて考え込む百合香、そして最後に和馬と目が合った。 その瞬間、和馬が何かに思い当たったような表情を見せた。

つづく (^.^)/~~~

#35

<前#まで ~ 認知無効調停の第2回目期日の前日になって、ずっとなしのつぶてだった本間祐樹から初めて書面が届いた。書面には、祐樹の母智恵子の切々たる陳述が綴られていた。>

地獄のような日々を逃れて、智恵子はやっと手に入れた幸せをしみじみと感じていた。ところが、間もなくそんな二人の間に深刻な事態が発生する。 細心の注意を払っていたはずの智恵子が妊娠してしまったのだ。
「正直にお話しします。私は、社長との将来を望む積りなど決してありませんでした。でも、だからこそ私は、ほんの一つだけでいいから生きていく拠り所が欲しかったのです。まことにはしたないことを申し上げます。あの妊娠は、今日は安全日だから絶対に大丈夫と社長を偽った結果でした。社長との長いお付き合いの中で、私がついたたった一つの嘘でした」
妊娠を知った和馬は、案に相違して、手放しで喜んでくれた。それまで、川崎のマンションに来るのは週に一・二回だったのに、妊娠が分かってからはほとんど入りびたりになって何くれとなく世話を焼いてくれた。
間もなく、智恵子は男児を出産。もとより智恵子は、その子を和馬の子として届け出ることができないことは分かっていた。こうして、本間智恵子の戸籍に、父親空欄のまま祐樹という名の男の子が加わったのである。
和馬は慣れない手つきでミルクをやったり、おむつの交換も厭わずにやってくれたという。そして、私生児として育った祐樹が間もなく学齢期を迎える頃。
「根っから思いやりのある方です。ご自身の年齢を考え、そろそろけじめをつけなきゃならんなとおっしゃって。ご自分で認知を届け出て下さったのです」
そして、陳述書の最後は次のような言葉で締めくくられていた。
「まことに恥多き顛末をお話ししてしまいました。皆さま方には、こうした経緯をお汲み取り頂いた上で、どうか情理を尽くした寛大な判断を下して頂ければ幸いです」

絵莉は、何か胸に迫りくるものを感じないではいられなかった。陳述書の筆遣いから見て、本間智恵子は自分が付き合ってきた相手、そして我が子の父親が丹羽和馬だと思い込んでいると判断せざるを得ない。その男が、実は和馬の兄だったなどとは想像もしていないのだろう。
ただ、ここに描かれている男の人となりは、これまで聞かされてきた英世像とはほど遠いものだった。ギャンブルで身を持ち崩した自制心のかけらもない無軌道な人物と、慈愛をたたえた人情味あふれる人物との間には大きな乖離があった。丹羽英世という人物にそんな側面があったのか、それとも、ただ愛人の前でそういう人物を演じ続けていただけなのか‥‥。
ともかく、一刻も早く、和馬にこの陳述書を読んで貰わなければならない。絵莉は秘書の麻乃に大急ぎで陳述書をスキャンして数部プリントアウトしてもらい、画像データを和馬社長にメールしておくよう頼むと同時に事務所を飛び出した。
一時間あまり後、丹羽地所の社長室には和馬と秘書の百合香、この事件の代理人の絵莉、そして急遽呼び出しを食った顧問弁護士の由紀夫の4人が顔を揃えていた。由紀夫が智恵子の陳述書のコピーに大急ぎで目を走らせている。事前にメールで書面を受け取った和馬と百合香は既に熟読していた。
由紀夫が読み終わるのをのんきに待ってもいられない。絵莉が口火を切る。
「智恵子さんの陳述書、私もそれなりに感ずるところがありました。おそらく、智恵子さんの言葉に嘘はないでしょう。でも、陳述書に登場する和馬社長がご本人でないということは明白です。では、社長を名乗って智恵子さんと付き合っていた人物は、一体誰なのか」
「私になりすませるぐらい丹羽家や会社のことを詳しく知っていて、長髪にひげで音楽関係の仕事をしている人物」
百合香が後を引き取った。
「そして、興信所の調査で、かつて本間智恵子さんの住むマンションに出入りをしていたことが裏付けられた人物、ということになりますね」
「私になりすまそうなんて、そんな突飛なこと発想する人間はどう考えたって一人しかいない」
と言った和馬の口調は、しかし思いのほか穏やかだった。亡き兄と見知らぬ女性との秘められた過去に深く思いを馳せていた様子がうかがわれた。
「私は英世さんと会ったことがないので何とも言えませんが、これまでに聞かされていたイメージとは随分違っているような気がしましたが」
「いや、英世さんは、小さい頃から思いやりのある人だったよ」
やっと陳述書を読み終えた由紀夫が口を挟んだ。
「幼い頃よく一緒に遊んだから、よく覚えている。確か俺たちは英世さんの3学年下だったんだが、子どもの頃の3歳の差は大きい。メンコにしたってベーゴマにしたって、俺たちがいくら必死になったって敵うわけがないだろ。和馬なんか、負けるたびに大泣きするもんだから、英世さん、バレないように上手に手加減してくれるんだ。英あんちゃん、優しいとこあるなあっていつも思ってた」
「おいおい、冗談だろ」
「いや、本当だ。ガキの頃から和馬は単純だったから気が付いてなかったと思うけど、俺にはよく分かる。あの人は、高校中退して家を出たっきりで不行跡を重ねたし、莫大な遺産をギャンブルで食いつぶすなんて取り返しのつかないことしでかしたからイメージは最悪だけど、根は情のある人だった」
「そう言えば‥‥」
和馬が、思いを巡らせるように視線を上げた。
「俺の幼い頃、丹羽の家では子どもが悪さしたらお仕置きに土蔵に閉じ込められたもんなんだが」
「ああ、覚えてるよ。あの魑魅魍魎の館に閉じ込められるって聞いて、子ども心に心底ぞっとしたよ」
「もう勘弁ならんとなって親父に俺が蔵まで引きずって行かれる時、兄貴、自分のことみたいにわんわん泣き叫ぶんだ。親父の足にしがみ付いて、父さん止めて和馬を許してやってって」
「うーん。英あんちゃんなら分かる気がする」
「その反面、流されやすくて頼まれたら嫌とは言えない。悪く言えばちょっと人に迎合するところがあったかな。周りに乗せられて結局破産することになったのも、そんな性格が災いしたんだと俺は思ってる。でもまあ、智恵子さんとのことは、天国の兄貴に問いただすわけにもいかんしなあ」
「それにしても‥‥」
百合香がぽつりと言った。
「そもそも智恵子さんは、一体どういう積りでこんな陳述書を書かれたんでしょう? 一度は我が子を認知してくれた和馬社長に、どうか思い直してくれと懇願されてるんでしょうか」
「おいおい、ちょっと待ってくれ。忘れないで欲しいが、私は認知してないんだからな」
「あっ、それはもちろんそうなんですけど」
慌てる百合香に一時場が和んだものの、それぞれがまだちょっと混乱していた。
「待てよ」
しばらく黙り込んでいた由紀夫が、ちょっと我に返ったように言った。

