東京郊外に広大な土地を持つ名だたる旧家・丹羽家。
令和元年、丹羽家当主で地元経済界の重鎮・和馬は思いもよらない事態に見舞われる。あまりに不可解な出来事に直面した和馬は、旧来の友人であり丹羽家の顧問弁護士でもある島津由紀夫に助けを求めることになった。この不測の出来事の裏には何者かの陰謀が隠されているのか、あるいは和馬自身の何らかの行動が招いた事態なのか。
由紀夫の娘でやはり弁護士の絵莉の奔走、和馬の長男の嫁で長年秘書を勤める百合香が記憶をたどりながら巡らせる推理、そして探偵事務所の手練れ調査員奈津子の綿密な聞き込みによって、この不可解な事態に隠された秘密が徐々にあぶり出されて行く。

#27  ~2022.7.2~

由紀夫は、先ず裁判所で今回のケースのような海外の債務もすべて破産の対象になることを念入りに確認した。その上で、法務省や外務省に何度も問い合わせを繰り返しながら専門書と首っ引きで手続きを進めていった。それにしても、一個人が海外に何十億単位の借金を負うなどという事例はめったにあるものではない。次から次、頭を抱えるような事態に直面する。その度に、由紀夫は心の中で英世の愚かさ加減を罵りながら、それでも全精力を傾けて試行錯誤を重ねていった。結局、定例の業務以外はほぼこの事件にかかりきりで、ようやく目途がついた時には半年以上を費やしていた。
破産と言っても、何も借金すべてを踏み倒すというわけではない。自分の持てる財産をことごとく吐き出した上で、どうしても足りない分だけは返済を免除してもらうというのが基本だ。具体的には、本人の財産をすべて寄せ集めて、借金額に応じた割合で債権者一人ひとりに分配することになる。英世の場合、国内の借金は微々たるものだったから、実質的な債権者はマカオのカジノとホテルのみと言ってもよかった。
事前準備をやっとこさ整えた由紀夫は全債権者に通知書を送付。それを受けて、債権者集会にはマカオから黒いスーツにカラーシャツの債権者代理人が何人も来日し、百戦錬磨のこわもて達とのタフな交渉が連日続いた。その結果、借金総額には及ばないものの、マカオ勢は英世の巨額の財産の大半をせしめることになる。カジノやホテルは、そもそもが濡れ手で粟といってもいい債権者だ。最終的に20億という巨額の資金を回収できれば、上々の首尾と言ってもいいだろう。合意の書面にサインをした後、黒スーツの猛者たちは満面の笑みで由紀夫に握手を求めてきたものだ。
ようやく日本での免責手続きがすべて終了した後、由紀夫は、和馬にまで決して累が及ばないようにしておくことにも心を砕いた。改めてマカオの裁判所に日本での破産手続きの承認を申し立て、元債権者であったカジノやホテルの丹羽家に対する接触禁止命令まで周到に整えて、島津法律事務所最大級のミッションはようやく完了したのだった。
「これがまあ、英世さんが先代から相続した巨額の遺産が跡形もなく消えちまった一部始終ってわけだ」
聞き終えた絵莉が大きなため息をついている。
「父さん、大変だったんだ。あたしはその方面には疎いから、とても無理だわ」
「俺だって、あんな大変な仕事は二度と御免だ」
「その後、お兄様は丹羽地所に常務として迎えられたんですよねえ」
「ああ。たった一人の兄が無一文になっちまったんだからな。その辺り、和馬の心情も分かるだけに敢えて反対はしなかった」
「ちょっと泣かせるじゃん。和馬おじさんって、やっぱり男気があるよね」
「あの兄弟、性格は正反対だけど、お互い妙に情に厚いところがあるんだよな。とにかく、英世さんにそれなりの生活ができるだけの収入を確保してやるのが目的だったから、和馬も仕事の方に関してはまったく期待してなかった。それに、これはここだけの話なんだが」
由紀夫が、ちょっと意味ありげに目くばせをした。
「先代の遺産分割で英世さんが四分の一を相続したって言ったろ。その中に少しだけ不動産が含まれてたんだが、そいつの名義を書き換えないで先代のままにしておいたんだ。まあ、当時で1億にも満たない程度だったから、全体からすれば微々たるもんなんだが」
「一億円が微々たるもんとはねえ‥‥。あれ? ちょっと待って。父さん、それって遺言執行者としては、ちょっとまずいんじゃないの?」
「まあ、堅苦しく言えばその通りなんだが、所有権の移転登記が遅れても法的にはまったく問題はないからな。でも、たとえ自分の不動産であろうと登記名義が自分になっていないと売却はできない。つまり現金化できない、いわば宝の持ち腐れってなとこだな。まあ、英世さんのあの危ない性格に保険をかけておいたわけだ」
「ということは? ひょっとして‥‥」
由紀夫と麻乃が顔を見合わせて意味ありげに笑った。
「その不動産、破産手続きの対象にならなかったの?」
「登記上、その不動産は亡くなった父親名義のまんまだったから、本当は既に所有権が英世さんに移ってるなんて誰に分かる? まあ遺産分割協議書か相続税申告書でも確認すれば別だが、何しろその時点で既に相続から7年近く経ってるんだ。部外者には、そんなこと想像もできんだろう。丹羽本家関連の不動産の固定資産税は和馬がすべてまとめて支払ってたから、本当の所有者が英世さんに移ってるなんて誰にも分るはずがない。ましてや、相手ははるばるマカオからやって来た代理人だよ。7年以上も前の遺産分割のことまで調べられる道理がない」
「確かに、当事者からの主張がない限り裁判所は介入しないからなあ」
絵莉が、ちょっと呆れ顔でつぶやいた。
「かくして、英世さんの隠し財産には手を付けずに済んだ。いざって時のための保険が、意外な場面で効果を発揮したわけだ。ま、7年前の先代の遺言執行者であり、この時の破産管財人でもある俺にしかできない超頭脳プレーってとこだな」
「あきれた。父さん、それって、頭脳プレーどころか破産管財人としてはれっきとした背任行為じゃない」
しーっと口元に人差し指を立てた由紀夫が、敏腕秘書の方を見てにやりと笑う。
「ひょっとして、麻乃さんも知ってたの?」
「あら、まさか。秘書ごときがそんな裏のカラクリまで存じ上げてるもんですか」
横を向いて知らん顔を決め込んだ麻乃を見て、絵莉にも事の次第がはっきりと飲み込めた。
「父さん。口止め料はちょっと高いわよ」
分かった分かったと苦笑いした由紀夫に向かって、絵莉が真顔になる。
「英世さんの不祥事のことはよおく分かりました。でも、話を戻すと、百合香さんが気にかけているのはその超問題児の生前の不審な行動なんだよね」
「車のキーの件か。俺にはさほど不審行動とも思えんがな。15年前に、英世さんが仮に和馬の愛車のキーをたった数分借りたとしてだよ。それが、和馬の認知の問題とどう結びつく?」
「うーん。ほら、百合香さん、長年の秘書稼業が身に付いてるからさ。敬愛する社長に害を及ぼしかねない相手には本能的に警戒警報が鳴るのかなあ」
その辺りになると、絵莉も首をひねるしかない。
「麻乃さんは、どう思う?」
絵莉の問いかけに、麻乃がちょっと考え込んでから言った。
「私には、車のキーの件だけに限らず、その前後の英世さんの行動がちょっと引っ掛かりますね」
「というと?」
「いや、普段ご兄弟が一緒に行動なさることはあまりなかったんですよね。それが、突然ゴルフに誘ってきたり、めったに出社しない会社に顔を出したり。そこには、何か理由があるんじゃないでしょうか」
絵莉がちょっと色めき立つ。
「ねえねえ、例えばどんな理由が考えられる?」
「うーん‥‥。まったく見当もつきませんわ」
敏腕秘書のあっけらかんとした答えに由紀夫と絵莉ががっくりと肩を落とした。

#26

「先代は、遺留分を考慮して英世さんに四分の一、四分の三を和馬が相続するよう遺言を残していたんだ。それに従って、兄の英世さんが主に現金や金融資産を、和馬が不動産と丹羽地所の株式を受け取る形で双方が了解して円満に終了した」
「確かに、表向きは一応円満ってことにはなりましたけど。長男なのに四分の一なんて。あの時、英世さんは本当に納得されたんですかねえ?」
数多の争いを間近に見てきたベテラン秘書は、人の内面に潜む感情が気にかかっている様子である。
「実は、その10年以上も前に、俺は先代から遺言作成の相談を受けててね。先代は昔の家督相続への拘りがあって、跡継ぎの和馬にすべての財産を相続させたいと言ってたんだ。そこで俺は、長男の英世さんには法的に遺留分という権利があることを説明した上で、将来の丹羽家に禍根を残すことのない方法を取ることを勧めた。具体的には、遺留分に相当する遺産の四分の一を英世さんに相続させるべきだと進言したんだ」
遺留分。ごくかいつまんで言えば、遺言の効力が一部及ばなくなる規定である。たとえ相続人の誰かには一切相続させないという遺言があったとしても、妻や子らには、遺産の一定の割合をもらう権利が確保されているのだ。
既に妻の文子を亡くしていた登史郎の場合、相続人は英世と和馬の二人の息子だけ。仮に登史郎が全財産を和馬に相続させると遺言したとしても、英世は遺留分として遺産の四分の一を受け取る権利を持っている。
 四分の一とはいえ、一般庶民から見れば目の飛び出るような財産だ。その巨額の財産を、当時、まだ音楽業界と反社会勢力との境界線の辺りでうろついていたぐうたらな男に遺したことが正しい判断だったのかどうか。由紀夫は後に、愚兄の人となりを考慮せずに先代に助言したことを賢弟から責められることになる。丹羽家の将来を見据えれば、遺留分を巡って裁判で争うよりはよほど賢明な選択だったという由紀夫の申し開きも、その後の顛末を前にすれば虚しく響いた。
「親からすれば、勝手に家を出て行って親孝行のかけらすら見せなかった放蕩息子だからなあ。昔ならさしずめ勘当モンだ。四分の一とはいえ、遺産を受け取れただけでも上等。英世さんも、まあ納得してたんじゃないか」
「それにしても、あの丹羽家だもん。四分の一ったってけた外れだったんでしょ」
「ああ。評価額20億は下らなかった」
ヒュー、絵莉と麻乃が同時に口笛を吹いた。
「もっとも、相続税の方も目が飛び出るぐらいだったがな」
にやりと笑って、喋り詰めの由紀夫がひと息ついてから続けた。
「ただ、その後、英世さんはとんでもないことをしでかす」
「ああ、父さん、一時随分ぼやいてたよね。丹羽家史上最大のスキャンダルか」
「あの時は、本当に大変でした。顧問は、朝から晩までかかりきりでしたもんねえ」
麻乃が当時を思い出すように言った。
「英世さんは、ミュージシャンの夢はもうとっくにあきらめてたけど、もともとヤマっ気のある性格だったんだろう。莫大な遺産を相続した上に、何だかんだ言っても重しになってた親父さんがいなくなって、ちょっと有頂天になってたのかな。業界の悪い取り巻き連中に誘われてギャンブルにはまっちまったんだ」
「あーあ、もう予想通りの展開。飲む打つ買う、なんて言うけど、財産食いつぶすんなら何たってバクチが一番、よね」
「ギャンブル狂いたって、絵莉。英世さんのは生半可なもんじゃないぞ」
英世はマカオでホテル暮らしをしながらバカラ賭博に明け暮れて、父から相続した財産は結局2・3年で跡形もなく消えてしまった。巨額の遺産があったのは確かだが、もちろん無尽蔵というわけではない。
マカオのカジノでは、長期滞在のVIPはほとんど現金のやり取りはしない。金持ち連中は、いくら負けようが、財力に応じてホテルからいくらでもお金を融通してもらえるのだ。巨額の遺産相続で大富豪となっていた英世もその例外ではなかった。
すっかり気が大きくなってるから、負けるたびに倍々ゲームで借り続けて、気が付いたらとんでもないことになっていたというのが実態だった。ギャンブル依存症というのはたちの悪い病気だから、ギャンブル漬けの噂を聞きつけた和馬がいくら諭そうが諫めようがまったく効果はなかった。
「そういえば、昔、カジノで地獄を見たとか名言を吐いたどっかの名門企業の御曹司がいましたよね」
「ああ。あれとまったく同じさ。オーナー会社のカネ好き放題引っ張って背任で実刑食らったあの社長に比べたら、英世さんの場合は巨額ったって所詮は個人資産だ。たかだか20億ぐらい、まあ可愛いもんだ」
絵莉が、また大きくため息をつく。
「英世さんに、ご家族は?」
「若い頃、一度結婚したことがあるんだけど、嫁さんはすぐに出てった。独身時代と変わらず女性関係はルーズだし、業界の派手な付き合いにかまけてほとんど新居にも帰ってこない。多分行き当たりばったりで衝動的に籍入れたんだろうけど、まともな女性ならとてもついてけないよな。この時も、おふくろさんに頼まれて、先代には内緒で俺が離婚の交渉をしたんだ。子どもはいなかったし、あの時点では嫁に分与するだけの財産もほとんどなかった。けど、実家が裕福だからって慰謝料はそれなりに取られたもんだから、結婚なんてもうこりごりだなんて言ってたなあ。まっ、それにしたってせいぜいが500万程度だ。ギャンブルで20億スった人間の言い草とは思えんが」
「じゃあ、お子様もいらっしゃらない?」
由紀夫が頷く。
「まあ、家族でもいたら、さすがにあそこまでの無茶はしなかっただろうな」
話が横にそれちまったが、と由紀夫が話題を本筋に戻した。
「それで結局英世さん、マカオでの借金が雪だるま式に膨れ上がっていよいよにっちもさっちも行かなくなった。和馬に頼まれて、結局俺が後始末に走り回るはめになったってわけさ」
「島津法律事務所最大の困難案件だったかも。ほんと、思い出してもぞっとしますよ」
麻乃が大袈裟に肩をすくめた。
「借金はどれぐらいあったの?」
「ざっと50億。英世さんの遺産の倍は超えてたな」
もはや絵莉は驚かない。およそ現実感を欠いた数字の連続に、金銭感覚が完全に麻痺していた。
「そりゃ、もう破産するしかないね」
「和馬は、丹羽家から破産者を出すことにえらく抵抗したけど、海外のカジノホテルの借金がほとんどだから、義理ある相手に迷惑を掛けることは一切ないと説得した。ギャンブルによる破産は認められないこともあるが、名目上はホテルに対する負債になってたから何とかクリアできた。それにしても、相手は名だたるマカオのカジノだ。日本のウラ社会とも通じている。下手すると、和馬や丹羽地所にまで累が及ぶ可能性もあったから、俺も必死だったよ」