つづく (^.^)/~~~

#34

act.16

一カ月余りの間をあけて設定された第二回目期日の前日のことだった。相手方の本間祐樹から代理人弁護士の島津絵莉に書面が届いた。万年筆の丁寧な文字でしたためられたその書面は、コピーが裁判所にも送られているとのことだった。
絵莉は、少なからず驚いた。明日の期日にも、おそらく祐樹は来ないだろう。その場合は、裁判所から出頭勧告をしてもらい、それでも埒が明かなければ速やかに訴訟を提起する。その既定路線で準備を進めていた。そこに唐突に届いた相手方からの初めての書面だった。
絵莉は、デスクに腰を下ろしておもむろに目を通した。
冒頭に『陳述書』と記された書面は、「私は、本件の相手方、本間祐樹の母、智恵子です」との文言で始まっていた。
「私は、昭和49年に新潟県長岡市で生まれ、平成7年に23歳で結婚、横浜で新生活を始めました。ところが‥‥」
ところが、職場で知り合った結婚相手は、外づらはいいくせに妻に対しては、一方的に力でねじ伏せるような男だった。結婚生活が始まると同時に、何か気に障ると突然キレて殴る蹴るの暴力にさらされる日々が始まった。そのくせ、一時の激高がおさまると、智恵子を抱きしめて、悪かった、もう二度としないと、一転別人のような優しさを見せる。智恵子も、その度にやり直そうと気を取り直す。そんな事が、幾度も幾度も繰り返された。
一体何が原因なのか、自分の何が悪いのか、智恵子には皆目見当がつかなかった。果てしない地雷原をびくびくしながら這って歩くような毎日が続き、一度ならず警察沙汰になったこと、骨折して入院したことさえある。退院後、夫はさらに智恵子に異常な執着を見せるようになる。その結果、半ば監禁状態に置かれ、精神に不調をきたすまでに追い詰められていったのだという。
八方ふさがりの中、智恵子は思い切ってDV被害者の支援機関に連絡を取り、決死の覚悟でシェルターに逃げ込んだ。そこで公的な支援を得て、調停・裁判と泥仕合を重ねた末に、平成8年、やっとのことで離婚が成立。智恵子にとってそれは、時に悪夢にうなされ、時にフラッシュバックに苦しんだ末にかろうじてつかみ取った一筋の光明だった。
しかし、自分に強い執着を示していた元夫に所在を知られることは、恐怖以外の何ものでもなかった。そのため実家に帰ることもできず、智恵子は秘かに新宿で一人暮らしのスタートを切る。離婚したばかりで何のキャリアも資格もない若い女が一人で生きていくためには水商売を選ぶしかなかった。幸い、新宿でも指折りとされるナイトクラブにホステスとして採用され、何とか一人で生きていく目途をつけることができるようになる。とはいえ、元夫による精神的な呪縛からまだ逃れられずにいた智恵子にとって、虚飾に彩られた昼夜逆転の毎日は精神的な安らぎからは程遠いものだった。
そんなある日、音楽関係の仲間の送別会の流れだというグループの席に着くことになる。その中にいた、長髪にひげ面の中年の男が、人懐こい笑顔で智恵子にしきりに話しかけてきた。警戒心の強い智恵子だったが、この男には意外なほど不快感を持たなかった。今思えば、店にやってくる年かさの男にありがちな下心をまったく感じなかったからかも知れない。
男はその後、どこか影のあるうら若いホステスに興味を覚えたらしく、足しげく店に通うようになった。来店のたび智恵子を指名して、どこか陰のあるホステス相手に音楽業界や芸能界の裏話など話術巧みに語るのが常だった。ただ、一方的に好き放題喋りまくるわけではなく、智恵子が興味深げに耳を傾けたり、時にくすりと笑うのがうれしくてたまらないようだった。
男は丹羽和馬と名乗った。そして、若い頃からの趣味が嵩じて音楽の世界にも首を突っ込んでいるが、家業を引き継いだ不動産経営が本業なのだと語った。音楽業界と不動産業界、ちょっと意表を突いた取り合わせでもあり、男の風貌にしてもおよそ会社の経営者とは見えなかった。でも、そういう経済的裏付けがあるからこそ、思う存分自由に趣味にのめり込めるのだと言って男は笑った。ウソや軽口や作り話がまかり通る夜の世界。その時点では、敢えて疑問を差しはさむほどこの男に興味があるわけでもなかった。
だが、そのうちに、男の人となりについての智恵子の印象は少しずつ変わっていった。この人は、いつも暗い表情の私を楽しませようとしてくれる。他愛のない話でも、その声を聞いている間だけは、かつての傷心の日々を忘れられるような気がするのだった。智恵子は徐々に、年の離れた和馬に対して父親のような優しさと包容力を感じるようになっていた。
笑いと嬌声に溢れた華やかな店の中で、和馬と智恵子がいる一角だけは別の時間が流れているようだった。いつの頃からか智恵子は、婚姻中の地獄のような日々のこと、今もPTSDに悩まされ時にビルから飛び降りる衝動に襲われること、ママにもホステス仲間にも固く口を閉ざしてきた秘密を少しずつ打ち明けるようになる。この頃には、和馬の饒舌は鳴りを潜め、すっかり聞き役に回っていた。それにしても、一体どこの誰が、わざわざ高いお金を払ってお酒を飲みに来て、そんなうっとうしい話を聞いてくれるだろう。でも、和馬は違っていた。いつも親身になって耳を傾けてくれ、時にその目に涙さえ浮かんでいたことも智恵子は知っている。
ある夜のこと、話すうち感極まった智恵子は和馬の胸で思いっきり声をあげてむせび泣いた。しゃくりあげる彼女の肩を、和馬は幼な児をあやすようにただ撫で続けていた。ホステスとしてあるまじき行為とママから厳しく叱責されたその夜、智恵子は自ら店を辞めている。
その後、和馬は川崎市多摩区に智恵子の名義でマンションを購入、水商売から足を洗っても不自由しないだけの月々の手当てを渡すようになる。粗暴な男との地獄のような生活で引き裂かれた智恵子の精神は、和馬との限られた時間を過ごすうちに、徐々に、しかし確実に癒されていった。
「ありふれた言い方ですが、恋人でもあり父でもありという何ものにも代えがたい存在でした。社長が家庭をお持ちだということは聞いていました。でも、社長は、鬱々として何一つ先の見えない生活から私を救い出してくれた大切な方です。だから、その方の家庭の平穏を乱す事だけは決してすまいと心に決めていました」
智恵子が暮らすマンションに週に何度か和馬が訪れる。そのささやかだが満ち足りた毎日は、何事にも代え難いものだった。和馬を新潟の両親に紹介することはできなかったが、落ち着いたところで久しぶりに帰郷して、微妙なところはぼかしつつ現状を報告。その表情から娘の心情を十分に察してくれたのだろう。目を細めて娘の話に聞き入る両親の姿に、智恵子はやっと手に入れた幸せをしみじみと思っていた。
ところが、間もなくそんな二人の間に深刻な事態が発生する。

つづく (^.^)/~~~

#33

<前#まで ~懸命の聞き込み調査の結果、ついに奈津子が丹羽英世と本間祐樹の接点を探り当てた。それは、英世が大富豪である弟の和馬になりすまして祐樹を認知したという仮説を強く裏付ける重要な事実だった>

間を置かず、第一報が絵莉にもたらされた。
絵莉は、沸き立つような思いを抑えて直ちに丹羽地所の社長室に電話を入れる。受話器を取ったのは、もちろん秘書の百合香だった。我知らず、動悸が上がり呼吸も荒くなっている。
「百合香さん。どうか落ち着いて聞いて下さい」
落ち着くのは絵莉さんの方でしょ、とでも言いたげに百合香がくすりと笑った。
「百合香さんの推理、どうやら的中したかも知れません」
「推理って。あの車のキーの件ですか? じゃあ、やっぱり常務が‥‥」
「はい。調査の結果、とうとう英世常務と本間智恵子の接点が見つかりました。詳しくは後ほどお伝えしますが、先ずは社長につないで頂けますか」
高揚した絵莉の報告を聞いて、そうかと思わず声を上げた丹羽和馬だったがその口調は徐々に沈んで行った。考えてみれば、たった一人の兄がとんでもない所業に及んだという仮説がいよいよ現実味を帯びてきたのだ。真相解明に向けて事態が大きく進展したとはいえ、決して手放しで喜べることではない。
「調査報告書が上がり次第、運転手さんの証言録音と一緒にお持ちします。英世常務と本間親子とのつながりが確認できた以上、私の方では百合香さんの推理を踏まえた主張書面の作成に入ります」