つづく (^.^)/~~~

#25          

           act11

「お帰りなさい」
事務所のドアを押した絵莉に秘書の麻乃が声を掛ける。
「和馬の件、何か進展はあったか?」
ソファでのんびりとコーヒーを飲んでいた由紀夫が尋ねた。向かい側に腰を下ろしながら絵莉が答える。
「内容証明にはまだ反応なし。松尾リサーチの調査報告で本間親子の実像はおおよそ見えてきたとはいえ、認知無効のエビデンス探しは手詰まり状態。今日も丹羽地所まで行って、認知届当時に何か思い当たることがないかって確認したんだけど‥‥」
絵莉が大袈裟に肩をすくめる。
「前途多難だな」
何とも緊張感を欠く父の顔を見ながら、ふと思いついて絵莉が尋ねる。
「父さん、アストンマーチンって知ってる」
「和馬の愛車だろ。大学時代、映画の007のボンド・カーに一目ぼれしたんだ。以来、あいつアストンマーチン以外眼中にない」
「へーえ、そうなんだ。 007、ジェームス・ボンドか。ねえねえ、そう言えば和馬おじさんって、ちょっとショーン・コネリーに感じが似てない?」
ああ、確かに言われてみれば、と口をはさんだのは秘書席の麻乃である。
「丹羽地所の社長さん、誰かにイメージが似てると思ったのよ。そうそう、ショーン・コネリーだわ」
「でしょ。和馬おじさん、顔立ちは純和風なんだけど、どことなく雰囲気が似てるんだよね」
「そう、あの頭の禿げ具合なんかそっくりよねえ」
「ひどぉい。でも、あんなかっこいいスキンヘッドはそういないよ」
「ちょっとお前たち、一体何の話してるんだ」
とめどがない会話を、由紀夫がやっとのことでせき止める。それをしおに、実はね、と言いながら、絵莉が百合香から聞いた車のキーのエピソードをかいつまんで話し始めた。
「じゃあ、百合香さんは社長の亡くなったお兄さんのことを何か疑ってるんですか?」
また麻乃が奥の席から割り込んできた。
「麻乃さんは、何食わぬ顔で全部話を聞いてるんだよなあ」
「はい。業務は完璧にこなしつつ、事件に関するお話はすべて聞かせて頂いてます」
やれやれ、と由紀夫がつぶやく。
このベテラン秘書は、既にこの事件の概要を把握しているようだ。マルチタスクは女の特技というのが口癖だけに、事務処理作業中でもその目と耳からは種々雑多な情報が次々とインプットされているらしい。
「車のキーと今回の件がどう関わるのかよく分かんないんだけど、何だか引っかかるらしいの」
「女の第六感ってやつか」
由紀夫の陳腐な感想にあきれたように首を横に振り振り、麻乃がソファの傍にパイプ椅子を置いて座り込んだ。
「顧問は、確か社長のお兄さんとも幼なじみなんですよね」
代表の座を絵莉に譲ってから、秘書は、由紀夫を顧問、絵莉を先生と呼んでいる。
「ああ、俺たちの3学年上だったかな。終戦で新制の小学校に入学した頃からかな、丹羽家に行く度に英あんちゃんって呼んで和馬と一緒によく遊んでもらった。絵莉も、子どもの頃に行ったことあるから覚えてるだろうが、丹羽家のお屋敷は古くてやたらにでかいだろ。俺たちはまだわけも分からないガキだったし、戦中戦後の頃だから片付けも手入れも行き届いてなかったからとにかく不気味でさ。何しろ薄暗いし、廊下と階段が入り組んでて行っても行っても果てしない迷路みたいだし」
「確かに、あのおうち、何だかちょっと得体が知れないみたいな感じはあったかな」
「あの頃は、母屋の裏に渡り廊下でつながった離れがいくつかあって、空襲で焼け出された親戚筋の人たちが何家族も暮らしてたみたいでな。離れの縁側に着物姿のおばあ様がひっそり座って笑いかけてきた時には、悲鳴を上げて逃げたもんだ。幽霊か妖怪にでも見えたんだろうが、我ながらまったく失礼な話だよ。探検気分で奥の間をのぞいてみたら、閻魔様の掛け軸が掛かってたり、般若だとか能面だとかが壁一面に飾ってあったりで、まあ怖かったのなんのって」
「へーえ。ワンダーランドみたいじゃないですか」
「なんだか楽しそうよね」
女たちが勝手な感想を漏らす。
「冗談じゃない。悪ガキが大勢集まった時には、数を頼りに恐る恐る肝試しみたいなことやったこともあるけど、普段はとてもとても。そうそう、離れの逆側にはちょっと離れて土蔵が並んでたんだけど、これがまた薄暗くて化け物屋敷みたいでな。英あんちゃんも和馬も、悪さする度にお仕置きで閉じ込められるって言うんだよ。それ聞いた時には、このうちに生まれなくてよかったって心底思ったよ。今なら、完全に児童虐待だな」
どうやら思い出話は尽きそうもない。
「父さん。お子様時代の話はまた今度聞かせてもらうから、英世さんのこと教えてよ」
「中学に入った頃からかなあ。英世さんはジャズだのカントリーだの進駐軍系の音楽に夢中になって、親父さんにねだって買い込んだレコードを一日中電蓄で聞いてたよ。もちろん、俺たちみたいなガキなんかもう全然相手にしてくれない。それからしばらくして、ロカビリーって和製ロックが大ブームになって、いよいよ手が付けられなくなっちまってな。突然高校を中退して、家出同然で音楽業界に飛び込んだのさ。親父さん怒り狂っちゃって、兄さんに憧れてた和馬はもうすっかりしょげ返ってたなあ」
その後、大学を卒業した和馬が丹羽地所に入社して先代登史郎の後継としての地歩を着実に固める中、由紀夫も若くして丹羽家と丹羽地所双方の顧問弁護士として招かれた。この間、和馬と英世の兄弟はほとんど音信不通だったと聞いている。
ただ、兄が事あるごとに、母の文子に金の無心に来ていたことに和馬は薄々気付いていた。半分ため息をつきながらも、母が漏らす言葉の端々からは、少しでも出来の悪い息子の力になってやれることを喜んでいるフシもうかがえた。母親というものは有難いものだと、そして、ああ見えて父親だって黙認していたはずだと和馬が苦笑いしていたのを由紀夫はよく覚えている。
英世と和馬が久しぶりに正面切って顔を合わせたのは、父登史郎の通夜の席だった。昭和から平成へと年号が変わったこの年、兄弟はともに五十の坂を越えていた。派手な業界で自由気ままに生きてきた兄と、丹羽家の後継者として累代の資産を運用する会社経営に精力を傾ける実直な弟。片や長髪のひげ面で、柄物シャツに形ばかりの黒ネクタイを締めた業界人、片や地元指折りの名士を弔う式典を粛々と取り仕切る喪主。数十年という月日を経て、兄弟は好対照というしかない姿で遺族席に並んでいた。
その後、登史郎の遺志によって遺言執行者に指名された由紀夫は、四十九日の法要と納骨を終えた時点で、相続人である英世と和馬の兄弟と向かい合うことになる。

つづく (^.^)/~~~

#24

「 キーを貸してくれとおっしゃったのは、当時の常務でした」
「常務?」
「はい。社長のお兄様の英世常務です」
数々の不祥事を繰り返してきた和馬社長の兄のことは、丹羽家の顧問弁護士である父から何度か聞いたことがある。
「確か、もう亡くなられているとか」
「はい。もう10年以上も前に肺がんを患われて。社長とは違って、お酒もたばこも何でもござれの派手な方でした。常務取締役に就任されたのは、私がこの会社にお世話になる少し前だったと聞いています。あまり大きな声では言えませんが、お父様から相続した莫大な遺産をギャンブルで使い果たしてしまって、やむなく社長が常務取締役の席を用意されたのだとか」
和馬おじさんらしいな、絵莉は思っている。
「何か、若い頃は音楽業界にいらしたとかで、最初にご挨拶した時、ひげ面の長髪に派手なTシャツ姿で、ちょっとびっくりしました。およそ不動産会社には似つかわしくないお姿でしたけど、よくよく見ると、やっぱりご兄弟だけあって目鼻立ちはよく似てらっしゃいます。やっぱり血は争えませんよね。あれ? 血は争えないって、兄弟の場合でも言うんだっけ?」
首をひねった百合香と顔を見合わせて、二人同時に吹き出していた。
「でもまあ、常務は殆ど出勤されることもありませんでしたから、社員たちもあまり関わらないようにしていました」
創業家一族の鼻つまみ、丹羽英世という存在がありありと思い浮かぶ。
「あの日、常務が訪ねて来られた時、社長は例の商工会議所のシンポジウムで都心にお出掛けでした。常務は、昨日、社長とラウンドした帰り、車にサングラスを置き忘れたとおっしゃって」
「へえ。ご兄弟でゴルフ。お二人だけで?」
「ええ、確かに手帳には、8月31日常務と多摩国際カントリークラブというメモがありました。そういえば、常務がゴルフをやってみたいって言うから付き合うことになったよって、社長、何だかうれしそうにおっしゃっていました」
──うれしそうに? 
親も家もないがしろにしてきた兄が、相続した巨額の財産を根こそぎ使い果たして弟の情けにすがって暮らしている。丹羽家の当主からすれば到底赦すことのできない所業だが、それでもこの世で二人っきりの兄弟だ。和馬社長にとって、兄はかけがえのない存在だったのだろう。
「初心者だから迷惑かけないように、ゴルフ場に頼んで平日二人だけで回れるように手配されたみたいです。でも、あの日、社長はお昼前には会社にお帰りになっています。とてもコースに出るようなレベルではなくて、ゴルフにならないからハーフだけで切り上げたんだそうです。結局キャディさんにはワンラウンド分以上走り回らせちゃったよって笑っておられました」
そうですかとうなずきながらも、百合香が何を言おうとしているのか、絵莉には話の行き先がまだ見えてこない。
「で、その翌日、お兄様が忘れたサングラスを取りに来られたんですね」 
「そうなんです。では、車までご一緒しますと申し上げたんですが、なあにほんの2・3分で済むことだからっておっしゃって。ですから、お車のキーをお渡ししたんです」
「それで? キーはすぐに戻されたんですか?」
「すぐにサングラス姿で戻って来られて、やっぱりサンバイザーに引っ掛けたままだったよって。本当にほんの数分ほどのことでした」
 絵莉の胸に膨らみかけていた興味が急速にしぼむ。
「その日、社長は帝国ホテルから直接帰宅されましたので、キーをお貸ししたことは翌日ご報告しておきました。ゴルフの帰り途、常務は棒ふりなんてもう二度とごめんだって言ってたけど、そりゃゴルフ場の側のセリフだよなって苦笑いされてました」
「英世さんが大変な不祥事を起こされた後も、ご兄弟の関係は決して悪くなかったんですね。確かにちょっと微笑ましいエピソードかとは思いますが。そのことが何か?」
問われた百合香が首をひねる。
「いえ、何かというわけではないんです。ただ、問題の日の前後で普段と変わったことがあったら一応ご報告しておこうと思いまして」
なるほどそうでしたか、とは言ったものの、絵莉にはその出来事と虚偽の認知届とがつながるとは思えなかった。

         act10

百合香とて、実のところは似たようなものだった。手帳のメモを見直しながら当時の記憶を一日一日じっくりと辿ってみた時、何かしら引っ掛かったのはこの出来事ぐらいしかなかった。それにしても、社長の兄が、ほんの数分間車のキーを手にしただけのことである。そもそも、社長の愛車を使って一体何ができるというのか。その疑念の正体を突き詰めようとすると、考える先から思念がモザイクの粒々となって手のひらからこぼれ落ちていく。そんな有様だった。
百合香は、サーバーから淹れたコーヒーを持って秘書席に戻った。ブラックコーヒーの香りが鼻腔に心地よい。
  15年前と言えば、ちょうど丹羽地所にアルバイトで勤め始めたばかりの頃だ。この本社ビルも、駿介が将来の社長含みで丹羽地所に迎えられることが決まって竣工したばかり。学生アルバイトとはいえ、真新しいオフィスに社長秘書として出勤するのはとても誇らしかったっけ。
当時のことを思い出しながら、百合香は考えを巡らせる。
  たかだか車のキーのことが、どうして気になるんだろう。ほんの数分貸しただけのことなのに。常務がスペアキーでも作ったとか? 無理無理。たった2・3分でできるはずがない。そもそも、何のために? 
──でも。もしかしたら‥‥。
百合香は、立ち上がって社長室のドアをノックした。
「百合香さん、どうした?」
「社長、つかぬことをおうかがいしますが、アストンマーチンのスペアキーというのは簡単にできるものなんでしょうか?」
「おいおい、藪から棒に何だ?」
「いえ、絵莉先生と話をしてて、ちょっと気になることがあったものですから」
「そうか。スペアキーなら私も作ったことがあるんだが、アストンマーチンは、名車だけあってやたらにセキュリティがしっかりしててね」
車の話になると、和馬は途端に饒舌になる。
「今のリモコンキーになる以前から、たかだかスペアキーのためにわざわざディーラーに車を持ち込まなきゃいけなかったんだよ。ペアリングって言って、工場で新しいキーを車両本体に認識させて同期させるシステムになってるんだ。まあ、面倒な分安心なんだがね」
百合香の表情が徐々に沈み込むのにも気付かず和馬は続けた。
「ペアリングを済ませていない合鍵を差し込もうもんなら、けたたましい警報音が鳴り響くから車泥棒も車上荒らしもまず不可能らしい」
普段、車になどまったく興味を示さない秘書に長広舌を振るっていた和馬が、ふと我に返る。
「どうしてまたそんなこと聞くのかね」
「いえ、私の思い過ごしだったようです。ちょっとでも気になることは、とりあえず確認して下さいって、絵莉先生から念を押されたもんですから」
和馬がいぶかし気に頷く。
「そういえば、社長。亡くなられた常務、お車はお好きでしたか?」
「いや、兄は音楽一辺倒だったから車なんてまったく興味なかったよ。確か運転免許も持ってなかったんじゃないかな」
免許もなかった‥‥。やっぱり思い過ごしだったのか。
「そうですか。社長、お時間取らせて申し訳ありませんでした」
「百合香さん」
出て行こうとする百合香を、和馬が呼び止めた。
「あなたには、変なトラブルに巻き込んでしまって申し訳なく思ってる。養子縁組の件も、ご両親とはじっくりとお話しして了解して下さってるんだが、あなた自身、何か納得できないようなことはないだろうか」
「いえ。駿介さんの遺志を継ぐんだと思えば、それだけで力が湧いてくる気がします。恭介が一人前になってくれるまで、何としてでも丹羽家と会社を盛り立てて行く。その覚悟はできています」
慎ましげな顔に決意の色が見えていた。
「恭介はまだ5歳だ。先は長いぞ」
「社長にご指導頂けるなら、精一杯、努力は惜しまない積りです」
和馬が微笑みながら頷いた。