        act.15

調停の初回期日までに、本間祐樹からの反応は一切なかった。ただ、裁判所からの通知を受け取っているのは間違いないとのことだった。
その日、午前9時40分、丹羽和馬と代理人の島津絵莉は横浜家裁川崎支部に到着した。調停は、相手方、つまり本間祐樹の住所地を管轄する裁判所に申し立てることになっている。申立人控室と相手方控室は離れた位置にあり、お互いが顔を合わすことのないよう配慮されていた。二人は、申立人控室の長椅子に並んで腰を下ろす。
「いよいよですね。今日、祐樹氏が出頭するかどうか分かりませんが、少なくとも調停委員にこちらの主張だけはしっかりと聞いてもらいましょう」
「もしも、相手方が来なかったら、調停はどうなるのかね」
「とりあえず、次回の期日を決めて出席を促します。それでも、ずっと欠席した場合は、裁判所から何らかの働きかけをすることになると思います」
「それでも来なければ?」
「首に縄をつけてでも、という訳にはいきませんから、おそらく調停は不成立となって打ち切り。その場合は次の段階、認知無効の訴訟を提起することになります」
「裁判にも来なければ?」
「基本的には、原告である社長の主張を被告の祐樹氏が全面的に認めたとみなされます。いわゆる欠席裁判ということになって圧倒的に有利にはなりますが、家事事件の場合、必ずしも主張がすべて認められるわけではありません。何しろ身分関係を変更する訳ですから、それなりの裏付け証拠は不可欠です」
「例の兄のなりすまし疑惑。あれは、どの程度の裏付けになるのかな?」
「裁判官の判断次第ですが、お兄様と本間母子との関係を示す調査報告がありますから、十分に考慮されると思います」
指定時刻になって、申立人側の和馬と絵莉が調停室に呼び入れられた。男女の調停委員から簡単な手続き説明を受けた後、本題に入る。
「相手方の本間祐樹さんはお見えになっていますか?」
絵莉が、一番気になっていたことを訊く。
「先ほど相手方控室を確認したんですが、お姿が見えません。裁判所からの通知は受け取ってらっしゃるようなんですが、答弁書も出てませんし、一切反応がありません」
やっぱり。調停は双方の話し合いが基本だが、一方が出席しないのでは文字通り話にならない。
絵莉は、今後の進行がどうなるのかを尋ねた。とりあえず、次回期日を設定して郵送で通知し、それでもやはり何のアクションもないようであれば、意向調査、出頭勧告などの手続きを取ることになるとのことだった。
「もし、それでも駄目なら‥‥。調停不成立の判断をせざるを得ません」
想定していた通りの展開だった。
そこから、事情聴取が始まった。概要は、申立書面に書いた通りですがと前置きして、先ずは和馬が、15年前の認知届けにまったく身に覚えがないこと、認知した相手にも何の心当たりもないことをかいつまんで語った。
そこからは絵莉が引き取った。従って、この認知は無効だというのが私どもの主張ですが、もちろん、何の根拠もなくそんなことを申し上げているわけではありません。本日、もう一通の主張書面を提出しますと言って文書を取り出した。
「これは、この虚偽の認知が、誰によってどういうカラクリで届け出られたのか。その経緯を調査した結果を克明に記載したものです」
二人の調停委員が、思わず顔を見合わせた。
「主張内容は後ほどご確認頂くとして、かいつまんで概略を説明させて頂きます。申立人の秘書の記録によれば、認知届がされた当日、申立人の実兄が申立人の車のキーを借り出したことが分かっています」
絵莉は、これまでに明らかになった事実と、そこから導かれる仮説を述べていく。申立人は運転免許証を車に保管しており、それを知っていた実兄が、前日にそれを持ち出し当日に車に戻した疑いが強く推認される。普段長髪にひげ面でラフな服装だった実兄が、この日に限って容貌を整え、スーツ姿だったことも確認されている。普段は似ても似つかない兄弟だが、実は顔立ちはそっくりで、髪や服装を整えると秘書も一瞬見間違えたぐらいだった。
こうした事実を総合すると、弟になりすました兄が、市役所で弟の免許証を示して認知を届け出た可能性が非常に高い。ただ、その事実を確認しようにも、この実兄は認知届の翌年に他界している。付け加えるならば、実兄は当時肺がんに侵されており、虚偽の届け出をした時点で既に余命いくばくもない状態だった。
「ちなみに、申立人は都下有数の資産家ですが、実兄は以前一度破産しており、さほどの財産はありませんでした」
絵莉がここでいったん息を整えた。この間ずっと、二人の調停委員は息を詰めるように聞いていた。
「もちろん、これだけであれば突飛な妄想のように思われるかも知れません。私どもは、申立人の兄が、一体どうしてこのようなとんでもない行動を取るに至ったのか、その動機についても調べました」
絵莉は、バッグから文書の綴りを取り出した。
「これは、相手方本間祐樹さんと、その母親である智恵子さんの身辺調査報告書です。これも、後ほど精査して頂きたいんですが、本間さん親子がお住まいになっているマンションに、かつてこの実兄が出入りしていたという調査結果が記されています」
二人の調停委員が、ほおっと声にならない声を上げた。
「十数年も前のことですから、申立人の実兄と智恵子さんの具体的な関係までは確認のしようがありませんが、ここまでの事実から導き出される結論は一つです」
絵莉は、ここで一呼吸を置いた。調停委員は身じろぎもしない。
「申立人の兄は、自分と関係の深い人物を大富豪である申立人の相続人とするために、弟を装って虚偽の認知届を出した。もうこの世にいらっしゃらないお兄様を貶めるのは決して本意ではありませんが、事実は事実として主張するしかありません。私どもは、申立人が認知したことになっている本間祐樹氏は、おそらく申立人の兄の実子なのではないかと推察しています」
しばし、沈黙が調停室を包んだ。家族関係のトラブルには慣れっこの調停委員たちも、さすがにここまでの事態は想定外だったようである。困惑しながら、この驚愕のストーリーを反芻していた。
「今申し上げたことはあくまで仮説ではありますが、提出した書面を読んで頂ければその蓋然性が極めて高いことがご納得頂けるはずです」
従って、15年前に出された認知届は違法な手続きによるものであり無効であることに疑問の余地はない、という言葉で絵莉は陳述を締めくくった。その熱弁を気おされた面持ちで聞いていた調停委員が、やっと我に返ったように言った。
「ご主張は概ね分かりましたが、どうもこれは軽々に扱える問題ではありませんね。今日ご提出頂いた主張書面と調査報告書は、裁判官も含め、後ほど精読させて頂きます。ぜひ相手方からも反論をお聞きしたいところですが、今日のところはどうしようもありません。次回には何とかご出席頂けるよう、裁判所からも働きかけたいと思います」
こうして、ひとまず次回期日の日取りを調整した上で、初回の調停は終了した。

        act.16

それは、初回から一カ月余りが過ぎた第二回目期日の前日のことだった。

つづく (^.^)/~~~

#32

<前#まで ~今は亡き丹羽英世が15年前に弟の和馬社長を装って嘘の認知届けをしたのだとすれば、認知された本間祐樹とは一体何者なのか? 認知無効を立証するためには、何としてでも英世と祐樹の接点を見つけ出さなければならない。調査員奈津子の必死の聞き込みが続いていた>