つづく (^.^)/~~~

#23

「おっしゃる通りです。その状況を踏まえて、私としては、二つの方向性を想定しています」
ほお、聞こうじゃないか、という風に和馬が軽く頷く。
「調停の初回期日は、通常申し立てから2か月程度先に設定されます。初回期日で結論が出ず調停が続行する場合、二回目の期日はそこからひと月以上先になります。合意不能で不成立になって裁判になるとしても、それはさらにその先。つまり、私たちにはかなりの時間的余裕があります。その間に、15年前に誰が何のためにどうやって虚偽の申し立てをしたのか、全力を尽くしてその裏付けを取ること。これが第一の選択肢です」
結局は確たる見通しもない精神論的なプランか。和馬の表情に落胆の色が浮かぶ。それには気づかぬ気に絵莉は続ける。
「もう一つは、本間祐樹の真意を確認した上で、本人に対するアプローチ方法を検討することです。5歳の時に認知された彼は、成人した今、その事実を果たしてどう認識しているのか。認知届が虚偽であったことを知りながら親子関係を否定しないいわば確信犯なのか、それとも自分が億万長者の隠し子であるというおとぎ話を疑いもせず生きてきた脳天気な大学生なのか。現段階では彼の意思はまったく見当もつきませんが、真摯に事情を説明すれば、話し合う余地が生まれるかも知れません」
「一橋に通ってるぐらいだ。まあ、それなりの知力や良識を備えていてもおかしくはないだろうが」
「問題は、どうやって祐樹さんとコンタクトを取るかです。送った内容証明にはなしのつぶてですから、今のところ、こちらと話し合う気はないと判断するしかありません」
「なら、どうやって彼の意思を確認するのかね」
「裁判所の調停では、当事者同士は顔を合わせず、片方ずつ交互に事情や主張を聴取するのが原則です。でも、場合によっては同席で話し合うこともあります。祐樹さんの同意が得られて、もしも調停の席でお二人が直接対面することにでもなったら‥‥」
和馬が、ちょっと虚を突かれたような表情を浮かべた。
「果たしてどうなるのか、正直、私には想像もつきません。でも、調停で面と向かってお話をして、祐樹さんの考えや人となりが見えてくれば、局面を打開できる可能性が生まれるかも知れません」
和馬が目を閉じて考え込んだ。父と子が向かい合うその瞬間を思い浮かべてでもいるのだろうか。
「私はこの青年をまったく知らないし、彼の方だってそれは同じだ。見知らぬ者同士が、親子として顔を合わせたらどうなるか。彼は一体どんな態度を取るのか。はっきり言って、私にしたって自分がどんな振る舞いに出るのか見当もつかんよ」 
「ごもっともです。ただ、対面の機会があるとしても、まだまだ先のことです。それまでに、私は、届け出が虚偽であったことの裏付け探しを鋭意進めます。並行して、祐樹青年に何とかコンタクトを取って、事前に話し合いができないかを探ります」
言葉の力強さとは裏腹に、絵莉にはまだ何の勝算もなかった。

社長室を出た時、見送りの百合香が声を掛けてきた。
「島津先生。実は、認知届が出された頃のことをいろいろ考えてたんですが。ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
絵莉は、内心ちょっと色めき立った。
「ええ。多分、思い過ごしだとは思うんですけど」
「いや、認知無効に関しては、今八方ふさがり状態ですから、どんな情報でも喉から手が出るほど欲しいところです。是非、教えて下さい」
「分かりました。実は、認知の届け出がされたあたりのことを思い出そうと思って、例のビジネス手帳をもう一度見直してたんですが、社長のマイカーの件で、ちょっと引っかかることがありまして」
「社長は、運転なさるんですか?」
「ええ、若い頃はかなりのカーマニアだったそうで、ずっとアストンマーチンに乗っておられます。イギリスの高級スポーツカーだそうです」
アストンマーチン。絵莉も、名前ぐらいは聞いたことがあった。
「私が丹羽地所にお世話になるようになった頃から、社用ではもちろんタクシーかハイヤーでしたけど、ご自宅と会社との往復はいつも車でした。今でも、近辺にちょっと出かける時なんか意気揚々とハンドルを握っていらっしゃいます。スポーツカーなのにいかにもイギリスらしい優雅で重厚な雰囲気があって、ダンディな社長にはぴったりの車です」
後に社長の息子の嫁になる秘書は、若い頃、ひょっとすると齢の離れた社長に秘かな憧れを抱いていたのかも知れない。百合香が秘書のアルバイトを始めた頃ならば、社長は働き盛りだったはず。絵莉自身、学生の頃、和馬がダンディを絵に描いたような紳士だったことを覚えている。今でこそ髪の毛はすっかり後退してしまったものの往年の面影は健在で、あまり風采の上がらない父の由紀夫とは好対照だった。
「あの頃からずっと、お仕事の間は基本的に私がキーをお預かりして、お車の管理は任されています」
絵莉には、イギリスの名車と今回の問題がどうしても結びつかない。
「でも、認知を届け出た日は、一日中都心にお出掛けだったんですよね」
「そうなんです。手帳にも、この日は車を動かした記録はありません」
「それじゃあ‥‥?」
絵莉は、百合香の意図を計りかねた。
「いや、私が気になったのは、その日の夕方、社長の外出中に車のキーを貸し出したメモがあったからなんです」
「社長以外の方に、ですか?」
「もちろん、滅多な方にお貸しするわけには行きません。キーを貸してくれとおっしゃったのは、当時の常務でした」
「常務?」
「はい。社長のお兄様の英世常務です」

つづく (^.^)/~~~

#22

母子の間に気まずい空気が流れていた。
「父さんは、今さら、一体どういう積りでこんな文書を送ってきたんだろう」
「見当もつかない」
智恵子が短く答えてしばらく会話が途絶えた。テーブルの上の一点を見詰める母の手が小刻みに震えている。
もう十何年も何の連絡もよこさなかった父から突然こんなものを送られてきて、母は今混乱の極みにある。それは、息子の自分以上かも知れない。ここで自分が取り乱すわけにはいかないし、母を問い詰めるのも筋違いだ。
「母さん、一つだけ教えて。ぼくの父親は、丹羽和馬だよね」
初めて顔を上げた母は、息子の目を見据えて一度、二度と強く頷いた。
長く二人きりで暮らしてきた母の性格はよく分かっている。母さんは嘘をついていない。祐樹は確信した。
── ならば、一体どんな事情があって父はこんな行動に出たのか。認知の事実を知った何者かに無理強いでもされたのか。
──あるいは‥‥。丹羽和馬は、確かもう八十に近い。認知能力が衰えて記憶力や判断力を喪いでもしたのだろうか。
『御返答頂けないようであれば速やかに裁判所の法的手続きに入る』
書面には、事務的な口調でそう記されていた。あたかも、祐樹が事実を捏造して遺産を狙う狡猾な輩とでも言いた気な文面だった。

          act9

本間祐樹に文書を送付してからおよそ一か月が経った。島津絵莉は、しばらくぶりに丹羽地所の社長室のドアを押した。今日も、丹羽社長の脇には秘書の百合香が控えている。
「内容証明を送ってから間もなくひと月になりますが、やはり本間親子からは何の連絡もありません。予定通り、家庭裁判所に認知無効の調停を申し立てようと思いますが」
「そうだな。粛々と手続きを進めるしかないな」
絵莉が、プリントアウトした調停申立書をテーブルに拡げる。
申立人は丹羽和馬、相手方は本間祐樹、そして申し立ての趣旨は『認知無効』。
申し立ての理由の欄には、申立人の父親による15年前の認知届は虚偽のものだという主張が書きこまれている。
「ちなみに、法的には一度届け出た認知を取り消すことはできませんが、その届け出そのものが虚偽であった場合は、ご本人が無効を主張することは可能とされています」
絵莉が改めて手続きを説明する。
認知や嫡出否認など家族の身分関係の争いは、調停で当事者が合意するだけでは成立しない。双方の合意を確認した後、DNA鑑定で血縁関係の有無を科学的に証明した上で最終的に確定することになっている。もしも調停の段階で合意できなかった場合は、改めて家裁の人事訴訟で白黒をつけるしかない。
「今週中にでも申し立て手続きに入りたいと思いますが、今日は、本間親子の身辺調査報告書もお持ちしましたのでご確認ください」
絵莉が、奈津子から受け取ったばかりのA4版の報告書の綴りを取り出す。和馬社長は、文面に目を通すのもそこそこに、添付された多数の写真を食い入るように見つめた。
「これが本間智恵子か。ふーん、けっこう美人じゃないか」
望遠レンズで撮ったかなりのアップの写真もある。
「智恵子さんは、週に3日、近くの歯科医院で受付け係をしています。マンションから出掛けるところ、勤務先の歯医者に出入りするところ、場面は色々ですが、勤務先と自宅との往復以外、立ち寄るのはせいぜいスーパーぐらい。これを見る限り、ごく普通の中年女性です」
なるほど、と言いながらページをめくった和馬の手が止まった。
「で‥‥、これが私の息子というわけだ」
和馬が見詰めているのは、リュックを背に自転車に乗ってマンションを出ていく若者の写真だった。
「親子は、やはりその川崎のマンションで同居していました」
「なかなか好青年じゃないか」
「祐樹氏は、一橋大学の3年で社会学を専攻しています」
「ほお‥‥」
和馬が驚いたように声を上げた。
「社長、何か?」
「いや、実は私も私の親父も一橋でね。へえ、そうか本間祐樹は一橋の学生なのか」
和馬の表情が急に和らいだように見えた。
「大学には、川崎の自宅から30分あまりかけて自転車で通っているそうです」
「ほーお。私も府中から国立まで自転車で通ったもんだ。もう50年も前になるかな」
和馬はふうっと小さく笑った。
「そうか、一橋とはなかなか優秀だ。私に似たのかな」
絵莉は、思わず百合香と顔を見合わせた。
「社長。申し訳ないですが笑えません。冗談はさておき、二人の顔に心当たりは。‥‥もちろんありませんよね」
和馬が、もう一度報告書の写真をしげしげと眺めてから首を横に振った。
「一週間に渡る張り込みの結果確認できた親子の日常や生活実態は、時系列リポートのページに詳細に記されています。ただ‥‥」
絵莉は、ちょっと言いよどむ。
「ただ、担当した調査員によれば、403号室に出入りする男性は確認できなかったとのことです」
絵莉は、芳しい成果を上げられなかった奈津子のちょっと悔しそうな表情を思い出していた。
「マンションの複数の住民にも確認は取りましたが、親子と同居している男性もいない。この間、智恵子が外で男性と会っている気配もない。15年前の認知は、社長になりすました誰かが届け出たと考えるしかありませんが、少なくとも現在は、本間親子の周辺に、疑わしい男性の影は一切見当たらないとのことです」
和馬の表情がまた険しくなっている。目を閉じて腕を組んだまま10秒間ほど黙り込んだ後、おもむろに口を開いた。
「となると。さしたる勝算もないまま戦いに赴くしかない、ということになるのかな」
依頼人の言葉が、絵莉の胸にちょっと刺さった。将軍から、お前は無能な参謀だと厳しく指摘されたようなものだ。
「はい。今のところは」
絵莉は、声を振り絞って答える。状況を取り繕ったり安易な楽観論を述べたりしても、この聡明な将軍に通じるわけがない。
「ただ、調停というのはあくまで話し合いであって戦いではありません。戦いと呼ぶべきなのは、調停の後に控えている裁判です。国同士で言えば、調停はいわば外交交渉、それが決裂して初めて訴訟の提起、つまり宣戦布告に至るということになります」
苦し紛れのレトリックだった。しかし、将軍は小さく頷いたもののその表情は硬いままである。
「だが、外交交渉には、カードって奴が付きものじゃないのかね」
痛いところを突かれた。駆け引きカードもなしに外交交渉など成立しない。この将軍の前では、付け焼刃のレトリックなどたちどころに破綻してしまう。
「おっしゃる通りです。今のところ、こちらは本間親子のことなどまったく知らないとひたすら主張するのが関の山で、切り札と言えるような交渉材料はありません。かと言って、このまま手をこまねいているわけには参りません。本間親子の人物像は、おおよそこの調査報告で把握できましたが、その人柄や性格などは、まだ見当もつかない状態です。実際の家事調停の場で、祐樹氏が果たしてどう出てくるのか。状況の推移をにらみながら、後に控える裁判を視野に戦略を練ることが肝要かと思います」
「しかし、戦略を練ろうにも、こちらには交渉材料すらないんだ。ましてや武器になるものなど一切ないんじゃないのかね」
返す言葉がなかった。本間祐樹に内容証明を送ってからひと月。懸案だった犯人・動機・方法の三点セットの解明は何一つ進んでいない。ありていに言えば、今のところ、こちらは和馬と祐樹の父子関係を覆すだけの材料を何ひとつ持ち合わせていないのだ。祐樹が、あの認知が無効だったと同意してくれる、そんなほぼあり得ない可能性にすがるしかないのが現実だった。

つづく (^.^)/~~~

#21

本間智恵子は戸惑っていた。突然、丹羽和馬の代理人弁護士の名前で届いた長男祐樹に対する認知の無効を主張する内容証明。
──一体、どういうこと‥‥。
あれから、もう15年も前になるのか。祐樹が5歳になった時、あの人は、そろそろきちんとしなきゃと言って認知を届け出てくれた。
これで、祐樹は晴れて丹羽和馬の相続人だ。もしもの場合には、祐樹は間違いなく莫大な遺産を受け取ることになる。でも、もし万一この事実が知れたら、丹羽家からどんな妨害があるかも知れない。だから、私は祐樹を認知した事実を誰にも言う積りはない。お前も、その日が来るまで、丹羽家や丹羽地所の関係者とは決して連絡を取らないでくれ。
その日……?
ああ、俺がこの世からおさらばするその日だ。
あの人は、そう言っていた。それを今さら、あの認知を無かったことにするだなんて、そんなわけの分からない話って‥‥。
智恵子は、気を落ち着けようと深く息を吸った。
──でも、もしも‥‥。
もし万一認知が無効になったら、祐樹はててなし子に逆戻りしてしまうのか。そんな馬鹿な。15年も前に、祐樹は晴れて丹羽和馬の実の息子になったのに、今になってそれがひっくり返るなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがない。
莫大な遺産のことなど頭になかった。祐樹の父親がいなくなる。ただただ、そのことだけが心に引っ掛かっていた。
その日の夜。智恵子は、帰宅した祐樹にその書面を見せた。そもそも、内容証明の宛て先は祐樹だ。隠しておくわけにはいかない。
智恵子は、書面を読む我が子をじっと見詰める。あの人が私たちの前から姿を消したのは、認知を届け出た直後、この子がまだ5歳の頃だった。この子には、父親の面影はほとんど残っていないだろう。みんなの家と違ってうちにはお父さんがいないのはどうして、という素朴な疑問が生まれるのは当然だった。幾度となく父親のことを聞かれたが、子どもが納得できる説明などできるはずもなく、その度に智恵子は言葉を濁してきた。
父さんは、訳があってどうしても私たちとは会えないけれど、遠くでずっと見守っていてくれるの。私たちがこうやって何不自由ない暮らしができるのも、全部父さんのおかげなんだよ。
母の様子を見て、父親のことはあまり触れてはいけないことなんだと悟ったのだろう。祐樹は成長するにつれ父親の話題は控えるようになっていた。
母の方から父親のことを語ったのは、祐樹が念願の一橋大学に合格した時だった。しかし、その日、お前の父親は丹羽和馬という人で多摩の不動産王と呼ばれるお金持ちなんだよ、と伝えた時、案に相違して祐樹はさして驚かなかった。
知ってたよ、とこともなげに言う息子を母は驚きの表情で見つめた。
「まあ、ずっと気にはなってたんだけど、父親が誰かを調べる方法なんて思い付かなくてさ。でも、ほら高校の修学旅行で台湾に行く時、パスポートの申請に戸籍謄本取ったじゃん。その時、ふっと両親の欄を見たら、父親は『丹羽和馬』ってなってた」
「修学旅行って、祐樹。もう二年も前じゃない」
「うん。でも、ちょっと母さんに聞くわけにもいかなくてさ。その人は平成16年にぼくを認知したと書かれてて、その人の本籍は府中市ってなってた。それで、ダメ元でその名前をネットで検索してみたら、結構な情報が出てきてさ。老舗の不動産会社の経営者で、多摩地区では相当な有名人らしいね。同姓同名の可能性もあるけど、会社も同じ府中だし多分間違いないだろうって思ってた」
そう、知ってたんだ‥‥。母は小さくつぶやいた。
それにしても、この子はいつの間にこんな大人びた表情を見せるようになったのだろう。図体ばかり大きくなっても、まだまだ子どもだとばかり思っていたのに。
智恵子は、昨日までとは別の顔をした我が子を言葉もなく見つめていた。。