三日目も、朝からほぼ丸一日を費やしたものの成果はゼロ。さすがの奈津子も意気消沈気味で、これはちょっと方針を変えるべきかと思い始めた夕方近くのこと。
これまでと同様、信号待ちを見計らって丹羽英世の写真を見せた時、反応を見せた運転手がいたのだ。昔何度か乗せたことがある男かも知れないと言う。勢い込んで、とりあえず目についたコンビニの駐車場に車を入れてもらった。
「よく見てもらえます。どう? 間違いないですか?」
「まあうろ覚えだけど。長髪にひげでしょ。この辺りじゃ、あんな風体の男はそうそうおらんから」
人の好さそうな初老の運転手が笑いながら言った。
「どこで乗せたんですか?」
途端に運転手の表情が硬くなった。
「いや、申し訳ないね。個人情報を話すわけにはいかないんですよ。会社からきつく言われてますから」
「そりゃそうですよね、でもね、林さん」
奈津子は、料金メーターの上に掲示されている写真入りの乗務員証の名前を呼び掛けた。
「これにはちょっと事情があるんです。実は、私は東京の興信所の調査員なんですけどね」
奈津子は、名刺を運転手に手渡しながら続けた。
昔、この男に騙されてひどい目に遭わされた若い女性からの依頼で、何とかして探し出さなきゃいけないんです。この男、当時この辺に住んでたらしくて‥‥。口から出まかせだったが、今は何としてでも林運転手の証言を得なければいけない。
ひどい目って? 
実は。と、これまで経験した事件を適当に組み合わせて、この男がいかにあくどい人間なのか、この誠実そうな運転手の正義感に訴えそうなストーリーを語った。全財産を貢がされただの、会社の金にまで手を付けただの、挙句の果て心身ともにぼろぼろになっただの‥‥。
中年男に騙された若い女性とくれば、若干リアリティに難があっても聞き手の方で自由に想像を膨らませてくれる。この辺り、長年の経験でもう手慣れたものだが、平気な顔でこういうでっち上げができることに、奈津子はプロとしての自負心と人としての自己嫌悪をほんの少し感じている。
ひでえ奴だね‥‥。
ぼそりと呟いた初老の男の表情に、ちょっと迷いが生まれている。
よし。ここは、押しの一手だ。
彼女、それからすっかり精神を病んじゃって、ずうっと引きこもり状態だったんですよ。でも、最近になってようやく気力を取り戻してね。社会復帰して再出発するためには、どうしてもあの男を探し出して忌まわしい過去にけりをつけるしかないって、もう必死なんですよ。もちろん、10年以上も前の話だから法的にどうこうできるわけではないんですけどね、と言いながら手の中で折りたたんだ5千円札を運転手に押し付ける。
運転手は、札を手にしたままちょっと考え込んだ。職業倫理的な抵抗感が、正義感の前に徐々に崩れていくのが分かった。
「俺が言ったなんて、絶対に言わないでくれよ」
もちろんです、と言いながら、奈津子はICレコーダーのRec表示が赤く光っているのを横目で確認している。無断録音は令状がないと原則違法とされるが、それはあくまで警察の犯罪捜査におけるルールだ。民事事件の場合、無断録音でも大抵は証拠採用されるし、その効果には絶大なものがある。ましてや、今回の目的は裁判のための証拠集めではなく、百合香仮説の裏付け調査なのだ。
林運転手は、この道30年以上という超ベテランだという。JR南武線沿いの川崎市内、東急・小田急・京王といった各私鉄との乗換駅を中心に流しているという。その途中、近くから無線で配車の依頼があった場合は喜んで受けることになる。そんな形でたまたま何回か乗せたことがある男が、この写真の男に非常によく似ているとのことだった。