祐樹にとって、父の記憶はおぼろげだ。父親が母子のもとに来ていたのは、ほんの5歳の頃までだったのだから無理もない。ただ、あの頃、この家には母さんだけじゃない、確かに父さんらしき人がいたことだけは覚えている。幼な心にそれが父なのだと感じ取っていたのか、長じてからの後知恵なのか、本当のところは分からない。
今も一つだけはっきり覚えていることがある。その晩、父らしき人は、テーブルを挟んで母と話し込んでいた。いつもの通りにおやすみと言った時、その人はちょっとこっちに来いと言って、幼い祐樹を痛いぐらいにぎゅっと抱きしめてくれた。覚えている限りそんなことは初めてのこと、そして今になって思えば最後のことだった。だから、その時のことは強く記憶に残っている。しばらく抱きしめたまま言い聞かせるように何か言っていたが、ちんぷんかんぷんの内容を覚えているはずもない。父さんってすごい力だ。身動きもできないまま、ただそんなことを思っていた。
それがその人と過ごした最後の夜になった。その後、すっかり姿を見せなくなったその人のことを母に聞いたことは数知れない。父さんは仕事で外国に行っててね、日本にはなかなか帰って来られないの。ニューヨークだったり上海だったりシンガポールだったり、父の住む街は何度も変わったが、幼い祐樹はその度に地球儀でその異国の地を確かめたものだった。とはいえ、かくも長き父の不在を子ども心が納得できるはずもない。父の話をする度に駄々をこねるのが母子の日常風景となっていた。
でも、小学校の高学年にもなると、祐樹は母親の困り切った表情に気づくようにもなっていた。そして、都内の中高一貫校に通うようになった頃には、父のことはあまり問い詰めちゃいけないことなんだと自分に言い聞かせたりもした。父さんは外国暮らしだからじゃなくて、何か別の理由があって一緒に暮らせないんだ。祐樹は、うすうすそのことに気付いていた。ただ、不思議に父を恨む気持ちは湧いて来なかった。祐樹の脳裏には、あの最後の夜のことが残っていた。あの時、幼い自分を抱きしめながら父は何を語っていたのだろう。祐樹にとって、それは遥か遠い昔の何か甘酸っぱさを伴う記憶だった。
中学から高校へと進学するにつれて、両親がどういう関係だったのかもうすうす分かるようになってきた。どうやら両親は結婚していなかったらしいという事実は、思春期の少年を戸惑わせ、一時は母にも強い反発を覚えたこともあった。
何となくはばかる気持ちがあって確認してはいなかったが、母子の生活費はその後もずっと父が支払ってくれているらしいことにも気付いていた。私立学校の学費は馬鹿にならないし、衣食調度など日々の生活レベルにしても、パート程度の収入しかない母子にはどう考えても不相応なものだということぐらいは分かる齢になっていた。
とはいえ、高校時代の祐樹は、自分に父親はいないのだと強いて思い込もうとしていた。進学や将来の進路に思い悩んだ時、あの人に相談できたらとふと思うことは何度もあったが、それは叶わぬ夢と割り切るしかなかった。
ただ、一つだけ母から何度も聞かされていたことがある。父はかつて、まだ幼い祐樹を見ながら、将来この子にはどうしても一橋に進んで欲しいと言っていたというのだ。だから祐樹は、漠然とではあったが一橋大学を目指すことを運命づけられているような気がしていた。そして、ついにその念願の一橋に合格した時、真っ先に知らせたいのがあの人だったことに気づいて、祐樹は父の存在を改めて思ったのだった。
合格通知を受け取って、父との約束を果たしたような思いを噛みしめたあの日から2年余り。その父から突然届いた書面には、事務的な口調で丹羽和馬は祐樹の父親ではないのだと書かれていた。
高校時代、戸籍謄本で父の名前を知り、幼い頃に自分を認知していたことを知った。その認知届からかれこれ15年が経っている。この間、何一つ問題がなかったのだから、今さら父との親子関係が揺らぐなんて考えもしなかった。
父の丹羽和馬がどういう人物なのか。ネットで、どうやら多摩の大地主で地方財界の重鎮らしいことまでは確認していた。それなりに名のある人物のようだが、ネット情報は、経済活動の報告やニュース記事と和馬が経営する会社の広報関係がほとんどだった。通り一遍の記事は読み飛ばして父親とおぼしい人物の家族関係やプライベートな情報も探ってはみたが、分かったのは、せいぜい妻が既に死去していること、その後跡継ぎの長男や孫を不慮の事故で亡くしたこと程度だった。それだけに、自分がその人物の息子だということには何ら実感が伴わないまま、地味で代わり映えのしない母子二人の生活が過ぎていった。
その父が、15年前のあの夜、自分を強く抱きしめてくれた父が、今になってお前は私の子ではないと言い出した。そんな理不尽な話があるものかという反発の一方、実のところ、そんなこともあるだろうという漠然とした予感もないではなかった。物心がついた時には、既に父はいなかった。父のいない家、祐樹にとってそれはもう当たり前の情景だったのだ。その身の上に抗ったり嘆いたりするようなナイーブな感情は、もうとっくに卒業していた。
そのせいだろうか。突然の衝撃的な通知書面に目を通した時、祐樹は不思議なくらい平静を保っていた。ただ、祐樹の胸中に沸々と湧き上がってくるものがあった。それは、これまで考えもしなかった新たな疑問だった。
──丹羽和馬は父ではない? ならば、自分の本当の父は一体誰だというのか? いや待て。それならば‥‥。
疑問はさらに深まり、おずおずと核心へと近づいていく気配があった。
──それならば、そもそもぼくは誰なんだ? 本間祐樹とは、一体何者なんだ? 

つづく (^.^)/~~~

#20

          act7

翌日、島津絵莉は池袋の松尾リサーチを訪ねた。以前から懇意にしている興信所、いわゆる探偵業者だ。
専門の調査員を抱えたアメリカの大手法律事務所と違って、日本の弁護士は基本的に調査能力を持っていない。でも、特に重要な訴訟となると、相手方のみならず時には当の依頼人に関しても、その過去や素行を調査して裏付けを取らなければならない場合もある。この間は、成り行きで、自分で川崎のマンションまで行くことになったが、あんなことは例外中の例外だ。テレビドラマじゃあるまいし、自分自身の足で現地を訪ねて調査するというのは、特に女性弁護士にとってはかなり荷が重い。そんな時に、頼りにするのが興信所なのである。弁護士にとって、信頼のおける探偵は、いわば欠かせないパートナーと言ってもいい。
「あらあ、絵莉。随分、ご無沙汰だったじゃない」
松尾リサーチの応接室のドアを押すと、所長の松尾奈津子がいつものように満面の笑みとともに両手をいっぱいに拡げて迎えてくれた。
絵莉がまだ弁護士になって間もない頃、勤務し始めたばかりの大手法律事務所と専属契約を結んでいたのが、奈津子の父親が経営する松尾リサーチだった。その頃、奈津子も絵莉と同じように松尾リサーチで働き始めたばかり。
最初に顔を合わせたのは、先輩弁護士のアシスタントに就いて、行方不明の事件関係者の所在調査を依頼した時だった。実は、奈津子の第一印象は最悪だった。絵莉がおずおずと具体的な要望を口にすると、その一つ一つに横柄な口ぶりで異を唱えてくるのだ。それは無理です、できません、のオンパレード。理由も言わないで、一言の元にはねつけられた。悔しいが、こちらはまったくのド素人だから反論できない。
若いくせに、よほどのスキルの持ち主なのかと思いきや、ちなみにと聞いてみればまだ経験は半年に満たないと平然とのたまう。さすがにちょっと頭に来て、所長の娘さんだからって遊び半分でやってもらっちゃ困りますと、びしっと言い放った。ド素人と侮っていた小娘  自分だって小娘のくせに  から思わぬ反撃を受けた奈津子の驚きと悔しさの入り混じったあの時の顔。今、思い出しても吹き出しそうになる。
しかし、調査結果の報告を受けた時、たまたま話の成り行きで、お互い当時爆発的ブームになっていた韓国ドラマの大ファンだということが分かって、ぎこちなかった空気が急速に和らいだ。これで、鼻持ちならない女探偵に対する印象が180度変わったのだから現金な話だ。韓流スターの誰それは、なんて他愛ないお喋りをするうち、奈津子の些事に拘らない気さくな人柄に触れて大いに見直すことになる。
正直言うとさあ、あの時は、若い女弁護士風情に馬鹿にされまいと思って必死で虚勢を張ってたんだよねえ。のちに奈津子は笑いながら言った。絵莉のちょっと底意地の悪い反撃も、今ではまったく根に持っていないことも分かって、二人の間のわだかまりはすっかり氷解していった。
それから何度かコンビを組むうちに、新米弁護士と探偵業見習いは、同年代の女同士、仕事を超えて親しくなっていく。仕事上の悩みはしょっちゅう、時にはオトコに関する悩みもぶつけ合ったし、絵莉が父の個人事務所を継ぐかどうか迷っていた時も親身になって相談に乗ってくれた。
お互い若気の至りだったあの出会いから、もう20年近くになる。その間に、奈津子の方も父親の引退に伴って松尾リサーチの所長の地位を継いだのだが、公私にわたる付き合いは絶えることなく続いている。
「ふーん。ちょっとしたミステリーね」
かいつまんだ説明を聞いて奈津子が言った。興味津々の面持ちである。
昔から、奈津子の好奇心には並々ならぬものがあった。そもそも、他人の不幸は蜜の味などと言われるぐらい、人は、とりわけ女はゴシップや噂話が大好きなもの。奈津子の場合は、人並外れて旺盛だった好奇心が、この仕事に就いてさらに嵩じた気配がある。ひょっとすると探偵事務所を創業した父の血もあるのかも知れないと、絵莉はひそかに思っている。
興信所の業務は、いわば他人の秘密を覗き見するようなものだ。良識を重んじる世間様に対しては、あまり胸を張れるような仕事ではないかも知れない。でも、犯罪にまでは至らずとも、『秘密』には何かしら後ろ暗いことや道義的に許されないことが隠されているものである。義憤か私憤かはさておき、やむにやまれずその秘密を暴き出さなければならない場合があるのもまた確かなのだ。何かしらの被害を被った者が加害者の秘密を探るということになれば、人助けという側面だってないとは言えない。半分成り行きで父親の会社に入った奈津子だったが、いつしか探偵業にプライドを持つようになっていた。
「となると、今回のミッションは、この謎の親子の身辺調査というわけね」
「二人の日常の生活実態、収入、交友関係。智恵子は専業主婦なのか仕事をしているなら勤務先、祐樹は今も同居中か、学生なのか働いているのか、それとも引きこもりだったりするのか。それから‥‥」
「最大の問題は、何といっても智恵子の男関係よね。戸籍上は独身らしいけど、内縁関係の男性がいるかも知れないし、マンションに出入りしてたり内密で付き合ってる相手がいるかも知れない。でもさ。まさか、ふたを開けてみればその正体はやっぱり丹羽社長だった、なぁんてことはないわよね」
「私だってそこは考えたわよ。でも、周辺状況を色々探っても社長の態度振舞いを見ても、どうやらそのセンはないわね。探偵に身辺調査を依頼するって提案にもすっごく乗り気でさ。自分に後ろめたいことがあるんなら、何らか躊躇しそうなもんでしょ」
なるほどね、と言いながら、奈津子はあごに手を当ててちょっと考え込む。
絵莉は、丹羽和馬と本間親子の戸籍関係の書類一式のコピーを取り出した。奈津子は、好奇心たっぷりの顔で目を通す。職業柄、戸籍の読み込みに関して、奈津子は弁護士の絵莉にもまったく引けは取らない。
「うーん。やっぱり平成16年の認知届がポイントね。届け出たはずの社長自身にまったく身に覚えがないなんてね。はてさて、その裏にどんなカラクリが隠されているのやら‥‥」
「誰が、何のために、どうやって嘘の認知届を出したのか」
つまり犯人・動機・方法ね、と三本の指を折りながら絵莉が続ける。
「それを解明しないことには認知無効の主張が認められる見込みはない。それだけは確かね」
奈津子が大きくうなずく。持ち前の好奇心がその目にあふれている。
「絵莉。私、俄然やる気が湧いてきたわ。他ならぬあんたの頼みだもん、私が直接担当させて頂くことにしようかな」
「あら、所長自ら乗り出してくれるなんて、恐れ多いこと」
「でも、所長の時給はちょっと高いわよ」
「任せて。何しろ、依頼人は多摩の不動産王なのよ。おカネに糸目はつけないわよ、多分」
顔を見合わせてひとしきり笑ってから、本間祐樹宛てに送った内容証明のコピーと今後の手続きの流れを書いたメモを手渡した。
「内容証明から一か月ほど待って、反応がなかったら家裁に調停を申し立てる積りだから、それまでに初回の報告をお願いできるかな」
「分かった。気合い入れて何とか成果を出さなきゃね」
「多分、本間祐樹は調停には出頭しないだろうし、出て来ても認知無効に同意するはずがないわよね。そうなれば調停不成立で、すみやかに訴訟を提起することになると思う。裁判まで、ざっと見積もって3・4カ月かな。その間多面的に調査を重ねて、何としてでも認知無効を立証するロジックを固めなくちゃ」
絵莉の言葉に、奈津子の表情がちょっと引き締まる。
「立証、すなわち嘘の認知届を出した犯人・動機・方法の解明ね。了解。さっそく今日からでも調査を開始します、島津先生」
「期待しておりますわよ、松尾所長」

          act 8

長男祐樹に対する認知の無効を告げる丹羽和馬からの書面を手にして、本間智恵子は激しく動揺していた。

つづく (^.^)/~~~

#19

絵莉が手帳に目を落とした。
『終日日商シンポ@国際フォーラム。1030正面玄関ハイヤー迎え。1200現着、昼食会。1330シンポ開始。1700終了予定。1800帝国H松濤の間にて懇親会』
絵莉が目を通したのを確認して、百合香が言った。
「ご覧の通り、この日、社長は商工会議所主催のシンポジウムに出席しておられます。場所は、有楽町の東京国際フォーラムでした」
「かなりタイトなスケジュールですね。ということは、この日、社長が新宿区役所へ行くことはかなり難しい?」
絵莉が和馬に視線を向ける。
「日商シンポは定例行事だから、この時のことを特段覚えているわけではないが、このスケジュールで途中高速を降りて新宿に寄るなんてとても無理だな」
「なるほど。ただ、15年も前だとハイヤーの経路の記録が残っているかどうか。今と違って、まだGPS機能はなかったはずですから。もちろん、この日、社長が新宿区役所に行って届け出をする時間的余裕はなかったという裏付けの一つにはなるはずですが」
社長が、一息ついたようにうなずいた。しかし、正直言って、この程度のことが裏付けになるだろうか。しかも‥‥。
絵莉は、ふっと脳裏に浮かんだ疑問を口にした。
「シンポジウムの途中、客席を抜け出して新宿に行くことは可能だったでしょうか。有楽町から新宿なら、車で3・40分もあれば往復できます」
社長が、再び眉根を寄せて考え込む。
「あの日は、いつも通り、最前列の招待席で顔見知りのメンバーと並んで座っていたはずだが。しかし、ずっと席を外さなかったことを会議所の仲間に証言してもらうというのは、どうも‥‥」
確かに、証言を頼むとなると、事の次第を説明しないわけにはいかない。認知うんぬんという問題だけに、謹厳実直をもってならす社長にはいささか抵抗があるだろう。それに、社長と席を並べた人たちは今やかなりの年配揃いだろうし、15年も前のおぼろげな記憶が果たして信頼に足るものとみなされるかどうか。
「ごもっともです。ただ、認知無効を申し立てるのであれば、申立人である社長が認知届を出していないことを立証しなければいけません。ご存じかも知れませんが、無かったことを証明することは悪魔の証明と言われます。悪魔の存在なんて誰も信じちゃいませんが、ならば存在しないことを証明してみろと言われても‥‥」
首を横に振る絵莉を見て、和馬が大きく息をついた。
百合香の手帳は、裏付け材料としては、はなはだ心もとないものだと結論付けるしかなかった。
「百合香さん、この日のことで、ほかに何か記憶に残っていることはありませんか?」
「いろいろ、思い出そうとしてはみたんですが」
百合香は、残念そうに首を振った。
それでは、もしも当時のことで何か思い出すことがあったら教えて下さい。どんな些細なことでもけっこうですから、と強く念押しして絵莉は社長室を出た。

事務所に帰った絵莉は、早速デスクのパソコンを立ち上げた。善は急げとばかり、本間祐樹に宛てた通知書面を書き始める。
『平成16年9月1日、私こと丹羽和馬は貴殿を認知したことになっています。しかし、これは私が一切与り知らないところで届け出がなされた無効なものです。この件に関して、一度直接お会いしてお話ししたいと思いますので、是非一度当方宛てご連絡頂けないでしょうか。もしも話し合いに応じて頂けない場合は、近日中に家庭裁判所に認知無効の調停を申し立てる積りです。いずれにしても、お互いに事実関係を確認し、双方納得できる解決に至るよう率直な話し合いができれば幸いです』
認知無効にたどり着くまでの手続きは、三段階に分かれる。先ずは、双方当事者同士の任意の話し合い。次いで、家庭裁判所の調停の席での協議。それでも合意できなかった場合の最後の手段が裁判だ。
文面を何度か読み直して、差出人が和馬の代理人弁護士島津絵莉であることを明記してプリントアウトし、秘書の竹原麻乃にもチェックしてもらう。秘書に書面チェックをしてもらうなんて沽券に関わるなんて弁護士もいるが、絵莉はそんなことは気にしない。絵莉に言わせれば、もしも誤字脱字のある不備な書面を送付でもしたら、その方がよっぼど沽券に関わる。所長とは名ばかり、マチ弁としてはまだ新米同然の絵莉にとって、この経験豊かなベテラン秘書は万事頼りがいのある心強い存在なのだ。
二重チェックを終えた麻乃に内容証明で送ってくれるよう頼んでから、絵莉は家事調停の申し立ての準備に取り掛かることにした。経験上、こういった通知文書を送っても、相手方が反応を寄こすことは稀だ。反応がなければ、速やかに第二段階の家裁の調停に進むことになる。これからの手続きの流れを見据えれば、現段階でやれることはやっておいた方がいい。
絵莉は、裁判所のホームページから所定の書式をダウンロードした。申立人の丹羽和馬と相手方である本間祐樹の戸籍謄本や附票を見ながら、現住所、本籍など必要事項を記入。続いて、申し立ての趣旨の欄には、『申立人が届け出たとされる認知が無効であることを確認し、親子関係を解消する』と書き込む。
さあて、問題はここからだ。申し立ての理由の欄をにらみながら、絵莉はしばし腕組みをする。とりあえず、現段階でこちらが認識している事実関係をかいつまんで書いておこうか。つぶやきながら、絵莉はキーボードを叩いた。
『申立人にとって、相手方およびその母親は面識すらない全くの赤の他人である。平成16年に届け出たとされる認知についても、申立人はまったく与り知らない。従って、この認知には大きな手続き上の誤りがあるので、認知の無効を求める』
──うーん。説得力、まるでなし。
パソコン画面をにらみつけながら、和馬社長の一方的な主張以外、無効の根拠となるものが何一つないことを改めて思う。
裁判所は、子どもは親なしでは生きていけないひ弱な存在であることを前提に、「子」という身分を安定させることを最優先する姿勢を取っている。従って、15年も前に確定している身分関係を覆すなんて、よほどのことがない限り不可能なのだ。よほどのこと、とは誰が見てもなるほどとうなずくだけの有無を言わさぬ証拠を示すこと。和馬社長がいくら声を大にして訴えようが、根拠もない身勝手な主張だと思われるのがオチだ。ならば、先ずは直接の話し合いの可能性を探り、本間祐樹の出方をうかがいながら現状を覆すだけの攻撃材料を必死になって探すしかない。
──それにしても‥‥。
絵莉は、パソコンの前に頬づえをついて想像してみる。
あの通知文書を受け取った時、本間親子はどんな反応をするだろうか。認知無効という主張にさぞや慌てるに違いないが、事が事だけに不用意に連絡を寄越すとも思えない。ひとまずは静観する可能性が高いだろう。ひと月ほど様子を見て何の反応もなければ、手続きの第二段階、すなわち裁判所に調停を申し立てることになる。ペナルティがあるわけではないが、裁判所からの呼び出しとなれば、本間親子もさすがに無視を決め込むわけにも行かないだろう。だが、首尾よく調停がスタートしたとしても、おいそれとこちらの主張に応じて認知無効を認めるとは思えない。となれば、合意不能で調停不成立となって、社長を原告、本間祐樹を被告とする認知無効の訴訟を提起する条件が整うことになる。
──とはいえ、だ。
たとえ裁判になったとしても、それまでに現状を覆すだけの攻撃材料なんて見つかるだろうか。現段階でこちらの手持ち札はといえば、さほど証拠能力が高いとは言えない認知届の筆跡鑑定あたりが関の山。果たして、今後何らかの手掛かりが得られるものやら皆目見当もつかない。
ひょっとすると、裁判になっても祐樹が出席を拒み続ける可能性もあるだろうか。家事事件では、被告が出頭しない場合、一概に欠席裁判となるわけではないとされてはいるものの、原告の主張が認められて被告に不利な判決が出る余地がないとも限らないが。
── あるいは‥‥。
あの通知文書を見て、祐樹が話し合いに応じてくることもあり得るだろうか。少なくとも、母親の智恵子が認知の事実を知らなかったとは考え難い。しかし、当時まだ幼かった祐樹には事情が知らされていなかったかも知れない。とすれば、母親を問い詰めて改めて自分の本当の出自を追及しようと考えることだってないとは言えまい。
──いや、待て待て。
絵莉は、身を起こして一度大きく伸びをした。
甘い見通しが当たったためしはない。パソコンの前であれこれ堂々巡りしているぐらいなら、裁判までもつれ込むことを想定して戦略を考えるべきだ。裁判になった場合、認知無効の立証のポイントとなるのは、一体誰が、何のために、どうやって虚偽の認知届を出したのか。つまるところ、問題は、犯人、動機、方法の三点に絞られる。何だか推理ドラマみたいになってきたけれど、それを解明しない限り、裁判で無効の主張が認められる見込みはないと思っておいた方がいい。
ならば、もうぐずぐずしてるわけにはいかない。一刻も早く、本腰を入れて認知無効を裏付ける証拠探しに着手するしかないだろう。
――裏付け調査となれば、やっぱり餅は餅屋かな。
絵莉の脳裏に、ある人物の顔が浮かんでいた。

つづく (^.^)/~~~

#18

        act6

「それで、本間智恵子は居たのかい?」
いつも落ち着き払っている丹羽和馬が、ちょっと勢い込んだ口調で聞いた。本間智恵子の住まいや土地柄の報告に興味津々で聞き入る様子を見て、和馬があの辺に愛人を囲っていたなんてストーリーはやっぱり根も葉もない妄想に過ぎなかったかと絵莉は改めて思っている。
「残念ながら反応がありませんでした。何しろ、平日の真っ昼間ですから。居留守の可能性だってありますし」
「でも、一応本間親子の所在が分かったんだ」
「いや、親子が実際にあのマンションに住んでいるのかどうか、まだ確認はできていません。私は身上調査の専門家ではありませんので、ここはやっぱり餅は餅屋。必要とあらば、興信所を使って何日か張り込めば、403号の住人の実像はある程度把握できるはずです。商売柄、信頼できる業者には心当たりがありますが」
そこまで言った時、絵莉は目の前の男が不動産会社の経営者であることを思い出した。
「その前に、社長。ひょっとして、このマンションが分譲なのか賃貸なのか、調べることは可能ですか? それから、もし分譲ならば、403号の現在の所有者が誰なのかも」
「もちろん、お安い御用だ。すぐに調べさせよう」
間髪を入れず、「はい」という声とともに百合香が立ち上がって内線電話を取った。隣り合ったオフィスのスタッフに、マンションの名称と住所を伝えててきぱきと指示を与えている。
「さすが、仕事が早いですね」
「そりゃやっぱり餅は餅屋さ」
和馬が満足そうに頷いた。
さほど待つこともなく、ドアにノックがあって、失礼しますの声とともに若い男性社員が入ってきた。
「お問い合わせの件、確認できました」
社員はプリントアウトした登記簿謄本をテーブルに並べた。
「レジデンス多摩川は、全戸分譲です。これが403号の登記情報になります」
今は、法務局のホームページからオンラインで全国の不動産登記情報がダウンロードできるようになっている。不動産業者にとって、この程度の作業は単なる日常業務に過ぎない。若い社員は謄本を指し示しながら言った。
「ご覧のように、平成9年の新築で専有面積は68平米、所有者は本間智恵子、新築時に売買で取得しています。抵当権が設定された記録はないので、ローンを組むことなくおそらく一括で支払ったと思われます」
「その頃の相場から考えて、分譲価格はどれぐらいか分かるか?」
「調べてみないと正確なことは分かりませんが、あの頃はITバブルのちょっと前になりますから、この地域でこれだけの広さですと、おそらく4000万前後じゃないかと」
やはり餅は餅屋だ。若い社員は、自分がまだヨチヨチ歩きだった頃の不動産の価格を即座に答えた。
「4000万を一括払いか。離婚でよほどの慰謝料をせしめたんだろうか」
「いや、そんな莫大な慰謝料というのは、通常はちょっと考えられません。まだ20代半ばの女性がそれだけの不動産を買ってしかも現金で支払ったとすると、実家が非常に裕福だったということもあり得ましょうが、やはり、しかるべきスポンサーがいたと考えるのが自然かと」
もちろん、和馬おじさんを疑ってるわけじゃないんだよ‥‥。内心で言い訳しながら絵莉が続ける。
「403号室の所有者が本間智恵子氏だとすれば、おそらく、住民票通り親子は今も居住中という可能性が高いと思います。これで、私たちも次の段階に進む事ができます」
「次の段階?」
「はい。まずは、本間祐樹氏に、事実関係の確認とこちらの意向を伝えることが必要です。つまり、戸籍上、平成16年に丹羽和馬が祐樹氏を認知したことになっているが、和馬は祐樹氏も母親の智恵子氏のこともまったく存じ上げない。従って、双方に親子関係はないのは自明であり、認知そのものが無効であることを双方で確認したい。こうした内容を書面で送ります」
「なるほど。はてさて、どんな反応が返ってくるやら。しかし、もし反応がなかったら?」
「向こうに後ろめたいことがあるのであれば、おそらく返事はないでしょう。そうなったら、認知無効を申し立てる法的手続きの準備に入ります。法的手続きと言っても、即裁判というわけではなくて、まずは調停で双方が話し合うというのが決まりになっています」
「双方というのは?」
「認知無効の場合、母親の智恵子さんは当事者にはなりません。社長が認知をした相手、つまり祐樹氏に対して申し立てるという形になります。ただ、今後、場合によっては智恵子さんにも参加してもらう可能性が出てくるかも知れません。調停はあくまで話し合いによる解決というのが趣旨ですから、ひとまずは無効を立証するだけの裏付けが取れていなくても大丈夫です。とりあえず相手方となる祐樹氏の意思を確認して、もしも認知が間違いであったことに同意してくれれば、裁判に訴えるまでもなく認知の無効が認めらます。ただし、手続き上、DNA鑑定で血縁がないことの確認は必要になりますが」
そっと和馬の表情をうかがい見たが、DNA鑑定という言葉に反応する様子はまったくない。身に覚えがないのだから、当然と言えば当然なのだが。
「調停で祐樹氏が認知無効に同意しなければ調停は不成立となって、あとは裁判で白黒つけるしかありません。裁判になれば、こちら側が認知が無効であることを立証できない限り勝てません。でも、調停から裁判まで時間は十分にあります。その間に、何としてでもご自身が認知届けをしていないことを裏付ける証拠を探しださなければいけません」
「さあ、それなんだが」
和馬が、目の前のテーブルに積み上げた分厚い書類のファイルを指さした。
「一応、平成15年から17年にかけての会社の資料をひっくり返してみたんだが‥‥」
社長は、残念そうに首を横に振った。
まあ予想した通りだ。絵莉は、頷いて百合香に視線を移す。
「この間お話しした手帳ですが、やっぱり実家に残っていました」
百合香は、バッグからA5版サイズの分厚いビジネス手帳を取り出してテーブルに置いた。よほど使い込んだと見えて、革の表紙がすっかり色あせている。
「丹羽地所にお世話になるようになった平成16年の手帳です」
受け取ってパラパラとページを繰る。手帳は、見開きになった各月のカレンダーのページと、日付ごとに書き込めるページに分かれている。アルバイトを始めた4月から、日付のページには、黒と赤と青に色分けした細かな文字で克明なメモがびっしりと書き込まれている。職務を全うしようと懸命に心を砕く新米秘書の姿がしのばれた。
「これが、認知届が出された9月1日火曜日のページです」