「この男性の迎えの場所はどこだったか、覚えてらっしゃいますか?」
「うーん、もうずいぶん前のことだからなあ‥‥」
林運転手が目をつぶって考え込む。
「確か、何回か迎えに行ったはずなんだけど」
もしも林運転手の記憶にあるのが英世その人なのだとすれば、間違いなく十数年も前のことになる。写真の男の顔立ちに覚えがあっても、どこで乗せたのかまでは思い出せないようだった。
「ひょっとして‥‥」
奈津子が声を掛ける。誘導は避けた方がいいのだが、このままでは、まったく埒が明きそうもなかった。
「ひょっとして、レジデンス多摩川?」
「レジデンス多摩川? 稲田の‥‥?」
林運転手が考え込む。奈津子は、固唾を飲んでそんな林を見つめる。
と、林が何かに思い当たったように何度か頷いた。
「そう言えば、確かに、あそこだったかも。あのマンション、珍しく車寄せがあってね。道路側の壁に屋根がせり出してちょっと暗がりになってるから、天気がいいと目が慣れなくってさ。初回の時、そこにあのひげ面がぬうっと顔出したもんだから、ちょっと肝つぶしたんだ」
林運転手が、何だ、姉さん、知ってたんじゃないかとつぶやくのを聞きながら、奈津子は秘かに拳でガッツポーズを取っていた。
英世は、生前智恵子が住むマンションに出入りしていた。英世と智恵子、問題の二人の接点がついに見つかったのだ。つまり、和馬になりすまして智恵子の息子を認知したのが兄の英世であるという妄想じみた仮説に、初めて信憑性が生まれたことになる。
奈津子は、もう一度英世の写真を見せて、レジデンス多摩川で何度か乗せたのがこの男に間違いないことを再確認する。
「あの風貌だからね。どうしたってこの辺りじゃ目立つよ。そうそう、おまけに確かこの人、長距離客だったからねえ。まあ、この辺りの客は、大抵駅とか病院とか役所とか近距離がほとんどなもんだから、余計に印象に残ってるんだ」
「へえ、長距離。ちなみに、行先はどちらでしたか?」
奈津子が、内心の興奮を懸命に抑えながらおずおずと訊く。
「確か、毎回都心まで乗ってくれたっけなあ。俺たちにとっちゃあ、ほんとに有難いお客さんだったよ」
「都心と言いますと?」
「いや、そこまではちょっと」
「四谷とか?」
「うーん、そうだったかも‥‥」
少なくともこの人物が都心まで乗っていたのは間違いないようだ。英世氏が住んでいた四谷の可能性だって十分にある。
かつて、丹羽英世と思われる人物が何度も本間智恵子のマンションを訪れていた。二人の直接の接触を確認することまではできないが、もう十分だろう。これまでに分かった事実を組み合わせれば、真相は自ずから明らかだ。
「林さん、本当に助かりました。さっそく被害者に報告させて頂きます。きっと大喜びされると思います」
「まあ、その子のために、少しでもお役に立てたんならうれしいよ」
林運転手が満足げに笑った。実のところ、被害者は若い女性ではないのだが。心からのお礼と嘘のストーリーをでっち上げた謝罪を込めて、奈津子はそっと頭を下げた。
さあて、苦労に苦労を重ねてついにこの手でつかみ取った成果だ。一刻も早く絵莉に知らせなきゃ。
奈津子は、このことは会社には絶対内密にしますと約束した上で、林運転手の名刺をもらってそのままいつもの駅に直行してもらった。
取り急ぎ連絡を入れた佐野と改札口で落ち合う。満面の笑みで迎えてくれた佐野の顔を見て、思わず涙ぐみそうになるのをどうにか抑えて奈津子が言った。
「師匠。因果な商売も、まんざら悪くはないですね」
大先輩が白い歯をのぞかせながらうんうんとうなずいた。