つづく (^.^)/~~~

#17

京王線調布駅で相模原線に乗り換え、多摩川を越えてすぐの稲田堤で電車を降りた時には午前10時半を少し回っていた。
『川崎市多摩区稲田5‐3‐12 レジデンス多摩川403号』
改札を出たところで、戸籍の附票に記載されていた住所をスマホの地図アプリに打ち込んで、現在地からのルートを検索する。所要時間は徒歩でおよそ8分。謎の母子が暮らす町の土地柄を見ておいてもいいだろう。
駅前の商店街はすぐに途切れて、新興住宅街らしいこじんまりした戸建てと中層のマンションが立ち並んでいる。どこにでもありそうな郊外の風景を眺めながら、考えるともなく本間母子に思いを馳せてみる。
戸籍の附票に記載された住民登録の履歴によれば、母親の智恵子は、平成9年に一人でこの土地に移り住んでいる。当時、まだ二十代半ば過ぎ。
智恵子は、平成8年に本間姓の男性と離婚した後、新宿で新生活のスタートを切っている。歌舞伎町にほど近い土地柄からして、離婚したばかりの若い女が一人で生きていくために、まずは水商売を選んだだろうことは想像に難くない。容姿に恵まれていれば、それなりのお店で働くこともあり得るだろうし、ひょっとするとそこで年の離れた大富豪と巡り合ったとしてもおかしくはない。
いや、もちろん和馬社長が彼女のことを知らないというのは大前提だ。でも、これはあくまで想像。想像するだけならバチも当たらないだろう。絵莉は、内心、埒もない言い訳をしている。
魔が差したとでも言えばいいのだろうか、謹厳実直を絵に描いたような大富豪はその若くて美しいホステスにすっかり心を奪われてしまう。智恵子の方も、落ち着いた初老の紳士に徐々に惹かれるようになる。
  平成8年から9年頃か‥‥。20年あまり前ということは、私はまだ花も恥じらう女子高生だ。和馬社長、今ではすっかり髪が薄くなったけど、あの頃は確か素敵なロマンスグレーだったもんなあ。
絵莉の想像はどんどん逞しくなっていく。
かくして、年の離れた二人の関係は急速に接近していった。和馬は、間もなく智恵子のために自宅にほど近い川崎にマンションを用意して、生活に不自由しないだけのお手当を渡すようになる。そして、そのマンションに足しげく通ううち、彼女は妊娠。
いい年をして抜き差しならない立場に追い込まれた和馬社長。でも、あの誠実で思いやりのある人柄だ。どうしても産みたいと彼女にせがまれたら、拒むことなんかできやしなかっただろう。しかし、当時、家には長年連れ添った妻と一人息子との平穏な生活があった。自分が招いた種とはいえ、ここまでひとかどの実業家として実績を重ねてきた和馬が初めてぶつかった難局であった。
  うーん。
このあたりで絵莉が我に返る。これじゃ、想像というよりは妄想に近いストーリーだ。でも‥‥。ひょっとすると意外に的外れでもないかも。と思った瞬間、手にしたスマホが「目的地周辺です」と囁いた。画面を見ると、地図アプリの矢印が赤く点滅して到着を知らせてくれている。
目の前には、ベージュのタイル張りの小ぎれいな5階建てのマンションが建っていた。玄関ロビーのドアの上には黒地に金文字で「レジデンス多摩川」とある。附票の現住所にあった通りだ。
建物の外装を見ても車寄せの奥の玄関越しに見えるロビーの様子を見ても、かなりグレードの高いマンションであることが見て取れた。そりゃそうだ。何たってパトロンは、この辺りの不動産王なんだもん。
  おっと妄想妄想。和馬おじさんには、まったく身に覚えがないんだったよね。絵莉が頭の中でぺろりと舌を出す。
オートロックのドアの脇にはカメラ付きのインターフォンが設置され、その向かい側の壁には郵便受けが並んでいる。
確か部屋番号は、と‥‥。
403号の郵便受けには、残念ながら名前は書かれていなかった。最近はセキュリティ意識が高まってるから、名前を表示するのはむしろ少数派だ。でも、これでは、本間親子が今も実際にこの住所に住んでいるのかどうかすら確認できない。
インターフォンで403号を呼び出してみようか‥‥。
ふと、そんな誘惑にかられた。でも、もし在宅していたとしても、どんな風に話を切り出せばいいのやら。
こんな形で事件の関係者の自宅を訪ねるのは、絵莉にとっては初めてのことだった。対立相手に対する弁護士の最初のアプローチは、書面を郵送するのが普通だ。急ぎの場合や住所不明の場合などに限り、代理人に就いたことの通知がてら電話をかけるのがせいぜいで、直接訪ねることなんてまずあり得ない。ましてやアポなしとなると、無用な反発や警戒心を持たせて対立をあおることになるのがオチだ。
そもそも、本間智恵子とはどんな人間なんだろう。分かっているのは、いつ、どこで生まれたのか、どこに住民登録をしているのか、といった戸籍に書かれている事柄だけ。離婚して新宿の高級クラブで働いていたとか、和馬社長に見初められたとか、マンションを買ってもらったとか、すべて根拠もない絵莉の妄想に過ぎない。
  せめて、彼女の声や喋り方を聞いたら、何となく人となりぐらい想像できるかも知れない。せっかくここまで来たんだから、当たって砕けろ、だ。もしも返事があったら、NHKですが受信契約はお済みでしょうか、とでも言えば当たり障りもないだろう。
絵莉は、インターフォンのカメラからさりげなく顔を背けて、おずおずと403と数字を打ち込んでコールボタンを押した。

つづく (^.^)/~~~

#16

「社長。もう一度届出書を確認して頂きたいんですが」
絵莉は、認知届の届出人の欄を指さした。
「届出人は、父親本人となっています。つまり、誰かが代理で提出したのではなく、社長自身がご自分で届け出たことになってるんです。しかし、社長にはそんな覚えはまったくない。ということは、何者かが社長になりすまして届出書を提出したとしか考えられなくなります」
「何者かが‥‥」
和馬がつぶやいた。
「結婚だって離婚だって、本人たちの自由意思で届け出られるし、形式さえ整っていれば役所は受理します。いや、受理しなければならないんです。その点は認知も同じです。原則、父親の自由意思のみで認知はできます。母親の同意も、裁判所のお墨付きをもらう必要も一切ありません」
和馬が押し黙る。様々な想念が脳裏を駆け巡っているのだろうか、やや心ここにあらずといった様子の和馬に絵莉が声をかけた。
「社長の知らないうちに、誰かがウソの認知届けを出したなどということがあり得るでしょうか?」
「私の名をかたって誰かが届け出をする? そんなことが現実に可能なのか?」
「身分関係を大きく変更するんですから、届け出る際には、当然戸籍係の窓口で本人確認が必要になります。大抵は免許証とかパスポートですが、スパイ映画じゃあるまいし、なりすますために身分証明書を偽造するなんて事はいくら何でも考えにくいですよね」
和馬は、眉根を寄せて考え込む。絵莉は、ちょっと目先を変えてみようと百合香に声を掛けてみた。
「当時、百合香さんは、もうこの会社に出入りなさってたんでしたっけ」
「はい。今、私もそれを考えてました。平成16年といいますと、私まだ学生だったんですけど、4月からアルバイトで秘書の真似事をさせて頂くようになった年だったと思います」
「そうですか。それでは、お二人に記憶をたどって頂きたいんですが。この認知届が出された平成16年の9月前後、何か思い当たることがなかったでしょうか? どんな些細なことでも結構です」
和馬の眉根のしわがさらに深くなり、百合香も首をひねる。
「すいません、急にそんなこと言われても思い出せるわけないですよね」
「百合香さん。何か、当時の資料は残ってないかな? 会社関係でもプライベートでも構わんから」
「保管庫の方を確認してみます。ただ、残っているとしても、帳簿類とか税務申告関係の書類ぐらいだと思います」
「それで構わない。何か、当時のことを思い出すきっかけがつかめるかも知れん」
分かりました、と言いながら腰を浮かせかけた百合香が、ふっと思い付いたように言った。
「実は、あの頃私、社長のスケジュール管理に手落ちがあってはいけないと思って、大判のビジネス手帳を買い込んでかなり細かくメモしてたんです。何しろ、アルバイトとはいえ秘書という仕事は責任重大だって父親からひどく脅かされて、今思うとおかしいぐらい気合いが入ってたもんですから」
百合香が、ちょっと照れ臭そうに笑った。
「ひょっとすると、その手帳に何かヒントになるようなメモが残ってるかも知れません。おそらく、実家に置いてあると思うので、今晩にでも確認してみます」
「すばらしい。百合香さん、是非ともよろしくお願いします」
百合香は、夫と長男を亡くした後実家に帰っている。かけがえのない家族の思い出の染みついたマンションに、身重の身でたった一人住み続けることなど到底できるはずもなかった。はかり知れないショックも癒えぬまま無事次男を出産できたのは、実家の両親の心身両面にわたる手厚いケアがあったからこそなのだろう。その後、和馬のたっての願いに応じて秘書に復帰できたのも、保育園に通い始めたとはいえまだまだ手のかかる恭介を両親が看てくれているからに違いない。
和馬には当時の会社関係の資料に目を通してもらい、百合香には手帳のメモ内容を確認した上で当時の記憶を辿ってもらう。ひょっとしたら、そこから認知届にまつわるヒントが何か浮かんでくるかも知れない。
とりあえずはお二人にこの宿題をこなして頂くことにして、今夜はゆっくりと休ませて頂くことにしようかな。絵莉は、そんなことを思いながら丹羽地所を後にした。          

             act5

翌日、午前中のスケジュールが空いているのを確認して、絵莉は川崎の本間智恵子の自宅を確認しておこうと思い立った。直接話をする積りはないが、実際に住民票の住所に住んでいるのか、自宅はどんな建物なのか、20歳の息子とは現在も同居しているのか‥‥。認知届が虚偽なのかどうかはさておくとしても、肝心の本間親子のことがまだ何一つ分かっていない。
とはいえ、民事の争いで、対立相手のことが最初から詳しく分かっているなんてことはまずない。大抵は、依頼人の主張を聞いて、どんな相手とどんな対立関係にあるのかをおおよそ見当つけるのが関の山。しかも、その依頼人の主張たるや、自分は一方的に損害を被った可哀そうな被害者だから相手を目いっぱい懲らしめてやるという点で、例外はほとんどない。自分の側の非など金輪際顧みることのない依頼人の話をまともに信じたら、相手はとんでもない極悪人ということになる。逆に、相手側からすれば、間違いなく私の依頼人の方が極悪人ということになるのが道理だ。そんなわけで、絵莉は依頼人の主張についてはとりあえず話半分に聞くのが常である。
それにしても、今回はまた特別だ。相手に関して分かっているのは、戸籍の記録から得られた情報だけ。認知届が出された経緯どころか、依頼人である和馬と相手方との関係性すら、皆目見当がつかないのだ。これからどんな戦略を組み立てるにしても、いささかでも相手のことを知っておくに越したことはない。
敵を知れば百戦危うからず‥‥。絵莉は口の中で小さくつぶやいた。

つづく (^.^)/~~~

#15

翌日、絵莉は再び新宿区役所の戸籍係を訪れた。聞けば、戸籍関係の届出書類は、過去27年間分は廃棄されず保存されることになっているという。丹羽和馬が本間祐樹を認知したのは平成16年。まだ、十分に保存対象範囲だ。
早速、所定の手続きを取って、和馬が届け出たことになっている15年前の認知届のコピーの発行を申請する。想定外の事態への対応能力はゼロだが、決まった手続きに従いさえすれば万事滞りなく進むのがお役所仕事というものだ。証明印の押された届出書のコピーの発行には10分もかからなかった。受け取った書類を手に、絵莉は昨日と同じスターバックスの窓際のカウンターテーブルに席を取った。
届出書には所定の書式に、届け出た日付、認知した丹羽和馬、認知された本間祐樹とその母智恵子の住所氏名などが手書き文字で書かれていた。
  窓口で届け出たのは誰‥‥? 
絵莉は固唾を飲んで届出書を目で追う。
しかし、届出書の提出者の欄は、『本人』にチェックが入っていた。つまり、誰かが代理で提出したのではなく、和馬が自分自身で届け出たことになっているのだ。
昨夜、仮定「その三」の方針で行くことを決めた。認知届はニセモノだった、すなわち何者かの陰謀説だ。もちろん、「その一」や「その二」の可能性、つまり和馬自身が怪しいという疑惑が完全にぬぐい切れたわけではないけれど、ひとまずはその前提でと動き始めたばかりなのに。和馬が知らない間に何者かがウソの認知届を出したという説の裏付け探しは、15年前の届出書のコピーによってのっけから挫折である。
だが、そう簡単にあきらめるわけにはいかない。そこに何かカラクリはないのか。
絵莉は、届出書を睨みつける。届出書の手書き文字がその眼を射る。
  筆跡‥‥。手掛かりになるとすれば筆跡しかない。この届出書に書かれた文字は和馬のものではないという筆跡鑑定は可能だろうか。
しかし、と絵莉は即座にその考えを打ち消す。
残念ながら、裁判所は筆跡鑑定そのものを重視していないし、鑑定結果もあまり信用していないというのはこの世界の常識だ。仮に本人を真似て書かれているとすれば、その文字がニセモノだと断定するのは極めて困難だし、もしも誰かに代筆してもらったとでも反論された日には筆跡なんてまったく無意味になってしまう。結局、筆跡鑑定なんて、確固たる証拠を裏づける補強手段程度のものと思っておいた方がいい。
  筆跡に頼ることなく、認知届がニセモノだという証拠を探すしかない。でも、一体どうやって? 
だが、認知届の真偽もさることながら、目を逸らすわけにはいかない根本的な問題が絵莉の脳裏を離れない。
  手続きをしたのは父親本人となっている。つまり、丹羽和馬が自ら窓口で届け出たということだ。たかだか紙っぺら一枚とはいえ、これは届け出が虚偽だという主張を真っ向から否定する事実に他ならない。 
絵莉の目の前には暗雲が立ち込め、空想じみた根拠もない考えが浮かんでは消えるばかりだった。
  のんびりカフェラテを飲みながら、こんな届出用紙一枚、いくら睨みつけたってラチが明くもんじゃない。ひとまずは、報告を兼ねて和馬おじさんと会ってみようか。この届出書を突き付けたら、おじさんどんな顔をするだろう。でもなあ、おじさん、ひょっとしたらかなりの名優かも知れないからなあ‥‥。
絵莉の脳裏から、仮説その一、その二の可能性が完全に消えているわけではない。
  ついでに、届け出当時の丹羽家の人間関係とか会社の周辺状況を聞いてみようか。ひょっとしたら、そこから何かヒントが見つかるかも知れないし。
絵莉は、書類をバッグに押し込んで立ち上がった。

        act.4

絵莉が丹羽地所に来るのは初めてだった。秘書の百合香の案内で社長室に入る。巨大なパノラマウィンドウを背に和馬が座っていた。
「丹羽社長、ご無沙汰してます」
一応オフィシャルな場だけに、さすがにいつものように和馬おじさんと呼ぶわけにはいかない。一方、和馬の方はそんなことには頓着せず、絵莉ちゃん、世話をかけるね、と返した。
ソファに向かい合わせに座って、絵莉がバッグから何通かの文書を取り出す。
「昨日メールでコピーをお送りしておきましたが、これが本間親子の戸籍謄本です。そしてこちらが、先ほど手に入れたばかりの15年前の認知届出書です」
和馬は、本間親子の戸籍謄本に軽く目を通した後、認知届を手に取ってしげしげと眺めた。
「知らない間に、私の名前でこんなものが届けられてたとはなあ。いやはや」
ほぼ予想通りの反応だった。他ならぬ自分が認知届を出したという動かぬ証拠を前にしても、身に覚えがないという立場が揺らぐ気配はまったくない。
「百合香さん、どうかな。これが私の筆跡だと思うかね」
和馬は、百合香も隣に同席させていた。息子の嫁として、そして遠からず養女となる秘書に全幅の信頼を寄せていることがうかがわれる。
「確かに社長のサインのように見えます。ただ、ぱっと見、ちょっと違和感がなくはないような‥‥。でも、しかとは分かりかねます」
経験上、直感的な印象というのは意外と馬鹿にならないものではあるけれど‥‥。
「少なくとも、平成16年に、役所が漏れのない認知届を受け取って戸籍に正式に記載したのはまぎれもない事実です」
絵莉が、和馬の顔を正面から見詰める。
「社長。届出書のこの部分をもう一度確認して頂きたいんですが」

つづく (^.^)/~~~

#14

考えられる可能性は三つ。
その一。依頼人はウソをついている。
現実に和馬は、20年あまり前、年の離れた愛人との間に男児をもうけ、数年後に認知届を出した。しかし、今は何らかの事情があって、その逃れようのない事実を真っ向から否定している。ただ、もし万一そんなウラ事情があるのだとすれば、それを隠蔽する見事な演技はショーン・コネリーにもヒケは取らない。
でも、この仮説にはいくつかの欠陥がある。先ずは、事故で長男を失った和馬にとって、今やこの子は唯一の直系の子ということになる。孫がまだ幼いことを思えば、丹羽家の血筋を何よりも大切にする和馬にとって、婚外子とはいえ血のつながった子の存在はむしろ願ってもないことではないか。かの天皇家だって、側室制度という公然の愛人システムがあったからこそ、長く男系の血統を維持してきたぐらいなのだから。
さらに言えば、みっともいいとは言えない問題を自分でさらけ出した上に、わざわざ弁護士を雇って事を荒立てる必要がどこにある? 和馬おじさんともあろう人が、自らがなした行為をウソで塗り固めて否定しようなんて、そんな軽はずみなことを考えるはずがない。
可能性その二。依頼人は忘れている。
愛人の存在や認知が事実だとして、記憶や認識能力の衰え、あるいは何らかの精神疾患のせいで、そのことを完全に忘却している。しかし、この仮説にも欠陥がある。相談を受けた父の由紀夫はそんな気配を毛ほども感じ取っていないし、和馬社長の電話での受け答えにも何一つ様子のおかしい点はなかった。精神的にまったく問題がないのに、こんな重大な件のみが記憶から完全に消え去るなんてことがあるとは思えない。
そしてその三。依頼人はハメられた。
和馬はウソもついてないし精神状態や記憶に障害があるわけでもない。つまり、和馬に愛人がいた事実も、その子を認知した事実もなかった。そう、和馬は何者かの罠にかけられた。でも、遥か15年も昔、秘かにそんな陰謀が巡らされていたなんて、スパイ映画じゃあるまいしそんな荒唐無稽な話があるだろうか。
しかし、だ。
莫大な資産を持つ老人がいて、その実子になれば相続人の地位を得られるというのは紛れもない事実。そこに目をつけて、よからぬ事を企む人間がいる可能性がないとは言えまい。
認知当時、当の本間祐樹はまだ5歳。自分で仕組めるわけがない。とすれば、一体誰が? 母親の智恵子? 確かに、息子が億万長者になるのなら悪事を企む大きな動機にはなるかも知れない。
とはいえ、和馬との接点が一切なさそうな本間智恵子が、そんなとんでもない謀略を企てて実行するというのはいくら何でも無理がある。少なくとも、丹羽一族の事情を知る何者かがウラで糸を引いていなければ、およそこんな仮説は成立しない。
いずれにしても、今、ここで三つの可能性をためつすがめつしたところが、何の結論も出ようはずがない。確かに、事実関係だけ見れば、「その一」のウソつき説を取るしかないだろう。でも、戸籍という逃れようのない現実を目の前に突きつけられてもなお、愛人の存在や認知の事実を全否定する和馬の姿勢が揺らぐ気配はない。何しろ、問題を顕在化させたのは、他ならぬ和馬自身なのだ。
とすれば。
事実関係はさておき、依頼人の要望を実現することが弁護士に課せられた責務だ。ならば、三つの可能性のうち、依頼人の主張に沿ってその一と二はひとまず除外して進めるしかあるまい。つまり、愛人の存在も隠し子を認知した覚えもないという和馬社長の主張を裏付け、立証すること。それこそが私のミッションに他ならない。
具体的に考えてみよう。戸籍以外には、和馬と本間親子を関係づける証拠は何一つない。その唯一の拠り所、すなわち当時の認知届が無効なものだということを立証すればいいはずだ。到底一筋縄では行くとは思えないが、それが証明できさえすれば、和馬と本間祐樹との父子関係はただちに消滅することになる。
それにしても、戸籍といえば個人情報の最たるものだ。その届け出は、よほどのことがない限り本人が自ら窓口で行うものだろう。ましてや、認知という重要かつ機微な届けであればなおさらだ。でも、肝心の和馬はまったく身に覚えがないという。和馬が嘘をついていないことを前提とするならば、誰かが和馬になりすましたとでもいうのか。でも、一体どうやって? 
明日、もう一度新宿区役所に行ってみるか。戸籍係で事情を説明して、当時の認知届について調べてみよう。もちろん、15年も前の個別の届けのことを覚えている者がいるとは思えない。でも、ひょっとしたら届け出関係の書類が保存されているかも‥‥。
うーん。もうお腹がぺこぺこ。
絵莉は、スマホでピザの宅配を注文して書棚から六法全書と判例集を取り出した。
これまで離婚や遺産分割の仕事は山ほどこなしてきたものの、さすがに認知無効の主張なんてレアな争いに関わった経験はほとんどない。人の身分に関わる事だから、きっと厳密な事実認定手続きが規定されてるに違いない。そして、実際にこれまでどんな裁判事例があったのか。どう審理され、どんな判決が出されたのか‥‥。
あーあ、今日も残業か。
絵莉は、軽くため息をつきながら分厚い本のページを開いた。

つづく (^.^)/~~~

#13

翌日、家裁での離婚調停を終えて絵莉は新宿区役所に向かった。
本来、戸籍謄本の発行を申請できるのは、本人と家族のみである。しかし、弁護士であれば、相続や離婚などの事案で職務上必要な場合は取得できることになっている。絵莉は家事事件が専門だけに、戸籍関係の文書の請求は手慣れたものだ。戸籍係の窓口で、さほど待つこともなく本間智恵子の戸籍謄本を受け取って、急ぎ足で区役所前のスターバックスに飛び込む。
さてと‥‥。
絵莉は、窓際のカウンター席に腰を下ろした。まずはカフェラテを口に含んでゆっくり香りを味わってから、おもむろに謄本を取り出す。
戸籍に記載されているのは、筆頭者の本間智恵子と長男の祐樹の二人だけ。やはり、智恵子と祐樹は親子らしい。智恵子は昭和49年新潟県長岡市生まれ。頭の中で素早くそろばんを弾く。
  まだ46歳‥‥。戦前生まれの和馬とは親子ほどの齢の差がある。
この戸籍が作られたのは平成9年。それ以前、智恵子は新潟の両親ではなく本間姓の男性の戸籍にいたことも記されている。
   となると。現在の戸籍に婚姻関係の記録は残っていないものの、智恵子はかつて本間という男性と結婚していた、そしておそらく平成9年に離婚した可能性が高い。
息子の祐樹は平成11年9月1日生まれとなっているから、まだ20歳。和馬から見れば、こちらは孫の世代だ。和馬の旧い方の戸籍に記載されていた通り、平成16年9月1日に認知されている。
  認知の届け出は、祐樹が5歳になった誕生日当日か。
絵莉が小さくつぶやく。祐樹の父親が丹羽和馬、母親が本間智恵子となっているのを改めて確認してから、冷めかけたカフェラテをもう一口飲んで息をついた。
20年あまり前、還暦前の金持ち爺さんが、離婚して間もない30歳以上も年下の女性をはらませた。そして、生まれた落とし子が5歳になった時、わが子として認知した。戸籍が語る事実を下世話に翻訳すればそういうことになる。
でも、丹羽和馬はその事実を真っ向から否定している。そして、依頼人の主張を立証して法的に確定する事が弁護士に課せられた使命。とはいえ、とうの昔に定まった身分関係を覆すのは並大抵の事ではない。
  いずれにしても、先ずはこの母子と連絡を取るしかないな‥‥。
絵莉は、謄本とともに発行してもらった『戸籍の附票』を開いた。附票には、戸籍とヒモ付けられた住民票の内容が記されている。
本間智恵子は、平成9年に新戸籍を作ると同時に、本籍と同じ住所で住民登録をしている。そして、それからおよそ1年余り後に川崎市多摩区稲田に住所を変更、間もなく長男祐樹が生まれて世帯に加わっている。以後20年あまり、母子二人の世帯構成は変わっていない。
絵莉は、スマホでグーグルマップを開いて川崎の住所の正確な位置を確認する。画面を指でなぞりながら、絵莉はふっと胸騒ぎを覚えた。
そして、その予感は的中する。探り当てた住所は、和馬の本拠地府中から多摩川を挟んで目と鼻の先だった。

夕方、事務所に戻ってから丹羽地所の社長室に電話を入れた。電話口に出たのは、秘書の百合香だった。絵莉が名乗ると、あらご無沙汰しております、という親しげな声が聞こえた。丹羽家の嫁でもある百合香とはこれまで何度か顔を合わせている。
彼女には今回の件はすべて伝えてあるとのことだったので、単刀直入に言った。
「社長の戸籍トラブルの件、百合香さんはもうおおよそご存知なんですよね。それについて、ここまでに分かった結果をご報告しようと思いまして」
「すみません。あいにく社長は今外出中なんです。戻りましたら申し伝えますので、とりあえず、概略だけ承ってもよろしいですか?」
一瞬躊躇したが、和馬と百合香はいわば一心同体。その方が間違いなく話は早い。
ではかいつまんでと、本間親子の戸籍を確認したこと、母親の智恵子が昭和49年生れの46歳、息子の祐樹が平成11年生まれの20歳であること、そして祐樹の父親の欄には認知した丹羽和馬の名前が記載されていることを伝えた。電話の向こうで、百合香がメモを取る気配がうかがわれた。
「昭和49年生まれというと、本間智恵子さんは駿介と2つ違いなんだ」
百合香が、今は亡き夫の名前をぽつりと漏らした。舅の和馬には息子とほぼ同じ年齢の愛人がいて、孫に近い年齢の子を産ませた。少なくとも戸籍上は、それが間違いのない事実‥‥。これは、百合香にとってもただ事ではない。
あまり気が進まなかったが、絵莉は追い打ちをかけるようにもう一つの事実を伝えた。
「ちょっと驚いたんですが、この親子の現住所は川崎市多摩区で、丹羽地所からだと車でほんの10分程度の場所なんです」
それは、和馬と本間智恵子との愛人関係をうかがわせる事実でもある。
「分かりました。ご報告頂いた内容、間違いなく社長に申し伝えます」
冷静を装ってはいたが、その声にかすかな動揺が感じられた。
それでは、とりあえず本間親子の戸籍謄本と附票のスキャン画像をメールで送っておきます、と伝えて電話を切った。

  さあて、これからどうしよう?
絵莉は、息をついて考えを巡らせた。 和馬の証言とここまでに明らかになった事実を総合すれば、考えられる可能性は三つ。
その一は‥‥。

つづく (^.^)/~~~

#12

由紀夫が、新旧2通の戸籍謄本のコピーをテーブルに並べた。
「和馬は、この認知は断じて自分が届け出たものじゃない。だから、何としてでも取り消して欲しいって言うんだが‥‥。どう思う?」
「認知は、一度届け出たら取消しできないことになってるんだけど、実際のところ、血縁がなかったとか詐欺強迫による違法なものだとかの場合は無効の主張ができるんだよね。和馬おじさんの場合も、本人が知らないところで誰かが勝手に嘘の届け出をしたということが立証できさえすれば、認知無効が認められる可能性は十分あるよ」
「でも、その立証責任は無効を主張する側、つまり和馬だよな」
「そう。だから、まず、認知届を出したのが自分じゃないことを立証しなきゃ。でも、15年以上前の届け出の無効を証明するとなると、結構大変かも」
絵莉が小さくため息をつく。
「でも、やるしかない。もしも、今、和馬に万一のことでもあってみろ。丹羽家の莫大な財産の半分が、どこの馬の骨とも分からない人間のものになっちまう」
百合香を養女にするという和馬の計画はさておき、現段階では和馬の相続人は孫の恭介ただ一人なのだ。
「馬の骨ってことないでしょ。だって、和馬おじさんの実のお子さんなんだもん」
いたずらっぽく笑う絵莉に、由紀夫が苦笑しながら頷く。
「ああ、その通り。今のところ、それを否定する材料がまったくない。だから、大至急、対処しなきゃならん。百合香さんのことは知ってるよな」
由紀夫は、和馬が百合香を養女にして、孫の恭介が一人前になるまで丹羽家の後事一切を託す決意を固めていることを伝える。
「よくよく考えた末のことらしい。遠い縁戚だっていうし、長男の嫁さんならこっちは馬の骨ということにはならんからな。その手続きに取り掛かろうと思って戸籍謄本を取ってびっくり、まさに青天の霹靂ってヤツだ」
「ふーん、そうなんだ。和馬おじさんに限って作り話ってことはないと思うけど、知らないうちに自分の戸籍に虚偽の記載がされてるなんて聞いたこともないわ。ほんと、油断も隙もあったもんじゃないわよねえ」
父と娘が軽くため息をつく。
「絵莉は家事事件が専門だから、認知だの養子縁組だの身分関係はお手のものだよな」
まあね‥‥。絵莉が頷く。他ならぬ和馬おじさんが得体の知れないトラブルに巻き込まれているとあっては、父に頼まれなくても、ここは私の出番だろう。
「いいわよ。父さんが老骨に鞭打っても、あんまり役に立ちそうもないしね」
「まあ、この方面は専門外だからな。そうとなったら、すぐにでも取り掛かってくれるか。危機に瀕した大富豪の依頼だ。報酬は弾んでくれるぞ」
軽口を叩きながら、由紀夫がデスクの受話器を取った。
「そうと決まったら、まずは和馬に連絡しとこう」
由紀夫は、今回の案件を実質的に絵莉に任せることをかいつまんで伝えてから電話を代わった。
「和馬おじさん。ふつつかながら、力の限りお手伝いさせて頂きます」
「まさか、こんなことで絵莉ちゃんにお世話になろうとは思わなかったよ。何ともみっともない話だが、どうかよろしく頼む」
「だって身に覚えはないんでしょ。みっともないなんてこと全然ないよ。父から全力を尽くすように厳命されてますし、他ならぬ和馬おじさんの一大事だもん、気合い入れてやらせてもらいます」