つづく (^.^)/~~~

#31


<前#まで ~百合香の秘書手帳のメモと記憶によって、和馬社長の兄の英世が嘘の認知届けに関わっていた可能性が浮上した。とはいえ、英世と認知された本間祐樹との関係は未だ何一つわかっていない。>

act.14

絵莉から百合香の推理を聞かされて、女探偵の好奇心は再びフル稼働の様相を呈した。夫婦や親子兄弟間の調査を数限りなくこなしてきた松尾奈津子にとっても、多摩の大富豪の家で起こった今回の出来事はこれまで経験したことのないものだった。
絵莉との最初の打ち合わせで確認したミッション。それは、嘘の認知を届け出た犯人・方法・動機の三点セットを解明することだった。そのうち、犯人と方法については、社長秘書の百合香がついに一つの仮説を探り当てた。その仮説の裏付けになる事実を探し出すことこそが女探偵に課せられた使命だ。その裏付けさえ見つかれば、残る『動機』だって自ずから明らかになるに違いない。
前回の調査で特筆すべき成果を上げられなかっただけに、今度こそはの念も一入であった。ただ、今度のミッションも決して簡単なものではない。何しろ、もう十何年も前に亡くなった人物の生前の行為を探らなければならないのだ。興信所の仕事は、現在進行形の調査がほとんどだ。過去の事実を探り当てるというのは、本来得意とするところではない。でも、盟友の絵莉の方は、既に家裁に認知無効の調停を申し立てている。初回期日までに、何としてでもあの仮説を裏づける事実を探り当てるのが奈津子の任務だ。責任は重い。
前回、本間親子の周囲に男性の気配はまったく見当たらなかった。だが、今度は、闇雲に対象の身辺や行動を追いかけるのではなく、ある目的に沿って事実関係を探り出すという作業だ。いわば、前回がゼロからストーリーを作り出すための調査だったとすれば、今回は明確なストーリーに添って裏付けを探す調査ということになる。実際の聞き込みに当たっても、今度は対象人物の写真が大きな威力を発揮することになる。丹羽英世という特定の人物の顔だちや体格、身なりなど、聞き込みのためのツールを存分に使えるのだ。
ただし、その前に大きな問題が横たわっている。その人物は、既に十数年前に亡くなっているのだ。その人物の生前の足取りを辿るのは生半可な作業ではない。その困難さを十分に心得つつ、奈津子は行動を開始した。
本間智恵子は近所付き合いがあまりない。都内の中高一貫校に通い、そのまま大学へ進んだ祐樹の友人も近くにはいないようだ。だが、そのことは、聞き込み調査の障害にはならない。むしろ、親しい知り合いに遭遇すれば警戒されかねないし、そこから本人に調査員の存在が漏れる可能性だってないではない。
奈津子は、佐野という初老のベテラン調査員とコンビを組んで入念に周辺の聞き込み調査を開始した。佐野は、奈津子が松尾リサーチに入った当初、探偵業の何たるかを叩きこんでくれた師匠でもある。
手始めに、手分けして近隣のコンビニやスーパーを訪ね、親子と接触のありそうなマンションの住人に目星をつけて注意深くコンタクトを取った。だが、英世の写真に対して心当たりがあるという情報はまったく得られなかった。いくら写真があろうが、やはり十数年も前の片隅の記憶など、とっくに風化しているのが当たり前なのか。
奈津子は、佐野と相談して聞き込みの対象を切り替えることにした。思わしい成果が得られなければ、臨機応変に方針を変更する。期限に迫られるのが宿命の探偵業の鉄則だ。
もしも、英世氏が本間親子の暮らすマンションに通っていたのだとすれば、どんなルートを使っていたのか。その頃の英世氏の自宅は都心に近い四谷のマンションだったことが確認できている。英世氏は自分で運転をしないし、おそらく電車を使うタイプではなさそうだ。四谷から川崎に通っていたとすれば、タクシーの可能性が高い。都心で流している無数のタクシーを洗い出すのはおよそ現実的ではないが、郊外の住宅地なら話は別だ。川崎から四谷に帰る際には、電話で近辺のタクシーを呼んでいたのではないか。百戦錬磨の佐野も同じ意見だった。
確かに、日々不特定多数の客を乗せるタクシー運転手が10年以上も前の客のことを憶えているかどうかは疑問だ。しかし、電話で配車を頼んでいたとすれば、いつも決まったタクシー会社に依頼していたに違いない。奈津子の経験では、タクシー運転手は常連とまではいかなくても何度か乗せた客の顔は本能的に記憶しているものだ。しかも、あの辺りの住宅街では、英世氏の風貌はけっこう目立っていた可能性もある。
奈津子と佐野は、マンションの近隣のタクシー会社に狙いを定めた。ただし、猫も杓子も個人情報という時代だ。クレームを恐れる会社からきついお達しが出ているらしく、近頃はタクシードライバーの口もやたらに固くなっている。
しかし、そこは蛇の道は蛇。多少の鼻ぐすりを使ってでも有益な情報を取ることは、今も昔も探偵の常套手段だ。もちろん違法行為というわけではないが、あまり大っぴらにするのもはばかられるので、鼻ぐすりを必要経費として請求することはない。つまり、他の経費の中に潜り込ませることになる。
直接タクシー会社の営業所に行って、運転手のたまり場で訊けば話が早そうだが、会社側に知れると事が面倒になる。まずは、最寄り駅の構内に並んでいる地元のタクシーに乗って、片っ端からドライバーに当たってみようということになった。一応は客だから、そうそう粗末にあしらわれることもないだろう。多少経費はかさむものの、有難いことに、今回の依頼人はカネに糸目はつけない。
奈津子は、佐野と二人、手分けしてタクシーの聞き込みを開始した。だが、もちろんそう簡単にヒットするはずもない。初日、二日目と、二人合わせて喫した空振りの数は百の大台に近づいていた。
「探偵稼業ってつくづく因果な商売ですね」
二日目の深夜近く、ガラガラの上り電車で都心方面へ帰る道すがら、奈津子が思わず愚痴をこぼした。
「所長。探偵事務所のトップたる者、そいつは禁句ですよ」
いつも穏やかな佐野が、かつての師匠の顔をちらりと見せた。ベテラン調査員にとっては、こんなことは日常茶飯事なのである。
三日目も、朝からほぼ丸一日を費やしたものの成果はゼロ。さすがの奈津子も意気消沈気味で、これはちょっと方針を変えるべきかと思い始めた夕方近くのことだった。

つづく (^.^)/~~~