さて、何から手を付けようか‥‥。
顧問の由紀夫が例の通り早々と帰宅した後、絵莉は自分なりの方針を固めることにした。グーグルカレンダーを開いて、明日からのスケジュールを確認する。それなりの数の案件を扱ってはいるが、日中まったく身動きが取れないというわけではない。明日は午前中、東京家裁で離婚調停。午後は空いている。
とにかく、和馬が認知したことになっている本間祐樹のことを調べるのが先決だろう。彼の年齢も職業も現住所も、その人物像は今のところ何一つ分かっていないのだ。とりあえずの手掛かりは、祐樹の母親であろうと思われる本間智恵子ということになる。
通常、隠し子の消息を辿るのはさほど難しい事ではない。遺産分割の際、もしも故人にかつて認知した子がいれば、必ずその人物を探し当てて相続人に加えなければならない。認知した限りは、隠し子も法的にはれっきとした実子なのだ。ほんの数年前までは夫婦間で生まれた子との間に格差があったが、民法が改正されて今はまったく同じ相続権を持っている。いずれにしても、隠し子も参加しなければ遺産分割そのものが成立しないのだ。絵莉もこれまでに故人が認知した子を探し出して、遺産分割協議に参加してもらったことは何度もある。
では、どうやって隠し子を探し出すのか。その方法はただ一つ。ただひたすら過去の戸籍を辿って、その裏に隠れた事実を探っていくこと。これしかない。
和馬の旧い方の戸籍の認知の欄には、本間智恵子と祐樹の本籍地が記載されている。
『新宿区東新宿3丁目』
翌日、家裁での離婚調停を終えた後、絵莉は新宿区役所に向かった。

つづく (^.^)/~~~

#11

そして、前触れもなく和馬の身に認知問題が降りかかって来たのは、英世の死から十数年の後のことになる。
「英世さん。長男とはいえ、丹羽家を継ごうなんて気持ちはさらさらなかったんだろ。おまけに、先代の顔に泥を塗るようなことを繰り返してきたんだから」
「ああ、それはよおく分かってる。長男を差し置いて俺が丹羽家を継ぐことになったのは、まあ宿命みたいなもんだ。ただ、正直、兄貴に対して後ろめたい思いがなかったかと言われると、な。やっぱり兄は兄だからなあ」
由紀夫は、ちょっと意外な思いで和馬を見た。堂々たる指導力を発揮してきたこの男にも、そんな機微な感情があったのか。
「ま、それはさておき、目下の懸案はこの認知届だ」
和馬が、雑念を振り払うように言った。
「ああ。はっきり言ってかなり深刻な事態だ。もしもだよ。もしも誰かが、お前の財産を狙って嘘の認知届を出したんだとすれば、お前の家庭の内情がある程度分かってる人間の可能性が高い。これを見ると‥‥」
由紀夫が、目の前に並べた二枚の戸籍謄本をもう一度見直す。
「認知届は15年前だ。その時点では淑子さんも元気だったし、駿介君だってまだ結婚前だ。仮に誰かが陰謀を企てたんだとしても、数年後に駿くんが非業の死を遂げるなんて先々のことまで見通せてたはずがない」
和馬が頷く。
「お前が死んだ時点で、満を持してここにもう一人の相続人がいますと名乗り出るハラだったか。仮に名乗り出なかったとしても、遺産分割手続きですべての戸籍を集めて、もし隠し子がいたことが分かったらその人物に連絡を取らないわけにはいかない。隠し子を無視して相続手続きしても、すべて無効になるからな。その時点でお前はもうこの世にはいないから、関係者の誰一人、認知の事実を否定する材料なんか持ち合わせていない。和馬社長ってこんなウラの顔があったんだって、お前の評判も丸つぶれになるところだったかもな」
そのあたりは和馬も先刻想定済みだった。この口の減らない男に相談を持ち掛けたのはそのためだ。
「本当にお前にまったく心当たりがないんなら‥‥」
まだ言うか、とばかりに睨みつける和馬を横目に、由紀夫が続ける。
「時期と言い目のつけどころと言い、なかなか見事な計画というしかないな。でも、こうやってたまたま気付くことができたのも何かの巡り会わせだろう。誰の企みかは分からんが、何としてでも真相を解明しなきゃな。お前ももういい齢だ。いつ何があってもおかしくない。明日にでも絵莉に事の次第を説明して、とり急ぎ打開策を考えてみるよ」
あんまりみっともいい話じゃないけどな、と和馬が苦笑いで頷いた。


       act3

「おはよう」
「どこが早いの。今、何時だと思って」
週に二三回、のんびりお昼前に出勤してくる由紀夫と絵莉とのお決まりのやり取りだ。
「おはようございます」
続いて、入口の脇のデスクから竹原麻乃のいつに変わらぬ元気な声が聞こえた。島津由紀夫が市ヶ谷に法律事務所を立ち上げた当初から、秘書および事務経理その他雑用一切を担ってくれている好奇心旺盛で気さくなおばさんだ。とうに60を過ぎているが、訴訟や調停の手続きはもちろん、門前の小僧よろしく法律知識も一通り身に着けている。ああ見えて機転も利くし、作業は早くて正確。実質事務所を切り盛りしているのは彼女だと言ってもいい。
元代表で、今は顧問という肩書きの由紀夫は東京西郊の自宅から、現代表である娘の絵莉は湾岸の豊洲にあるタワーマンションから通っている。所属弁護士は親子二人だけ、それに古参秘書の麻乃を加えた典型的なマチ弁だ。もっとも、元代表の方は週休四日以上を決め込んでいるようだから、実質戦力は1.5人未満といったところか。ありがちなことだが、弁護士二人はともに事務処理能力に難があるだけに、麻乃なくしては事務所は立ち行かない。
由紀夫が代表だった頃は、刑事民事の別なく、来る者は拒まずをモットーにしゃかりきに仕事を引き受けていたが、絵莉の時代になってからは、離婚や遺産分割など主に家事事件関係が専門となっている。
「絵莉、ちょっといいか」
由紀夫は、奥のデスクの絵莉に声を掛けた。いつになく真剣な表情の父の様子を見て、絵莉がパソコンを閉じた。弁護士親子が、ソファで向かい合う。
「へーえ。あの和馬おじさんがねえ」
かいつまんで経緯を聞いた絵莉が嘆息を漏らした。
幼い頃、丹羽家に遊びに行くたびに大歓迎してくれたあの和馬おじさんに緊急事態発生か‥‥。事が事だけに、好奇の念がむくむくと湧き上がるのも無理はなかった。
一方で、絵莉にとって和馬は、単なる父親の親友というだけではない。いつもりゅうとして隙なくスーツを着こなした身なりと言い堂々とした物腰と言い、頼りがいのあるおじさま像そのものなのだ。今やすっかり髪が薄くなってしまったが、そのせいもあって、映画の配信サイトでファンになったショーン・コネリーに何となくイメージが重なる。
「でも、本人にはまったく心当たりがないそうだ」
親友の名誉をなおざりにするわけではないが、断定ではなく伝聞口調になるのは弁護士の習い性である。
由紀夫が、問題の新旧2枚の戸籍謄本をテーブルに並べる。

つづく (^.^)/~~~

#10

そして今、新宿の高層ホテルの会員制クラブで、急遽呼び出された由紀夫が和馬と向かい合っている。 
「俺にはもう残された時間は少ない。百合香との養子縁組プランを実行に移すために、先ずは自分と百合香の戸籍謄本を確認しとこうと市役所に出掛けたってわけだ。事が事だけに、こればかりは秘書に頼むわけにもいかないからな」
「なるほど。でも、自分で行ったおかげで、認知なんて記載が誰の目にも触れずに済んだわけだ」
和馬は、この日の午後、市役所の戸籍係に足を運んだ時のことを思い出している。父親であれば息子の戸籍を申請できることを確認の上、まず亡くなった長男駿介の謄本を受け取った。
通常、戸籍の筆頭者である夫が亡くなっても妻や子はその戸籍に残る。従って、百合香も息子の恭介も駿介の戸籍のままである。和馬は、亡くなった駿介の戸籍の記載内容を順に目で追っていった。
駿介は、平成20年に百合香と結婚して新戸籍を作っている。そして、間もなくそこに長男の泰介が加わる。しかし、駿介の欄にも泰介の欄にも、同日同時間に死亡したとの記録とともに『除籍』の印が押されていた。さらに、それから半年余り後、長男泰介の下に次男の恭介の名前が加わっている。その記載を時系列で追うだけで、駿介一家を襲った苛烈な運命がありありと読み取れる。思わずこみ上げてくるものを感じて、和馬は急いで謄本をバッグにしまった。
次に自分自身の戸籍謄本を申請する段になって、駿介が結婚する少し前に戸籍がコンピューター化されて新しくなったという話を聞かされた。ならば念のためにと、新旧両方の謄本を発行してもらうことにしたのだった。そのおかげで、和馬はわが目を疑う事態に遭遇することになったのである。
「まったく寝耳に水だったよ。あの時は、旧戸籍を何度見返しても事態がまったく呑み込めなかった。俺がどこかの女をはらませて、生まれた子を認知したとしか解釈できない。でも、他ならぬこの俺にそんな覚えはまったくないんだから」
由紀夫が和馬の方を窺うように見る。
「何て言ったっけ、ほら、荻窪の‥‥」
「大石春奈」
「そうそう、あの細身のピアノの先生」
「駿介が丹羽地所に入社することが決まった段階できれいさっぱり手を切ってる。確か、平成14年の秋だったかな。この認知の届け出の2年も前のことだ」
「でも、届け出は出産直後とは限らんぞ。お前と別れてから秘かに出産して、何らかの方法で認知届を出したとか‥‥」
「なら、春奈自身の子にしなきゃ意味がないだろ。本間智恵子なんて得体の知れない人間の名前を使う理由がない。そんな与太話はもう沢山だ」
珍しく苛立った口調だった。もとより、由紀夫も本気でそんな突飛なことを考えているわけではない。からかうのもほどほどにしておくか。
「誰かの陰謀だとでも?」
「さあな。見当もつかんよ」
「しかし、認知した時点でその子はお前の相続人になる。お前の膨大な財産を考えれば、よからぬことを企む奴かいたとしてもおかしくはない。何か心当たりはないのか」
さじを投げたように首を横に振ってから、和馬がふと中空に目を転じた。
「相続か‥‥」
その口から、ぽつりと言葉が漏れた。
「一人息子を亡くしたってのに、俺は性懲りもなく丹羽家ためと称して血道を上げている。ここんとこ、よく考えるんだ。何の因果でこんな家に生まれてきたのかって」
「何を言い出すのかと思えば‥‥」
「実はな、由紀夫」
和馬が大きく息をついた。
「丹羽家の行く末を考えると、嫌でも兄貴のことが思い浮かぶんだ。何たって、兄貴は先代の長男だ。本来であれば、丹羽家は兄貴が継いでしかるべきだったんだからなあ」
和馬とは三つ違い、十代半ばにしてミュージシャンを目指して丹羽家を飛び出た兄、英世。
由紀夫は、親友の兄とはそれなりの縁がある。幼い頃、丹羽兄弟と遊び仲間だったことはまあご愛敬だが、丹羽家と丹羽地所の顧問弁護士を兼ねるようになってからは、離婚や相続など、英世の人生の転機にも何度か関わってきた。いや、関わってきたとは当たり障りのない言い方、実のところ尻ぬぐいといった方がよほど実情に近い。音楽業界での立ち位置までは与り知らないが、漏れ聞こえてくる英世の評判は決して芳しいものではなかった。
中でも英世が引き起こした最大の不祥事が、父親から相続した莫大な遺産をカジノ賭博で使い果たして、最終的に自己破産の道を選ばざるを得なくなった事件だった。由紀夫は、和馬からのたっての依頼を受けてその後始末に駆けずり回ることになる。
通常の破産手続きの範囲、すべての財産を洗い出してその処分に奔走したり、債権者集会で怒号が浴びるぐらいは慣れたものだったが、問題は借金の大半を占めるマカオのカジノとホテルへの対処だった。さすがのベテラン弁護士にとっても、海外の百戦錬磨の債権者との交渉ばかりは何から何まで初めての経験だった。結局、1年近くにわたって、わき目も振らずこの事件にかかりきりという憂き目に遭ったのである。
ほぼ一文無しになった英世は、その後、丹羽地所に常務取締役の席を用意してもらう事になる。英世自身はあまり乗り気ではなかったが、他ならぬ実兄がこれ以上の醜態をさらすことは断固阻止するという和馬の強い決意にはさすがに抗えなかった。もっとも、オフィスで常務の姿を見ることはほとんどなかったらしいが。
その数年後、英世は末期がんの宣告を受け、あれよあれよという間に世を去ることになる。傍若無人でやりたい放題の人生だったと誰もが陰口を叩いたが、由紀夫にはとてもそんな風には思えなかった。葬儀の席で、由紀夫と和馬は故人の思い出を語らっている。
「英世さんには随分振り回されたけど、あの人のことを憎もうって気にはどうしてもなれないんだよな。ガキの頃からの付き合いだが、根っから人が良くて思いやりのある人だった」
「ああ。放蕩が過ぎたから偏見を持たれてもしょうがないが、心根の優しいところがあった。それにしたって、いくら音楽の道を反対されたからって、何も家をおん出なくてもなあ。兄貴、親父のこと大好きだったくせに」」
和馬が、幼い頃に思いを馳せるように言った。
「どこで道を踏み外しちまったのやら。その気になりさえすりゃ、いくらでもやり直すことができたのに」
  やり直す? 
由紀夫は、心の中で問い返した。
  和馬。お前は、まだそんな絵空事を信じてるのか。先代の登史郎という存在がいる限り、そんなことは望むべくもなかったというのに。
父と兄の間の確執がいかに根深いものだったのかを、和馬はおそらく知らない。それは、たまさか由紀夫だけが知り得たことだった。

つづく (^.^)/~~~